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第3章

    ささやかな願い


 フキが用意してくれた食事に、透は一度たりとも文句をつけたことはなかった。もっとも、それは彩香の手料理と称する、怪し気な食事であっても同じだった。

 あるいは、単にこの家の主人は味にこだわらない性格か、味覚音痴であるのかも知れなかった。ともかく、それまで彩香の手料理は別にしても、フキの食事を透が食べ残すということは、まったくと言って良いほどなかった。

 食べ残したまま、早々にアトリエに篭った透だったが、その筆は一向に進まず、考えもまとまる様子はなかった。そんな透の様子を、壁越しに察した彩香は、両手を実際に使いながら夕食の皿を洗っていた。

 彼女は、片目を閉じてコーヒー・メーカーを作動させたが、洗い物は自分の手で済ませた。それから、カップもちゃんと棚から自分の手で取り出すと、コーヒーを注いだ。

 家の中で、彩香は度無しの眼鏡をかけていなかった。あの眼鏡は、彼女の細い眼差しから発する力を、幾分かは弱める働きがあった。

 その自分の力について、彩香は自分が夫と定めた男が、どの程度理解しているのか、よくわからなかった。ただ、彼女としては、一応人並の家庭生活を営もうとする以上、必要以上に自分の生来の力に頼るつもりはなかった。

「何が気になりますの?」

 コーヒーを持って、アトリエに入った彩香は、微笑みながら透に尋ねた。彼女は、自分のクッションを引き寄せると、優雅に座った。

 透は黙ってコーヒーを受け取ると、そんな彩香を見つめた。彼は、未だになぜこの娘が脅迫同然に、自分の元に押しかけて来たのか、よくわかってはいなかった。

「もう、リボンを解いても、平気なんだな‥‥‥」

 何気なく、長い髪を束ねているリボンを解いた彩香の仕草に、透が呟いた。

「あら、御存知でしたの?このリボンのこと‥‥‥」

「うん、ずいぶん前に、京子がひとしきり喚いて行ったことがある。何でも、前はそのリボンを解くと、力を押さえることが出来なかったんだって?」

「まったく、京子さんと来たら、おしゃべりなんだから‥‥‥ええ、確かに先生と一緒になる前は、裏に呪文を書いたリボンで縛っていましたの。そうしないと、気分の問題で、何が起こるかわかりませんでしたから‥‥‥」

 彩香はうつむいて、リボンを丸めながら答えた。なぜか、正面から透の表情を見るのは、恥ずかしかった。

「今は、平気なんだ?」

「今は、平気です。リボンがあろうと、なかろうと、関係ありません」

 あなたのおかげでとは、彩香は言わなかった。

 彩香はかつて、単純に乙女の純潔を失えば、このやっかいな祖先からの遺産を、失うことが出来ると思っていた。古来、多くの巫や能力者が、その力を維持するために、純潔を守っていたからだった。

 だが、簡単に純潔を失うことは難しかった。彼女の力は、彼女に対してよこしまな思いを抱く者を、近付けようとはしなかったのだ。

 そして、彼女の清楚な容姿を前にして、邪な欲望を深層心理から抹殺できる男性など、いるはずもなかった。

 一時は、繁華街で男漁りまでしていた彩香だった。だが、彼女に手を出した男のことごとくが、その精神的ショックから再起不能に近い状態となってしまった。

 そんな時に、彩香は街のチンピラと争っている最中、京子と知り合った。なぜか京子は、彩香の力に驚くことも、感心することもなかった。自分の力に影響されない人間に、彩香は新鮮な感動を覚えた。

 二人の奇妙な付き合いが、そこから始まった。ただ京子としては、当時画題に悩んでいた自分の叔父に、彩香を引き合わせて以来、彼女との付き合いを本気で後悔していた。

 自分の絵に行き詰まっていた透は、彩香を一目見るなり、自分の捜し求めていたテーマだと叫んで、いきなりその体に抱きついたのだった。学校ではともかく、家で絵を描いている透に、通常の人格を求めることが無意味だということを、京子は良く知っていた。それでも、この時の透の行為を予測することは不可能だった。

