第5章
戌神
どのくらい歩いたのか、京子には見当もつかなかったが、思ったより時間はかからなかったような気がした。その証拠に、彼女はずっと歩いて来たのに、ほとんど疲労を感じてはいなかった。
だが、ほとんど垂直に近い、山と言うより壁を前にして、いかに体力に自信がある京子と言えど、後込みした。
「無理よ、こんなの登れるわけないわ!」
コンクリートか石膏の壁のような山肌に触れると、京子はやはり首を振った。表面が滑らかで、手がかりや、足掛りになる突起や窪みは、どこにも見あたらなかった。
「別に、そんなものはいらないでしょう?」
京子の嘆きを、彩香は軽く受け流した。そして、片足をヒョイと白い壁に乗せると、そのまま垂直な壁に両足で立ち上がった。
「な‥‥‥何、これ!」
京子の驚愕も、もっともだった。何しろ、彩香は京子からみると、水平に立っていたのだ。
彩香は、明らかにそんな京子の表情を、楽しんでいた。
「何でもありませんわ。こちらが、地面だと思って、立ってごらんなさい」
「要するに、アタシ達の世界の物理法則は、とことん無視されているわけね!」
恐る恐る彩香の横に立った京子は、何とも奇妙な垂直の視界に戸惑いながら、この世界に対する偏見に満ちた嫌悪感を、あらわにした。
そんな京子の言葉には、答えないで彩香は先を急いだ。
「ともかく、この世界が夜になる前に、吉井さんを見つけ出さないと‥‥‥」
「この世界が夜になると、どうなるんだ?」
「絶対零度の冷気が吹き荒れ、すべてのモノが凍てつきます。命あるものも、そうでないものも‥‥‥」
「まるで、月か金星だな‥‥‥」
「あら、月の夜の方が、まだましでわ」
そう言う彩香に、京子は、行ったことがあるのかと聞こうとして、止めた。もし、あると答えられた時、何と返事をしたらよいか、わからなかったからだ。
ほどなく、二人は再び水平な大地に立っていた。もっとも、こうなると、何が水平で、何が垂直なのか、京子にはよくわからなかったが。
「これが、門かい?」
どこかの国の凱旋門を思わせる、凝った彫刻が刻まれた大きな門が、真ッ平らな山の上に、ポツンと立っていた。
ここまで来ると、立派なシュール・レアリムズ(超現実主義)芸術だった。
「別に、どんな形でもいいのです。さァ、入りましょう!」
驚き呆れて、ポカンと、門を見上げている京子の手を引くように、彩香は二つの柱の間に入った。
また、何か景色でも変わるのかと、身構えた京子は、別に門を通り抜けただけで、周囲の景色にも、自分にも変化がないので、拍子抜けした。
「どうしたの?何も変わらないじゃない?」
京子が、そう言って彩香を振り返った時、どこからとなく声が響いた。
「何者だ貴様達!ここは、生者の赴くところではない、早々に立ち去れ!!」
「お久しぶりね、戌神さん」
何もない、真ッ平らな地面に向かって彩香が語りかけたのを見ても、もう京子は驚かなかった。
「その声は、彩香か?」
「ええ、今日はお友達も一緒なの‥‥‥」
まるで、遊びに行った家の小父さんに話しかけるような調子で、彩香は京子を紹介した。
「すると、その友達の恋人が、何者かに浚われたのか?」
「別に恋人ってわけじゃ‥‥‥」
否定しようとする、京子の口を塞ぐように彩香は頼んだ。
「ねェ、戌神さん。その人がどこに連れて行かれたのか、教えて下さらない?」
「ちょっと、待ちなさい‥‥‥」
その声と共に、京子は目の前の地面が、見る見る盛り上がるのに、思わず後ずさりした。
それは、ちょうど巨大な白い鯨が海中から姿を現わすのに、似ていた。そして、彩香の目の前に迫り出した部分が、鯨の顔のように見えたことからも、それが巨鯨であると京子は判断した。
「これが、犬神様?」
尻餅をつきながら、声を震わせる京子に、優越感を持って彩香は訂正してみせた。
「いいえ、戌神さん。この門の、番人をしていらっしゃるわ」
