No.2:羊が●△匹
2時間前
『こちらは東京…【SF】制御対策委員会です。本日の【SF】予想時刻は11:56です。ただいま、予想時刻の約2時…前、10:00とな……おります。まだ、避…がお済みでな……民の皆様は、安全…保のため地域指定……シェルターへ避難してください。繰り返します。……ちらは……』
喫茶店で資格試験の参考書を解いていた俺の耳にもその放送は届いてきた。
駅前に設置されている薄汚れたスピーカーからわずかにノイズが交じったの合成音声が現在時刻と【SF:Sky falling】予想時刻を告げている。
洒落たライム色のブラインドを少し上げて窓から空を見上げれば、この夏を象徴するような太陽と、すっきりとした青空が広がっている。これから“この空がひび割れて、破片となって落ちてくる”らしい。【SF】とはそういう現象なのだという。数ヶ月前からラジオのニュースで【SF】のことを放送している。大学の講義で教授が話すところによると、それは避けようのない天の裁きなのだという。あの教授は【SF】報道を機に、変な宗教にはまったらしい。俺は【SF】をまるでファンタジーのような、それこそSFみたいな話だと思っていたけれど。
ニュースでの【SF】に関する報道はそれなりに社会現象になって、犯罪の増長や物品の買い占めによる品薄なんかにも繋がった。俺も生活面でそれなりに打撃を受けた。一人暮らしの大学一回生にとって、品薄と価格高騰はかなりの痛手だった。しかし“空が落ちてくる”なんて一見すると荒唐無稽な話。やはり信じろという方が難しい。
参考書を一区切り解き終えた俺は、喫茶店を後にした。駅前の電光掲示板でも、スピーカー放送と同一の内容が流れている。傍ら表示されている現在時刻を見れば10:02とある。
避難勧告の放送が相変わらずうるさく繰り返されている。しかし、駅前を急ぎ歩き去る人ごみはいつも通りのように見えた。いや、そう見えるだけなのかもしれない。俺だって、いつも通り歩いているようでいて少し浮き足立っている。SFのような“空が落ちてくる”という現象に。
あと2時間。それが、この世界に空が落ちてくるまでに残された時間。SFような不思議な出来事が起きるまでの時間。
しかし、まだ時間はある。2時間もある。
急いで喫茶店を後にしたが、これから特に予定があるわけではない。あとは避難するだけだ。しかし、それはそれで……。
俺は資格試験の参考書を鞄の中に乱暴に突っ込んだ。
「つまらねえよな……」
※
1時間前
結局俺は1時間無駄な時間を過ごした。駅前をブラブラと歩き回って、何を探すでもなく、しかしあちこちに目を移す。何もかもが比較的いつも通りでがっかりした。いつもと違うことと言えば、いくつかの店が“本日【SF】のため閉店します”と張り紙をして店を閉めていることだ。逆に【SF】セールなるものを展開しているところもあったが、普通のバーゲンセールとあまり変わった様子はない。そんな中で一際目を惹く店があった。看板らしきものが見え、“古本屋”とくすんだ字で書かれている。何の変哲もない古びた木製の建物の書店だったが、周囲にある若者向けのファンシーショップに囲まれたそれは異彩を放っていた。
あまり書店などに立ち寄る柄ではないが、ちょっと気になって俺は扉に手をかける。カランカランと大きくドアベルが鳴って、自分が鳴らしたのにも関わらずギョッとした。少し遅れて、カビ臭いような懐かしいような匂いが鼻を掠める。
