第三十九話【犬穢娘】
「あれ、なんだ…?」
「どうかしたの?タクミ?」
近くを飛んでいたラスティアさんが俺の呟きに反応する。
「いや、なんか変なのが、水中にいたように見えてさ…でも、気のせいかな?」
「…ううん、一応、皆に、伝えるべき」
「…!そうだね。油断してひどい結果になるよりはずっといい!」
変に『何も起こらないだろう』なんて考えていたらしい自分に喝を入れ直し、二人で何か話している事には気がついたらしい舟の皆に声をかける。
「今、海の中に何か居た様な気がしました!警戒お願いします!」
「分かった!何かあったら対処頼む!」
リィヴさんもすぐに答えを返す。その近くにいたカルスが短剣を抜きつつ水中を覗きこむ。
「タクミ、それどんな奴!?」
「結構大きい!鯨…大きな魚みたいな奴!」
鯨といっても、見た限り十メートルはないという程度の大きさだが。
しかし、もしあれが舟の下から浮上してきたら、それだけで舟は転覆してしまうだろう。
今はその姿は見えない。潜ったのか、それとも、本当に俺が見たただの幻覚だったのか。
いずれにせよ、警戒を怠るのが愚の骨頂だという事は分かった。集中し直して、何処から再び現れても良い様に精神を研ぎ澄まさせる。
「タクミ、僕からすると、この近くにそんな大きな生き物、今はいないよ」
「何も感じない?…だったら本当に幻覚だったのか?」
警戒のために『操水』を止めていたので、先程見た影のようなものが映った場所から、そこまで遠くは離れていない。
そんな場所でカルスが何も掴めないというのなら…幻覚か、あるいは、素早くどこかへ泳いで行ったのか、深く潜ったのか、といった所だろう。
だが、
ドォンッッ!と、轟音。
「わッ!?」
「なんだ急にッ!」
「あ、あっち!さっきの…スウィエトさんって人が乗ってた舟の方!」
カルスがそう叫ぶのと時を同じくして、再び轟音が響き渡る。これは、何かとんでもない事態が起こっているのだろうと、カルスのいう通りにスウィエトさん達が乗った舟の方を見る。すると、そこを中心に大波が立っている事が分かった。
恐らくは、先程の轟音と共につくられた大波だったのだろう。二つに分かれているその奥に見える舟は、どうやら転覆してもいないらしい。ならばまあ、スウィエトさん達も無事だという事だろう。
「…多分、スウィエトさんが海中の何かに攻撃したんだと思います!それが俺が見た奴だったのかどうかは分かりませんが…あ、いや、何か浮いて来てます」
「何?…あれか。どんな様子だ?」
「えっと…やっぱり鯨みたいな奴ですね。大きな穴が二つと、それ以外にもちぎれたみたいな傷が付いてて、動きも無いです。多分、もう死んで」
「タクミ!海の中に何か居る!」
「えっ!?」
俺がリィヴさんに話していると、焦ったようにカルスが叫ぶ。
あっちで鯨は死んだから、現状に脅威はないとばかり思っていたのだが、違ったのだろうか。
「あ、でも、えっと…そんなに大きくない。でも僕達と同じくらいの大きさだし、数も相当だよ!」
「え?…じゃあ、何か違う敵が」
「タクミ、スウィエトさん達の方、見て」
言われたとおりに見ると、スウィエトさんの方に浮きあがってきた鯨の上へ、何かが這い上がって行き、そして、躊躇なく振るわれたスウィエトさんの杖にあごを勝ちあげられ、傍にいた騎士の槍に貫かれているのが見えた。
ここから見る限り、その大きさは俺達と同じほど…というより、姿からして人間に近いものだった。
上半身は、もう人間そのものとも言える。肌の色もほとんど普通の人間と相違ない。少し褐色に近い位だ。サイズ的には、【小人鬼】と【人喰鬼】の中間くらいだと考える事も出来るだろう。
だが、確実に違うと断言できるのは、腹部より下が分厚い毛皮で覆われている事。それに、あからさまに太いし、多分人間には無い器官が有るのだろう。どう考えても不自然な突起が有るのも分かる。
「あれ、忌種?」
「た、多分…」
ラスティアさんからの疑問にぼんやりと答えを返していると、ふと、俺の脳裏に一つの記憶が蘇ってきた。
フィークで調べた、聖教国の無人島に生息するという忌種…確か名前は、【犬穢娘】だったか。
「【犬穢娘】?」
「うん、無人島にいる忌種らしいんだけど…。でもあれ、水中から出てきたよね?」
「…ああ、それなら多分」
そう言ったのは蜘蛛娘さん。