「犬には、見えない‥‥‥どうしたって、鯨よ‥‥‥」
京子の呟きに、彩香は取り合わなかった。
「確かに、少し前にここを通って行ったモノ達がいる。だが、それは許されたモノ達だった。お前さんのように、許されてもおらんモノの通過は、わしが認めんからだ」
「それは、わかっています。うっかり、門を開けたのは私ですもの。その人は、誤って身代りとして浚われたのです」
「となると、ワシの一存ではどうにもならん。守護様に、頼んでみるのだな。そこまでは、送って行こう」
「ありがとう、戌神さん」
彩香は、大きな体の小さな目に向かって、丁寧に頭を下げた。慌てて京子も従ったが、あまり敬意が篭っているとは思われない仕草だった。
しかし、そんな京子のことなど意に介さないのか、戌神はその大きな体を、再び地面に沈め、わずかに背中の一部を京子達の前に残した。
「さァ、京子さん。お乗りになって」
「の、乗るの?」
「恐いんですか?」
それが、彩香得意の挑発であるとは知っていながら、京子は受けて立たないわけには行かなかった。
思えば、いつもこの調子で、彼女は彩香にいいように利用されているのだった。彩香が、学校の生徒会長に選ばれた時、次点だった京子は彩香の指名によって、副会長と体育実行委員長にさせられたのだった。
もちろん、京子は生徒会の仕事など、頼まれてもやるつもりはなかったのだが。
「思えば、アンタと知り合ってから、アタシの人生は狂いっぱなしよ!」
「何か、おしゃいました?」
「いいえ、何も!きゃッ、大丈夫なの!?」
自分達を乗せた戌神の背中が、次第に地面に潜るのを見て、京子は少し怯えた。
「もちろん」
彩香の言葉と同時に、二人の体も足元から、白い大地に消えて行った。
水瓶宮
自分の顔にまで白い地面が迫って来た時、京子は臆病であるとは思いながらも、目を閉じる自分に逆らうことは出来なかった。
「息を止めていなくても、大丈夫よ」
彩香の言葉を聞くまで、京子は必死に目を閉じただけではなく、無意識の内に息も止めていたことに、ようやく気が付いた。
大きく息を吐いた京子が、何とか恐怖に打ち勝って目を開くと、そこは淡い水玉の飛び交う透明な世界だった。空は高く、そこはさっきまで自分達のいた白い大地のはずだったが、今は淡い青い光が揺らめく空の一部となっていた。
周囲の景色は、白い大小の泡が風に乗ってかなりの速度で、後方へ流れているために、視界が遮られてよくわからなかった。どうやら、淡い青い色の世界が、遠くまで広がっているようだった。
しかし、その視界を大小の白い泡が邪魔していた。泡が後方へと、激しく流れるように見えていたのは、京子達を乗せた戌神が、それだけの速度で移動しているためだった。
そんな、幻想的な光景を見ながら、京子は彩香に尋ねずにはおれなかった。
「彩香、一つ聞いておきたいんだけど?」
「なにかしら?」
「あなた、この世界にはよく来るの?」
戌神の背中に乗り慣れた様子で、軽く膝を折って横座りしていた彩香は、口に手を当てると柔らかく笑った。
「あら、まさか‥‥‥」
「でも、この世界のことを、よく知っているじゃない?」
「小さい頃に、一度母に連れられて、来たことがあるだけよ」
その彩香の言い方は、田舎には一度連れて行かれただけだというのと、大差のない調子だった。
京子は、疑惑に満ちた眼差しを彩香に向けたが、そんなことで相手が頓着するとは、彼女も思っていなかった。
「ほら、あれが守護様、魁王様のいらっしゃる、水瓶宮よ」
言われるままに、京子が流れる泡の間から前方を透かしてみると、緑色の壷のようなものが見えた。
そこを、海底と呼んで良いものかどうか、京子にはさっぱりわからなかった。ともかくの水玉が絶え間なく沸き出す黄緑色の大地にたどり着くと、鯨のような戌神は、背中の二人に降りるように促した。
「何これ!アタシの足が、ないじゃない!!」