 いわゆる純粋な美術バカである透に、彩香の力はまったく反応しなかった。なぜ、そうなのか京子はもちろん、彩香にも明確な答えは見い出せなかった。ただ、また不能者を作ってしまうのかという、彩の姫巫の自嘲気味の笑いには気付くはずもなく、透は彩香にヌードを求めた。

 自分の力が及ばないことに、彩香は半信半疑ながら、透の求めに応じた。もちろん、京子は考えつく限りの手段で妨害を試みた。

 姪の必死の説得にも関わらず、透は彩香をモデルとして絵を描き始めた。彩香は、自分の裸身にすら芸術的な興味以外、何の反応も示さない透に驚いた。そして、その男をより詳しく知るために、透や京子の通う聖麗高校に転校すらしたのだった。

 姪の苦悩と彩香の驚きの中で、透はついに作品を完成させた。彼は、それを臆することもなく、堂々と公募展に出品した。透が、彩香をモデルとしたことに対して、まったく邪念がなかったことは、そのことからも明らかだった。

「仮にも、自分の学校の生徒のヌードを出品するなんて、どーいう神経してんよ!?」

 姪の悲鳴混じりの抗議にも、透はキョトンとした表情を向けるだけだった。その時の彼には、渾身の力作を描き上げた、心地良い疲労感しかなかった。

 結局その作品は、絵の出来もさることながら、モデルが彩香であったために、非常に不思議な作品となってしまった。何しろ、見る人すべてが、別々の印象を持ち、まるで別の絵を見ているのと同じだったのだ。

 ある人は、天女といい。ある人は魔女。またある人は、観音菩薩と言って手を合わせたかと思うと、ある人は猥らだと言い、即刻撤去しろと叫んだ。審査員達は喧々号々の議論を繰り返したが、全員が納得する評価は生まれなかった。

 結局、その作品は特別賞を与えられ、透の画檀デビューへの、ささやかな一歩となった。その授賞の直後、祖父を伴った彩香が透の前に現われた。透の学校にも影響力を持つ彩香の祖父は、未成年者の裸身を公開した透の責任を追求した。もちろん、透にそんな追求をかわせるはずもなかった。

 潔く、どんな責任でも取るという透に対して、保護者の渋々の承諾を得た彩香は、正式な入籍を迫った。京子を始め、透側の家族が唖然とする中、その場で透に承諾させた彩香は、以来この家に居ついていた。

 ただ一つ、彩香にとっては残念なことがあった。自分に影響を受けない男を見つけて、苦労して一緒になったにも関わらず、彼女の力が失われることはなかった。

 それどころか、祖父が予言した通り、以前にも増してその力は強力になった。それまで、自分ではコントロール出来なかった、無意識の感情的な反応さえ、彩香は自由に操ることが出来るようになっていた。