店内は本がたくさん詰まった本棚がびっしりと並べられており、本棚と本棚の間は人が一人通るのもやっとという狭さだった。妙に閉塞感があって、俺は身震いをした。正直あまり閉じているところは好きではない。昔から閉所恐怖症気味でこういったところは苦手だった。
「おや、お客さんかね」
いきなりそんな声を聞いた俺は心臓が止まる思いだった。よくよく考えたらここは店なのだから、誰も人がいないということ自体ありえない、せめて店員の一人くらいはいると気付くべきだったろう。
店はかなり奥行きがあって、本棚はそこまで続いていた。その果てに小さな木製のカウンターがある。そこに長い黒髪の眼鏡をかけた女性が座っていて、俺の方を見ていた。俺と同い年か少し上くらいに見える。
「そんな入口に突っ立っていないで、遠慮せずここまで来たまえよ」
俺は恐る恐る彼女に近づこうとした。妙な話し方が少し気になったが、呼ばれた以上は近づかなければ失礼な気もしたのだ。それでも、やはり苦手なところに入っていくことに躊躇する気持ちがなかったわけではなかったが。
近づくにはどうしても、狭い本棚の隙間を縫って行かなければならなかった。背中に変な汗が伝う。左右の棚にどんな本が入っているか見る余裕も正直ない。息を潜めて、ひたすら前に歩を進めることを考えた。どうして俺はこんな店に入ってしまったのかと少し後悔した。好奇心半分でこんな得体の知れないところに入るべきではなかったかもしれない。左右の本棚の圧迫感で潰される思いすらする。
どうにか必死の思いで本棚の隙間から這い出ると、そこにはある程度のスペースが空いていた。そこでようやく息を吐く。
女性がいるカウンターの上には飴玉やロリポップなどを中心に駄菓子がいくつか置いてある。逆に言えば、それらの駄菓子のせいでカウンター一帯だけがやたらと色鮮やかに見えた。
「おやおや、水の中を泳いでいるわけじゃないのだから、そう息を止めなくても良かったのに」
さっきの凛とした、しかし面白がるような音を含んだ声が間近に聞こえて、俺はハッと振り向く。上品そうな白いブラウスに黒いシンプルなデザインのエプロンと一般的な書店員のスタイルで、かけられた黒い縁の眼鏡は黒い鎖で繋がっている。女性の膝の上には黒い猫が丸くなって座っていた。細い体を上下させて、眠っているようだ。女性はカウンターに右肘を乗せて掌を自身の頬にそっと添えている。たったそれだけなのに何だかすごく絵になる図だ。
そして、女性は小首を傾げるようにして俺を見た。眼鏡に繋がった鎖がシャラリ揺れるのを思わず目で追った。
「さて、君の名前を教えてはくれないか?」
「え?俺の名前ですか?アメです」
「ふむ、アメか……。それはそれは、良い名だな。くれぐれも大切にしたまえ」
「はあ、それはどうも……」
訊かれた勢いで応えてしまったけれど、どうしていきなりそんなことを訊ねたのだろう。妙な口調は相変わらずだったが、なかなか面白い人だと思った。あと顔立ちが綺麗で、思わず見とれてしまう。
「私の名前は、ソバエと言う。言わずもがな、この古本屋の店主だ。どうかな?気に入った本は見つかったかね?」
「え、」
困った。本を見るような余裕は皆無だった。俺は思案しつつ、背後を振り返った。本棚は知らん顔で整然としたままだ。誤魔化しても仕方がないので、女性、ソバエさんの方に振り返ってカウンターを指さした。厳密にはカウンターの上の菓子類を、である。
「いやあ、俺には難しい本はちょっと厳しいんで、こっちの方が良いかなって、あはは」
「ほう、お菓子かね。なら、特別に一つだけ差し上げよう。何、遠慮いらんよ。好きなものを選びたまえ。甘いものを食べてすべてを忘れるということも、時には必要だろうと私も思うよ」
