proscenium arch:白の女王の未来で
「ニャウニャウ」
猫は毎日僕の部屋にやってきた。決まってデスク脇の網戸をガリガリと引っ掻いてその訪れを告げる。それが、僕の目覚めの合図にもなっていた。
懐かしさばかりを残すあの夢をもう一度見たい気もする。あれを夢と呼んでいいのか実際のところ定かではないが、とにかく、あれを最後に最近、すっかり夢やそれに類するものを見なくなった。友人に色々話を聞いて、心身が落ち着いたのが一つの理由なのかもしれない。余計なことに煩わされず、僕は毎日を平和に過ごしていた。
「おはよう、猫。今日も平和だな」
僕は黒猫に挨拶をしながら、窓を開ける。相変わらず、夏の熱気が肺に入ってきて咽るような心地がする。猫はいつも通り窓の隙間をすり抜けて僕の足元に座り込んだ。
僕は窓の外を見る。やはりまだ色々意識がぼんやりしていて思い出せない。恐らくこの窓からの風景は見慣れたものであるはずなのに、知らない町にさえ見える。周辺は住宅地なのか、団地や一軒家が立っている。遠くに目を向ければ、都心部の高層ビルが目に入る。ガラス張りのそれらは、鏡のように太陽を反射している。あまりに眩しくて、僕は目を逸らした。窓を閉める。
「にゃう?」
「鯖缶、あるから持ってくる。待ってろ」
原稿用紙を踏みしめて、僕は台所へと向かう。これらの原稿用紙もそろそろまとめて捨てるべきだろう。このままでは足の踏み場もないし、生活にも不便だ。しかし……。
テーブルの上に放置していた缶詰の中から鯖缶を一つ取り出して、開ける。缶詰なのにやたらと香ばしいかば焼きの香りがして、白米が食べたくなる。もちろん、これは猫の分なので、床にそっと置いた。そのときに原稿用紙の文字が目に入る。
「ほら、猫、食え」
呼びかけると、猫はタッとすばやく走ってきて、鯖にがっついた。よほど腹が減っていたのだろうか。
さっき目に入った原稿用紙を拾い上げる。そこにはこんな風に書かれていた。どうやら小説の結末部分のようだ。
『ソバエは見上げる。その視線の先には、文字通りの虚空が広がっていた。空は欠け落ち、世界は滅びた。その滅びた世界では、彼女と彼女に付き従う黒猫、そして古本屋だけが残されていた。 fin』
古本屋の女主人ソバエと黒猫。そして、空が落ちてきて滅びる世界。この原稿はそういう話らしい。
ここ数日は家にいる以外にやることがなかったので、何となく自分の原稿に目を通していたのだ。これだけ過去の自分が雑に扱ったのだからどれもボツ案ばかりなのだろうが、もしかしたら、掘り起こしたら何か面白いネタがあるかもしれない。そんな風に思ったのだ。原稿はバラバラに撒き散らされしわくちゃになっていたものの、通し番号が振ってありどのような順番で読めば話が繋がるのか分かるようになっていた。しかし、拾い集めて読んでみれば、どの原稿もシナリオはどうしようもない一辺倒で、結末はどれも共通していた。
世界が滅びるという日、主人公(女主人公のときはツユ、男主人公のときはアメと表記されていた)は古本屋を訪れる。その古本屋の女主人のソバエに主人公は世界を救うように言われるが結局は救えず、世界は滅びる。そして、その世界を、ソバエと猫が見ているのだ。
どれもこれも結末は世界滅亡。しかし、そのバリエーションは豊富だった。世界各地で火山が同時噴火、隕石または惑星の衝突、パンデミック、世界大戦、世界同時多発テロ……それらが紛れもない自分の字で綴られている。自分で言うのもなんだが、よくもまあ、ここまで思いつくものだ。
足元で鯖缶を食らう猫を見る。友人は、僕がこの猫を以前から可愛がっていたと言っていたか。まさか小説の黒猫はこの猫がモデルになったのだろうか。
そして、ソバエという登場人物は……
「……ソバエがいない世界なんていらない。消えてなくなれ」
僕がかつて叫んで喚き散らしたという言葉を声に出して呟いてみる。もし仮に猫が小説に出てくる黒猫の元ネタになったのなら、もしかしたら小説に出てくるソバエも元になった人物がいるのかもしれない。そして、その人が僕の“大切な人”で……。
“ソバエは死んでしまった。もうどこにもいない”
「実感はないなあ……」