「あの、事件のことでしょう?」

 自分の気持ちを察した彩香の言葉に、透はカップを口に運んだまま頷いた。

 そんな、透の表情に、彩香は小さな吐息をついた。

「気になるのですか?」

「だって、その消えた娘は、君や京子と同い年なんだよ‥‥‥もし、生きているのなら、と思うとね」

「でも、私達には関係ありませんでしょう?」

 彩香としては、これ以上やっかい事に巻き込まれたくはなかった。増して、赤の他人のことで煩わされたくはなかった。

「それはそうなんだが、このままでは、刑事さん達には見つけ出せないのだろう?」

 彩香が不思議なのは、この透の妙な勘の良さだった。確かに、この美術講師には彼女のような力は見あたらない。それどころか、日常的には透は明らかに勘の悪い方だった。

 それなのに、時々こういう、ハッとするような鋭さを見せるのだった。

「仕方がないわ。自業自得ですもの‥‥‥」

 そう言ってから、彩香はわずかにその薄い唇を曲げた。うっかり、余計なことを言ってしまったのだった。

「やっぱり、何かわかったんだね?」

 別に咎めるでもない透の視線に、彩香は肩を落とした。

「別にどうしても、何とかしろとは言わないけど、木崎さん達に何かヒントだけでも、あげられないのかい?」

「先生にそうおっしゃられて、私が断われるとお思いになりますの?」

 彩香は、恨めし気に透を見上げた。何とも言えない妖し気な色気に、今度は男の方がうろたえた。

「いや、別に、無理にとは言わないよ。無理にとは‥‥‥」

「よろしいですわ。ともかく、明日、お祖父様のところへ行くのを、お許し下さいネ」

「別に、許しをもらうほどのことじゃないだろう‥‥‥」

「それに‥‥‥」

「それに?」

 彩香は、ゆっくりと透の膝元に寄り添って行った。

 思わず透は、体を後ろに逸せたが、完全に彩香の雰囲気に飲まれて、どうすることもできなかった。

「お祖父様にお願いごとをすれば、お祖父様はきっと条件をお出しになります」

「ど、どんな?」

「きっと、あなたと別れろと‥‥‥」

「‥‥‥」

 とっさに、透は返事が出来なかった。だが、彩香は透の胸に体を預けると、上目遣いに彼の顔を見上げた。

「もちろん、それはお断りします。でも、代わりに嫌なお仕事を、一つは引き受けることになりますわネ‥‥‥」

「そ、それで?」

「だから、先生も私のささやかなお願いを、引き受けて下さいますでしょう?」

「お願いって‥‥‥」

 何だい?と言おうとして、透は後の言葉を続けることが出来なかった。彩香が、彼の上にのし掛かるようにして、自分の唇と透のそれを重ねたからだった。

 一緒に暮らしながら、このようにして透が迫られることは、滅多にないことだった。透は、何とか逃れようと抵抗したが、無駄だった。

 だいたい、透にどれだけ真剣に、逃げる気があるのか怪しいものだった。

「もちろん、今晩一緒に休んでいただくことですわ」

 そう言うと、再び彩香は透の顔に自分の顔を重ねて行った。

 彩香の薄い唇は、見かけ以上に弾力に飛んでいた。そのことを、ここまで徹底的に知らされているのは、いくら世間が広いと言っても、この男以外にはいなかった。

 透の手から力が抜けて、カップが指から離れた。一度は、重力に引かれて落下したカップだったが、床に届く寸前に停止し、再び浮かび上がった。

 そのまま空中を、横に移動したカップは、脇に寄せてあった彩香のカップが乗った盆に、それが当り前のように乗った。やがてその盆も、他の床に散らばったスケッチなどと一緒に、体を重ねる彩香と透から離れて行った。

 まるで、二人の邪魔をするのを、遠慮するかのように‥‥‥。



    もう一人の魔女


 その翌日、登校した彩香に対して、一部の生徒達が好奇と、嫉妬と、羨望の眼差しを向けた。

 誰も、その理由を改めて、正面から本人に問い正そうとはしなかった。彩香は、充実し切った満足の笑みを浮かべつつ、その視線がうつろに宙を漂い、その肌の張りと色艶がいつにも増して良かった。その妖し気な表情が、男子生徒はともかく、年頃の女子生徒の直感に触れぬわけには、行かなかった。

 しかも、この日の高野透は、いつにも増して授業で精彩を欠くこと、甚だしかった。その視線が彩香と同じようにうつろでも、こちらは疲労の極にあるかのように、落ち窪んでいた。そのことを知れば、この二人の様子を結びつけて考えられない者の方が、少なかった。

 昼休み、ほぼ全校生徒の好奇の視線の中、彩香はいつもの通り、悠然と食堂で弁当を広げた。彩香の弁当は、常に差し回しの車と共に、岩倉のフキから届けられる、五段重ね漆塗の重箱弁当だった。

