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第4章

    魔術の本


 真夜中をやや過ぎた頃、女学館の校門を一台のロールスロイスが、静かに通り過ぎた。

 車は、昨日刑事達に案内された、校庭の隅の蔵の前に止まった。

「ところで、何でアタシまで参加しなくちゃならないわけ?」

 運転手が慇懃に開けたドアから、軽やかに身を踊らせた制服姿の京子は、そう言って後ろを振り返った。彼女の後から、運転手に手を取られた同じく制服姿の彩香が、優雅な身のこなしで降り立った。

「いやーッ、どうも、よく来て下さいました」

 彩香が京子に答えるより早く、底抜けに明るい声で、二人を出迎えたのは、市警本部の吉井刑事だった。

「良く来てくれたね、京子ちゃん」

 そう言いながら、軽薄さを丸出しにした吉井は、軽く京子の肩を叩くと同時に、キザにウインクして見せた。それから、おもむろに彩香の方へ向き直った。

「この度はどうも、ご協力いただきまして‥‥‥」

 吉井が彩香に対して礼を失しないように、丁寧に頭を下げているのを、京子は横目で見ていた。

 ずいぶん、扱いが違うじゃないの!そう思いながら、彼女はポケットから青リンゴを取り出すと、かじりついた。京子が思わず渋い表情をしたのは、単にリンゴが酸っぱいからだけではないはずだった。

 そんなことは、吉井に続いて木崎部長刑事の出迎えを受ける彩香には、筒抜けだった。

「吉井さん。京子さんからお願いした件は?」

 自分でも意地が悪いと思いながらも、彩香は「京子さん」というところに、アクセントを付けることを忘れなかった。

 横目で睨む京子の視線を感じながら、彩香は吉井の話を聞いた。

「えーッと、お尋ねの通り、行方不明になった本田路子の部屋を調べたところ、こんなものが見つかりました‥‥‥」

 そう言いながら、吉井は背後の大きな鞄から、様々なものを取り出し、グラウンドに広げた。それは、何やら気味の悪いものばかりであった。

「これは、西洋の、黒魔術の道具みたいですね‥‥‥」

 彩香はその中から、五角形の図形の中に、奇妙な記号のような文字の書かれた紙を取り上げた。

「よく知られている魔法陣ですわ。どこかに、これの手引がありませんでした?」

 彩香の問いに、吉井が一冊の本を鞄の中から取り出した。

 それは、いかにもと言った感じの黒いエナメルの表紙に、金箔を押されたタイトルが物々しい本だった。しかもそのタイトルは、そのものズバリ「黒魔術」となっていた。

「この本が机の上に開いて置かれていました。えーッと、ページは‥‥‥」

「ここでしょう?」

 手帳を見返す吉井に、彩香が中程のページを開いて見せた。

「えーッと、そうです。ここです!でもなぜ?」

 なぜわかったのかという吉井の問いに、彩香は答えず、立入禁止のロープを越えて、扉の前に歩み寄った。

「この本は、その道で一定の評価を受けている、真面目な本です。もっとも、何年か前に絶版になったと聞いていますが‥‥‥」

 彩香の言葉に、木崎がタバコを取り出して喰わえた。

「では、それは使って魔術を使ったと?」

 尋ねたのは、吉井だった。だが、彩香は首を振った。

「この本に限らず、本に書かれた通りにやれば、誰にでも魔術が使えるというものではありません。もし、使えるならこの世には魔術が満ち溢れて、あなた方はとっくに失業しています。この本はいい加減な本ではありませんが、それだけに簡単なことでは魔術が使えないことは、キチンと書かれています‥‥‥」

 そこで、彩香は言葉を切ると、木崎達を振り返った。

「ここに書かれているのは、反魂の術とか、心変わりの法とか言われる、代表的な恋の魔術です」

「恋!?」

 吉井がオクターブの高い声を上げ、木崎も思わずそんな吉井と顔を見合わせた。

 この時ようやく、京子も彩香の方を振り返った。

「ええ、意中の人が自分ではなく他人を好きである場合。その意中の人自身か、その相手のどちらかを術によって心変わりさせた上、意中の人の心を自分の方へ向けるという、いささか虫のいい魔術です」

