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第2章

    聖麗の魔女


 柔剣道場は、異様な気配に包まれていた。

 拳法部の、地区大会出場者を決める対抗戦は、ほぼ前評判通りの実力者が決勝戦に進出し、波乱なく終わるかに見えていた。だが、立会人である柳京子が、突然待ったをかけたのだ。

「この程度で、地方大会に出るとは、いささかおこがましいのでは、ありませんか?」

 無作法にも、神聖な道場で生のリンゴをかじりながら、そう言った京子は、ゆっくりと道場中央へ歩み出た。

「おいッ、柳!お前、いったいどういうつもりだ!!」

 さすがに拳法部の顧問教師は、声を荒げた。

「確か、体育実行委員長には、各大会の参加資格を審議する権利がありましたよね?」

 抗議する教師を無視するように、京子は横目で近くで固唾を飲んでいる、別の実行委員に尋ねた。

 京子に尋ねられた実行委員は、汗をかきながら、何度も頷いた。彼は「歯がゆいわねェ、何とかならないの?」と、ブツブツ言っていた京子に、彼女の持つ権限を説明しただけだった。それが、こんな事態になってしまって、途方に暮れていた。

 だが、京子はそんな可愛そうな委員のことは眼中になく、むしろ嬉しそうに顧問の教師を挑発していた。

「体育実行委員長として、このような腕前で大会に出ることを、認めるわけには行きません」

「柳!いくらなんでも、言い過ぎだぞ!!」

 常々、この柳京子という女生徒が強いという評判を、この新任の顧問教師は苦々しく感じていた。この機会に生徒達、特に京子の強さに怯え切っている部員に、本当の拳法の強さを教えてやろうと、彼は考えていた。

 彼は、大学の拳法部の主将を務めたこともあり、その腕にはそれなりの自信があった。それに反して、京子は強いという評判はともかく、どんな格闘技の大会に一度も出場したことはなく、記録に残る実績はないに等しかった。

 もちろん、教師の教え子達は、教師自身の腕前はよく理解していた。しかし同時に、入学以来の京子の脅威的な破壊力は、身に染みて知っていたのだ。

「そんなに、おっしゃるなら、ホラあなたたち、かかってらっしゃい。稽古をつけてあげるわ」

 この学校の生徒なら、この京子の挑発に乗るべきではないとわかっていた。だから、さすがの拳法部員達も全員二の足を踏んだ。

「ええい、女一人にここまで言われてだらしのない!構わん、これは稽古だと、その実行委員長も認めたんだ、決定戦の出場者全員!総掛かりでかかれ!!」

 そんな無茶苦茶なことを叫ぶと、顧問は近くの部員の尻を蹴った。思わず、その部員は京子に向けて手を出した。

「腰が座っていない!」

 京子の鋭い声と共に、スカートの中から弾き出された足は、手を出した部員の両足をきれいに払った。

「次!」

 顧問の叱咤に、もうヤケクソになった部員達が、次々に襲いかかったが、彼らは次々に京子に弾き飛ばされて行った。

 恐ろしいことに、京子はそのすべてを片手でリンゴをかじりながら、まるで美容体操のように、華麗に行なったのだった。

 静寂が、柔剣道場を支配した。中央には、髪を無造作にポニー・テールでまとめた、制服姿の女の子がリンゴをかじりながら立っていた。そして、その周囲には体の一部を押さえて呻き回る、拳法部員達の姿があった。

「先生、一本つけていただきたいわ」

 ことここに至って、ようやく顧問教師は、京子が聖麗の魔女と恐れられる理由を知った。

 しかし、もはや彼は後に引けなかった。部員達と、見物に集まった生徒達の手前、立ち会わないわけには行かなかったのだ。

 京子にしてみれば、単なる憂さ晴らし、もしくはストレスの解消にしか過ぎなかった。だが、うがった見方をすれば、自分を快く思っていない教師を、公式の場で叩きのめす好機を作ったと、見えなくもなかった。そして、多くの生徒がそう思ったのは事実だった。

「柳、お前、それほどの腕を持ちながら、なぜ、大会に出場しない?」

 道場の中央に出て来て、きちんと礼をした顧問は、素朴な疑問を口にした。

「私の流派の大会は、どこにもありませんから‥‥‥」

 理由にならないそれが、京子の理由だった。

 京子の祖父、高野典膳が孫娘に伝えた高野流格闘術は、空手や柔道など、全国区で著名になった格闘技とはだいぶ違っていた。現在では、その存在すら彼女以外に知る者は少なかった。

 やがては、祖父の道場を継いで弟子を取るつもりの京子にしても、現状で誰かに教えるつもりはなかった。彼女は、自分がまだ修行中であると、それ自体はわりと謙虚に考えていたのだった。

