第二十四話:血臭
ハウアは駆けていた、狭く暗い地下の道を。
その後方でそれを追うのは、ヅェル達を先頭とした一団。その最後尾では、ランストが五人の子供をノカやホサと分け合って、刺激しない様に気を使いながら走っていた。
―――少し時を遡る。
遠くから子供達の声を聞きつけたハウアが向かった先、檻の中に子供達は居た。
但し、五人だけ。
誘拐された子どもたちは七人である。一か所に纏めて閉じ込めておかない事に強い理由は無い筈だと、他の子どもたちの居場所をランストが聞けば、子どもたちはこう答えた。
『一昨日と昨日、一人ずつ連れてかれた』
その事実と、子どもたちが連れて行かれたらしき方向を聞いた時、ハウアは既に全力で走りだしていた。
―――その表情に、戦慄と恐怖を浮かべながら。
(子供たちの、臭いがする。)
表情に恐怖を浮かべながら走る姿は、傍目からは何か、恐ろしい物から逃げているように見えたのではないだろうか。
おかしな話である。彼女は今、子供たちを助けるために、その子供たちの元へと駆けているだけだというのに。
(でも、それより強い臭いが、二つする)
見えた曲がり角の壁へ足を向けて跳躍。壁に着地し、更に跳躍して加速を得るという荒業で更に速く掛けて行くハウア。
既に後方集団とは、戦闘のヅェルとすら大きな距離の開きが生まれている。だがこのあたりには奴隷達が閉じ込められた檻が有るわけでも無く、自然、敵の姿を目にすることもなかった。
だが、彼女の焦燥感が収まる事は無かった。むしろ、進めば進むほど焦りが増し、そしてその表情に、絶望の影が色濃く刺してゆく。
(ひとつは獣臭)
最も濃い匂いが漂ってくる扉を見つけ、それに飛び付き、掴む。
(そして、もう一つは―――!)
開いた扉の先は、地下通路より更に暗く、じめじめとしたいやな空気が漂っていた。
彼女の常人より強い五感であれば、この扉を開いた時に感じるのはそんなぼんやりとした情報ではなく、不快感を煽ってくる悪臭の方だろう。
そして、廊下の仄かな光源に照らされて、うっすらと見えてくる物がある。
それは巨大な檻。殆どが金属の分厚い板でおおわれており、むしろ金属製の巨大な箱と表現する方が実際の姿としてはふさわしいだろう、何を閉じ込める為の物なのかも定かではない檻。
「…あ」
その下部。幾つか空いた穴の中から、ほとんど影と同化するような、黒色で粘り気のある液体が流れ出している事が、彼女の眼には見えた。
否、流れ出しているという表現は正しくないだろう。既にその液体はほとんどの水分を蒸発させており、石畳に苔むすような黒褐色の物質を残しているだけだったのだから。
彼女がそれを液体として見た理由はただ一つ。先入観だ。
(ああ、そう、もう一つは―――)
「古びた血の、匂い…」
ハウアが石畳に膝を突き、両腕も地面へ突いて嗚咽を漏らし始めるのと、ヅェルがその部屋に到着したのは全く同時の事だった。
一瞬戸惑ったように部屋の中を見渡し、ハウアへと声をかけるべきか迷うヅェルだったが、同じく檻の下部へと視線を向ける事で、状況を理解する。
彼等に残された時間はそう多くない。だが、これには流石のヅェルも言葉を失う。
やらなければいけない事は、せめて、生き残った五人の子供たちと共にここを脱出する事。それは勿論分かっていたのだが、ハウアが心に負った傷の大きさから、ここで不用意に声をかけてはこれ以上の暴走をしかねないと彼を躊躇させたのである。
―――彼は決して冷酷な人間ではなかったが、仕事中に感情で動く事を是とは出来なかったのだ。
「ヅェルさん、ここですか…ハウア?」
ランスト達も到着した。当然、子供たちもそこにいる。
ハウアは今にも叫び出しそうな激情に襲われていたが、子供たちの前で、少なくとも今その現実をさらしだす事は出来ないのだと、ギリギリのところで踏みとどまっていた。―――そんな、最後の理性と、しかしそれをした者を許せないという二つの思いが彼女の中で交差する。
(…子供たちは、逃がさないといけない。でも、子供たちを殺した…喰ったこいつを、許せるわけがない!)