「そんなことが、可能なんですか?」

 彩香は、木崎が自分の気を悪くしないように、最大限気を使う言い方をしているのが良くわかった。

 自分の父親のような年齢の木崎に対して、彩の姫巫は柔らかな微笑みを返して、自分が気にしていないことを示した。

「条件と、術者の能力が問題ですが、不可能ではありません。ただ、ここに書かれている方法は簡単なだけに、効果は一時的です。長くて数日、短ければ数分でしょう」

「数分ですか?」

 吉井の返事は、興味を覚えていただけに、落胆の色が隠せなかった。

「ふん、誰だって、一時的に相手を嫌いになる時はある。それが、術のためかどうかなんて、わかるもんか!」

 京子の独り言は、ハッキリとその場にいた者達の耳に届いたが、京子は彼らの反応は意に介さずに、再び青リンゴにかじりついていた。

「その通りですわ。人の心を操る術など、簡単に出来るわけはありません。ですから、この術は単なるきっかけに過ぎなかったのだと思います」

「きっかけですか?」

 木崎は、あくまでも慎重に言葉を選んでいた。

「そうです。ここに書かれていますが、この術は相手の姿が最もよく見えるところに、この五角形の魔法陣を貼ることとなっています。恐らく、この正面の校舎のどこかに、目的の相手がいたはずです」

「待って下さい。相手って言ったって、ここは女子校ですよ。この向いの校舎にいるのは、女生徒ばかりじゃありませんか?」

 そんな吉井の言葉に、木崎は首を振った。

「聞いていなかったのか?術をかける相手は、意中の人でも、その人が想っている相手でも良かったんだ。ライバルが自分の学校にいたって、おかしくないだろう?」

「それに、この学校の教師にだって、男はいるだろう?もっとも、想う相手が男とは限らないけどネ‥‥‥」

 そう嘘ぶくと、京子はまたリンゴにかじりついた。

「相手のことなど、今はどうでもいいことです。ともかく、ここにある魔法陣と同じものを、彼女はこの扉に張ったはずです‥‥‥」

 彩香の言葉に、何か思いだした吉井が、手帳をめくった。

「あのーッ、行方不明になった日の夕方、本田路子は家の近くの文房具屋で、コピーを取っています。それが、この学校で目撃されるまで、家族以外が彼女を見た最後です‥‥‥」

「コピーですか」

 これは、彩香にとっても、いささか意外だった。彼女にしても、術や何かに使う紙に書くものは、必ず自分の肉筆と決めてかかっていた。

 いくら、描くのが難しいとはいっても、実際に使うのがコピーとは、鮮やかな現代っ子気質に、彩香も毒気を抜かれる思いがした。

「それで、ますますハッキリしました。彼女の術が、成功したはずはありません。彼女が魔法陣を貼った、この場所が問題だったのです」

 そう言って、彩香は持っていた魔術の本を閉じると、眼鏡を外して、自分が立っている蔵の前の地面を示した。



    異世界の門


 彩香は、立入禁止のロープのところまで戻ると、借りていた魔術の本を吉井に返した。

「このロープから、中へ入らないで下さい。みなさんに、ここがかつて何であったのかを、お見せしましょう‥‥‥」

 そう言った彩香は、再び蔵の前に戻り、そこに片膝をついてしゃがみ込んだ。

 やがて、腕を組むと目を閉じて、自分の念を集中させた。彩香の体と、さらに自分達の目の前にあるロープの内側が、ゆらゆらと陽炎のように揺らめき、異様な気配が夜気を包んだ。

「よせ、やめろ。この中は、既に結界になっている!」

 思わず、吉井が二・三歩前へ出そうになったのを、脇から木崎が止めた。

「結界?結界って、地面に描いたり、注連縄しめなわを張ったりするんじゃないんですか?」

 吉井の問いに、京子が面白く無さそうに答えた。

「彩香は、自分の体で結界を張ることが出来るのよ。彼女には、呪文を書いた札も、杖や縄もいらない。彼女だけがいればいいのよ‥‥‥」

 そう言った京子は、もはや芯だけになったリンゴを、ヒョイと立入禁止と書かれた札の向こう側に投げた。

 すると、陽炎のように揺らめいたリンゴの芯は、そのまま弾かれるように高く舞い上がると、大きく弧を描いて京子の手元に落ちた。

 しかし、そのリンゴの芯は京子の手の中で、見る見る色が変わって行った。そして、たちまち石のように固くなり、やがて砂のようにサラサラと崩れると、京子の指の間からこぼれて消えてしまった。

