第十四話:凶行
取りあえず、手数を少しでも多くするために川に沿って森の中に入った。幸いな事にこの川の幅はかなり広い。少なくとも一度で飛び越えられるとは思えない。つまりゴブリンが襲いかかってくる方向もかなり絞り込むことができる。まあ、昨日と同じで剣や斧などを投げつけられた場合、危険な事は何一つ変わりはしないので、警戒そのものを怠る事は出来ないが。
「さて…昨日の事を考えるとこんな森の浅いところではまだゴブリンはいない筈。もう少し奥の方まで走っていく事にしようかな?」
まあ、疑問形にしたところで誰が答えるわけでもない。
と言う訳で、走ろう。
「まあ、五、六分も走れば良いかな?この森の方が西の森よりも広いみたいだけど、少し余裕を持っておくべきだろうから…」
◇◇◇
森の中心で醜く争い続ける物たちは、その実、まだ幸運だったとも言えるのかもしれない。彼らは、自らの求める物がすぐそばに有ることを理解していたのだから。その、考える事が出来なくなってしまった脳にも、本能の声は聞こえていたから。ただひたすらに求める事は出来ていたのだ。
しかし、瘴気の中心を知覚する前に狂わされた物たちは違う。ただただ森に溢れだした瘴気に狂い、しかし、そのあと訪れる筈だった、失われた知能を、理性を埋め尽くす程の欲求は、ついぞ彼らに訪れる事は無かったのだ。
では、今彼らを突き動かしている物は何なのか。
答えは簡単。
そもそも忌種とは、魔力を普通よりも多く生まれた突然変異の動物が、瘴気に穢されることによって誕生した者。故に、本来とは違う欲求を満たそうとする。瘴気を求めるのもその一つ。ただ、それとは別に、優先される本能が逆転している例もある。
今回も、それと同じ。
瘴気を求める、という忌種としての本能ではなく、純粋な一生物としての食欲を満たすため、彼らは普段の数倍の凶暴性と狂気を持って獲物を探し続ける…。
◇◇◇
…そろそろ歩きに戻って、警戒するべきかな?結構森の奥にまで来たと思うし。
とはいえ、まだ多少は余裕があるだろう。少し先に有る大木の前あたりで歩きに変えようか
『ドガァンッ!』
………今、首元を掠めながら飛んで行ったのは、なんだ?
咄嗟に何かが通り抜けた先をみる。おおよそ六メートルほどの幅を有する川の向かい側。たった数秒前までこちら側の岸と同じように木々が並んでいた筈の場所で、四、五本もの木々が、無残にもなぎ倒され、一部は砕けていることも分かる。
一瞬でこの惨状を作りだした元凶は、更に奥に生えている木に深々と突き刺さった斧だろう。だが、あの斧はどこかで見覚えがある。
そう、昨日の昼も、ゴブリンのうちの一匹があんなものを投げて…
『グギャァアァァァ!』
ゴブリンの声がする。それも、かなり近い場所から。
今の斧は、俺を見かけてすぐに投げつけた物なのだろう。森の中では速く動く者の方がより見つけやすいのだから。そう。それは分かる。
だが不可解なのはそれによって引き起こされた被害の方だ。昨日の斧は、少し太めの枝でも折る事ができずに刺さって動かなくなっていた。それがどうしてこんな破壊力を生み出せる?
