ふこうひつじをしあわせにするほうほう(上)
残り1話宣言したのに、字数の関係で2話分割になってしまいました。
申し訳ありません。そんなわけで次回最終回。もう少しだけ続くんじゃよ。(最終話は明日21:00以降更新予定)
見上げた先には白々しく照る太陽と、馬鹿みたいに青い空があった。僕はTシャツの肩の部分で頬に流れる汗を拭った。青い空には羊に似たようなフワフワとした大きな雲が漂っている。このたとえが正しいのか僕にはあまり自信がなかった。実際の羊はこの雲ほど真っ白ではない、くすんだ汚れが付いている。
ソバエに初めて出会ったあのときのように、僕は仰向けで寂れた裏通りに横になっていた。しかし、あの時のように人気があるわけでもなく、辺りは静まり返っている。
起き上がると足元にオンボロのスピーカーが落ちていた。とても使い物になりそうにない。その傍をネズミがちょこまかと走っていって、それを無意識に目で追う。そして、そのネズミが食らいついたものを見て、僕は驚愕した。体つきがほとんど保てていない、性別も分からない死体だ。ところどころ腐敗しているそれにネズミの他にもハエやら何やらが集っている。しかし、辛うじて原型が残っている顔の表情はどこか笑顔のようにも見えて、背筋が寒くなる。
そして、死体はそれだけではなくそこかしこに転がっていた。僕は自分でも驚くほど冷静になって口と鼻を押さえた。それでも覆えない目が、空気に満ちる刺激に耐えかねて涙を流す。しばし、涙を流すと刺激に目が慣れてきて、涙は出なくなったが、やはり鼻の奥が沁みるように痛い。
生きている人間は見当たらない。辺りの建物も中をいくつか覗いてみたが、その大半が動物の住処になっているか、ホコリやゴミ塗れになっているか、遺体が無造作に転がっているだけだった。しかし、時折明らかに廃墟にはなっていない建物も存在した。あるパチンコ屋は、喧しい音を外まで響かせていたし自動ドアも近くによれば開くようになっていた。道端にあった自動販売機も耳を澄ませばジジジッ……と鈍い音を響かせて中の飲み物を冷やしている。その音に混じって、微かに重低音が耳に入ってきた。それは次第に大きくなってくる。何か乗り物の走行音、エンジン音だ。
どこか近くにここよりは大きな通りがあって、生きている人がいる。音を頼りに周囲を走る。空き缶やらゴミ箱やらを蹴飛ばして、ひたすらに。
電線が切れてどこにも繋がっていない電信柱が今にも倒れそうな角度で傾いていた。建物の側面に這う配水管も途中で途切れて、水たまりをあちこちに作っている。
しばらく視線を巡らせながら走っていると、陽炎の中に歪んだ広そうな通りが目に入った。
やっと道を見つけたと安心したところで、背後からいきなり引き倒された。突然のことに驚きながらも体を捻って状況を確認する。
「きゃっはははははははっははははははっははははは!つっかまえたー!つーかーまーえったー!!!」
目の前に狂ったように笑った女の顔が迫っていた。化粧と香水の香りが濃い。長いウェーブがかかった金髪が揺れる。何より異常なのは、女が何も纏っていないことだった。豊満な胸と腰をこれ以上なくいやらしい所作で僕の体に押し付けながら、女は耳元で喘ぐように言う。
「君、かっわいいいいいい!!!おねーさんと、良いコトしようよおおお?」
「ど、どけよ!やめてくれ!!」
必死に腕を動かして抵抗するも、女はその細腕に似合わないほどの力で体を地面に組み伏せてくる。胸が圧迫されて、吐き気がした。足が蛇のように僕を絡め取る。落ちくぼんだ目で僕を見ながらかさついた赤い唇が弧を描いて首を擦る。
ターンッ……
「……いったいいたいいたいたったいたいいったいいいいい!!!」
空気が破裂するような音が空間を裂いて、女の悲鳴が響いた。
僕は我に返った。女はまた喘ぐように今度は体をくねらせて地面を転げまわった。右足を押さえているが、とめどなく血が出ている。女の顔はその痛みに引きつってはいたが、唇は笑みの形に歪んでいた。
「来い。後ろに乗れ」
背後で聞こえた落ち着いた低い声に、思考する間もなく従った。ここからすぐにでも離れたい気分だった。
