第四十話:俯瞰
―――一発だけでは仕留められなかった。
だから続けて、二発、三発。
「イギアアアアアアアアアアッ!」
悲鳴が海に響き渡る。それは、眼下で俺の『水槍』で遂に背を貫かれ、胸から生えたその先端を掻き毟る【犬穢娘】の声。
胸元から飛び散る血潮を見るたび吐き気がしてくるのは、やはり見た目が人に酷似しているからだろう。だがしかし、相手はあくまでも忌種なのだ。放っておけば船に上がってきて、こちらを襲ってくるのだ。やらないとやられる、なんていう関係とも言えるかもしれない。
そうなると、奴らが昇ってくる前に全滅させたい所、何だけど…。
「いくらなんでも数多すぎでしょ!」
最早船の周りは【犬穢娘】の群れで埋め尽くされているような状態だ。貪欲にこちらとの距離を詰めようとしてくる姿は餌に群がる鯉の群れを想起させる。
辺りでも似たような悲鳴は上がっているので、船を取り囲まれていると考えていいだろう。
さて、こうなってくると流石に俺達三人だけでは手が出せないのではないのかという疑問も浮かんでくるころだ。というか、実際に厳しいと思う。
だがしかし、最も大きな力になるだろうスウィエトさん達は、大勢の【犬穢娘】を連れて少し遠くへ行ってしまった。ここよりももっと多くの忌種がそちらへ行ったので、助かったことは事実なのだが、危機的状況を変える事が出来ているのかと言われると疑問だった。
…しかし、総合計百匹程度は居るんじゃないのか?二つの船に群がった分でこれだけ、というのはいくらなんでも多過ぎるような気がする。
だって、【白金牛】がいた平原全体に住んでいる量が百匹程度だったのだ。ここまで集まってくるとなると、かなり広い範囲から集めていないと同じ中位忌種として道理が通らないだろう。
「錨は上げたな!?船の上まで上がってくるようなら戦えない奴は船室に退避!そうなってからは任せるぞ!」
「はい!何とかします!」
俺以外にも、各々リィヴさんへ返事の声を上げる。当然、この船が沈んでしまえば皆御陀仏だ。やろうとは思わないが、『飛翔』だって大陸にまでは届かない。この場をしのぎきること以外に、残された道はない。
こうやって言葉にするとなかなか危機的な状況だな!今更だけど、これはやばい!
「くそっ!」
『風刃』、『水槍』を、碌に狙いも付けず乱射する。それでも大勢の【犬穢娘】を仕留める事が出来ており、そして奴らの勢いが止まるわけでもない。
俺だけが攻撃している訳ではないからか、海はうっすらと紅く染まり始めた。血だ。
現状で幸運だと言える事は、怪我人が未だに出ていないことか。それはつまり、奴らが船上へ上がってきていないということであり、こちらが優勢を保っているということの証明でもある。
―――だが、それがずっと続く訳が無いという事は、包囲された時点ではっきりしていた。
「ヴォッ!」
初めに、従業員のうち、ある程度戦えるという自信を持っていた男性が、船の壁を登ってくる【犬穢娘】の数に圧倒され、そして、弾き飛ばされるように転倒。船上への侵入を許す。
それにカルスが即座に対応するも、今まで距離が遠い敵に対応するために渡された槍を使っていたため、仕留めるのに時間がかかってしまった。
二人はその後すぐに復帰して、自分たちが対応している場所に戻ろうとしたが…しかし、時既に遅く。
手と下半身の犬から生えた牙で器用に登ってきた【犬穢娘】が、合計三匹。
こうなってくると、カルスも慣れない武器で戦っている余裕はないらしく、槍を捨て、短刀に持ち替える。
「ハッ!」
戦いそのものは、思った以上にカルスが優勢だった。両腕と、下半身から生える犬による怒涛の、そのうえ今までにない変則的な攻撃方法だったが、カルスはそれをタクミに回避、浄化の力を短刀の先に集め、ある意味で忌種達にとって毒ともなる一撃を鋭く刺し込んでいく。
―――だが、
「ッ!多過ぎる!こんなの無茶苦茶だよ!」
三匹を手際よく仕留めたカルスの前に立ちふさがるのは五匹の【犬穢娘】。それは、『既に登りきった』数であり、今船べりに手を掛けたもう一匹だって、いや、その下、海に使ったままの【犬穢娘】達だって、いずれは登ってくる。
手助けに行くべき状況だが、ここを離れると今度はこちらから奴らが登ってくるのは目に見えているのだ。
僅かな余裕を見つけて、一発だけ『風刃』を使用。恐らくは『戦闘昇華』によって強化されたからだろう、威力が上昇している風の刃が、一瞬で【犬穢娘】一頭の首と胴体を泣き別れさせる。
