第6章
初めての叫び
迫り来る、人間の姿をした魑魅の集団。そして、巨大な鬼蜘蛛。
それに取り囲まれた状態の中で、彩香に助られた吉井は、背広の内側から拳銃を抜いた。
「わたしは、警察官としての、本分を尽くします」
そう言った吉井は、振り向くと、蓑虫のように人々をぶら下げている、ロープのような白い糸に向けて、引金を引いた。
乾いた発射音は、一時の静寂を、不気味な光景の冥界にもたらした。だが、銃弾は鬼蜘蛛のロープのような糸を断ち切るどころか、傷一つ付けることはできなかった。
「無駄です。その糸は、鬼蜘蛛自身を倒さない限り、解けません‥‥‥」
彩香は、自分の言葉に京子が逆上したのを知った。
「そもそも、ここは私達の世界じゃないんだから!あなたが警官である必要もないのよ!!だいたい、普段だって、悪徳警官がはびこっているんだから、アンタがこんなところで、職業意識を目覚めさせることはないじゃない!?」
後ろから襲いかかる人間モドキを、彩香を抱えたまま、器用に避けると、京子は正確にその背中にくっついている蜘蛛を、蹴り出した。
「それに、早くしないと、もう時間がないのよ!」
そう言って、京子は血のような色の空を指差した。
中空にかかっていた黒い太陽は、既に天頂に登りつめ、しかも三日月だったような形は、ほぼ完全な半円になっていた。
「あれが、まん丸になったら!私達は、二度とここから出ることは出来ないのよ!知っているの!?」
さすがに、この京子の言葉には、吉井も青ざめ、蓑虫となってぶら下がっている人々も、口をつぐんだ。
その間にも、人間モドキ達は刻々とその人数を増し、しかもその背後から、巨大な鬼蜘蛛がゆっくりと迫って来ていた。
「だったら、なおさら早くお逃げなさい!」
「私達が、何しにここまで来たとおもっているのよ!このわからずや!!」
吉井と京子の叫びと、銃声が交錯し、何人かの人間モドキが倒れ、それに付いていた蜘蛛に銃弾が貫通していた。
「好きなのよ!アンタが、他の誰よりも、アンタを助けたいのよ!!」
それは、どさくさに紛れた、柳京子一世一代の告白だった。言った瞬間、京子の頬が熱を帯びるのを、彩香はその肌で感じていた。
彩香は、この状況にも関わらず、京子に対して、もっと場所を選ぶべきだと、つまらないことを考えていた。
その時、彩香は背後に気配を感じて、思わず京子の手を振り解いた。京子にしても、やはり、この瞬間には、状況を忘れていたのかも知れなかった。
人間モドキの吐いた蜘蛛の糸が、再び彩香の体を包んだ。
「彩香!」
「荒神さん!」
吉井と京子が、同時に彩香に糸を吐いた蜘蛛を蹴散らし、彩香のもとに駆け付けたが、もはや彩香の体から糸を取り除くことはできなかった。
勢い付いた人間モドキが、次々に三人に襲いかかって来た。京子の手足が、正確にそれに取り付いた蜘蛛を蹴散らし、吉井の銃弾も蜘蛛を貫いた。
しかし、いかんせん、数が多過ぎた。
まず、吉井の拳銃が、空しい音をたてた。
「いかん、弾が切れた」
「予備は?」
「あるわけない」
「どーすんのよ!?」
体を固定された彩香を背中にかばいながら、吉井と京子はジリジリと後ろに下がった。
それは同時に、吊り下げれている人達の足元に近付くことでもあった。
「京子さん‥‥‥」
「なによ!この忙しい時に!?」
襲いかかる人間モドキを打ち払いつつ、ためらいながらも、吉井は京子に呼びかけた。
京子は、煩わし気に振り返っていた。
「その、ありがとう‥‥‥実は、僕も‥‥‥」
「聞きたくないわ!」
京子は、吉井の告白を遮った。