ヘルメットを被った男がバイクに跨った体勢で、女に向けて自動式拳銃を構えている。後部に飛び乗るようにして跨ると、車体が振動を強めてそのまま急発進した。
女は何やら喚いていたが、エンジン音に掻き消されて何を言っているかまでは分からなかった。
※
「ありがとう」
「どういたしまして」
バイクの上で僕が男と交わした会話はそれだけだった。あとはひたすら炎天下の大通りを走る。街中の信号機はほとんどが赤のままで、青になる様子はない。ただ、道路を走っているのは僕らだけで、他には自家用車やバスなんかが道端に放置されているだけだ。
景色が通り過ぎていく。顔に当たる風は生暖かく、人肌を思わせた。さっきのような気持ち悪さではなく、懐かしいような悲しいようなそんな感触。
何か話した方が良いのだろうかと男の背中を見る。男はまっすぐ前を見ている。ハンドルを握り、操縦をしている。ただそれだけで、どこか哀愁が漂っている。バイクの種類は何だろうか。薄青色の可愛らしい丸いフォルムの車体で、奇妙なことにバイクミラーがなかった。
しばらく風を堪能していると、発車のときとは裏腹にゆっくりとバイクは停車した。
「降りろ」
男はそれだけ端的に言った。
そこは廃校となった中学校のようだった。壁が煤けたように汚れている。閉まったままの正門脇に駐車して、男はそこを乗り越えていく。僕もそれに続いていく。正直、手汗で滑ってすんなりとはいかなかった。
「アメ兄さん!」
正門で手間取っている間に校舎の中から駆けてくる影があった。少女らしい高いその声の主は肩ほどの黒髪を風に揺らして男に走り寄る。学校の制服のような半袖のブラウスに、赤いチェックのスカートを着ている。ただ、足元は夏らしく洒落たファッションサンダルだ。
「ツユ、大丈夫だったか?」
アメと呼ばれた男は少女ツユにそう訊ねる。
アメとツユ。忘れることのできない名前だ。生まれることのできなかったソバエの子どもの名前。偶然だろうかと一瞬考え、しかし思い直す。今この物語を書いているのはソバエなのだと思い出す。
ツユは自分の兄と僕とを交互に見比べた。僕はまだ正門のよじ登りに成功していなかった。
「私の方は大丈夫。ところでそちらの方は?」
「襲われていたから拾った。話せるから安心しろ」
「そうなんだ。それなら、えっと、どうしよう……そこの方、とりあえず今そこ開けますから一度降りていただけますか?!」
走り寄ってきたツユは右手で自分の髪をそっと梳いてから、正門の内鍵を開けてくれた。その髪を梳く所作が、ひどく印象的だった。門は蝶番が錆びているのか、妙に甲高い音を立てて開く。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ツユは笑顔で答えた。
二人に続いて校舎に入ると、中は意外にも綺麗だった。埃っぽさもなく、窓から差し込む陽光で明るい。下駄箱を素通りして、そのまま土足で上がり込む。視聴覚室やら理科室やらを通りすぎ、たどり着いたのは図書館だった。引き戸を開けると、クーラーがかかっていて、アメとツユのものと思しき荷物が置いてある。ここで生活でもしているのだろうかと思われるほどの量で、それらは読書スペースの机のほとんどを占拠していた。図書館便りなどの掲示物、貸出カードの棚、絵本や図鑑、小説などを多く置いた書架。あの古本屋とはまた違った趣があって、ここはここで居心地の良さを感じる。
「ツユと申します。あっちは兄のアメ。どうせ、アメ兄さん、ろくな説明もしないで貴方を連れて来ただろうから……本当にごめんなさい」
「説明しているような時間はなかったんだ」
貸出カウンターの回転丸椅子にはツユが、読書スペースから持ってきた木椅子2脚をアメと僕が使う。ツユの謝罪にアメは気まずそうに弁解をした。
カウンターには“返却期日は 月 日 ( )です。必ず守りましょう”という札があった。空欄には数字や曜日の札を入れる仕様のようだが、今は何も入っていない。隣にはデジタル時計があったが、こちらも00:00の表示で点滅したままだ。
時計の前にはラジカセが置いてあって、アンテナが立っている。が、流れているのはノイズだけだ。
ツユは荷物の中から白いカーディガンを取り出すとそれを羽織った。