「ランスト。…子供たちを連れて、先に逃げて」
「…は?いや、唐突に何を言ってるんだ」
「いいから、お願い。…私は、間に合わなかった」
「間に合わ…な、いや………」
状況と、漂う血の香り、そして大量の血痕にようやく気がついたランストは絶句する。だが彼自身も、子供たちを攫われた時点で最悪の事態の想像と、そして覚悟は済ませてきていた。
「…駄目だハウア。帰るぞ」
「…でも、私は」
「君をここにおいて行ったら、子供たちが不安がってしまうだろう?…これ以上は、絶対に許せない」
ランストがハウアを説得する姿を横目に、ヅェルは冷静に思考する。
(…子供たちがこの檻の中にいる何かに食べられた。…実際の問題として、彼等は食べさせられたわけだ。出なければ、檻の中にいるものが彼等に手を出す事などは出来ないですからね。
ただ食料を与えるという事なら、間違いなく食肉を放り込んだ方が金銭的にも効率的にも良い効果が得られるでしょう。それでも尚、子供たちを餌として与えた―――獣人への嫌がらせだというのなら、そもそも攫う必要は有りませんね。間違いなく、この檻の中にいるのは忌種だという事でしょう)
「…でも」
「頼む…君が、自分で言うほど皆から慕われていないと、本気で思っている訳じゃあないだろう?」
そう言われたハウアは、硬く握った二つの拳を更に強張らせ―――しかし、荒々しい吐息と共に振り返った。
その瞳には抑えきれない戦意が溢れていたが、しかし、ランストや助け出した子供たちの事をしっかりと見つめてもいた。
(…絶対に、こいつは許せない。…でも、今は、子供たちを、生き残った皆だけでも無事に帰さなければいけない…!)
「…こんなものが王都の地下にいるだなんて、いくら何でも許されない事だ。きっと、ヅェルさん達みたいな王国内の聖十神教派が動いてくれるはず」
「…分かった。でもその時は、私も絶対にこいつを殺す…!」
子供たちに見えないよう顔を背けながら怒りを露わに、しかし無謀な戦いに挑む事を辞める決意をランストの言葉で固めたハウアに、ヅェルが声をかけた。
「俺としても、こんなものを見過ごすわけには行けません。すぐにでも上奏、部隊ぐるみでの作戦を組む事になると思います…が」
「本当か、それなら助かる。…『が』とはなんだ?ヅェルさん」
「…そうですね。とりあえず、子どもたちを後ろに下がらせていただけますか?後、すぐに逃げられる様に担いでおいてください」
「何?…いや、それは構わないが」
「ノカとホサも、お願いします」
『はい』
「…一体何があるの?私としては、決心の鈍らないうちに帰りたいんだけれど」
「ええ、何事もなければそれが一番ではあります…。とりあえず、そっとこの部屋から出ましょう。扉を閉めれば、多少は安心できるでしょうし」
現状不安を抱く対象が一つしかない事から全員の警戒心が上がり、足音を消すようにそっと、部屋の外へと出る為に扉の方へ寄って行く。
直接部屋の中を見る事の出来ない子供たちも、不安と、先程までとはまた一変した空気からくる緊張から声を出せないでいた。これならば大丈夫だろうと、内心でヅェルがため息をついた瞬間。
ギチ、と。
檻を囲む鉄板を繋いでいた金具がねじ切れるような音が、静まり返った部屋の中に響いた。
「ひぅ…」
子供たちの一人が声を出してしまった事を、誰が責められようか。何せ、完全に緊張しきっていた大人の方の上で、その音に身体を強張らせた事を感じ取ったせいで彼等にまで緊張が伝わってしまったのだから。
―――子どもの声を聞いて、その檻の内に潜む獣が身震いする。
忌種は人を襲い、そして一部のものは人を喰らうのだという事は、誰でも知っている様な常識である。
そしてこの檻の中にいる一頭の忌種は、人を、子供を喰う事を習性とする生物だ。
バキバキと、檻が砕かれて行く音が部屋に響き渡る。
最早忌種を封じ込めておくことは出来ないと判断したヅェルは、全員を部屋から出して扉を閉じ、そして走るように指示した。先頭にはノカとホサ。その次にヅェル、ハウア、最後尾にランストという一団が廊下を走る。
「何者だ!止まれ!」
列の先頭、ノカとホサの前に、廊下で放置してきた遺体を調べていたらしい警備員達が現れる。
「できるだけ足は止めないでください!時間はそう多く有りませんよ!」
とはいえ、狭い廊下の中である。武器を持っている物たちが立ちふさがれば、それに触れず抜かして行く事はほぼ不可能に近い。
子供たちに目を閉じるように伝えるランストとハウアが歩みを緩める中、ノカとホサは警備員を圧倒していた。
勢いよく跳び込んだノカが槍を全歩へ突きだし、武器を振るう隙間をなくしたその時、ノカの足元から滑り込むように警備員へ密着したホサが、反撃を許さぬ位置と速度で剣を振るう。
二撃。その間に一度も警備員の行動を許す事無く始末する。
それを見届けたランストとハウアが再び走りだした時、遂にその忌種が曲がり角を曲がって、彼等の広報、姿の見える距離に現れた。
その巨体は、廊下の中を自由に動けるような大きさではなかった。どれだけ激しく動いても、いや、激しく動く程壁に動きを阻まれて余計に速度が落ちてしまうだろう。
それでも尚、廊下を全力疾走する彼等に比肩する速度が出ているあたり、この忌種がどれだけ化け物なのかという事がよく分かる。
振動が伝わる。
廊下の端に閉じ込められた奴隷たちに、そんな彼らを見張る警備員達に、そして、地上で奴隷を売り買いする者達に。
―――最早一歩も、立ち止まる事は許されない。