冗談じゃない、こんな情緒もへったくれもない、どさくさ紛れに何か言われてたまるものか!京子は、自分がしたことは棚に上げて、真面目に怒っていた。
「えッ!?」
「続きは、生きて、帰ってからにしてちょうだい!」
「京子‥‥‥さん」
吉井は、何か口の中で呟いたが、それが京子の耳に届くことはなかった。
そんな二人の、滑稽だが、真剣なやり取りを聞きながら、彩香は、生まれて初めての屈辱感と、無力感を、同時に味わっていた。
人に守られるだけで、何もできない!それは、彼女に有り得べからざる状況だった。彩香は、その薄い唇を、血が出るまで噛みしめていた。
そんな彩香に、シャリシャリという音をたてながら、大きな建物のほどもある鬼蜘蛛が、長い足を振り立てた。
『彩香?そうか、おまえは彩香か‥‥‥まァいい、いかにお前であっても、我が獲物を盗むことは許さぬ!このまま、出られると思うな‥‥‥』
確かに、その巨大な蜘蛛は、不気味に三つの目を光らせながら、京子や吉井にも聞こえるように、気味の悪い低い声で語りかけた。
京子と吉井は驚いて、お互いに顔を見合わせ、同時に彩香を振り返った。その彩香は、思わず自分の薄い唇を噛み切っていた。
『彩香、彩香‥‥‥』
彼女の心の隅で、誰かの呼びかける声がした。その声は、先ほどの鬼蜘蛛とはまるで違う、微かな、しかし優しい声だった。
慌てて周囲を見回した彩香には、襲いかかる魑魅達に立ち向かう、京子と吉井の姿しかなかった。
拳銃の弾を撃ち尽くした吉井は、拳銃を拳に変えて、暴れ回っていた。彼は、かつて京子に一撃で伸されたことがあり、それ以来、暇を見つけてはジムに通って、腕を磨いていたのだった。
『彩香、助けを求めなさい‥‥‥あなたには、助けを求められる相手がいないのですか?彩香、自分一人ではないのでしょう?助けを、お求めなさい‥‥‥』
心の隅で、確かに彩香はその声を聞いた。だが、その声が京子達に届いた様子はなかった。
考えてみれば、彩香は物心ついてから今日まで、誰かに助けを求めたことはなかった。その必要もなかったし、そうしたいと思ったこともなかったのだ。
「くそッ、後から後から‥‥‥何か、得物はないの?」
「確かに、警棒でも欲しいですね」
明らかに、京子達は追いつめられて来た。
京子は、手足が次第に重くなり、反応が鈍くなることを、どうすることも出来なかった。そして、それは吉井も同じだった。
「得物‥‥‥刀、剣、何でもいい、武器が欲しい!彩香、何とかならない!?」
苦し紛れの京子の一言が、身動きの出来ない彩香の心を激しく揺さぶった。
「誰か!助けて!!」
彩香の生まれて初めての、悲痛な叫びは、冥界を突き抜け、幽玄界に響き渡った。
絵画の中の彩香
その頃、高野透は新しい絵に取り組んでいた。
それは、真夜中を過ぎてから、自分の姉である京子の母が、京子がまだ帰って来ないという電話をして来たからだった。
透は姉に、彩香と一緒だから、心配ないと告げた。それに対して姉は、いやそれだから不安だとか何とか、心配とも愚痴ともつかないことを口にした。そんな姉に、透は警察の仕事の手伝いだから心配ないと、何とか宥めて電話を切った。
だが、そのせいか、妙に寝つけなかった。そこで、以前から取り組んでいた、新しいテーマの作品に手を加え始めたのだった。ところが、どうも思いもかけない方向に、レイアウトや配色が変わって来てしまって、透自身、困惑していた。
「あれまァ、ずいぶん暗くなっちゃって、これじゃお嬢様らしくありませんねェー」