「私たちは、貴方のように“まだ言葉が通じる人間”を助けるために動いています。とは言っても、お恥ずかしい話、貴方がその一人目なのですけれど」
「まだ言葉が通じる人間っていうのはどういうことだ?」
「文字通りの意味です。1時間ほど前から、街中の人が急におかしくなってしまったんです。たぶん、世界中で同じことが起きています」
一見突拍子もないことをツユは言った。アメが続けて補足するように言う。
「さっきアンタを襲った女、あれもおかしくなった奴らのうちの一人だ。どいつも食うか寝るか、そこらで誰彼かまわず交わるかってところだ。まるで動物みたいに。言葉を少し発して知能がある分、動物よりも厄介かもしれないが。しかも、イカれたみたいにみんな笑いまくってる」
「とにかく自分の欲求を満たすのに頭がいっぱいらしくて、言葉が通じないっていう状態なんです」
アメは肩を竦めながら諦め顔で、ツユはカーディガンを引き寄せながら沈痛な面持ちでそれぞれそう言った。
ソバエの願いが頭をよぎる。 誰もが平和で、笑顔でいられる世界。
僕は目を伏せて、カウンターの木目を見た。ツユの声が耳朶を打つ。
「それもそれで問題なのですが、もう一つ困ったことがあって。というかこっちが多分一番の問題で、信じてもらえるかは分からないんですが……」
そうツユは心配そうに前置きをしてこんなことを言った。
「あと1時間で空が落ちてきて、世界が滅びるんです」
突拍子のないことをツユはまた言った。僕は顔を上げた。
「……根拠は?」
「ありません。でも、確実に落ちてきます」
根拠はない。そう言い切った確信めいた口調に僕は思わず身震いした。クーラーが寒かったわけではない。ただ、そこにソバエの自信ありげな口調を思い出したのだ。
そして、かつて自分が書き切った結末になぞらえて、この物語もソバエの手によって結末に向けて進んでいるのを感じたのだ。
「どうしてとか、何故とか、説明出来たら良いんですけれど、そういうものではないんです。そうだと、私とアメ兄さんはただ分かるだけなんです。だから、少しでも、一人でもその落ちてくる空から助けられればと思って、私たちは行動しています。なんというか、学校って安全な印象ありませんか?本当は地下シェルターとかあると安全感は増すんですけれど、そんなものはないので」
困ったように笑う顔に嘘はないことを僕は分かっていた。絶対に空は落ちてくる。そして、絶対に誰も助からない。
「空が落ちてくる現象、俺らは【SF: Sky Falling】って呼んでいる。いちいち空が落ちてくる現象とか言っていたら長ったらしいからな」
アメはラジカセのつまみを弄りながら続ける。相変わらずノイズだらけだ。たまに音が聞こえるが、道路の渋滞情報だとか天気予報だとかの自動音声と思しき音が流れているだけだった。
「バイクで回れる範囲は見てきたが、アンタ以外は助けられそうな人間はいなかった。ツユ、あとはもうここに籠るぞ」
「そんな、本当にもう助けられる人はいないの?」
きつめの目が妹を睨む。
「あんな自分のことにばかり執心している連中まで構っていられない。実際、ここにいたからって」
アメは言葉を切った。その先は言う必要もないことだった。どこにいようが空は落ちてくるし、きっとどこにも逃げられない。
ツユは青ざめた顔で僕を見つめてきた。救いを求めている目だとすぐに分かった。そっくりな目を僕は知っている。まるで鏡を見ているようで苦しくなった。
ツユは目線を逸らしてカーディガンをおもむろに脱いで、椅子の背にかけた。
「外、出てくる」
「学校の敷地からは出るなよ」
「分かってる。ちょっと頭冷やしてくるだけ」
ツユが出て行った後、ノイズだけが場を埋めるように大きくなった気がした。引き攣れるように脇腹が痛む。さっきの全裸の女に襲われたときに打ったのだろうか。
「俺だって救いたいとは思っているんだ」
ラジカセのボタンのカチカチと押しながら、アメは脱力したかのように言った。
「それ以上に、救うのは俺たちの役目なんだって何故か強く思う。これだって根拠がない。ただ、確信的な思いだけがある。【SF】と言い、アンタからしたら馬鹿みたいだろ?」