地面に降りようとした京子は、自分の足元を何気なく見おろして、仰天した。見ると、京子の体から制服はなくなり、裸の上半身に魚の下半身が続いていた。
驚いた京子が、目の前の彩香を見直すと、彩香もまた上半身が裸で、下半身が魚の人魚の姿に変わっていた。
「ここでは、この姿の方が楽なのよ、さァ行きましょう」
彩香は京子の手を掴むと、引きずるようにして、大きな白い鯨の背中から滑り降りた。
彼女達の前には、巨大な緑色の水瓶が立っていた。その周囲には、仏教絵画の天女のように、長い布をヒラヒラさせた女性らしい者達が、彩香と京子を、もの珍しげに見おろしていた。
「絶対、この人魚のイメージはアタシのじゃないぞ!」
天女達は、お互いにヒソヒソと言葉を交わしていた。その表情が、人魚となった自分達の姿を、あざ笑っているように感じた京子は、ムッとして腕を組んだ。
そんな、京子の態度を無視して、彩香は京子の手を取ったまま、水瓶の前に進み出た。
「お久しぶりです、魁王様。彩香です」
「おお、彩香か、よく来たな‥‥‥」
空から割れ鐘のような声が響き渡り、周囲の水玉が大きく揺らめいた。
その時、京子は目の前の高層ビルのような水瓶の表面に、透けるようにして、人の顔が浮き出すのを見た。さすがの京子も、彩香に手を取られていなかったら、確実に数歩は後ろへ下がっていただろう。
その巨大な顔の、両目が開き、ギロリと京子達を睨んだ。
「彩香。そなたがなぜ、その生者を連れて参ったのかは存じておる。そして、そなた達が捜しておる生者が、どこにおるのかもな‥‥‥」
巨大な瓶の顔が、その口を開いて、一言発する度に周囲の泡はなぎ倒され、周囲の天女達も翻弄された。
「では、お教えいただけませんか?」
「教えるのは構わん。が、彩香。教えたなら、助けに行くつもりなのだな?」
「そうです」
「それが、この世界の掟に、背くことになってもか?」
大きな顔に睨まれているのが、彩香だとわかっていても、京子は身のすくむ思いがした。人間相手なら、恐れを知らぬ京子だったが、子供の頃から、こういう化物や、妖怪の類は苦手だったのだ。
だが、自分の前に立つ彩香は、むしろまったく逆であるように、京子には思えた。
「私に過ちがなかったとはいえ、友人の恋人が捕らわれたことは、私の責任でもあります。どうか、取り返すチャンスをいただきとう存じます」
再び彩香は、深々と頭を下げた。
人間相手に、ここまでへりくだる彩香を見たことのない京子にとって、その姿は驚きだった。
「扉が外から開けられた場合、外の人間を浚うことを、冥界の者達が許されていることは、承知しているな?」
「はい。故に、外から扉を開ける者は結界を張り、贄を用意いたします」
「そちは、それを怠ったのか?」
彩香は答えなかったが、京子は顔を背けた。彩香が怠ったのではなく、吉井刑事の勇み足が原因だった。
京子は、ほんの少し、さっき彩香を責めたことを後悔した。そして、そんな京子の素直な反応が、彩香には嬉しかった。
「では、彼を浚ったのは、やはりチミちゃん達なのですね?」
「さよう。チミ達の獲物を取り返そうとすれば、冥王の怒りを買うことになる。誰も、取り上げることはできん」
「でも、今は昼。冥王はお休みのはずです」
「冥界の陽が沈むまでに、取り返すことが出来なければ、いかに彩香、お前であっても、二度と冥界から出ることは、出来なくなるのだぞ!」
魁王の迫力に、周囲の天女達は翻弄され、京子達の姿を笑うどころではなくなった。
京子も、懸命に堪えなければ、後ろに流されそうだった。
「承知致しております」
「まだある。冥界に入れば、そなたが祖先より授かった力は失われ、そなたの人の子として身に付けた力しか、使えなくなるのだぞ!それでも、行くか!?」
初めて、彩香は少し狼狽した。そんな、決まりや掟を、彼女は知らなかったのだ。どうやら、この世界には自分の知らないことが、まだ色々あるようだと、彩香は少し口の端で笑った。
