closet drama:トゥイードルの森で
「本当に君は、私の願いを聞いてくれるのかね?」
体がガクッと揺れ、それに驚いて目を覚ました。ハッと顔を上げて、すぐにまた俯く。急に動いたせいで肩周りがものすごく痛い。それでも何とかもう一度顔を上げると、目の前には以前目を覚ました時とさして変わらない景色が広がっていた。また何日か眠っていたのだろうか。友人の姿はなく、俺一人しかここにはいないようだ。
そこら中見渡す限り原稿用紙に埋め尽くされた部屋は、つけっぱなしのクーラーの風に揺れてカサカサと音を立てている。設定温度が低いのか、少し肌寒い。なのに、体は汗でべた付いていた。Tシャツが張り付く感覚が気持ち悪い。咽喉もやたらと乾燥していた。
頭が痛んだ。さっきまで何か夢を見ていたような気がするが、その内容は思い出せない。ただ、何故だかその夢がひどく懐かしいと感じた。その感触は覚えている。そして、もう一つ覚えていることがあった。懐かしさと一緒に胸にそれが込み上げてくる。頭を押さえながら、それを反芻する。
懐かしさと、誰かの柔らかくて優しい声。そして、その人の名前を。
「ソバ、エ……?」
ザッザッザッ……
妙な音がする方向に目を巡らせると、デスク脇にある窓の網戸を野良猫が引っ掻いていた。全身真っ黒で細身の猫だ。ここはアパートの2階。わざわざ登ってここまできたのだろうか。倦怠感に満ちている体を引きずって立ち上がり、窓に手をかける。猫は何かを察したかのように僅かに後ろに下がった。立てつけの良くない窓を開けると、生温い風吹き込んで一瞬息が詰まった。きっと室内で人工的な風にずっと当たっているよりは健康的なのだろうが、今は外の空気には触れたい気分ではない。網戸越しに、猫はこちらに青い瞳を向ける。まるで夏の空のようで見ていて眩しい。野良にしてはやたらと毛並が整っていた。
「お前にやる餌はないぞ」
「ニャーウ」
気まぐれに話しかけると、返事をするように猫は鳴く。猫は気まぐれで懐かない。そのドライな感じは嫌いではない。むしろ、好感を持てさえする。
窓を開けて招き入れてやると、床の原稿用紙を踏んで軽い動作で駆け込んできた。そのまま台所を抜けて、玄関方面まで走り抜けていく。
窓を閉めてついていく。足の踏み場はないに等しいので、落ちている原稿用紙を仕方なしに踏みつけて歩いた。今度は玄関ドアをガリガリと引っ掻いていたのでドアチェーンを外して、鍵を開ける。猫が通り抜けられるくらいに扉を薄く開けてやった。しかし、今度は猫は動かない。
「ニャーウ」
さっきと同じように鳴き声を上げて俺を見上げるだけだ。
「外に出たいのか、中にいたいのか。はっきりしてくれないか?」
猫は返事をしなかった。
※
「お、黒じゃん。元気だったか?大家さんの昆布、食うか?」
黒猫は毎日決まった時間に俺の部屋の網戸をガリガリやるようになった。おかげですっかり一日一度は目を覚ます習慣がついてしまった俺を見て、数日後に訪ねて来た友人が“お前が起きているなんて明日は台風が来るか?”などと失礼な発言をしたのはあくまで余談である。
しかし、ここ最近のことが上手く思い出せないのは相変わらずで、ここ数日は自分の部屋に散らばる原稿用紙を端から読んでいく毎日だった。それではっきりしたのは、俺が小説家という職業で細々と生計を立てており、これらがその作品の残骸であるということだった。設定資料をはじめ、小説の本文、自分自身で赤を入れたもの、そしてペンで塗りつぶして捨てたもの。
「黒って?」
「コイツのことだよ。お前、可愛がってたじゃん。お前は“猫”って呼んでたけど。よくベランダに現れるからってんで、世話してたろ」
友人は猫の前足を両手で持ってこちらに向けてぶら下げた。前足の肉球とお腹が丸見えになる。猫は持ち上げられた瞬間、その毛を逆立てて唸った。
「そう、だったか?」
「やっぱ、まだ全快してないんだな。ちゃんと食ってるか?」
「食ってる。おかげさまで」
俺の知り合いには少々お節介が多いらしく、玄関ドアノブに大量の食料(主に缶詰、乾物系)がビニール袋に入れて吊るしてあった。増減するものの、毎日いつの間にやら何かしら置いてある。アパートの大家は何故か毎日昆布を置いていく。
食っているとは言ったが、実際のところ吊るしてあった缶詰をそのまま食うか乾物の場合も水などで戻してそのまま、といった感じなので、これを正直に友人に言ったら恐らく小言の一つや二つ言われるに違いない。
「けれど、確かにまだ全快ではないな。ここ最近のことがあまり思い出せなくて」
「みんな、お前のこと心配してっから早く元気になれよ。アイツら会うのは遠慮しているみたいだし」