「いや」
僕でなければきっと“馬鹿みたいなおとぎ話だ”と切り捨てるだろう。アメとツユ、この兄妹に特別な感情など抱かないだろう。でも、そういう根拠のなさを否定することは今の僕にはできなかった。根拠のない感情的な部分というのを僕は知っているし、これがソバエの書いている物語だということも知っている。
僕の返事を聞いたアメは堰を切ったかのように話し始めた。
「よく、人が大量に死にまくる小説とかあるだろ。ああいうの、マジ本当死ぬほど嫌いなんだ。グロいからとかじゃなくて、命とか生死が軽いから。殺しとけば盛り上がるだろとか、フィクションなんだから良いじゃないかって開き直っている奴ほど腹が立つんだ。でも、何か今まさに、それみたいだなって」
「お前、小説とか読むんだな」
「ツユが読むからたまに借りて読んでたんだ」
僕は時々相槌を打ちつつ、しかしほとんど黙って彼が喋るのを聞いていた。聞くしかなかった。
不機嫌そうにアメは続ける。
「ツユは優しい奴だから、こういう時やっぱり全部助けたいって思うんだよ。そんで、やっぱりツユがそう思うなら、俺も兄としては放っておけないって思う。俺はアイツを助けてやりたいし、支えてやりたいと思っている。だけど、アイツだって分かっているんだ、全部救うのは無理だって。だから、それを言ってやるのが俺の役目なんだ。そうやって俺がアイツを守ってやらないといけないんだ。そういう世界なんだ」
ツユが出ていって開けっ放しになっている引き戸を見た。廊下には照明は点いておらず、薄暗い。言い聞かせるような調子でアメは語気を強めた。そして、何かを絞り出すように呟く。
「だから、この世界に神様ってのがいるとしたら、俺はそいつが、」
キーンコーンカーンコーン……
「やっぱり死ぬほど嫌いだよ」
学校のチャイムが大きく鳴るのに混じって、けれどはっきりと、僕はアメの声を聞いた。それは眠っているとき、ふと雨音で目を覚ますようなそんな感覚に似ていた。
「……そうか」
鳴り続けるそれに混じって僕も同じようにそう言った。
「つまんない話して悪かったな。お前には初めてあった気がしないんだ。なあ、お前さ、もしかして、どこかで会わなかったか?」
「気のせいだ」
僕ははっきりとアメの目を見て答えてみせた。アメの目は黒く光っていた。
さっきまで感じていた苦しさがまたぶり返す。さっきまで何ともなかったクーラーの風が寒く感じた。鳥肌が立ち、一気に体の芯まで凍ってしまうような錯覚に見舞われて、頭も痛むようだった。
アメがラジカセを抱えて立ち上がった。ノイズは少し弱まっているようだったが、それでも何の番組が流されているのかまでは分からなかった。何か曲らしきものが聞こえるだけだ。
「良かったら、ツユのところに一緒に行かないか。たぶん、アイツ校庭にいると思う」
「どうして校庭なんかに?」
「空が落ちてくるのを見に行ったんだ。もうそろそろ時間だからな」
※
アメと一緒に校庭に走り出ると、ツユは校庭の真ん中で一人立ちすくんでいた。唇で黒い輪ゴムを咥えて、髪を両手で束ねながら、頭上を見ている。
それに釣られて空を見上げると、そこにはいくつかひびが入っていた。今にも落ちてきそうだった。
「ツユ!」
「んん?……アメ兄さん!」
髪をポニーテールに結ったツユはさっぱりとした顔でこちらに手を振る。涼しげな顔は何だか新鮮だった。元気そうな、そして晴れやかな表情は、太陽にも似ている。夏空の下でそれはとても似合っていた。ひびが入っていなければもっと良かっただろうに。
僕はそんな彼女を見てソバエに会わなければと強い思いに駆られた。会いたいと思った。
「……救う方法なら、ある」
「え?何だって?」
こちらに駆け寄ってくる彼女を見ながら、僕は言った。アメが目を見開いてる。
「黒髪の女主人がやっている古本屋を知らないか?」
二人に問うと、訝しげに首を横に振られた。
「知らないな。ツユはどうだ?お前、よく本屋行くだろ?」
「知らないかな。その女主人さんのお名前はお分かりですか?」
「ソバエ」
彼女の名前をこうして呼ぶ懐かしさに少し泣きそうになる。
「何だか分からないが、いけ好かない名前だな」