彩香は、後ろで流されまいと踏ばっている京子を振り返った。
「だ、そうです。京子さん、あなたのお力を、あてにさせていただいて、よろしいですわね?」
「なに?何のこと?」
とっさに、京子は彩香の言葉が理解できなかった。
「吉井さんをお助けするために、力を貸していただけますわね?」
「そりゃまァ‥‥‥」
「では、魁王様、そういうことです」
京子の返事を、肯定と解釈したのか、彩香は巨大な水瓶の中の、大きな顔を振り返った。
「どうか、お許し下さい」
大きな顔は、その顔にふさわしく大きな目を、マジマジ見開くと、自分の前に立つ、小さな二人の人魚を見つめた。周囲の天女達も、固唾を飲んで魁王の反応を見守っていた。
やがて、目を閉じて、大きく一つ頷いた魁王は、その口を開いた。
「よかろう。戌神、ご苦労だが、その二人を冥界まで送ってやってくれ」
「承知!」
後方で、ことの成行きを見守っていた、巨大な白鯨のような戌神は、そう答えると、小さな人魚達の前に進み出た。
「感謝致します。魁王様‥‥‥」
彩香が、深々と頭を下げた時、戌神はその巨大な口を開いた。魁王の周囲の天女達は、大慌てで水瓶宮と呼ばれる、その巨大な瓶の後ろに隠れた。
次の瞬間、戌神は黒々と開いたその巨大な口に、大きく息を吸い込んだ。周囲の泡はもちろん、あらゆるモノと一緒に、彩香と京子の二人もその口の中に吸い込まれた。
「ちょッ、ちょッと!なにを、どうするつもりーッ!!」
という京子の叫びも、戌神の黒い口の中に吸い込まれて、消えた。
「戌神様、ありがとう!」
彩香は、自分も吸い込まれながら、丁寧に頭を下げた。
そして、二人は暗黒の空間を、どこへともなく、どんどんと流されて行った。
冥界の魑魅達
いつの間にか、自分が制服姿に戻っていることを知った京子は、恐る恐る両足を踏みしめてみて、それが自分の足であることを確かめた。
鯨のような、戌神の口の中という、思いもかけなかった通路を通って、京子と彩香は冥界へと降り立った。
もっとも、いつ自分がここへたどり着いたのか、京子はまったく覚えていなかった。気が付いたら、ここに居たというのが、正直な彼女の感想だった。
「それにしても、目一杯、不気味なところじゃん‥‥‥」
そう、京子が漏らすのも、もっともだった。
これまでに通って来たところも、決してまともな世界ではなかった。しかし、ここに比べればその非常識さは、せいぜい「奇妙」とか「変」とかとういうレベルだと思えた。この世界の景色に比べれば、まだ可愛気のある方だったろう。
彩香にしても、この世界がまさに「不気味」だという京子の言葉には、自然に同意していた。
血のように赤く暗い空には、黒い三日月だけが居座り、見上げると息苦しささえ感じた。さらに、足元はぬかるみのようにビチャビチャした感触を伝えて来ていた。ただ、実際にどんな風になっているのかは、暗くて良くわからなかった。
「足元が暗いとは、まさにこのことね‥‥‥」
京子の言葉に素直に頷いた彩香は、先に立って歩き始めた。
「急ぎましょう、京子さん。魁王様が言われた通り、陽が沈むと冥王様が目覚めて、私達は二度とこの世界から、出られなくなってしまいます」
「陽が沈むたって、どこにお陽様なんかあるんだい?」
京子の言葉に、彩香は血のように赤く染まった空を指さした。
「あれです。あれが、冥界の黒い太陽。冥王様の目だと、言われています‥‥‥」
「あれが、太陽?」
それは、赤い中天に浮かぶ、黒い三日月だった。言われてみると、確かに巨大な目の、重そうな瞼に見えないこともなかった。
「あの黒い太陽が、完全に開かれた時、冥王様は目覚めます。そうなったら、もうどうしようもありません」
「どうしようもないって、それじゃどうするんだ、このたっだ広いところを、捜すのか?」
足元はグチャグチャにぬかるみ、しかも周囲は気味の悪い枯木だか、岩だかがそこかしこに生えて、視界を遮っていた。