「なんや、金持ちか何か知らんけど、毎日毎日、いい車に乗って、うまい弁当喰って!その上、うちらの知らへん、とーってもいい思いをしてるんやて!?」

 耳障りな尻上がりのイントネーションで、彩香にそんな因縁をつけて来た者がいた。

 普通の学校では、それは良くある光景だった。だいたい、彩香のような生徒に対して、その学校を仕切っていると自負するハミ出し者が、因縁をふっかけないとは考えられないことだった。だが、この聖麗高校と、荒神彩香に限っては、そんな被害からは無縁の存在のはずだった。

 校内のみならず、広く街中に聖麗の魔女として知られる彩香に、そんな態度を取るような命知らずは、柳京子以外にはいなかった。

 この時、彼女に因縁をふっかけたのは、この春他の街から転入して来た上級生だった。彼女は、三年のこの時期に転入して来た者によくありがちな、他校からのハミ出し者だった。

 他の高校で持て余された挙げ句、どこかこの学校の有力なコネを頼って押し込まれたのだろう。転校早々から、職員室に騒動を持込み、数カ月の謹慎が解けたばかりだった。

 彼女は前々から、この学校で羽振りを効かせるために、この学校内での実力者を締める。つまり叩き潰すか、仲間になるかしたいと考えていた。どんな学校にも、そんな輩はいるもので、ただちに彼女はこの学校の似た者達と仲良くなった。

 ところが、彼女が不思議なことに、この学校で最も目立つ二人、生徒会長と副会長に、その連中は手を出そうとしなかった。何度か、焼きを入れようと誘う彼女に、彼らは一様に青ざめて首を振った。

「命が惜しかったら、あの二人には手を出すな!」

 それが、聖麗高校でアウトサイダーでいられる不文律だった。彼女はそれが歯痒かった。と同時に、それほど彼らに恐れられている二人に刃向かえば、この学校を自分が仕切る、つまり裏から支配するのも夢ではないと考えた。

 そして、その機会を窺っていた。その矢先に、まず副会長で体育実行委員長でもある柳京子が、拳法部員及び拳法部顧問をノックダウンする現場を、目の当たりにした。

 さすがに、正面から京子と立ち向かっては勝ち目が無いと悟ると、その矛先を荒神彩香に向けたのだった。もっとも、そんな彼女の思惑など、彩香にとってはどうでも良かった。そんなことは、今日の夕食の献立ほども、彼女の興味を引かなかった。

 悪意の塊と化した上級生が自分の前に立っても、彩香にとっては自分の視野が塞がれるという、不快さ以外に取り立てて感想はなかった。

「あら?このお弁当がお気に召しましたの?なら、お一ついかが?」

 そう言って、上品に重箱の一つを差し出したのも、彼女にとっては嫌味以外の何者でもなかった。悪意を持つ相手に対して、親切にしてやる道理など、彼女は持ち合わせていなかった。

 その意味では、むしろ直接的な暴力主義者である京子の方が、はるかに常識的であると言えた。

「遠慮させてもらうわ、生徒会長!昨夜は随分と、お楽しみだそうで?」

「あら?わかります!?」

「ええかげんしィや!会長やなんや知らんけど、生徒と教師が乳繰りおうて、それで済む思うてんか!?」

 上級生の言葉は、食堂中に響き渡り、幾人かの生徒が教師に知らせるべく、走り出て行った。

 それは、それをさせた本人の考えとは逆に、彼女の身の安全のためだったのだが、もちろん本人が悟るはずはなかった。彩香は、この手の茶番に、なぜか真剣に付き合う悪癖があった。

「あら、結婚した夫婦の健全な営みが、何かいけないことなのですか?」

「学校が認めた、正式な結婚かなんか知らへんけど!うちらが、同じことしたら、ただで済まんやろ!!あんただけ、何で許されるんや!?」

「結婚なさっていないからですわ。もし、そうなさりたいのなら、結婚なさればよろしいのです。もちろん、愛する方がいらっしゃればですけど‥‥‥ああ、でも、あなたの場合、相手が愛して下さるかどうかが問題ですわね」