「その方に会いに行かれるんですか?」
僕は頷く。ツユは睨み上げるように僕を見ている。敵対心のようなものは感じないけれど、強い何かがその瞳からにじみ出ている。
「どうしても僕は彼女に会いに行かなきゃいけない。他でもない僕が行かなきゃいけない。会いに行ったらこの状況を少しでも変えることができるはずなんだ」
アメやツユのように根拠がない、信じてもらえるはずもない理屈を僕は並べる。
「じゃあ、その方を助けてくださいませんか?」
「ツユ、お前、」
「私からの、お願いです」
想定以上に切羽詰まった声に少し気圧される。兄とそっくりな瞳だ。
夏の暑さが滲むように体に沁みる。以前、願われたことを思い出して、僅かに体が怖れで震える。
ひびが入った空を羊のようにこんもりとした雲がいくつか浮かんでいる。それらをじっくり数えるように目で追ってから僕は応えた。
「分かった」
頭に軽く手を乗せる。髪が乱れないようにポンポンと叩いた。
「じゃ、バイク使えよ」
ジーンズのポケットをまさぐるように鍵を取り出したアメはそんなことを軽い口調で言った。
「でも、」
「さっき話を聞いてもらった礼だ。俺はツユと一緒に【SF】を見ながら世界を救うヒーローさんの活躍に期待させてもらう。終わったら、返しに来い」
妙な言い回しだ。ツユもそう感じたのかクスクスと笑っている。僕も少しだけ笑った。
「あと、これも」
ついでと言った様子で、渡されたのはさっき使っていた銃だ。
「スライド引いてから撃てよ。撃つようなことがないように祈ってるけど。間違っても心中に使ったりするな」
僕は尻ポケットに拳銃を突っ込んだ。そうそう銃を使うようなことはないだろうし、アメの心配は杞憂に終わるだろう。
「あの私たち、どこかで会いませんでしたか?」
“俺はラジオでも聞いてるから、早く行け”とアメは校庭でノイズだらけのラジオを片手に寝転んでしまった。
「貴方のこと、不思議と信じてみたいって思えるんです。それに、貴方だけじゃない。ソバエさんのお名前も何だか懐かしくて、聞いていると胸が痛くなるんです。兄さんもあんな風に言っていたけれど、本当はっ!」
「いや、今日がはじめましてだし、アメもツユもソバエにはきっと会ったことがないよ」
僕は正門まで一人で歩いていったのだが、意外にもツユがその後を追ってきた。そして、僕に尋ねたのだ。アメとソバエと同じ問いに僕は何故か心穏やかに答えることができた。
「そうですか」
彼女の言葉に被せ気味に答えると、そんな風に苦笑交じりの返事が返ってきた。
「はじめまして。そして、さようなら」
そう言う表情はソバエの顔に似ていた。
※
エンジン音が静かな通りに響く。空のひびは大きくなっており、ところどころ、青さが抜けて何もなくなっていた。空が落ち始めているのだ。
結局のところ、ツユたち、アメたちに会って僕は何を思ったかと言えば、この子たちの世界を守りたいとかそんなことではなくて、やはりこの世界はちゃんと終わらせなければならないということだった。つまり、彼らに会っても僕の心中はあまり変化がなかったということになる。人との出会いは何かを変えるなんていうのを、51番目の物語のときにソバエの店で少し読んだ記憶があるけれど、正確には変わることもあるし変わらないこともある。あるいは、変えることもあるし変えられないこともある。それが僕の結論だった。
そんな結論を自分の中で出したところで、結局のところソバエの居場所に関することは何一つ分からないという状況は変わりなかった。
僕は走る。バイクミラーがないので、後ろは自分でたまチラチラ確認するしかなかった。しかし、実際、道路を走っているのはこのバイクだけなのでそこまで頻繁に振り向く必要はないことに途中で気付く。
沿道ではアメの話で出た通り、まさに欲望を満たしている最中の人間たちがたむろしていたが、道路にまで出てくる様子はなかった。そのまま道に沿って進むと交差点に出たが、こちらも同様だった。相変わらず信号機は赤く灯ったまま、どれもこれも止まっていて、時間が静止したのではないかと錯覚しそうになる。
しかし、あくまで錯覚しそうなだけであったのは、そこに動くものがあったからだ。