…いや、
「ゴブリンじゃ、無い?もっと危険な忌種が居るのか?」
今聞こえて来たのはゴブリンの声。だが、あの斧を投げたのがゴブリンだとは限らない。もっと力の強い忌種がこの森の中に潜んでいると言う可能性は大いにあると言えるだろう。そもそも俺はこの森の生態系など知らないのだし。
…町では常識だ、なんて言われたら、辛くて久しぶりに泣くかも知れない。
『ギャアッ!ギャギャッ!』
いや、やはりゴブリンの声に聞こえる。まあ、断言できるほど詳しい訳でもないのだが…、とにかく、近づいてきているのは確か。それも、木をよけること以外ではほとんど真っ直ぐ直進してくる気配がある。いきなり斧を投げて来た事からも分かるが、どうやら、存在を隠すつもりは毛頭ないらしい。
取りあえず、声の聞こえる方向へと身体を向け直し、待機する。
…それが相手の自信の表れだ、と思うと恐怖を感じてしまうので、余り深く考えず、警戒を深めることにしておこう。
その時、この落ち葉で埋め尽くされた地面ですら消しきれない激しい足音が耳についた。
『グルキャァッッ!』
そんな大声と同時に自分の目前の木の陰から身を躍らせたのは、一匹のゴブリンだった。
ただし、どこか、全体的に黒ずみ、目を赤く光らせているという特徴を持っていたが。
『グルキャァッ!』
特徴について深く考える時間は無く、着地と同時に飛びかかってきたゴブリンを転がりながら回避する。
すると、背後で『ドポンッ』と言う特徴的な音が鳴り、
『ゴヒュッ!グルップァッ!』
ゴブリンが、流されていった。しかもこの小川、なかなかに流れが早いようで、みるみる蛇行した川の向こうへと流され、見えなくなってしまった。
…今の、絶体絶命って感覚は何だったんだろうか。魔術を発動するよりも早く襲いかかられてピンチ!みたいな…。
………いや、幻覚ですね。
しかし、あの斧を投げたのは今のゴブリンだったと言う事で良いんだろうか?何と言うか…やらかしたことに対して、終わり方のしょぼさが際立ち過ぎている様な気がするんだよな…。
待てよ、確か、脳まで筋肉。略して脳筋なんて言葉があったはずだ。今のゴブリンも、そんな一匹だったんだろうか…?
まあ、どちらにせよ生きているからよしとしよう。今の一匹から耳を切りとれなかったのは痛いけれど、あんな流れの川を追いかけてまであの一匹にこだわる必要もないし、他のゴブリンを探すことにしよう。
取りあえずは、既に一匹出てきているのだし、これ以上走るのはやめて、ゆっくりと警戒しながら進むことにしよう。
『グキャァ…』
…!少し、離れた場所からゴブリンの鳴き声が聞こえた。やはり、このあたりは既にゴブリンの棲家、テリトリーといったところなんだろう。
それならば、さっき見たいに隙を突かれていきなり攻撃、なんて事もあるかもしれない。しっかりと警戒し続けなければ…。
とにかく、ゆっくりと歩く。選べる手段は多くしておきたいから、どちらにしろこの川から遠くにはいけない。前方、後方、茂みの中や、向こう岸まで、なにも見落とす事の無いよう注意しながら、進んでいく。
そして、
「っ!来た!」
『ゲリャァア!』
再び森の中からあらわれるゴブリン。その姿は、先程の一体と同じく黒ずんだ肉体をもった者。そして、こちらの様子をうかがう事無くただただ突進してくる様も、また同じだ。
こちら側の森に住んでいるゴブリン達の特性がこうなのかもしれないが、それならばまだやりようはある。都合のいい事に先ほどよりも少し遠くから姿を見る事ができている。つまり、
「魔術を発動するために必要な、起句を唱える時間も、狙いを定める時間もッ!余裕でとれると言う事だ!『風刃』ッ!」
目の前で形作られた風の刃が、そのままゴブリンの身体を両断するのを確認。本当に、猪突猛進する事しか出来ないようだ。不意さえつかれなければ、昨日のゴブリンよりも圧倒的に戦いやすいと言えるだろう。