とても、人を捜すことなど、簡単にはできそうになかった。
「ご心配なく。あちらから、案内してくれます」
その彩香の言葉が終わらない内に、周囲の木立がざわめき、足元の地面が揺れた。
そして、そのグチャグチャの地面が、盛り上がるような感じで、京子達の周りのあちこちに立ち上がった。
「なに、これ!」
「チミちゃん達ですわ」
「これが、チミちゃん!?」
立ち上がった泥みたいなモノは、次々と人間の形になって行った。
それは、人の形はしていたが、彩香や京子のような普通の人間から見ると、かなりいびつだった。片手がなかったり、あっても肩口についていなくて、変なところから覗いていたり、ひどく不格好な人間達ばかりだった。
「なにこれ、まともな形してないじゃない!」
元々、こういうモノが苦手な京子は、悲鳴のような声を上げた。
「昔、人間だったモノです。魂が抜けて、肉体だけになったものを、チミちゃん達が使っているのです」
「それじゃ、ゾンビじゃないの!?」
「少し違いますが、似たようなモノです。さァ、京子さん、おとなしく捕まって下さい」
「えッ、何ですって!?」
余りに、予想外の彩香の言葉に、一瞬京子の注意力が、そのチミちゃんという人間モドキから逸れた。その時、京子の近くの人間モドキの口や手から、一斉に白い液体が吐き出された。
反射的に、手刀でそれを払った京子だったが、それはトリモチのように粘り付き、たちまち彼女の体を動けなくした。
「なッ、何なのよこれ‥‥‥嫌ッ、動けない!」
もがきながら、何とか振り解こうとする京子を横目に、彩香はされるがままに、白い液体に全身を包まれた。
その液体は、相手に取り付くと、硬いナイロン・ロープのように絡みつき、相手をグルグル巻きにした。
「ちょっと、彩香!ボヤッとしてないで、何とかしなさいよ!!」
人間モドキに担がれて、恐怖の頂点を極めつつある京子は、恥も外聞もなく、彩香に助けを求めた。
それに対する彩香の返事は、落ち着いていた。
「落ち着いて下さい、京子さん。このまま、吉井さんがいるところまで、黙って運んで下さいますから、おとなしく運ばれましょう。それに、魁王様が言われたでしょう?ここでは、私の力は何の役にも立ちませんわ」
「落ち着いている場合か、彩香!お前がそうなら、吉井を見つけたところで、どうやって助けるんだ?私達も、仲良く一緒に捕まっちまってるだけじゃないか!?」
京子の言葉に、彩香は小さく口の中で「アッ」と叫んだ。
「そうでしたわね‥‥‥京子さん、この紐、切れませんか?」
「お前なーァ!」
彩香の間の抜けた質問に、京子は今度こそ本当にこいつとの縁を切ってやろうと、心に誓った。
「でも、それは、ここを抜け出してからにして下さいな」
彩香の、京子の心中を先回りした言葉は、より一層京子を怒らせるだけだった。
その京子が、彩香に対する悪口雑言を考えている時、近くで来き覚えのある声が聞こえた。
「いいですか、みなさん!決して、諦めてはいけません。救助は必ず来ます!それまで、なるべく動かず、体力を蓄えるのです!!」
「この状態で、動けるわけねェだろう!バカか、お前は!?」
「はァ、確かに、おっしゃる通りです‥‥‥」
悪し様に罵られている、極めて緊張感に欠ける声の主が誰であるのか、京子には容易に想像が付いた。
「吉井!アンタ、そんなところで、何やってんのよ!?」
不自由な体を、思いっきりねじ曲げると、京子は声の方に体を向けた。
「あれ、京子ちゃん?それに、荒神さんも!?」
高い枯木のようなものを何本も支柱にして、白い粘着物がロープのように、四方に張り巡らされていた。
その中に、京子や彩香がそうであるように、白い粘着物に体を巻かれた、多くの人間が顔だけ上に覗かせて釣り下げられていた。その一番下に、下がっていたのが、吉井刑事であることは、彩香の位置からも見ることができた。