“みんな”とは、どの“みんな”なのだろう。それすらも思い出せない。この曖昧さ。イライラする。これは決して夏の暑さのせいでも人工の風の薄ら寒さのせいでもない。
「おい、お前に一つ訊きたいんだが」
「おう、何だ?」
「ソバエって誰だ?」
ソバエ。
夢に出てきた懐かしい名前。そして、それは原稿用紙を漁った時に、その残骸の中で幾度となく見た名前でもあった。ソバエが、ソバエに、ソバエを、ソバエは、ソバエと、ソバエ、ソバエ、ソバエ、ソバエ、ソバエ……。
何度も出てきて、そして何度も乱暴に、雑に、塗りつぶされていた。
「誰って……」
友人が思案顔になった。猫の前足を持ったまま、その肉球をフニフニと弄る。押すたびに猫の髭がピクピク蠢いた。
「誰って言われてもな」
友人は訝しげな顔になり、最終的にはそう言った。そして、また肉球をフニフニし出す。相変わらず、クーラーの風は原稿用紙を煽っている。
「俺が知っているソバエさんとやらは、お前の大切な人。且つ、お前が体調を崩して引き篭もる原因になった人物ってところだ。それ以上は知らん。会ったこともない」
「大切な人って?」
モヤモヤの向こう側が僅かに見えそうな気がして、僕は友人に詰め寄った。
「おい、どういうことだよ」
「落ち着けって我が友よ。万全じゃないところにあまり情報詰め込むのもよろしくないと思って色々黙っていたんだが、どうしても知りたいってならちょっとずつなら答えてやる。だから、落ち着け、な?まず、座れ」
宥める友人に一先ずは頷いて、僕は床に正座した。食卓に椅子はあったが、原稿用紙が邪魔で座れるような状態ではない。友人が対面に正座して、猫はその間に座り込んだ。青い目がこちらを睨むように見ている。
「ソバエという人物が僕の大切な人だって言ったな?あれ、どういう意味だ?」
「文字通りの意味だよ。説明するには、ちょっとばかり時間を遡る必要があるんだが、構わないか?」
僕は頷く。
「ちょうどラジオで東京の梅雨明けが発表された時期だった。久々にお前から電話があったんだよ。あの日も随分と暑い日だったな」
久々の電話を素直に嬉しく思って電話を取ったのも束の間、僕は電話口で喚き散らしたらしい。
曰く“ソバエが死んだ。もうどこにもいない”と。
“彼女が、ソバエが、いない世界なんていらない。消えてしまえ”と。
「正直、何のこっちゃって思ったぜ。とにかく……あー、なんつうか、お前は完全にイかれてた。叫んで喚いて収拾がつかなかったな。一応、喚いている間に色々こっちから尋ねはしたんだが、それも覚えてないんだろ?もちろん、返答率はお察しってところだ」
「確かに、覚えてない……それで?」
「いきなり電話がブッツリ切れて、それっきり。電話の数日後にここに直で来てみたけど、鍵かかってるしノックしても応答も一切なし。仕方がないから、その日は差し入れ用のスポドリの段ボールを玄関先に放置して帰った」
そして、その後、数日ごとにこの友人は僕の部屋を訪れた。他の“みんな”にも連絡を取り、僕を交代で訪ねていたらしい。僕が覚醒したのはその最中、つい最近のことで、まだ本調子でない僕を気遣って食料供給が継続して行われているというのが真相だそうだ。
「そうか。知らなかった。悪いな、色々」
「気にすんなって、俺もみんなもお前の友達なんだからな」
二カッと笑うその顔が今は頼もしい。
「もうしばらく安静にしてろ。お前に訊かれたから今回は色々話したけどな、別に無理に全部思い出すことはねえと思う。記憶飛ばすほどショックなことがあったんなら、忘れたままの方がむしろ良いかもしれないしな」
そうかもしれない。辛いなら忘れよう。嫌なことは全部。
今、目の前にいる友人に言われてひどく安心した。
グゥゥゥゥ
そして、安心した拍子に腹が盛大に音を立てた。
「うわ、でっけえ音だな」
「長話聞いていたから腹減った」
「よく言うぜ!どうせお前のことだから缶詰開けて食ってただけだろ?今日はカレー作っちゃる!作り置きしとけば、数日は持つだろ?」
友人からしてみれば僕の缶詰生活はお見通しだったらしい。僕は思わず笑った。胸のつかえが取れたような、そんな気分だ。
「お前は僕のお母さんかよ」
「お袋って呼んでも良いノヨ☆」
「それはやめとく」
台所に立つ友人の後に続いて、僕も立ち上がる。足が痺れ、頭が鈍く痛み、少しふらついた。まだはっきりしないこともあるが、それでも話を聞く前よりは段違いに気分が良い。
「ニャウナーウ」
猫が足元にじゃれるように絡まり、青い目をこちらに向ける。
「大丈夫だ」
僕は猫に言葉をかける。
「お前には鮭缶をやるからな」
猫は答えずに、僕の足の合間をグルグルと回り続けていた。
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