「私に対して妙に攻撃的な一団がいまして。どうもその連中、あの島の生態系をほとんど壊しきる勢いで動物達を食べているようだったので、ええ、
ちょっとあの子たちを消しかけたり、二度と近づかないように痛い目を見えてやろうと糸の材料にしていましたら、いつの間にか海の中へ逃げて行ったんですよ。…帰ってきたみたいですね」
「ええ…?というか、糸の材料…」
いくら忌種とは言え、人の形に近い相手を糸の材料にする…ううむ、ちょっと気分の悪くなる映像が浮かびそうになった。
しかし、そこまでされてもまだ戻ってくるのか。忌種というものは人を襲う事が本能に根付いているようなものらしいから、ここに蜘蛛娘さんがいる事と、場合によっては、この島を囲んでいた糸が消えた事が分かったという二つの理由で今襲いかかってきているのかもしれないけれど。
「タクミ、ちょっとこれ、凄い数になってきてるんだけど…」
「…ちなみの、どのくらい?」
「もう、三十匹は超えてる、かな?」
「…それ、流石にまずいよね」
三十匹となると、この船にしがみつかれただけで為す術なく沈んでしまうような数だ。
「リィヴさん」
「ああ、急いでくれ。この小舟じゃどうしようもない」
そう言われたので、皆に舟へしがみついてもらってから『操水』を、それもかなりの勢いを産む様に使う。
商会の船なら、少なくとも、しがみつかれただけで沈むような事はない。島で買った品も積んではいるが、行きよりは量が少ない。その分、余分な重さが増えても持ちこたえられる筈だ。
「あ、やっぱり追ってきてる…」
カルスのつぶやきが耳に届いた。当然、更に舟を加速させる。
商会の船に接触したのはその十数秒後。下ろされた梯子に手を掛けて、皆するすると登っていく。
「会長!何が有ったんですか!?あの守人もあっちで戦ってますけど!」
「忌種の襲撃だ!気を付けろ、奴らかなりの数だ!」
俺も一度、舟に下りる。浮かべたままの舟を見ると、そこに、既に【犬穢娘】の姿が有る事に気がついた。
梯子に手を掛けて登ってこようとする姿は、成程、確かに“娘”と名に付けるだけは有り、人の、それも、少女と呼ぶべき容姿をしている事が分かった。
とはいえ相手は忌種。登って来られては困るので、少々引っ掛かるものを感じつつも梯子を振って、持ち上げる。こんなものを外側に残していては、好き放題に登って来られてしまう。
その状態で再び【犬穢娘】の姿を見ると、今度は怒り狂って船の壁を蹴っている事が分かった。なかなかの威力。この大きな船の上でも、蹴りの不規則な揺れが感じられるほどだから相当だ。中位忌種なのも頷ける。
そう…上半身は人のものだが、下半身は人とは言い難い…何と言うか、犬の集合体とでも呼べば近い表現にもなるのだろうか?
腰部分から、犬が生えている。
大型犬、小型犬。合計すると十頭ほどは生えているのではないだろうか?
単純に一頭ずつが生えているのではなく、腰から生えた犬、から更に犬が生えたりしている。
二頭の大型犬によって疑似的な両足が構成されており、残りの八頭が攻撃的に牙をむき出しにして、こちらを睨みつけたり、吠えたりしてくる。上半身も同じように唸っていて…体の構造はどうなっているんだろうか?
「他の場所からは上がってきてませんか?」
「いない、けど、囲まれてる」
「本当?ラスティアさん…でも、昇って来れないんだったら、どうにか逃げる事も出来るかな?」
海面から二メートルほどは壁が有るので、どうにか相手が昇って来させないようにも出来そうだ。
スウィエトさん達も隣の船へ到着したらしい。海上へ光の波のような物をぶつけたりしているのは、スウィエトさんの魔術だろうか?
というか、俺もこんな所でボケっとしていてはいけない。護衛としてここにいるのだから、船や従業員の皆に怪我が無いようにしないと。
そのためには、【犬穢娘】へ攻撃しなければいけない訳だけど…。
「イングドゥルヴィルヴァッ!ディクラッ!」
何を叫んでいるのかもわからない狂ったような表情、どう考えても理性は無く、そして、人でも無い事は分かっているのだが。
しかし…上半身部分があまりに人そのもので、躊躇ってしまう。
この相手に攻撃する、となると…。いや、そんな事考えてる場合じゃない!
「こ、こいつら、船噛んで登って来た!」
「…ああ、もう!『水槍』!」