「吉井さん、お元気でした?また、お会いすることが出来て、本当に良かったわ」
そう言った彩香の、皮肉な部分は京子以外に理解されるはずもなく、感激に胸が詰まった吉井は、思わず涙ぐんでさえいた。
「わたしも、生きてお二人に出会えるとは、思ってもいませんでした。良かった!本当に良かった!!‥‥‥でも、お二人はどうしてここに?」
「ちょっと、野暮用でね!」
誰のせいだと思いながら、思わず京子も彩香が使いそうな皮肉を言ってみたが、もちろん吉井に通じるはずはなかった。
「それはそうと、本当にわたし、生きているんでしょうか?どうも先ほどから、この辺の方々とそのことでモメていたのですが‥‥‥」
「今は生きていますけど、すぐにそうでなくなるのかも、知れませんわ」
深刻で、神妙な吉井の問に、彩香は微笑みながら答えた。嘘をつかないのが、彼女の信条だったが、この場合はブラック・ユーモアとしての意味の方が強かった。
彩香は、自分でもこれほど皮肉屋だとは思っていなかったので、自分の反応が少々意外だった。
何だか良くわからなかったが、それでも吉井は納得したようだった。
「はァ、なるほど‥‥‥」
「不吉なことに、納得しないでちょうだい!それでなくとも、こっちはここに来るまでに、ずいぶん酷い目に遭っていたんだから!!」
「酷い目っていうと、京子ちゃん達もあの妖怪に浚われて来たのかい?」
「あの妖怪って?」
「あれですよ」
そう言って、吉井が顎で示した方を振り返って、京子は息を飲んだ。
そこには、学校の校舎ほどもある、巨大な蜘蛛が、大きな三つ目を光らせていた。
「な、何で、どうして、アタシの嫌いなものばかり、こうも次々と‥‥‥」
京子は、化物の次に、蜘蛛やナメクジが苦手だった。それが、これほど巨大な化物ときては、もう気を失うこともできなかった。
「鬼蜘蛛さんですわ」
「鬼蜘蛛?」
「ええ、このチミちゃん達の親ですわ。そして、私達は、この親子のお食事ですわネ」
「ちょっと彩香、なに落ち着いているのよ!何とかしなさい!いいえ、なんとしてちょうだい、お願い!!こんなところで、死ぬのも嫌だけど、蜘蛛の餌になるのは、もっと嫌よ!」
京子の非難に応えたわけでもないが、彩香は精神の集中を始めた。普段なら、これ位のことは、いちいち集中しなくても出来るのが、今度ばかりはそうは行かなかった。
巨大な蜘蛛は、不気味なシャリシャリという音を立てて、ゆっくりと京子達の方へ近付いて来た。
「ちッ、しょうがないな、関節が膨らむから、あんまりやりたくないけど‥‥‥」
そう言いながら、京子は縄抜けを始めた。彼女が祖父から教わった格闘術は、実践的な面が大きく、縄抜けのような技もその中に入っていた。
京子が、必要な関節を外して、繭のような白いロープの束から滑り降りると、周囲の人間モドキが一斉に不気味な顔を向けた。その顔は、一つとして、まともに目鼻が付いてはいなかった。
「不気味な顔を、花も恥じらう乙女に、見せんじゃねェ!」
どこが花も恥じらうのかはともかく、彼女がそう叫ぶと同時に、数人の体がバラバラになって、宙に舞った。
しかし、その体は地面に落ちると、再び地面から足りない部分を補うようにして、立ち上がるのだった。
「これじゃ、キリがない!」
そう言いながら、再び京子が崩れた人間達に向かって行った時、彩香も最大限に自分の「念」を集中した。
「解けよ!」
彩香は、自分の言葉と同時に、自分を縛っていたロープのようなモノが、緩むものを感じた。
地上に落下した彩香は、何とか着地には成功したものの、ガックリと膝を折ってしまった。
体中の力が、抜けているのを感じて、彩香は初めてゾッとした。
「荒神さん!京子ちゃん!大丈夫かい!?」
人間モドキに囲まれて、大丈夫なはずはなかったが、吉井としては他に言いようがなかった。
「京子さん。吉井さんの紐を解く間、押さえていて下さいネ」