夜食を持って来てくれたフキは、そんな遠慮会釈のない批評を口にして、さらに透を落ち込ませた。
「やっぱり、彩香だとわかる?」
それは、窓辺に座る少女をモチーフにしており、モデルはやはり彩香だった。
ただ、本来は清楚でしとやかなデザインであったものが、今は毒々しい、何か不安を掻き立てるようなデザインに変わっていた。
しかも、その少女の表情までも、およそ彩香のイメージからは外れた、頼りない、弱々しい風情に変わっていた。透は、いっそのこと止めにしようか、どうしようか、夜食のオニギリに手を延ばしながら、悩んでいた。
『誰か!助けて!!』
何か、彩香の声が聞こえたような気がして、透は振り向いた。
「フキさん、今、彩香の声がしなかった?」
「いえ、別に?」
フキはそう言って、立ち上がりかけた。
そして、もう一度何気なく、描きかけの画布を見直した時、フキの手から盆が離れた。
「お嬢様!?」
フキの声と同時、音を立てて盆が床に落ちた。
老女の、驚愕した表情に促されて、透も画布に視線を戻した。
明らかに、先ほどまで横を向いていた、絵の中の彩香の顔が、今は正面を向いていた。フキは、その顔が動く瞬間を目撃したのだった。
「なんだ、彩香。どうしたんだ、そんなところで?」
透には、画布の中の彩香が、単なる絵ではなく生きて、語りかけていることが、容易に理解できた。
「先生、どうして‥‥‥ここは、先生の絵なの!?」
必死に助けを求めた彩香は、目の前に絵筆とオニギリを持って、驚いたようにこちらを見る透に気が付いた。
絵を通じて、二人にはお互いの姿が見え、言葉も聞こえたのだった。
とっさに、彩香にある考えが閃いた。
「先生、急いで、剣を!刀を描いてちょうだい!!早く!」
絵の中の彩香にそう言われて、透は面喰らった。
「おいおい、剣て、映画に出て来るあれか?」
「そうよ、何でもいいから、早くして!京子さんが危ないの!!」
「わかった、ちょっと待て。フキさん、彩香の部屋から、歴史の教科書を取って来て下さい」
透は、傍らのフキを振り返ると、そう言った。
今度は、フキが唖然とする番だった。
「歴史の、教科書で、ございますか?」
「私は、そういうのは、手本がないと描けないんです。なんだか、彩香が急いでまして‥‥‥」
彩香が急いでいるという言葉は、フキには最も効果的だった。老女は、何も言わずにアトリエを飛び出すと、一分と経たずに、日本史と世界史の教科書を抱えて戻って来た。
その間に、透は新しい絵の具を、パレットの上に押し出した。
「ええと、こんなものでいいか?」
日本史の教科書のカラー・ページを開いた透は、そこを絵の中の彩香に見せたが、彩香はそんなもの見てはいなかった。
それは、古墳から発見されたという、今はどこかの博物館に展示してあるはずの、宝剣の一つだった。
「何でもいいから、先生、早く!」
「そう急かすな‥‥‥」
そう言いながら、透は教科書を膝の上に乗せると、画布の中の彩香の手元に、筆を運んだ。
「彩香、何とか、何とかならない!?」
「もう、限界です!」
疲労というより、圧倒的な相手の数の圧力に、京子も吉井も、もうどうにもならなくなって来ていた。
二人が、人間モドキの吐き出す糸に捕まるのは、時間の問題だった。
その時、糸に縛られて動かない彩香の手元に、明るく輝くものが現われた。
「京子さん!剣ですわ!!」
彩香の声に振り向いた京子は、彩香の手元に光り輝く古代の宝剣を見つけた。
「ありがたい!」
なぜ、そんなものが、などと考える余裕は、今の京子には皆無だった。