頭上を見上げれば、さっきまでと比べるとかなり欠けてしまった青い空が見える。僅かに地響きも伝わってきてそう遠くないところに空が落ちているのが分かった。いつの間にやら空気は雨が降りそうなくらい湿っていた。
そして、交差点のど真ん中に蠢く黒い陰が一つ。
「随分と遅かったなあ、カミサマ野郎」
「猫」
「よお、良く眠れたか?」
「……ああ」
僕はバイクから降りてスタンドを立てた。
黒猫がそこにいることに対して驚かなかった。まったく驚かなかったと格好をつけるつもりはない。多少驚きはしたが、ソバエに会いにいこうとすれば黒猫にだって会うだろうということは予想できていたからだ。
「で、カミサマ野郎は何しに来たんだ?」
「作りかけの98番目の物語を終わらせに」
僕の言葉を咀嚼するかのように、猫は青い目を瞑って首を何度か縦に振った。
「うんうん、まあ、そうだろうな。ただ、この物語はお前が書きかけたものと同じであり違う。これはオマエにとって98番目の物語であり、あの神様にとっちゃ、“数えるのも嫌になるほど途方もない数字”番目の物語なのさ」
猫は後ろ脚で首元を掻きながら更に続ける。
「それに、今の言葉には語弊がちょっとばかしあってな。実際、もうちょい面倒なことになっている。あの女、物語なんか作ることはできなかったんだぜ」
「どういうことだ?」
猫がウロウロと交差点の中央を回り始めた。
「はっきり言え。誤魔化すな。時間がないんだ」
こうして猫の話を聞いていると、時折、風が吹く。人肌に似ているように思う。肌に触れるそれが、僕の体にも熱を与えるようだった。
「……まあ、良いぜ。オレには誤魔化す理由もないし、嘘を吐く理由もない。カミサマが望むなら喜んで答えてやろうじゃないか」
どこか馬鹿にしたような雰囲気の台詞に僕は焦燥感に駆られる。
「まず、お前が消えた後の話をしよう。98番目の物語に取り残されたあの女は、お前が書き終えなかった物語を書き終えようとした。しかし、そうすると98番目の物語の登場人物である女自身が終わってしまうということに気付いたのさ」
そして、書き終えられない以上、新しい物語を始めることはできない。
「98番目の物語はオマエによってほとんど書き終わっていて、あとは結末を書き終えるだけというところだった。だから、誰もが平和で、笑顔でいられる世界という彼女の願いを叶える余地なんてほとんどなかったのさ。より正確に言えば、彼女に書けたのはこの物語の最後の約2時間、オマエが書きかけで放置した部分だけだった」
終わっていない98番目の物語は、結果としてソバエの願いの枷となった。ソバエはたった2時間を繰り返したのだ。
「それでも人間は貪欲だからな。道端の連中を見たろ?あの女も同じだ。ずっと自分の願いを叶えようとしていたぜ。最後の2時間だけでも何か変える方法があるんじゃないかって、ずっとずっと2時間あまりの時間を繰り返し書き直し続けた。書いては消して、書いては消してってな。まあ、それらは失敗に終わったわけだがな。そして、彼女にとって79番目の物語のときに……」
2時間というくくりに限界を感じ始めていた彼女は物語を終わらせないで存続させる方法というのを考え始めたそうだ。そして、物語に主人公を作った。世界を救う役目を背負った主人公だ。
でも、それを聞いた瞬間僕はこれも失敗だったのだろうと分かっていた。
物語ごとに終わりの時は異なる。始まりがある以上、終わりを迎えなければならない。だから、物語を書く7日間のうちのかなり最初の段階で僕は終わりの時を決めておくようにしていたのだ。そして、98番目の物語がそれももう既に決まっていた。主人公や他の登場人物がどうしようが、それが変わることはない。
それにしても意外なことが一つあった。
「ちゃんと物語を数えていたんだな、猫。お前がそこまで律儀とは思わなかった」
「まあ、あの女は数えていなかったようだから、こっそりとな。あの女は数に関しちゃ無頓着だったぜ。自分の願いを遂行することばかりを目指していた。しばらくはその主人公作戦を進めていたな。……一応、期待はしていたんだが」
「期待?」