そのままゴブリンの亡骸に近づき、右耳を再び『風刃』を使用することで切り落とす。地面に落ちたそれを拾い上げ、一応少しでも血を減らせるようにと川で洗い、鞄へと納める。
「…よし。じゃあ、もう少し奥の方まで進んでみよう。まだ一匹分だけだし、ここで帰るわけにも行かないよな」
ゴブリンを一体討伐した場所から、更に森の奥へ十分ほど進んだ。
今のところ、ゴブリンの気配はしない。ただ、何とも言えない、悪寒の様な、悪い事の起きそうな気配、という物を感じる気がする。
もちろん、気がする、という程度の事でしかないし、今までの人生で経験していないような事ばかりを、この数日間に体験して、今なんて前世では、特に日本では殆どありえないと言ってもいいだろう本気の戦いをしているのだ、自覚してはいないが、心のどこかで恐怖しているのかもしれない。
まあ、たとえそうだとしても、精神科医でも何でもない俺は心について詳しい訳でもないので、どうにかできる訳もないのだが。
『グキャァァァァァ…』
『ギャッ、ギャァ…』
…かなり遠いが、複数のゴブリンの声が聞こえる。川のこちら側の岸と、対岸。正確に何体いるのかは分からないが、一体二体という訳ではないだろう。
「こっちに向かってくるとは限らないけれど…、大勢同時に向かって来られたら、またさっきみたいに斧なり剣なり投げられかねないし、どうにかして一部だけでも先に呼び寄せられないだろうか…あ!」
そうだ…。こっちの森に住んでいるゴブリンは何かと好戦的だ。だったら、魔術を使って木を倒したりすることで、こっちに注意を向ける事ができるんじゃないのか?向こう岸にいる奴らまで付いてくる可能性もあるけれど…、さっきの飛び込みっぷりを見る限り、川を渡る、とかの考えも無いような気がするし、たとえ近づいてきても、武器投げだけ気をつければいいだろう。
そうと決まれば実行。川に背を向け、森の奥、比較的太い木が倒れるように狙いを定める。
「『風刃』!」
『………ドドドォッン!!』
命中。三本ほど木が倒れた。
それと同時に、
『ギャァァァァアア!』
『ギィィィィイイ!』
『グキャァァァァァアア!』
狂ったような声と共に、多数のゴブリンが近づいてくる気配。ただ、数は少ないものの、対岸にいたゴブリン達は、一部かなり近くにいたらしい。既にすぐそこまで近づいてきているようだ。こちらは、多くても二、三体と言った所だろう。そして、複数体が現れるなら、『砂弾』や『水槍』の実戦での使用には絶好の機会だ。
こちら側のゴブリンがここに来るまでは…あと三十秒。対して、向こう岸は…、来た。
『ギイイイイ!』
『ゲャアアアア!』
『グアアア!』
向こう岸、視界に収められる場所に現れたゴブリンは合計三体。木陰や茂みの中から走り出て来た勢いをそのままにしながら川へと、ひいては、その向こうにいる俺に対して突進してくる。
こちら側の森の奥からもゴブリン達が近づいてきている以上、あまり残された時間は無い。
幸いな事に、対岸のゴブリン達も、今日討伐した全てのゴブリンと同じく黒ずんだ体。猪突猛進な所は変わっていないようだ。これなら楽に狙いを定められる。
「『水槍』!」
川の水面に揺れる波が空中へと浮き上がる。まるで川の流れが止まったかのように見えた。それと同時、俺の目の前で浮き上がった水の塊は、目で追うのも難しい程のスピードで変形、発射され、いまにも川を飛び越えようとしていた先頭のゴブリンを貫いた事を皮切に、残った二体に対しても正確にその体を貫き、その役目を終えて、ただの液体へと返る。
もちろん、それをゆっくり眺めている暇などない。こうしている間にも、もう一方から大勢のゴブリンが近づいてきている筈。すぐに迎撃できるようにしなければいけない。
仮にさっき予測した残り時間である三十秒が正しいとするなら…あと十秒あるかないか、といった所だろう。