 彩香の奴、楽しんでやがる。と、食堂に入って来た京子は思った。

 京子は、別に騒ぎを知ったからではなく、いつも通り食堂に足を運んで来ただけだった。ただ、今日は家から弁当を持ってこなかったので、購買部に寄ってパンを買っていたので少し遅れたのだ。

「あんた、うちをおちょくっとるんか?」

「おちょくるなんて、なんてお下品な。からかっているだけですわ」

「おんどりゃー‥‥‥!」

 彩香には、上級生の怒りが手に取るように伝わっていた。相手の限界を越えたことを知った彩香は、重箱の一つから伊達巻きを箸で摘むと、相手の目の高さに上げた。

 一瞬、食堂が静寂に包まれた。それが、彩香の戦闘開始の合図であることを知らないのは、彼女の目の前にいる上級生だけだった。

 食堂内の生徒達は、一斉に自分の食器や弁当、中にはテーブルを抱えて、彼女達の周りから退いた。

「私と、先生の神聖な営みを誹謗中傷するのなら、それなりの覚悟がおありでしょうね?」

 彩香が、一段声を低めた時、彼女に取っては極めて馴染みの深い、単純な怒りの気配が、彼女を取り巻いた。

 一瞬、目の前の相手を忘れて、彩香はその気配を振り返った。

「何が、神聖な営みよ!ちょっと、彩香!あなた、また無理矢理叔父様に迫ったんでしょう!?」

「あーら、京子さん。無理矢理だなんて、人聞きの悪い。充実した、愛の営みと言っていただきたいですわ」

 京子は、その口に校内購買部不滅のロングセラー、カレーパンを喰わえていた。敬愛する自分の叔父を、生徒達の興味のネタにしかしないような彩香の言葉に、いいかげん彼女は忍耐の限界に来ていた。

 そもそも、今日の彩香と叔父の関係に対する噂は、京子の耳にも否応なく届いていた。しかもそれには尾鰭がついて、二人はきっとSMの関係で、彩香がSで透がMに違いないと言うものまであったのだ。