飛びつくようにその剣の柄を掴むと、周囲の人間モドキを、一撃で薙払った。
「使える!」
次の瞬間、一閃した剣は、彩香を閉じこめていた糸を切り払った。
そして再び、京子が剣を構え直すと、彼女達を取り巻く人間モドキ達は、思わず後ろへ下がった。
『なんだ、その力は?まさか、盧沙那様!?』
低い鬼蜘蛛の声に、狼狽が走った。
「時間がないわ!京子さん、一気にケリをつけるわ!!私に剣を!」
そう言った彩香は、意外な顔をする京子に、微笑んで見せた。すると、別に彩香の心の声が聞こえたわけでもなかったが、京子には彩香の意図が理解できた。
頷いた京子は、彩香に剣を渡す時、同じように微笑んだ。
「一撃で、決めないとね!?」
「ええ、そう。一撃で、ですわ」
彩香は、巨大な蜘蛛を振り返った。
『もう、遅い!』
鬼蜘蛛は、その長い足を伸ばして、彩香に襲いかかった。
彩香は、その鬼蜘蛛の正面に飛び込んだ。
「危ない!無茶だ!!」
そう叫んだのは吉井だったが、既に彩香を止めることは出来なかった。
だが、その吉井の脇を、すり抜けるようにして飛び出した京子が叫んだ。
「これでいいのよ!」
彩香の体に、蜘蛛の前足が触れる直前、彩香は剣を宙に向かって放り投げた。
と、同時に、急ブレーキをかけて、伸びる蜘蛛の足を避けた彩香の肩を踏台にして、京子が更に高く飛び上がった。
前へ伸ばされた蜘蛛の足は、すべて京子の足元、はるか下を通り過ぎた。
「京子さん!鬼蜘蛛さんの急所は、目です!!」
「まかせろ!」
蜘蛛の数多い足をもってしても、全体重をかけて落下して来る京子を、止めることは出来なかった。
閃光が走り、雷鳴に似た音が轟いた。
鬼蜘蛛の頭、三つの目の中央に、京子が深々と剣を突き立てていた。
『盧沙那様、ずるい‥‥‥いくら、娘だからって‥‥‥』
いく筋もの煙が、巨大な蜘蛛の全身から立ち昇り、慌てて剣を引き抜いた京子は、そんな鬼蜘蛛の呻き声に、首をかしげた。
「何て言ってんだ、あれ?」
「そんなことより、京子さん!早くしないと、太陽が!!」
明らかに彩香の誤魔化しだったが、実際に天の黒い太陽は、まん丸くなり、心無しか閉じた瞼のように、見えなくもなかった。
確かに京子には、蜘蛛の言葉などに、気を止めている余裕はなかった。
煙を吐き出し続けた蜘蛛は、次第に小さくなって行き、ついには人間モドキを操っていた子蜘蛛と、大差のない大きさになってしまった。
それと同時に、人間を捕らえていた糸も消え、宙吊りにされていた人々も、次々とその姿を現わして行った。
やがて、その数が十や二十でないことが、ハッキリとして来ると同時に、その服装も人種もまちまちであることがわかった。
「先生、お願い!たくさんの人が乗れる、乗り物を描いてちょうだい!!」
大急ぎで、描きつけないものを描かされて、疲れ切っていた透は、再び絵の中の彩香にそう言われて、ヨロヨロと身を起こした。
「たくさんの人が乗れるって、バスとか、飛行機とかか?」
「ともかく、大勢の人を乗せるの、それも早く!」
「ハイハイ、まったく、先生使いの荒い生徒だ‥‥‥」
そう言いながら、今度は世界史の教科書をめくった透は、コロンブスの航海で使われた、サンタ・マリア号の図版を見つけた。
「これなら、結構乗れるだろう‥‥‥」
今度は彩香に見せようともせずに、透は描き始めた。
冥界は、夜明け前の胎動に、揺れ始めていた。不気味な地鳴りと、激しい風が、蜘蛛の糸から助かった人々と、京子達を翻弄していた。
「先生!急いで!!」
その彩香の声に急かされるように、彼女達の前に、帆船の船首部分が現われた。