「眠れる大地よ、記憶を呼び覚ませ。在りし日の姿を、しばし現わせ‥‥‥」

 彩香は、小さく口の中で呪文を唱えた。それが、彩香だけに有効な呪文であることを、京子は知っていた。

 やがて、京子達の目の前の蔵が、ユラユラと揺らめき、その姿を変えて行った。

「かつて、この地は王朝の守りを固める門の一つで、戌亥いぬいの門と呼ばれていました。古代において、都の門とは、実際的な外敵の侵入を防ぐという意味の他に、疫病などの目に見えない、得体の知れない敵を防ぐ、呪術的な意味も持っていました。この、戌亥の門もその一つだったそうです‥‥‥」

 どこからともなく彩香の声が響く中、木崎達の前に、古代の巨大な門がその姿を見せていた。しかも、その門を前にして盛んに行き交う、古代の衣装を身に付けた人々の姿まで、ハッキリと見ることが出来た。

「やがて、王朝の衰退。都の位置の移動などによって、この門はその交通路としての用を為さなくなったのでしょう。いつしか、門はなくなり、代わりに社が建てられ、この場所に鳥居が置かれました。昔の人は、ここが異世界とこの世界を結ぶ狭間であることを、経験的に知っていたのでしょう。鳥居は、異世界と繋ぐ門の役割も持っていました‥‥‥しかし、その鳥居も江戸時代に入ると失われ、ここはある豪商の屋敷の一部となったのです」

 古代の巨大な門から、鳥居に、そして大きな屋敷の中の蔵へと、木崎達の目の前の情景は変わって行った。

 唖然と見守る木崎達の傍で、京子だけがいつもと変わらず、新しく取り出した青リンゴをスカートで擦ると、かじり始めていた。

 ようやく、大気の揺らめきは収まり、何事もなかったような元のグラウンドと蔵の前に、木崎達は立っていた。

「ご覧になったように、ここは古代から、異世界と通じる狭間のある場所でした。ある意味で、この蔵の扉は、ちょうど異世界の門とも呼べる場所にあるのです」

 そう言った彩香の姿は、先ほどと何一つ変わっていなかったが、木崎と吉井には何か彼女の姿が、別人のように思えた。

 そして、そう感じられたことを知って、やや彩香の表情は曇っていた。

「では、本田路子は?」

 さすがに、年の功か、木崎の表情の変化は短時間で消え、むしろより一層気を使う口調で、彼は彩香に尋ねた。

 そんな年長者の気配りが、彩香には嬉しかった。

「彼女は、そうとは知らずに、その門を開けてしまったのです。彼女が、本に書いてある通りの手順で術をかけたとすると、例えそれがコピーであっても、あの魔法陣には多少の霊的な力が備わっていたはずです。他の、何でもない場所であれば、どうということはなかったのですが、なまじ霊的効力を高める手順を踏み、霊的な力が最も高まる時刻を正確に選んだために、その魔法陣が扉を開ける鍵になってしまったのです」

 そう言うと、彩香は一つ小さくため息をついた。

「人を呪わば穴二つという格言は、文字通り、無闇に人を呪うものではない。という意味があるのだと思います‥‥‥」

 彩香の言葉に、木崎と吉井はしばし言葉もなかった。

 だが、ようやく、暗然たる思いを振り払うように、木崎が尋ねた。

「それで、彼女は助かりますか?」

「これは、完全な事故で、彼女は向こうに行くべき資格も、何もなしに扉に入り込んでしまったはずです。多分この異世界との狭間で、何の意識もなく、ただ漂っているのだと思います。だから、他の能力者の方々も、彼女気配が感じられなかったのだと思います。なにしろ、そこはどこでもない世界ですから‥‥‥」