何だろう。少し含みのある笑みに見えたが、気のせいだろうか。ソバエさんの言葉に甘えて俺は大きなロリポップを手に取った。それに加えて数百円使って麩菓子やラムネなんかも購入する。いい歳の男がこんなに駄菓子を買うなんて気恥ずかしさもあったが、さっきの本棚の圧迫感で気疲れしていたし今はなんとなく甘いものを食べたい気分だった。早速、ロリポップの包みを開ける。
ボーン、ボーン、ボーン……
「う、お!?何すか?」
「ああ、ちょうど11:00だ。まあ、落ち着きたまえ。そこの柱時計が鳴っただけさ」
ソバエさんは背後を指さして笑った。壁の色とほとんど同じ色で気付かなかったが、そこには天井に届かんばかりの大きな柱時計がそびえ立っていた。
11:00。そう言われて、俺は内心首を傾げた。奇妙だ。あまりにも時間が経つのが早くないだろうか。まあ、いずれにせよ時計が指している時間が正しいに違いないだろうが。
「そうか。【SF】まで1時間ですね。そろそろ避難しないと」
「うむ、そうだな。世界が滅びるまであと1時間しかない」
俺はロリポップを振りながら言った。ロリポップは綺麗なトリコロールだ。それにあまりに整った円形で、食べるのがもったいなく思う。
「まあ、実質滅びるかもですよね。いくら地下にシェルターがあって避難すれば死ぬことはないっつっても、【SF】が終わった後は実質建物も何も残らないだろうし、インフラ面も壊滅的だろうし……そんな中で人間が生きていけるとは俺は思えないんですよね」
「確かにそういう考えもあるな。それなら仮に万が一今回の【SF】を生き残ったとして、君はどうするつもりなのかね?」
「生き残らなくても良いかなってのが正直なとこなんすよ。【SF】っていう面白そうな現象が見られればそれで良いって。このまま人生生きていても、どうせ似たような毎日送って、単純で面白いことなんてないし。こんなこと言ったら不謹慎って言う奴いるだろうけど、でも落ちてきた空の破片で死ぬのも一興かな、と」
ソバエさんの問いに俺は返す。初対面だというのに、そういう気が何故かしなかった。この人とは話しやすいように感じる。だから、正直に今まで思っていたことを吐露してみる。
「君は悲しい男だな」
台詞と裏腹にソバエさんは笑っていた。背筋が凍るような冷たい笑みに、俺は逆に清々しさを覚えた。
ソバエさんはこちらに身を僅かに乗り出した。
「でも、“本当に”世界は滅びるんだよ?それでもこの期に及んで、“本当に”君はそう思っているのか?」
「どうして……」
どうして、そんなことを言うのだろう。しかも、ここまで自信ありげに。世界滅亡説を唱える怪しげな新興宗教にでも嵌っているのだろうかなんてことも一瞬考えたが、その様子はなさそうだった。真剣みがある表情ならまだその可能性もあるだろう。ああいう連中は自分たちの妄信する教えに他人を引っ張り込もうと躍起になるから。けれど、眼鏡の奥で光るソバエさんの瞳はどこまでも面白がっている様子だった。
「世界が滅びるなんて、まさか本当に」
「本当だよ。それに、まさかっていう出来事が起こる方が面白いだろうに、人生が」
さらっとそんなセリフを言われて、しかし、それでも信じられなかった。何を言っているんだ。あまりにも話についていけない。
ボーンボーンボーン……
「えっ……?」
ソバエさんの背後の柱時計が鳴る。低い音程で12回。
「百聞は一見にしかずと言うからね。見てみたまえよ、“本当”を」
ソバエさんがクスクスと笑う声。
「もう12:00、そんなバカな……」
俺は店の出口に向かって、走り出した。おかしい。だって、さっき11:00になったばかりじゃ?