実際、ゴブリン達の声や茂みの葉と葉が擦れるような音はかなり近くまできている。すぐにでも再び現れるだろう。その上今回はかなり広範囲から集まってきているらしい。さっきは三匹同時とはいえ、かなり近い場所から現れたから『水槍』を使って簡単に倒せた。しかし、そこまで都合のいい事が何度も何度も起こるとは思えない。それこそ、せいぜいが二、三匹の集まりを選んで各個撃破していく程度の事になるだろう。
…いくら多数同時攻撃の方法を得たからって、自分から多対一を仕掛ける理由なんて一つも無かったなぁ…。
新しくできるようになった事を実践したい、なんて気持ちがあったのだろうか?確かに、魔術を使っているときはどこか楽しいけれど…、そうはいっても俺は、意味も無く虎穴に入るような精神性はしていなかった筈なんだが…。
いや、今更か。
『ゲキャァッ!』
『グゲキャアアアグアア!』
最初の一頭がひときわ強い声を上げるのとほぼ同時、恐らく十数匹は下らないだろう数のゴブリン達が一斉に叫んだ。
もれなくすべて黒ずんだ緑。この森のゴブリンは全てがこうなのだろうな。
近づかれると怖いのは変わらないので、先ず目の前に現れた二頭のゴブリンに対して迎撃。
「『砂弾』…ッ!?」
命中した。それは良いのだが、完璧な誤算があった。そのせいで今の一撃はせいぜい小石をぶつけられた程度の威力しか持っていなかったようだ。一瞬ひるんだのは確かなので、とにかく止めを刺すために
「『水槍』!」
水本体を水に発動させられるのかが不安だったが、どうやら杞憂の様で、先程と同じように二本の槍が確実にゴブリンの命を奪う。
次に比較的近いのは…右。左に八体、右に五体いる事から考えて、先に倒しやすい方を倒すことで挟み撃ちされるのを避けようと思っていたのだが、これなら好都合。
なので右方向へと走る。一体ほど遠くにいるが、それ以外の四体との距離は大して変わらないことを確認。四体同時に、というのは初めてだが…、『水槍』を練習していた時は六つまで同時に操る事ができたのだ。実戦でも成功させてやろう。
「『水槍』っ!!」
自分の右側に有る川から、前方へと向けて四本の槍を放つ。当たってくれよ…!命中っ!
微妙に止めを刺し切れていない奴が一体いる気はしたが、かなり大きく体を裂かれているし、その傷口に大量の水を掛けられては、万に一つも助からないだろう。
そのまま視線を奥へ、残った一体目がけて『風刃』を発動。やはり命中。こいつら相手には命中したかどうかを見る必要はないかもしれない。
残った八体の様子を窺うために振り返る。すると、
「一体増えてやがるのか…!」
後から茂みに隠れていたゴブリンが合流したのだろう。合計九体のゴブリンがこちらへと突進してくるのが見えた。全員血走りすぎて最早発光しているようにすら見える赤い瞳だ。だが、奴らとの間にはかなりの距離がある。おおよそ十八メートル程だろうか?『水槍』では届かない距離だが、ウインドカッターを使えば届くだろう。その上、狭い川原の上では横に広がれなかったようで、かなり重なっている。これならば、ある程度一網打尽にも出来るだろう。
川原を覆いきれるほどには『風刃』も大きくは出来なかったが…、
「これだけ長さが有りゃあ充分だな。『風刃』ッ!」
横方向四mほどの長さに作られた風の刃は、十センチほどの高さを滑るように飛んで行き、ゴブリン達の先頭六名の命を一瞬にして刈り取る。
しかし、残った三匹のゴブリンは、同族の命が無残に散る一瞬を見ても何も感じないのか、全く速度を緩めずに走ってくる。
こちらとの距離は、あと五メートル程だろうか?
射程距離内だ。
「『水槍』」
正確に命中。俺の視界を右から左へ、身体を貫いた槍の勢いをそのままに飛んでいく。
周囲を見渡しても、他にゴブリンはいない。どうやら一段落、というところらしい。
「今日は、このくらいにしておこうかな…」