 彼女は、必ず食堂にいるであろう彩香と、はなから一戦交えるつもりでいたのだった。それが、妙な先客に先を越されて、今まで出るきっかけを掴めないでいたのだ。

「単なる、生殖行為だろうが!」

「ああ、これだから、愛の喜びを知らない無知な乙女は困りますのよ、ねェ?」

 いきなり、彩香に同意を求められて、因縁を付けた上級生は面喰らった。

「ここだけのお話しですけど、京子さんてば、まだ純潔でいらっしゃるのよ、意外でしょう?」

「彩香、てめェーってやつは‥‥‥」

「あなたは、経験豊富でいらっしゃるから、殿方の良さは充分おわかりでしょう?」

 いきなり決めつけられて、上級生は返答に窮した。もちろん、彼女はそれが事実であることを彩香が知っていることなど、思いもしなかった。

 彼女が態勢の立て直しに苦労している間に、京子は彼女を無視して彩香を睨みつけた。

「妙な同意を求めるんじゃない!そもそも、あんたが叔父様に迫ってから、叔父様の評判は悪くなる一方じゃない!あんた、わかってんの!?」

「夫の評判は、妻の評判。共に地獄に落ちるまで‥‥‥近松は、いいことおっしゃいますわ。ねェ?」

「誰が芝居の話をしている!おい、こんな奴に同意するんじゃないぞ!!」

「あら、男女の機微は、未経験者にはおわかりになれませんわよねェ?」

 奇妙なもので、双方から同意を求められた形の上級生は、とっさになんと返事をしたものかわからなくなっていた。

「男女の機微は、卒業してからでも、遅くはねェだろう!」

「あーら、愛に時間は貴重ですわ。純情な京子さんには、おわかりにならないかも知れませんが‥‥‥」

 二人の周囲の空気が、徐々に渦を巻き始めたことに、周囲の生徒は気が付いた。

「ヤバイ、はやくあいつを引き離すんだ!」

 荒神彩香に焼きを入れると、息巻く仲間を止めらないまま、離れたところから見守っていた不良達が頷き合った。

 その間にも、彩香と京子の間のボルテージは上がり続けた。

「サカリのついた雌犬みたいに、追いかけ回すなと言っているんだよ!」

「最愛の叔父様を取られたからって、いつまでも子供みたいに、ダダをこねるものではありませんわ‥‥‥」

「誰が子供だって?」

「どなたが、雌犬ですって?」

 二人の異様な気配に気押された上級生を、仲間が無理矢理引きずって行こうとした時、彩香と京子の間に火花が走った。それは比喩ではなく、本当の火花だった。

 その火花は、たちまち渦となって、食堂を一周した。その瞬間、食堂内のテーブルや椅子は壁に向かって弾け飛び、窓ガラスが砕けた。

 だが、次の瞬間、砕けたガラスや、外に飛び出しそうになった椅子は、見えない力に引き戻されるように、食堂の内側にこぼれた。

 食堂の外では、いつもの昼休みと同じように、生徒達が遊んでいた。彼らは、食堂の窓が突然砕けた音に、動きを止めて顔を見合わせた。

「すっかり、感情がコントロール出来るようになったじゃないか?」

「おかげさまで。これも、あなたの叔父様との愛あればこそ‥‥‥」

「どこまでも、ムカつくことを言う奴だな‥‥‥」

「お互い様、かしら?」

 カレーパンを喰わえたまま、京子はメロンパンとコーヒー牛乳のパックを小脇に抱えた。

 その、やや間の抜けた京子の姿勢が、一撃必殺の構えであることに、極少数の者達は気が付いた。

 その京子に対して、彩香は相変わらず箸に伊達巻きを摘んで、眼前にかざしているようにしか、周囲の生徒には見えなかった。だが、彩香を睨みつける京子には、その彩香の持つ箸の先の伊達巻きが、青白い炎の竜に変わるのが見えた。

 その炎の竜は、たちまち巨大化すると彩香の体に巻き付くようにしながら、その恐ろし気な顔を京子の方に向けていた。京子の額から、冷汗が滴り落ちていた。

 彩香には、京子を傷つけるつもりはないにしろ、京子の高まる気合いに、彩香の力も自然と反応し、留まるところを知らなかった。

 二人の「念」、あるいは「気」と呼ばれる力が、この食堂を中心とした物理的な世界の、均衡を越えようとしていた。それが均衡を破った時、かつて生徒会室を崩壊させたの同じような現象が発生する。あの当時は、まだ彩香は自分の力をコントロールすることが出来ず、その暴走に任せるしかなかった。

 京子が、彩香の金縛りを振り払うように、一歩踏み出した。その瞬間、京子は彩香に巻き付いていた竜が、自分に向かって来るのを見た。

 閃光と爆発音が走り、食堂近くにいたものは、人も物もすべてなぎ倒された。その音と光は、校庭や校舎の隅々にまで届いていた。

「どうかしたの?」

 唐突に、食堂周辺の生徒達の意識を回復させたのは、そんな緊張感のかけらもない一言だった。

「彩香、いや荒神君。柳さん、一体どうしたんです?」

 自分の身内と、それに等しい関係の生徒に対して、美術講師の高野透は、なかなか改まった態度の取れなかった。彼は、ぎこちなくそう言いながら、睨み合う二人の前に立っていた。

「あら先生。別に、大したことじゃありませんわ。ちょっと、お弁当のことで言い争いになって‥‥‥」

 とても作り笑いとは思えない、艶やかな微笑みを透に向けた彩香は、無条件の同意を京子に求めた。

 京子は、カレーパンを喰わえたままの、何だか間の抜けた格好で、不承不承頷いていた。

「なんだ、京子は弁当を忘れたのか?それで、彩香の弁当でもねだったのか?」

「いえ、別にそう言うわけでは‥‥‥」

「違うの、先生。私がいけないの。私が、京子さんのお気持ちも考えずに、無分別に自分のお弁当を勧めてしまったの。京子さんが、余計なことだとおっしゃたのは、当然ですわ‥‥‥」

