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鯉の話

作者: 森屋志子

 冬の陽光は、妙に攻撃的だ。

 夏のそれとは違って刺々しく放射してくる割りに、地表を暖める気などちっともなさそうで、赤木香子は二十余年生きてきたが一向にこの季節は好きになれない。

 お前達のことなど知らぬ、と取り澄ましてそっぽを向かれている気分だ。他の季節の太陽とは別の惑星なのではないかといつも思う。

 未だ空気を暖める気配のない白い太陽に、土間に座る彼女はため息をついた。コートを着込み、マフラーをぐるぐると首に回している。床には、もう読む気のなくなった文庫本が伏せられていた。

 香子は目線をあげ、靴箱の上に置かれた水槽に目をやった。庭から引かれたホースが水槽に差し入れられている。それを外れないように支えるのが香子の仕事だった。こぽこぽと、静かに水が落ちる音がする。水量はやっと元の三分の一。中では、衣のように薄い、向こう側が透けて見えそうな大きな尾をした金魚が三匹ゆらゆらと泳いでいる。リュウキンという種類だ。

「おーい、まだか?」

 庭から、父の声が聞こえる。まだ、と香子も声を張り上げた。足元で寝ていた犬のケリーが、うるさそうに目だけで香子を見る。ごめん、と香子が頭を撫でると、ケリーはまた目を閉じた。

 金魚の前は鯉だったな、とぼんやり水泡を眺めながら香子は思い出していた。白色の尾が、ゆっくりと目の端をかすめていった。




 数年前、まだ香子が高校生であった頃、父である義美が鯉を集め出したのも今と同じように暖かくもなんともない冬のある日のことだった。香子が高校から帰ってくると、玄関先に、小学生の弟が両手を広げた程の大きさの水槽がでんと置かれてあった。なんだろうと思っていると、仕事から帰ってきた父が水袋を持ち帰ってきた。中から出てきたのは、白磁とも白銀ともつかない色の鯉だった。鱗が蛍光灯でチカリと光った。義美は仕事から帰ってくるとしばらく水槽の前から動かなくなった。寝室に向かうときにも、必ず鯉を見に行く。急にどうしたの、と香子が母の彰子に訊ねて見ても、彰子も困ったように首を捻っただけだった。

 水槽に鯉が増えたのは、それから一週間もしない頃だった。

 次にやってきたのは朱色の鯉だった。最初にやってきた白い鯉よりも小さかった。義美が水槽の前から動かなくなる時間が増えた。

 鯉が増えるペースは、朱色の鯉以降は二週間に一回程度になった。最終的に水槽の中には、橙色、白と赤と黒のまだら、金色に近い黄色、そして最初の白と朱色の五匹になった。義美はその間にも、鯉に傾倒していった。どういった模様や色や形をしているものが高値で取引されるものなのかというのも、香子や彰子は講義されたのだが、さっぱり頭に残っていない。弟の操は父の道楽にさほど興味もない上に、付き合ってられないとばかりに講義を逃げ回っている。そんなのは香子だって同じことだった。

 なんで今更鯉なの、と香子が眉間に皺を寄せながら訊ねると、義美はことばを曖昧に濁した。

 赤木家の庭には、池があった。家のすぐ側を流れる川から水を引いてきている。その池には、義美が鯉を買ってくるずっと以前から、水槽の鯉よりも大きな鯉が泳いでいた。

「あれは、おじさんが釣ってきただろう」

「でも、おじさんが亡くなってもう何年になってると思うの?」

 向かいの家のおじさんが趣味で釣ってきた鯉を、池がある赤木家に持ってきていた。けれどそれは香子が小学校に上がった頃の話で、おじさんが亡くなってから十年近くも、義美は鯉に関心を示したことはなかった。

「まぁ、いいじゃないの。お父さんの趣味なんだから」

 彰子は特に不思議にも思っていないようだった。酒もギャンブルもやらない夫の唯一の趣味に口を出す気はなさそうだった。

 彼女はそれでいいのかもしれないが、香子はそうはいかなかった。

 水槽の水は定期的に入れ替える。水槽にカルキの混ざった水道水をいれるわけにも行かず、庭の井戸水を使っていた。

 義美がひとりでその作業ができるわけもなく、手伝わされているのはもっぱら香子だった。操は相変わらず逃げ足が速く、一度だって手伝ったことはない。

 香子はこの作業が嫌いだった。季節は冬で水は冷たく、鯉がはねた水は魚臭かった。ホースをずっと押さえていなければならず、身動きも取れない。ホースを入れるために扉を開け放した玄関は北風がびゅうびゅうと吹き込んできた。

 水が溜まっていくのをただ眺めているのは、香子には苦痛でしかなかった。

 鯉は習性通りよく跳ねた。水槽だろうがなんだろうが関係ない。魚だから跳ねる。ただそれだけのこと。

 けれど水槽は池や川とは違い、ガラス蓋がはめてある。当然鯉はガラスにぶつかり、叩きつけられるように水に落ちた。鱗が傷つく鯉もいた。最初にいなくなった鯉は、まだらの鯉だった。香子が浮いている鯉は見たことがない。彰子ももちろん操も見たことがないという。きっと、天井に腹を向ける鯉を見るのは、義美だけの業なのだろう。

 ぽしゃん、と庭から水を跳ねた音がした。池の鯉たちは月夜によく跳ねたが、昼間に跳ねる音を聞いたのは久々だった。

「おーい、まだか?」




 はっとして香子が顔を上げると、金魚の水槽にはほとんど水が溜まっていた。もうすぐ、目盛りに水面が到達する。

「もういいよ、止めて!」

 声を張り上げて少しすると、手の中でホースが浮き上がる。香子は水が飛び散らないように用心しながら水槽からホースを抜いた。その拍子に、彼女にはかからなかったものの、ケリーに飛び散った。ケリーは驚いたように跳ね起きると、そのまま走っていってしまった。

 きっちりとガラス蓋で閉じられた水槽の中、金魚が泳いでいる。

 一向に暖かくはならないが、最低限の仕事と言わんばかりに照らすだけの太陽の光が水の中いくつも走り、影を作っている。その中を呑気そうに泳ぐ金魚に、香子はいつの間にかいなくなってしまった数匹の鯉のことを思い出していた。

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