背中にかばった彩香にそう言われて、京子は気軽に引き受けたくはなかった。何しろ、こう次々と襲って来られるのでは、どこまで防げるかまるで自信はなかった。
「このチミちゃんたちの体は、抜け殻です。狙うなら、取り付いている、チミちゃん自身を狙って下さい」
「チミちゃん自身って?」
京子が尋ねようと体の向きを変えた瞬間、人間モドキの一つが、白い粘着物を吐いた。
彩香と京子の背中が離れ、次の瞬間には京子の手刀が、人間モドキの首を叩き落としていた。
「これです。これが、チミちゃんの本体です」
そう言って、彩香はそのボロボロに崩れた後頭部を指差した。
そこには、手のひらほどの大きさの、赤黒い縞のある蜘蛛がへばり付いていた。
「なるほど、こいつが本体か‥‥‥じゃ、あれは蜘蛛の糸ってことか?」
京子は、吉井の体を包む、白いロープのようなモノを指さした。それは、襲いかかる人間モドキが吐き出す白い粘着物の、固まった状態だった。
「そうです。鬼蜘蛛の糸は強靭で、ちょっとや、そっとのことでは切ることは出来ません」
「ところで、そのチミちゃんて、何だい?」
思いっきり、片足でその蜘蛛を踏みつぶした京子は、その感触に顔をしかめながら、先ほどからの疑問を尋ねた。
「魑魅魍魎って御存知でしょう?チミちゃんというのは、あれのことですわ‥‥‥あの鬼蜘蛛は、その中でも愛敬もあって、可愛い方ですわ。京子さんは、そう思いませんか?」
長い脚を震わしながら、不気味な顔をこちらに向けている巨大な蜘蛛に、京子はどうしても親しみが持てるとは、思えなかった。
「残念だけど、アタシはどうしても、蜘蛛は好きになれなくてね!」
そう言うと、京子は同時に糸を吐きかけた何人かの人間モドキから、彩香を突き飛ばすようにして遠ざけた。すかさず、その体に取り付いた蜘蛛達を蹴り潰した。
さすがに、本体を蹴り潰された人間モドキは、二度と立ち上がることはなかった。だが、何しろその数が圧倒的であり、しかも後から後から、増える一方だった。
「彩香!早くしてくれ、もう保たない!!」
言われなくとも、彩香は精神を集中した。やりたくはなかったが、額にシワを刻み、髪を振り乱した。
「私のことはいい!早く、二人とも、お逃げなさい!」
吉井の、警察官的決まり文句を、彩香は一蹴した。
「お黙り!気が散る!!」
「は、はい‥‥‥」
バツの悪そうな吉井を無視して、彩香は「念」を高めた。まさに、ありったけの集中が必要だった。
緊張が高まり、他の捕らわれの人々も、息を飲んだ。
「解けよ!」
彩香は叫ぶと、両手を高く突き出した。彼女の長い髪が、逆立つように弾けた。
そして、彩香はガックリと両膝を折り、地面に両手を付いた。
「抜けた!」
その時、吉井は自分を捉えていた、白いロープの力が揺るものを感じた。そして、すかさず下にすり抜けた。
吉井は、浚われた時の背広姿のままだった。
「よくやった姐ちゃん!次は俺だ!!」
「うるせーッ!俺だよ!」
「なに言ってのよ、わたしよ!」
吉井の後ろに、蓑虫のようにぶら下がってた人々が、口々に助けを求めた。
だが、もう彩香にそんな力は残っていなかった。
「冗談じゃないわ!さァ、吉井刑事!逃げるわよ!!」
そう言った京子は、彩香を抱き起こした。
「どうしたのです?吉井さん?」
京子に担がれた彩香は、動こうとしない吉井に、力なく尋ねた。
吉井は、弱々しく微笑むと、首を振った。
「この人達を残して、一人逃げるわけには行きません。どうか、お二人だけ、お逃げなさい」
「どうして、そんなことが言えるの!?私達は、あなたを助けに来たのよ!」
京子はヒステリックに叫んだが、吉井の考えが変わらないことを、この中で最もよく知っているのは、彼女だった。
彩香は、今までと違って、京子の心の動きを、そのまま直接知ることはできなかった。しかし、自分を支える京子の肩が震えることから、直接知るのと同じくらい、ハッキリと感じることが出来た。