本棚にぶつかりながら俺は走る。さっきのような圧迫感を感じている“余裕”さえなくなっていた。出口がやたら遠く感じる。けれど、走る。信じない。俺は信じない。そんな訳が……。
「……」
店の出口にたどり着いたとき、俺は外の景色を見た。空が落ち始めていた。空気を焼き尽くすような轟音をたてて、すべてを破壊しつくすように。建物から何からすべてが崩れ去って、地面を抉る。地下シェルターとかそんなもので回避できるようなものではないのは明白だった。
しかし、何故ここまで大きな音なのに、店の中にいた時は気付かなかったのだろう。
「さてさて、君はこの物語の主人公だ。さあ、世界を救ってみたまえよ」
声に振り向くと、ソバエさんが腕を組んで本棚を背に立っていた。足元にさっきまで寝ていた黒猫がいて青い目でこちらを見つめている。その様子が心の奥底から恐ろしかった。
「何だよ、物語の主人公って。訳、分かんねえよ!」
俺は外から目を逸らしてソバエさんに思わずそう怒鳴った。いや、怒鳴ったつもりで、実は声は情けないくらい震えきっていた。
「マジかよ……ウソだろ……こんなの。誰か嘘だって言えよ」
何を言おうと、目の前の光景が真実だった。目の前ですべてが崩れていく。足が震え俺は立っていられなくなった。その場で頽れる。もらったロリポップと買った駄菓子が地面にバラバラと散らばった。
「ああ、でも君は確か空の破片で死にたいのだったかな?」
頭上から声が聞こえた。冷え切った声だ。顔を上げれば、目の前に思った以上の朗らかな笑顔が見えた。
「それなら今すぐここから一歩踏み出せば望みが叶えられる。私は君の望みを止めるつもりはないよ。世界を救うか、空に殺されるか……好きなように選びたまえ」
それか、と言ってソバエさんは地面に落ちたロリポップを拾った。ついた汚れを簡単に手で払って俺に差し出す。
「この甘ったるいロリポップを舐めて、すべてを忘れてしまうという手もあるよ。さあ、どうするかね?」
「あ、」
ソバエさんの言葉はとても甘美に聞こえた。そうか。俺は忘れるということを選ぶことができるのか。
壊れていく外の世界を見てから、ソバエさんの持つロリポップに目を移す。毒々しい三色のそれが、とても美味そうに見える。だから、俺はその甘い匂いに誘われるまま、這うようにソバエさんに近く。そして、その手を取って、その甘さに舌を伸ばした。
※
1時間後
「おいおいおい、またかよ!またなのかよ!!」
古本屋から出た黒猫と女性はその光景を見て、しかし慌ても恐れもしなかった。ただ、黒猫の叫びが辺りに広まった。周囲の地面は大小様々な大きさの青や白の破片が刺さって地中深くまで抉られていた。破片すべてが昼の色、更に言えば、夏空の色をしていた。彼女の古本屋以外の建物はすべて破片によって破壊しつくされているようだった。
「何回やったら気が済むんだ!!いい加減にしろ!また真っ新か!」
「そうだな。またまた何もなくなってしまったな、本当に呆気なく」
「まったくオマエは……。ところで今回、オマエが最後にアイツに食わしたアレは一体何だったんだ?」
「彼に言った通りさ。添加物で固められているが故に甘く、現実から逃避できるが故に陶酔感に浸れる、そして一度でもその甘さを知ったら溺れるだけ。そんなただのロリポップだ」
女性、ソバエは見渡しながらクスクスと笑って、足元で喋る黒猫の言葉に応えた。古本屋の戸口に寄りかかり、空を見上げる。そこには、ただひたすら“何もない光景”が広がっていた。空も雲も太陽も星も月も何もかもそこにはなかった。かつて見上げた先にあったものはすべて、今は地面に落ちてしまっている。
「ヤツにはそこまで言ってなかったろうに。でも、そうか。だから最後、全裸になって失禁しながら意味不明なこと叫んでいたのか。店内の菓子全部食い散らかすし、そもそも目も完全にイってたもんなあ。“冷たい七面鳥”を食うなんてオレならごめん被るところなんだが、人間てのはつくづく分からない生き物だぜ……。まあ、最終的には望みは叶ったから、ある意味ヤツにとってはめでたしってオチか。しかし、見ている分にはえぐい結末だな」
「えぐい結末になったのは私のせいではないよ。彼が自分で望んだことに私はとやかく言うつもりもないし、その資格もないのでね。私は、自分に嘘を吐いていた彼に少しばかり言葉を添えたに過ぎない」
「よくもまあ、いけしゃあしゃあと。オマエも他人の事言えないだろうに」
恨めしげでどこか責めるような口調の猫の視線を受けながら、しかし、ソバエは笑っていた。
「……さてさて、次はどうなることやら」
呟く彼女を“何もない光景”が見下ろしていた。
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