「彩香。木崎さんは、助けられるかって聞いているのよ。説明はいいから、助けておやんなさいよ!早く帰らないと、また母さんに叱れるわ!!」

 京子のアクビ混じりの乱暴な言葉に、心ならずも木崎も同意していた。

 彩香は、再び扉の前へ戻ると、両手を広げた。

「すべては元の場所へ、あるべきものはあるべき姿で、あるべき場所に還えれ!」

 彩香が、口の中で短く唱えて、両手を大きく交差させると、再び扉が揺らめき始めた。ただ、先ほどとは違って、その揺らめきは、蔵のそれも扉の部分だけに限られていた。

 やがて、木崎達が固唾を飲んで見守る中、扉の中央よりやや上の部分から、黒いシミのようなものが現われた。それは、程なく人の頭の形となった。

「あッ、あれ‥‥‥」

 吉井が、震えながら指差した時には、既に女子高生の黒い長い髪が扉から垂れ下がり、さらに肩口が姿を現わした。

 その時になって、木崎と吉井は壁から生えるように出て来る女子高生が、何も身に付けてないことを察して息を飲み、次に顔を赤らめた。

 とっさに木崎が上着を縫いで、次の事態に備えたことを吉井は知った。同時に、刑事として木崎とのコンビネーションの動作に、若い刑事の体は自然に動いた。

「あッ、まだダメ!」

 直後に、吉井の動きを察した京子が夢中で叫び、木崎もそれを制止しようとした。だが、吉井の若い俊敏な動きに、一瞬間に合わなかった。

「ダメだ!結界に入るな!!」

 その時、足の先が扉から抜け出した全裸の女子高生は、まだ空中に横たわったままだったが、突然その姿勢が崩れた。

「来ないで!」

 彩香の叫びと同時に、吉井は立入禁止のロープを飛び越え、落下する全裸の女子高生の下へ滑り込んだ。

 普通の時ならば、まさにナイス・キャッチングのはずだった。吉井刑事は、全裸で地面に衝突するところだった女子高生の体を、見事その直前に抱き止めた。

「やった!」

 という、吉井の言葉は、次の瞬間、悲鳴に変わった。

 たった今、女子高生が生えてきた扉が、またしても大きく歪んだかと思うと、実体のない影のような飛び出し、吉井の体を包んだ。

「助けてくれ!」

 木崎は、確かにそんな吉井の声を聞いた。

 彩香が、何か鋭く呪文の言葉を口にし、手を振り上げた。その時には、吉井刑事の姿は禍々しい黒い影のようなものに包まれたまま、扉の中に消えた。

 後には、何事もなかったかのように、夜の闇に閉ざされたグラウンドと、全裸の女子高生が蔵の前に倒れているだけだった。

 木崎と彩香それに京子は、しばらくの間その全裸の女子高生を助けるでもなく、悄然とその場に立ち尽くしていた。



    残された者


 結界の中に飛び込んだのだから、当然の結果だわ。それが、彩香の偽らざる心境だった。

 しかし、彼女はそんな自分の本音とは異なる言葉を、自然に口にしていた。

「申し訳ありません。もう少し、結界の中に入らないように、重ねて注意しておくべきでした‥‥‥」

「いやいや、彩の姫巫。いえ、荒神さんのせいじゃありません。私が、もっと注意すべきだったんです。あいつは、若いから、こういう事態に慣れていないことを、もっとよく考えるべきでした‥‥‥」

 木崎部長刑事が、深く責任を自覚していることは、その表情からも見誤りようがなかった。

 彼は自分の車から、市警本部へ連絡を取ると、救急車と応援を要請した。何はともあれ、民間人で、被害者でもある全裸の女子高生を、そのままにしておくわけには行かなかった。

 彩香は、チラリと京子の方へ視線を向けた。京子は、何も言わずにリンゴを丸かじりしていた。だが、その胸中に不安と、理不尽な怒りがみなぎっていることは、彩香でなくとも、容易に察することができた。

 京子は、その怒りが彩香に向かうことを、辛うじて自制していた。何であれ、吉井は刑事であり、彼は無意識とはいえ、自分の責任で危険な行動に出たのだった。その意味では、彩香は単に吉井に協力したに過ぎなかった。