 そう言って、うつむいた彩香の白々しさに、思わず京子は顔を背けた。

「ようやる‥‥‥」

 そんな京子の気持ちなど知らぬ気に、透は肩をすくめた。

「仲が良過ぎるというのも、考えものだな、京子?」

 叔父の言葉に、どれほどの意味があるのか、京子は計りかねたが、この場合は身をすくめて済ませる以外に、方法はなかった。

 そんな、唐突な両者の和解に、いまさら周囲の生徒達は驚きはしなかった。それよりも、いつの間にか元通りになっている食堂内の様子の方が、生徒達を唖然とさせていた。

 そこには、粉々になったガラスの破片が飛び散り、テーブルや椅子が散乱していたはずだが、まるで何事も無かったかのように元のままだった。その中で唯一、最初に彩香に因縁を付けた上級生と、彼女を助けようとした仲間が、食堂の床に倒れていた。

「おい、君達、どうしたんだ?」

「いえ、ちょっと、ふざけてたら、ころんじゃって‥‥‥」

 起き上がるのに手を貸す透に、助けに入った上級生が、口ごもりながら答えた。幸い、当事者は気を失ったまま目覚める気配がなかったので、反論される心配はなかった。

「そうか、気を付けろよ。よし、医務室へ運ぼう。君も来るんだ、傷の手当をしないといけない‥‥‥」

 そう言いながら、透は気を失った生徒抱え上げると、その仲間を伴って食堂を出て行った。

 彼女は、なぜ彩香が聖麗の魔女と呼ばれるのか、身を持って知ったことだろう。これで、もう二度と聖麗の二人の魔女、つまり荒神彩香と柳京子には手を出すまい。もし、これで懲りないようだったら、この女との仲もそれまでだな。