「みんな、あれに乗るのよ!急いで!!」
まだ、全体が現われていないにも関わらず、京子は叫んだ。もはや、時間はなかった。
彩香も反対するどころか、つられるようにして船の甲板に上がった。
「彩香、帰る方法はあるんでしょうね!?」
「少々乱暴な方法ですけど、この際、仕方がないですわ。京子さん、その剣を貸して下さい」
吉井が、捕まっていた人達全員が乗ったことを確認した。
彩香は、京子から受け取った剣を、天にかざした。
「剣よ!三界を突き抜け、我らのあるべき場所、あるべき世界への道を示せ!!」
そう叫んだ彩香は、剣を黒い太陽めがけて、思いっきり投げつけた。
剣が、一筋の光となって、黒い太陽に向かって突き進むと、もの凄い風が巻き起こった。帆船の帆がその風を一杯にはらむと、前半分しかない船は、静かに宙に浮かび上がった。
「みなさん!伏せてーッ!!」
そう叫んだ吉井は、思わず京子の体を自分の体でかばうように、その肩を抱いて甲板に押し倒した。
「彩香は!?」
押し倒されながら、京子は自分の前の、舳先に立つ彩香の姿を捜した。
彩香は、前方に大きく広がる太陽に向かって、両手を広げて立っていた。
「彩香!無茶するな!!」
京子が、叫んだ。
その瞬間、黒い太陽が白色にきらめいたかと思うと、目を開けていられない光と、轟音が帆船を激しく揺るがした。
消え行く帆船
女学館の校庭で、木崎部長刑事はやきもきしながら、腕時計と目の前の蔵の扉を、交互に見ていた。
既に東の空は、徐々に明るくなり、ヒンヤリとした空気が、夜明けの近いことを教えた。
校庭脇の木陰に止められたパトカーの中で、木崎は何十本目かのタバコに火をつけた。
「部長。いったい、我々は、何を待っているのでありますか!?」
パトカーのドアの外に立つ、若い制服警官の一人が、窓からを木崎を覗き込むように、不審の顔で尋ねた。
彼らは木崎の要請で、発見された行方不明の女子高生を保護すると同時に、この学校の土蔵を中心に、校庭全体を監視していたのだった。
「わからん!」
苦々しい口調で、木崎は言い捨てた。教えて欲しいのは、こちらだという言葉を、彼は辛うじて飲み込んだのだった。
若い警官はそんな上司の様子に、それ以上の質問を控えると、自分の背後の仲間に肩をすくめて見せた。
深夜からの監視に疲れた、そんな警官の一人が、思わず大きなアクビをした。だが、大きく開いた彼の口は、そのまま硬直した。
目と口を、大きく開いたままの、間の抜けた顔で土蔵の扉を見つめていた彼は、ようやく唾を飲み込むと、かすれた声で木崎を呼んだ。
「部長!木崎部長!みッ、見て下さい!!」
「どうした!」
一斉に、警官達に緊張が走り、土蔵の扉の前に木崎が走り出た。
彩香が結界を敷いたため、警察官も中に入らない立入禁止のロープの奥で、土蔵の扉が陽炎のように揺らめき始めた。
土蔵の建物全体は、明け切らぬ薄暗い空を背景に、いつもと同じように微動だにしていなかった。変化はその古びた、鉄製の扉だけに起こっていた。
「いかん、下がれ!」
異変に気付いた警官達が、バラバラと前へ出るのを、木崎が制止した。
警官達が、木崎の指示に従って、数歩下がった時、蔵の扉から白色の閃光がほとばしり、彼らの目を焼いた。
「伏せろーッ!」
木崎の声と同時に、警官達はグラウンドの乾いた地面に、自分の身を投げ出した。多くの警官は、何か爆発が起こったのではないかと思った。
光り輝く扉の中から、大昔の帆船の船首が現われたのに、最初に気が付いたのは木崎だった。
「なんだ、ありゃ‥‥‥」