猫の咽喉を撫でてやると、腹がいっぱいで満足したらしく手にすり寄ってきた。やたらと人懐っこい猫だ。猫っていうのは人に懐かない生意気な奴ばかりだと思っていたが。
申し訳ない話ではあるが、大切な人が死んだという感覚は今の僕には皆無だった。だって、覚えてないのだから。仕方がない。仕方がないのだ。そもそも本当にそんな人がいたのだろうか。僕に“大切な人”はいたのだろうか。実は、ソバエなんていう人物は僕の妄想にすぎなくて、僕の小説の一登場人物に過ぎない存在なのではないだろうか。いずれの可能性も、今の僕には否定はできない。
発狂し、乱心し、心が決壊し、忘れてしまったことならば、そのまま思い出さずに忘れていた方が良い。友人の言うことに僕は同意する。また思い出したところで、それに何の意味があるだろう。また同じように、僕は気をおかしくするだけじゃないのか。はっきりしない頭で余計なことを考えるのは、不毛以外の何ものでもない。
デスクまで歩いていって、原稿を机の上に置いた。僕はまた窓を見る。窓枠の中、夏空に混じって僅かに僕自身の顔が反射しているのが見えた。何の変哲もない平凡な顔が、大きな入道雲と一緒に青空に浮かんでいる。平和だ。今はとても。
「なゃーう」
猫が鳴く。ふいに室内のクーラーの出力が強まり、ガーッと音が鳴る。部屋の中は快適な温度が保たれている。だが、クーラーの風に当たりすぎた時のあの独特の気だるさを感じた。このまま突っ立ったままでいたら、体が段々弛緩してその場で動けなくなってしまうんじゃないかなどという馬鹿みたいなことまで頭に浮かぶ。
そして、僕は不意に外に出たいと思った。いや、“思った”なんていう言葉ではまだ生温い。何故だか分からないけれど、僕は外に出たいと“渇望”したのだ。そういう風に体が疼いたのだ。
※
結果から言えば、僕は外に出なかった。正確には出ることができなかった。玄関ドアを開けた瞬間、目の前にいた人物と目が合って、数秒間無言で見つめあった後、
「まだ休んでろって。ほら、支援物資だぜ~」
そう言われ、室内に押し戻されたのだ。言わずもがな、その人物とは友人である。カレーを作り置きして以来、恐らく一週間ほど振りの再会だった。
今回、友人は仕事で新橋に用があるとかで、ついでにここに寄ったらしい。ちょうど外に出ようとした僕と鉢合わせたのはただの偶然らしい。自分が買って来たものと、玄関先にひっかけてあったものをテーブルに適当に置き去りにすると、大した言葉も交わさずに嵐のように去って行った。例によって、大家さんは昆布を置いていったようだ。
僕は友人が持ってきた段ボール箱から500mlのペットボトルを取り出して、一口飲んだ。中身はスポーツドリンクで、冷えていないためか少し甘ったるかった。一口、また一口と飲み干すにしたがって、その甘さが癖になって勢いよくペットボトルを煽る。咽喉が鳴り、甘い液体が体の中に沁み渡るのを感じる。嚥下の間に合わなかった分が逆流して、苦しい。まるで、溺れているようだ。
そうして飲み干したペットボトルを投げ出して、その場で勢いよく横になった。原稿用紙が良い感じにクッションになって、体を受け止める。
これまた馬鹿みたいな話だが、あれだけ焦がれた“外に出たい”という思いは、友人の出現ですっかり冷めてしまった。今となっては、あれは思いでなく、ほんの束の間の衝動、あるいは気の迷いと言ってしまっても差し支えないようなそんなものだったように思う。
「……何だったんだろうな」
呟いた僕の顔を猫が覗き込む。こげ茶の天井。黒い猫。青い青い夏空のような目。そこに映り込む自分。背中や手足に感じる原稿用紙のチクチクとした痛みと冷たさ。クーラーの風。
「にゃーう」
猫が小さく鳴く。体は重く、床に沈む。天井が遠く見え、瞼も重い。何だか気疲れしてしまった。
「眠るのかね?」
声がした。あの懐かしい声だ。
ああ、寝るよ。もう少しだけ。
それに応えた。フワフワと意識が揺らぐ感覚、曖昧になる意識。すべてを放り出して、僕は目を閉じる。
『proscenium arch:白の女王の未来で』あとがき→http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/187605/blogkey/959941/