 しかし、彩香が余計なことをしなければ、という思いを、今の京子の心の中から除くことは難しかった。

 彩香は、人の心の複雑さを思って、軽く吐息をついた。

「では京子さん、行きますわよ」

 その突然の彩香の言葉に、京子は面喰らった。

「行くって、どこに?」

「決まっていますでしょう。吉井さんを助けにですわ。京子さんは、助けたくないのですか?」

 京子は、激しく頭を振ったが、とっさのことで、彩香の言っている言葉の意味が、よくわかっていなかった。

 彩香は、自分の上着で女子高生の体をくるんだ木崎を、振り返った。

「木崎さん。その娘は、意識を失っているだけです。たぶん、この扉の中に入ってからのことは、何も覚えていないでしょう。ともかく、後を頼みます。私と京子さんは、吉井さんを助け出して参ります」

「でも、それは、危険なのではありませんか?」

「その娘さんを呼び戻すよりは、多少‥‥‥」

「それでは、あなた方に、これ以上のご迷惑は、警察として出来ません」

 木崎の口調は、思いの他厳しかった。それは、まさに警官としての、彼の責任感の現れだった。

 彩香は、そんな木崎の素朴な気持ちが心地良かった。彼女は、ニッコリ微笑むと、京子の手を取った。

「ご心配なく、私は親友と一緒に、親友の恋人を助けに行くのです‥‥‥」

 そう言って自分の手を握り、微笑む彩香に、京子はもう少しでリンゴのかけらを、喉に詰まらせるところだった。

「それに、吉井さんは、その娘さんと違って、向こうの世界に浚われたのです。早ければ早いほど、取り戻すのは容易です。時間が経てば経つほど、捜し出すのが難しくなるのは、この世界の誘拐も同じだと、思いますが?」

 そう言われて、初動捜査の重要性を嫌と言うほど知り尽くしている部長刑事は、返事に困った。

「それは、そうでしょうが‥‥‥」

「夜明けまでは、この辺り一帯に、人を入れないで下さい。何が起こるか、わかりませんから」

 それは、彩香が多少乱暴なことをするかも知れないという、極めて不吉な予告であることを、京子だけが知っていた。

「それは、構いませんが‥‥‥夜明けまでに、戻って来れるのですか?」

 木崎の疑問に、京子も彩香の顔を見つめた。

 彩香は、艶やかに微笑むと、その薄い唇から冷たく言い放った。

「それは、神のみぞ知る。と、いうことですわ」

 木崎が、意識のない女子高生を抱き上げたまま、慌てて二人を制止しようとした。彩香は、それより早く京子を振り返ると、短く言った。

「行きますわよ」

「ちょっと、彩香!」

 京子が、抗議の声を上げたのにも関わらず、彩香は京子の手を強引に引くようにして、扉に向かった。

 女子高生を抱えた木崎の目の前で、蔵の扉に二人はぶつかるように見えた。だが女子高生二人は、そのままそこには何も壁みたいなものがないかのように、中に入り込み、消えた。

 一瞬、彼女達の消えた扉に、隙間が出来て、その向こうが覗けたような気がした。だが、それは錯覚だったのかも知れないと、木崎に思わせるほど一瞬の出来事だった。



    もう一つの世界


 そこは、尋常な世界ではなかった。

 京子の目には、まず一面の砂漠が広がって見えた。ただ、その砂の上には、どうして立っていられるのかわからないような、下が細く上が大きな岩山が突き出していた。

 何よりも尋常でないのは、その世界の色だった。砂漠はオレンジ色に染まり、空は濃い紫から緑に色を薄めながら、地平線に消えていた。さらに、アンバランスなデザインの岩山は、その濃厚な色の背景から鮮やかに浮き出す、白い色をしていた。

