第三十五話:蜘蛛の母
しかし、あの蜘蛛という脅威がそこにある事は変わらぬ事実だ。あの糸を手に入れようとするのには間違いなく手を出してこようとするだろう。当然だ。家を壊されるのは嫌だし、奴の速度ならば奇襲をかけることも可能だろうから。
俺の『風刃』は、風を刃の形に纏めて打ち出すという現象を起こす。その性質上、軌道は帰られても、特に強くイメージしなければ、飛べば飛ぶほど威力が落ちる。
強くイメージする、というのはほとんど、魔力を大量に消費する、という事と同義だ。ならば、まずは近づくべき…だろう。何か有った時の為、とりあえずいつでも『飛翔』出来るように心の準備をしておく。
まず、十メートルほど歩く。ラスティアさんとカルスもついて来てくれているが、少し距離が離れている。
少し不安だ…が、何時までもそうしている訳にはいかない。
どうせ、威力を強めた所で蜘蛛の巣全体を微塵切りしてしまうような事にはなりようがない、逃げる分以外の魔力はもう、派手に詰めてしまおう。
再び前に歩きながら、深呼吸。自分の中にある魔力の量を想像。液体の入った大きなボトルのような物だ。その内上から八割ほどの所に線を引いて、そこまで吸い上げるようにイメージ。同時に、強く、鋭く、素早い風の刃を飛ばすことを意識する。
「『風刃』!」
激しい風切り音と共に『風刃』が飛んでいく。俺が決めた速度の通りに飛んでいる筈なのだが、余りに速すぎて俺自身すら知覚できない。
だが、結果ははっきりしていた。
積み重なっていた半透明の糸が、切れた。耐えられる限界を越え体力が今の『風刃』に会ったのだろうか。先程までとは違ってかなりあっさりと。
横に長いその切り口を見ていると、何だか大きな口のようにも見えてきて正直不気味だ。
「切れたよ。…でも、特に何かが出てきてるってことはないみたいだ。どうする?」
「近づいた所を狙われるとか、そういう怖い事ってあるかな?」
カルスの発言でかなり近づきたく無くなった。あそこにいるのは蜘蛛の筈だが、先程口の様だと考えてしまったせいで飲み込まれるような錯覚を感じたからだ。二人とも同じように思っているようだ…が。
「結局、何も、出て来ない。…行こ」
「ええ?でも、あの蜘蛛みたいなのは間違いなくいるんだけど」
大丈夫だろうか。しかし、とりあえず敵がどんな姿を知っているのかは分かっているから、奴を警戒することすら忘れなければまだ大丈夫だろうか。
…あの蜘蛛一匹で、島全部を巣にしているとは思い辛いんだけど。
「…何も、いないね」
「じゃあ、中に入る?」
「うん」
恐怖を堪えながらも俺が右足を中に入れようとした時、一つの事実に気が付く事が出来た。
「ちょっと待って。このまま全員で入ったら、さっきの蜘蛛に入り口ふさがれるんじゃない?」
「…確かにそうだね。僕は僕で」
カルスはそう言いながら短刀を抜き、そして、糸の端を持ってから切った。が、切断されることはない。食いこんではいるようだが、これを何重にも重ねた状態できるのは難しいだろう。
「切る事が出来るのなら、とも思ったけど…駄目みたいだね。だったら、一人はここにいて閉じられないように見張ってた方が良い、か」
「となると、…残るのは僕かラスティアさんかな。タクミが中に入ったら、危ない事に変わりはないけど別の場所に穴を開ける事も出来るだろうし」
「…なら、私が。二人で中に入るのなら、魔術士を二人固める理由も無い」
「…そうだね。じゃあカルス、入ろうか。ラスティアさんも、お願い」
「うん。じゃあ二人とも、また後で」
「ラスティアさんも、何かあったら呼んでね。すぐにタクミと帰ってくるから」
「うん」
巣に空いた穴を広げながら中へと入る。今更ながらに気がついたが、粘着力という物が全くない。これに関してはやはり、この網で捕まえるのではなく、檻の様にして使う事を想定しているからなのだろうか。その目的に耐える十分な強度が有る事ならば、既に確認できてもいるわけだし。
中に入ったらすぐに襲われる、という事はなかった。というよりも、生物の気配がない。木々は生い茂っているのだから、島だとは言え、動物は増えて行くものだと思っていたが。…やはり喰われてしまったのだろうか。