「あの女がオマエにはない何かをしでかしてくれるっていう期待さ。本人には言わなかったけどな。だから、あの女がすべてを真っ新にするたびに、その分がっかりしていたんだ」
その期待も長くは続かず、546番目の物語を執筆し終えた頃には、その期待は諦めと惰性に変わっていたらしかった。そして、それはソバエも同じだったらしい。
「ヤツが作る物語を馬鹿にしてやったんだ。そしたら、あの女、笑いやがったんだぜ。きっとオレが言わなくても気付いていたんだろうな」
「何に?」
「自分の書く物語が茶番だってことをさ」
結局のところ、僕が98番目の物語を書き終えない限り、彼女は自分の願いを叶えることはほぼ不可能ということだ。それまで、彼女ができたことというのは物語を書き続けて存続させることだけだったということになる。それも最後の2時間ほどを結末の手前まで書いて、書き直しての繰り返しだ。茶番と言うのは言い得て妙だった。
しかし、その一方で僕が98番目の物語を書き終えてしまえば、彼女は願いを叶えることなく98番目の登場人物として結末を迎えることになる。
僕たちは愚かにも気付かなかったのだ。胃袋のそこに冷えた塊が落ちてきて、それに飲みこまれそうな心地がした。それを払う様に僕は黒猫に言う。
「つまり、ソバエはどうやっても願いを叶えることはできない。だから、物語をいくら書こうが、それは願いを叶えるためではなく物語を存在しつづけるためだけの茶番に過ぎないということだな」
「そういうことだ。ったく、気付くのが遅いくらいだぜ。でも、あの女もしばらくそれに気づかなかった。気付いたのは964128番目を終えた辺りからじゃないかねえ?そこからアイツが書く物語も、アイツ自身もおかしくなったから」
「……」
どんな風に?と訊こうとして、やはり止めにした。物語のおかしさはもう十分自分の目で確かめた。ソバエ自身のことも、これから自分で見れば良い。直視すれば良い。
「さて、今一度問うとしようか、カミサマ」
黒い猫は僕を青い瞳で見上げる。
「オマエは何しに来たんだ?」
「作りかけの98番目の物語を終わらせに」
どんな話を聞こうが、僕のすることは変わらない。
僕は作りかけて投げ出してしまった。そのせいで、彼女をも苦しめた。しかし、責任を取るなどという無責任な言葉を使おうとは思わない。僕は物語を投げてしまった責任を取りに来たわけではなく、ただ、終わらせたいというだけなのだ。つまりは、身勝手に自己満足で終わらせにきた。逃げるにしても、終わらせるにしても独善的に僕は行動をする。
ツユの願いはあれど、それを理由にはしない。それではかつてソバエの願いを口実に逃げたのと同じになってしまう。
だから、僕は笑って猫の問いに答えたのだ。
「なるほど、上々」
猫もゆっくりと頷いた。
それが合図だったかのように一陣の風が交差点を駆け抜けた。辺りの塵や埃が舞い、目に入る。あまりの風の強さに僕はよろめいて、目を閉じて、腕で覆った。
しかし、それも一瞬のことでやがて風は収まった。代わりにポツリポツリと腕に水滴が落ちてくる。見上げると、いつの間にか灰色になっていた空から雨が降り出していた。まだ頭上に残っている空の欠片から雫が落ちる。髪の毛から滴る露が顔に落ちてそのまま流れていく。
カラン、カラン……
いつの間にか、辺りの景色はさっきまで猫と話していた交差点から、どこか趣のある小道へと変わっていて、僕は目を見開いた。目の前の木製の建物、開いたままのドアに付いたベルが雨に打たれて鳴る。
見紛うことはない。ソバエの古本屋だ。脇に、アメから借りたバイクが止まっていた。
「何かしたのか、猫」
「そう驚くことじゃあないだろ?迷っている奴を猫が道案内をする。よくある話だ」
傍らで猫が得意げに鼻を鳴らした。黒い毛に雨露が付いてキラキラ光っている。それを水飛ばすように身を震わせた。
冷たい雨は気持ちよく、いつまでも浴びていたいようなそんな心地がした。しかし、僕は顔に付いた水滴を袖で拭う。
「中に入ろう、猫」
※
第11部分あとがき→http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/187605/blogkey/979070/