 高野先生に抱き上げられた女子生徒の友人は、その後について行きながら心の中で、そう呟いていた。

「ああ、先生ったら。あんな、不良にも、なんてお優しいんでしょう。私も気を失えば良かった‥‥‥」

 見送る彩香は、自分が相手に怪我をさせたことなど忘れたように、勝手なことを口にしていた。そんな彩香に、京子は争う気が完全に失せてしまっていた。

「京子さん、ちょっと願いがあるの‥‥‥」

 背を向ける京子を、彩香が声を低めて呼び止めた。

 いまさらなんだ、という表情を露骨に浮かべながら、既に食べ終わったカレーパンに引続き、メロンパンを喰わえた京子が振り返った。

「あなたの恋人さんに、ちょっと連絡を取っていたただきたいのだけれど‥‥‥」

「恋人さん?」

「吉井刑事さん」

「!?」

 彩香の言葉に、京子はかじりかけのメロンパンを、慌ててコーヒー牛乳で飲み下した。

 そんな京子に、彩香は音もなく寄り添うと、二こと三ことささやいた。

「そんなこと調べて、どうするんだ?」

「うんちょっとね‥‥‥」

 意味有り気に微笑む彩香に、京子はうろんな眼差しを送った。

「さては、叔父様、あんたに頼んだな‥‥‥そうなんだろう?」

「さァ、どうでしょう?」

「だから、あんたの誘惑に負けたわけか‥‥‥そうでなけりゃ、あんたが一文の得にもならないのに、人のために何かするわけないものな!?」

 その意地の悪い京子の言葉に、彩香は笑ってあえて反論しなかった。

 心にもないことは、口にしない。少なくとも、嘘は言わない。それが、様々な彩香のポリシーの一つであることを、良くも悪くも京子は嫌になるほど知っていた。

 なんだかんだ言いながら、結果として、京子が自分のことを最も良く理解している、数少ない内の一人であることを、彩香は充分に自覚していた。

 あるいは、その理解度は、内容の善し悪しを別にすれば、夫である透よりも上であるのかも知れなかった。



    ささやかな条件


華やかな友禅染の袂を、小気味良く翻しながら、彩香は静かに茶を立てていた。

「で、頼みとは何かな?」

 孫娘の入れてくれた茶を、完璧な作法に乗っ取って賞味した老人は、大きな茶碗を孫娘に返しながら、尋ねた。

 彩香は、これも完璧な作法に準じて、後始末をすると正座をしたまま体の向きを入れ換えた。

「お祖父様にお願いいたします。どうか、あの女学館の庭に立つ蔵のことをお教え下さいませ」

 文字どおり、三つ指をついて深々と頭を下げる孫娘に、老人は一層目を細めた。

「改まってなんじゃ、そんなことか‥‥‥。ふむ、聞くところによるとあの場所で生徒の一人が消えたそうな。そなた、その生徒を助けるつもりか?」

「巫としての仕事をお断わりしておきながら、あつかましいことは重々承知しております。ですが‥‥‥」

 頭を畳みに擦りつけるようにしながら、孫娘は顔を上げようともしなかった。その、日本髪に結い上げられた後頭部から、剥き出しのうなじ、さらに襟足にかけての線を見つめて、老人は小さくため息をついた。

「すっかり、女らしくなりよって。わしですら、どうかすると色香を感じてしまいそうじゃ。どうやら、あの男とはうまく行っておるようじゃな。残念じゃが‥‥‥」

「お祖父様!?」

 怪訝な表情を上げた孫娘に、祖父は精一杯顔をしかめて見せた。

 その心を見透かすことの出来ない、数少ない相手である祖父の心胆を計りかねて、彩香は首を傾げた。

「ああ、もう、おまえにそんな顔をさせるのが、あの男の頼みからじゃと思うと、極めて不愉快じゃ!」

「そんな!」

 孫娘の取り乱した表情を見て、老人の頬は思わず緩んだ。それを彩香が見逃すはずはなかった。

「もう、お祖父様ったら、本気にいたしましてよ!」

 そう言って、頬を膨らませた彩香は、プイッと横を向いてしまった。今度は、老人が狼狽える番だった。

「わかった、わかった。それで、教えたなら、どうするつもりじゃ?まさか、ただで教えてくれと言うつもりは、ないんじゃろう?」

「ええ、ええ、心得ております。その時は、首相だろうと大臣だろうと、国家の未来だろうと、恋の行方だろうと、探ってご覧に入れましょう」

 だが、彩香のその言葉に、老人は静かに首を振った。

「いまさら、そなたにそんなことを頼もうとは思わん。それよりも、わしにとって、もっと大切なことがある‥‥‥」

「ですが、先生と別れろというお話でしたら、私‥‥‥」

 不安気な彩香の問いに、老人は再び静かに首を振った。

「今のそなたを見れば、あの男と引き離すことが出来るかどうかくらい、ようわかる。悔しいが、あの男は、わしの大切な孫をわずかの間に、見違えるほど、美しくしよった。これは、世辞ではないぞ‥‥‥」

「それでは?」

「じゃからだ。いつもいつも、あの男に取られっぱなしはシャクじゃからな。たまには、この家で、老人相手に食事をして行っては貰えぬかな?」

「お祖父様‥‥‥」

「フキを初めとして、家の者もそなたが一向に帰ってこんので、すっかり寂しがっておる。どうじゃな?」

 そう言った祖父の表情には、政財界の影の支配者として恐れられる威厳はどこにもなかった。ただ孫娘が可愛くて仕方の無い、我が侭な老人の笑顔だけがそこにあった。

 彩香は、改めて居住まいを正すと、もう一度手をついて深々と頭を下げた。

「謹んで、受け賜ります」

 それから、狭い茶室の中に、朗らかな祖父と孫娘との笑い声が響き渡った。

 それは、彩香がこの家を出て以来、この家の者が久々に聞く、老人の明るい笑い声だった。


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