大きな帆船は、その前半分を、光の中からスルスルと校庭に滑り出して行った。
やがて、爆発的な閃光が収まり、妖しい光沢にきらめく帆船は、夜明け前の校庭に、その前半分を、完全にさらけ出した。
何人かの警官は、その船の中央部分から後ろ半分が、霞んだようになって、消えていることに気が付いた。さらに、わずかながら、その船首にスペイン語で書かれた船名を、読み取る者もいた。
「サンタ・マリア‥‥‥!?」
だが、その発見も、甲板から身を踊らせた人影によって、いとも簡単に打ち消された。
「柳君!?」
船から飛び降りた人影が、京子であることを確認したのも、やはり木崎だった。
「君はどうして‥‥‥いや、そんなことより、荒神君は?吉井は?」
木崎の性急な質問に、ニッコリと微笑んた京子は、船の上の甲板を指差した。
「部長!」
甲板から縄梯子を投げ降ろした吉井は、そう叫ぶと、大きく両手を振って見せた。
木崎が部下の姿に、思わず声を詰まらせたていた頃、船の両側から、縄梯子やロープを使って、続々と人々が降り始め、警官達が慌てた。
「なんだか、その、よくわからないが、何はともあれ、君らが無事で良かった‥‥‥で、荒神君は?」
一抹の不安を感じて、木崎は京子に尋ねた。
「私なら、ここにおります」
いつの間にか、彩香は木崎の背後に、ちゃっかり立っていた。冥界を脱出した時点で、彼女の力は、完全に回復していたのだった。
振り返った木崎は、夜明けの光に、長い髪を自分の手で透かす彩香の姿に、不覚にも息を飲んだ。
彩香は、その時の自分の微笑みが、この大抵のことには動じないベテラン刑事に、神々しさすら感じさせたことを知った。
「だいたい、こいつは、殺したって、死ぬような玉じゃありませんよ!」
そんな京子の言葉が、彩香に普段の表情を取り戻させた。
「京子さんたら、ひどいおっしゃりようね。そんなに、私がお嫌いなのかしら?」
「ああ、大嫌いだね!アンタに比べれば、大蜘蛛の方が、どれだけましかわかりゃしない!」
「まァ!」
そう言って、顔を見合わせると、二人はどちらからともなく、明るい笑い声を上げた。
木崎はそんな二人の様子に、どこにでもいる女子高生の不可解さを感じていた。同時に自分が、なぜかホッと胸を撫で降ろしていることに気付いて、やや意外な気がしていた。
「おい、船が浮かぶぞ!」
「まだ、人がいるじゃないか!?」
警官達のざわめき、京子達も振り返った。
大きな帆船は、再び帆に風をはらみ、ゆっくりと地面から浮き上がり始めた。
「大丈夫です!ここで、降りるべき人は、全員下船しました。あれは、他の国や土地の人達です!」
そう木崎に報告したのは、かなり背広をボロボロにした吉井だった。彼は、ニッコリ笑うと、キザな敬礼を忘れなかった。
そんな吉井を、朝の光の中で、京子が眩し気に見つめていた。
「船はこれから、地球の夜の部分を追いかけて、一周します。それで、すべての人が、あるべき場所に戻れるはずです‥‥‥」
そう彩香は言うと、地面から離れる船を追うように二・三歩前へ進んだ。
「すべてのものを、あるべき場所に、あるべき姿で!」
彩香が、口の中で呟いたその呪文を耳にすることが出来たのは、恐らく京子唯一人だっただろう。
まだ、微かな星の瞬きの残る西の空に向かって、帆船はグングンと昇って行った。
船から降りた人々は、感謝と別れの言葉を口にし、手を振る人も少なくなかった。だが、居合わせた警官達は、ただ唖然と見送るばかりだった。
やがて、明るくなった空の向こうに、前半分だけの帆船の姿は消えて行った。