「あら、京子さんには、そんな風に見えているのね」

 そんな彩香の言葉に、京子ようやくこの自称親友が、自分の傍らに立っていることを知った。

「あなたにはって、じゃあ、アンタにはどう見えるっていうのよ」

 京子の抗議に、肩をすくめると、彩香は片手を振ってみせた。

 とたんに、世界の構図が変わった。色はもちろん、そのデザインまで、まるでスクリーンに映し出された映像のように、きれいに切り替わった。

 白く硬い、どこまで凍り付いたような大地。その向こうに、南極のテーブル氷山のようにそびえる、直線で切りとられたような山々。

 その白い世界を、濃い青から紫色に染まる空が、クッキリと浮き出させていた。

「まッ、どっちもどっちでしょうね」

 という彩香の言葉に、京子は素直に頷くことは出来なかった。

「‥‥‥どっちも趣味じゃないけど、配色の点で、こちらの方がましかな」

 ようやく、京子はそう言って立ち上がったが、その瞬間、彼女自身ここ数年来上げたことのないような、悲鳴を上げた。

「ちょッ、チョット、何よ!何で、裸なの!?」

 自分が全裸であることに気が付いて、とっさに両手で胸を隠すと、京子はしゃがみ込んだ。

 何だかんだ言っても、京子も年頃の娘なんだなァーと、自分も一糸纏わぬ姿であった彩香は、意外な発見をしたような気がした。

「別に誰も見ていないから、気にすることはないでしょう?それに、その姿で助けられたら、吉井さん、きっと感激しますわ」

「そーいう問題じゃないでしょう!第一、こんな格好をアイツに見られるくらいなら、死んだ方がましよ!!」

「あら、愛しい人に、生まれたままの自分を見せることが、何でそんなに嫌なのです?彼が、嫌がるとは思えませんけど?」

「アンタと、一緒にしないでちょうだい!ともかく、アタシには露出狂の趣味はないんだから!!」

 余りに激しい京子の拒絶に、いささか彩香は面喰らった。

「美しくて、ステキだと思いますけど‥‥‥」

 そう言いながら、彩香は指を鳴らした。

 次の瞬間、京子も彩香も、見慣れた学校の制服を、身に纏っていた。

「もっと、似合うお洋服があると思うのですけど、何を着せても、喜んではいただけそうにないので‥‥‥」

「当り前よ!だいたい、誰がこんなところに連れて来てって、頼んだのよ!!」

「頼みませんでしたか?」

「頼まないわよ!誰が親友よ!誰が恋人よ!?誰が!!」

 服を着たことで、普段の自分を取り戻したのか、京子は一気に強気に出ると彩香に迫った。

 彩香は、もう一度服を消してやろうかしら、などと考えながら、そんな京子を押さえた。

「では、吉井さんを助けなくて、良いのですか?このまま、この世界に置き去りにすれば、いずれ誰かに食べられてしまいますわ‥‥‥」

 彩香の言葉に、ようやく京子は改めて周囲を見渡す余裕が戻った。

「この世界って‥‥‥ここはいったいどこなのよ?」

「幽玄界。つまり、あの世ですわ」

 彩香の言葉に、京子の理性は再び色を失った。

「あの世って、じゃあ、なに?私達死んだの?ここは、死後の世界なの!?」

「ちょっと、京子さん、落ち着いて。私達は死んでいませんし、ここは死後の世界ではありません」

「でも、あの世って‥‥‥」

「この世に対して、あの世。此岸に対して彼岸。まァ、世界中、場所や人によって様々に言われていますけど、簡単に言えば、私達の世界と隣り合った世界ということですわ。死者は、ここを通り抜けて、あなたのおっしゃる死後の世界に向かうわけですし、言わば三途の川岸とでも言うのでしょうか‥‥‥魔界、黎明界、幽玄界、何でも好きな呼び方をすればよろしいのよ」

 彩香の説明に、京子は自分なりの結論を出した。この場合、何でもいいから自分を納得させないと、前へ進めないくらいの分別は、京子にもあったのだ。

「つまり、よく言う、隣り合った別の次元、別の宇宙ってこと?」

「まァ、そう考えて、問題はないでしょう。ともかく、ここでは私達の普段の感覚ではモノはないと同じですから、自分のイメージがモノの形や色を決めるしかないのですよ」

「この世界のどこかに、吉井さんがいるの?」

 ようやく京子の瞳に、普段の落ち着いた光が戻って来たのを見て、彩香は胸をホッと撫で降ろした。このまま、京子が正気を取りも出さなければ、彼女までこの世界に置き去りにするハメに、なったかも知れなかった。

 もっとも彩香は、自分が京子の力を見誤ったとは、思っていなかった。

「ともかく、このままでじっとしていても、どうにもならないわ。急ぎましょ」

「急ぐって、どこへ?」

 尋ねる京子に、彩香は黙って指で示した。

 彩香の指差した先には、大きく平らな山が広がり、その上にポツンと小さく何かが立っていた。


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