現状余裕をもって対処出来ているのは…悲しい事に俺だけらしい。ラスティアさんの『切開』は、魔力消費が少なくてもある程度の相手の体を確実に切り開く物だが、しかし俺の『風刃』とは違い、何処を開くかという事を明確に決められているものなので、集団を相手取るにはやはり、不得手な所が有ったようだ。ギリギリの均衡を保っている。
それ以外の所では、近い内にこちら側が押し負けて、奴らの侵入を許してしまいそうだ。
なんてことを考えていたのが、もしかしたらいけなかったのかもしれない。
「ウワァッ!」
そんな悲鳴と共にまた一人、【犬穢娘】達の勢いに負けて船上へ上げてしまう。今この船にいる魔術士は俺とラスティアさんの二人だけ。それ故に、遠距離での攻撃が出来ていなかったその場所からは、勢いよく大量の【犬穢娘】達が這い上がってきた。
もうここも、安全とは言い切れない。上下の差によるアドバンテージを失った以上、ずっと戦いをしてこなかった彼らでは中位忌種の群れを押しとどめられる訳も無い。魔術が有る分、俺の方がずっとましだ。
船も、水面に多くの【犬穢娘】達がいるからだろうあまり速く進んでいない。少なくとも、振り払うなんて事は出来ていないのだ。
こうしている間にも、一体、また一体と【犬穢娘】達が上がってくる。…俺が行くべきか?全員にしゃがんでもらえば、『風刃』の使い方によってはどうにか、今船に登っている奴らは一層出来はする、筈だ。
―――そうなると、ここからも【犬穢娘】達が上がってくる事になるが。
ジリ貧。そんな言葉が脳裏を過ぎる。
『水槍』と『風刃』を同時に使用しながら少し遠方へと視線を向ける。スウィエトさん達の船の周りにいる【犬穢娘】の数はかなり減っている。あちらの掃討が終われば、こちらの救援には来てくれる筈…だが、それまでにこちらに死傷者が出ないのかと言われると、相当厳しい…というかほぼ無理だと思う。
これは、俺がどちらの選択を取っても同じ事だろう。力が足りない。手数も、策を考える頭脳も足りない。
だが、行動しなければいけないことは間違いないのだ。
そう考えて、振り向く。今一番危険なのは、俺以上に力を持たない彼等だ。
助ける。名前も知らない相手だけど、この数日間一緒に仕事をした仲間なのだ。
「『風―――!?」
その時、銀色の輝きが一条、俺の視界を横切った。
「何が…うわ」
その一秒後、【犬穢娘】達が首元を抑えもがき苦しみ、そして血を流し始めた。それはどうやら、首元に深く食い込んだ細い糸…つまりは、蜘蛛娘さんの糸だ。
船室から延びた糸の先端は、船首に八つの足で器用に立った蜘蛛に続いている。
蜘蛛は一匹だけでは無かった。船室からわらわらと十匹、そして、蜘蛛娘さん本人も外へと出てきた。
「蜘蛛娘さん!」
「お手伝いします」
船室の奥の方から、『蜘蛛娘さん!危険ですからあなた自身は中で待機して下さいと言ったでしょう!』というリィヴさんの焦った声が聞こえてくるが、正直なところ、今は一人でも多くの戦力が欲しかったので、これは素直に嬉しい。
「…とはいえ、いくらなんでもこの数は無理ですね。こちら側はまだ上がってきた数も少ないようですし、請け負いますよ。という訳で、皆さんには船尾側をお願いします」
「だ、大丈夫ですか!?」
「まあ、あの子たちを上手く使えばどうにかなるでしょうし、問題ありませんよ」
「…分かりました!」
船室の横を通って、船尾側へ。カルスが戦っているのが見えたので、御しゃしないように少し遠巻きの奴らを狙って『風刃』を撃つ。
と、後方から声がかかった。
「タクミさん!あなた飛べましたよね!?」
その声は蜘蛛娘さんだ。まさか、あっちを一人で請け負ったうえでこちらへ視線を向けてくるような余裕が有るのかと思ったが、彼女自身は船首側を向いていた。その代わりに、船室の上でこちらを見てくる蜘蛛が一匹。まさか蜘蛛の視界まで纏めて管理しているのだろうか?
「は、はい!」
「だったら飛んでください!ラスティアさん、あなたもです!」
少し離れた所からラスティアさんの返事も聞こえた。蜘蛛娘さんがどうしてそんな指示を出したのかと少し悩みながらも『飛翔』し、そして、船とその周り全体を俯瞰できるくらいの位地まで移動して―――気付いた。
「…そうか、ここからなら、まだまともに何をするべきなのかも考えられる!」