森の奥へと進みながらカルスへ問いかける。
「何か反応、ある?」
「ううん、虫みたいなのは幾つかあるけど、大きいのは何も。さっきの蜘蛛よりずっと小さい生き物しかいないと思…?いや、ごめん待って。今なんか」
「何か居たの?」
カルスは動揺したようにきょろきょろとあたりを見回し、最終的に山の上の方を見上げて固まった。
「…今、ちょっと変な感じだけど、何か居た。山の上の方に…多分、ここから見ると裏側の方に行った」
「変な感じ…?そう言えば、さっきの蜘蛛って魂を感じなかったんだよね?」
「うん。なんだか変なことばっかりだ」
ともあれ、何が起こっているのかを探る重大な手がかりだ。警戒しながら山を登る。
一度はカルスが魂の場所を探られる範囲から抜け出てしまった相手だが、しかし今は移動もせず、何処にいるのかは分かるという。俺は現在、例の蜘蛛が襲いかかって来ないかという方を重点的に警戒している所だ。
今までに二度、蜘蛛の事を発見している。だが、こちらが何かするより先に逃げて行ってしまうのだ。臆病なのか、狡猾なのか。今までの感じだと、決して前者では無いと思うのだが。
「…タクミ、あの木の向こう側に行ったら、もう姿が見えると思う。準備いい?」
「大丈夫。…蜘蛛も周りにはいないね。行こう」
まず頭だけを覗かせる。と、かなり大きな木の切り株が有るのが見えた。というか、このあたりの木は切られているようだ。切り株や、それが掘りだされたような跡がいくつも見える。
そして、純白のドレスを着た、長い黒と、僅かに混じる緑の髪を伸ばす人影が一つ。何かに腰かけている姿も。
「人…?」
「だ、よね…というか、あの人だよ、変な感じなの」
「どうぞ」
二人で戸惑っていると、思ったよりずっと柔らかい声がかけられた。。
「え、あ」
「どうぞこちらへ。そこでとどまっていても、上手くお話しできないでしょう。私の方で、少しほどならおもてなしの準備もしています」
と、言われても。この状況でのこのこ出て行くような真似はできる筈も無く。というか、見ても無いのにこちらの存在に気が付くとは。カルスたちみたいな特徴を備えているんだろうか。
だがしかし、もしあの人…あの女性が本当に有効的な態度なのだとすれば、機嫌を損ねる方がまずいという事にもなる。
「カ、カルス。とりあえず俺が行くから、ちょっと警戒」
「ううん、そういう事なら僕が行くよ」
「え、でも」
「タクミの方が出来る事も多いからね。しっかり見てて」
カルスはそう言って、彼女に近づいて行く。
不安だったが、辺りの警戒は続ける。すると、蜘蛛がいる事に気がついた。樹上、こちらを見下ろすように三匹だ。やはり一匹だけでは無かったらしい。
「こちらへどうぞ。…お一人足りないようですが、どちらに?」
「すぐそこにいるよ」
「いえ、そうでは無く…ああ、この森の外ですか。…うちの子たちに攻撃をしないようにお願いできませんか?」
「え?え、っと。子どもたちって言うのは」
…聞いていると、かなり異常な状況だという事が分かる。俺がここに待機している事にもあまり意味はないのではないかとも感じさせられるが、しかしそれ以上に気になるのは。
―――ラスティアさんの事にも気が付いてる事、そして、『うちの子』って言葉の真意だ。
ラスティアさんにことに気がついたのは、もしかしたら、俺達が舟でここに来た時に見ていたのかもしれない。だがしかし、ラスティアさんに『うちの子』を攻撃するのをやめさせろとカルスに伝えてきたのだ。これは一体、どういうことか。
…いや、確信を持てず、納得も難しい事だが、仮説としては一つ。
『うちの子』というのがつまり、あの蜘蛛たちだったとしたら、どうだろう。
いや、よく考えなくてもそんな事有る筈ないんだが。あの女性があの蜘蛛を産んだとは勿論思えないし、あの蜘蛛たちに魂は無いのだから。
「この子たちよ」
彼女がそう言って手に這わせたのは、何時の間にそこへ移動していたのかもわからない例の巨大蜘蛛。
明らかに空気が変わった気がした。