 鋭い気合いと共に、顧問の蹴りが京子を襲った。京子は、紙一重の差でそれをかわし、素早く回り込んだ。

 しかし、さすがに大学の拳法部で鳴らしただけのことはある。顧問も、他の生徒のように、そこで一呼吸入れさせてくれるようなことはなかった。

「柳、いいかげんに、そのリンゴを捨てろ!」

 防戦一方になりながら、なおもリンゴを片手に持ったままの京子に、呆れると同時に、腹を立てた教師が叫んだ。

「あらら、リンゴを持たせておけば、何とかなるのに‥‥‥」

「会長‥‥‥!」

 青い顔で、成行きを見守っていった体育委員の背後に、いつの間に来たのか彩香が立っていた。

「リンゴを捨てさせたのが、あの先生の敗因ですわね」

 彩香は、傍らの透に向かって言った。

 透は、姪の京子が拳法部を相手に暴れているという話を聞いて、覗きに来たのだった。

「そうなのかい?」

「そうですわ‥‥‥」

 教師と生徒である男女の、奇妙な会話に、実行委員が気を取られている間に、顧問教師の気迫の一撃が京子の喉をかすめた。

 バランスを崩した京子が、思わずリンゴを放り投げた時、誰もが彼女の敗北を予想した。喧嘩ではなく、試合形式である以上、ダメージの有無はともかく、転倒すれば負けと判断できた。

 だが、次の瞬間京子の両手が床に伸び、彼女の体はきれいな弧を描いて一回転した。その時、彼女の両足はスカートをたなびかせながら、拳法部顧問の後頭部に触れた。

 すべては、一瞬の出来事だった。多くの生徒は何が起こったのか、良くわからないままだった。

 京子は再び道場の真ん中に、何事もなかったように立っていた。彼女の放り投げた、すでに芯だけになったリンゴは、壁をバウンドして、正確にゴミ箱に入った。その時、拳法部顧問の体が、道場に崩れ落ちていた。

「ああーッ、スッキリした!」

 それが、大きく伸びをした京子が、道場の出口にむかった時のセリフだった。

「どう、やっぱり決着つける?」

 道場の外で待っていた彩香にそう言われ、初めはキョトンとしていた京子だったが、すぐに何のことか思い出した。

「今日は止めとく。せっかく、いい汗かいて気分が良くなったことだし、今度にしとくわ」

 そう言った京子は、素早く彩香の耳元に口を寄せて、こう続けた。

「何しろ、当事者の叔父様がここにいるからネ。いずれ、キッパリ決着はつけるわよ!」

「何の話だい?相変わらず、仲がいいんだな」

 会話の中身を知ってか知らずか、透はのんびりとした口調で言った。

 三人は別に申し合わせたわけでもなく、一緒に校門に向かった。既に、彩香のロールスロイスは、主人を待ちかねていた。

「先生、たまには一緒にお帰りになりません?」

 彩香は、透の袖を引いた。透は、驚いたような、困った顔つきになった。

「彩香、いまさら何を言うんだい。登下校は一緒にならないって、約束だろう?」

「でも、ホラ、京子さんのお邪魔みたいだから‥‥‥」

 そう言って、彩香の指し示す方向に、一人のサングラスをかけた背広姿の若い男が立っていた。



    刑事達


 放課後の校門で、高校生達が三々五々下校する様子は、自分ではまだ若いつもりでいる社会人にとって、それなりに深刻で、複雑な感想を抱かせる。

 この門を自由に行き来できるということが、ある意味では青春というもののシンボルなのかも知れなかった。それは、青春という言葉の持つ意味が大きく変わりつつある現在でも、疑いようの無い一つの事実だったのだろう。

 市警本部・捜査一係の吉井は、愛車である国産のクーペの中から、その光景を見つめていた。サングラス越しの視線は、門を出る高校生の群れの中に、在りし日の自分の姿を見ていたのかも知れない。

 柳京子の姿を認めて車の外に出た、そんな彼の心中の変化を、彩香は敏感に感じ取っていた。そのことは、本人はもちろん、京子にすら気付かれるものではなかった。

 ただ、彩香の薄い印象的な唇から漏れた、嫌味に似た一言のために、京子は素直な気持ちで、吉井の前に立つことが出来なかった。もっとも、そんなことを吉井が知ることは、完全に不可能だったが。

「やァ‥‥‥」

 ややぎこちない、それが市警本部で将来を嘱望されるエリート刑事の、挨拶だった。

「何しに来たの?」

 無視するわけにも行かず、京子はつっけんどんに言った。そんな彼女の、微妙な感情の変化を彩香は楽しんでいたが、そんな表情はおくびにも出さなかった。

「ちょっと、いいかな?」

「私に?それとも、彩香に?」

 今度は、やや彩香も意表を突かれた。

 おやおや、さすがに京子さんも感づいていたか。そう思った彩香が、わずかに頬を緩めたのを見て、彼女の夫でもある美術講師は、ため息を吐いた。

 やや、出鼻をくじかれた格好の刑事は、サングラスを掛け直して、表情を取り繕ったが、いまさら無駄な行為ではあった。

「ともかく、君達の意見が聞きたいんだが‥‥‥よろしいでしょうか、高野先生?」

 さすがに、腐っても刑事、それもエリートと呼ばれるだけのことはあった。とっさに、この小生意気な二人の女子高生にとって、もっとも弱い部分を突いて来た。

 高野透は、私生活において柳京子の叔父であり、同じく荒神彩香の夫だった。また、学校内にあっては二人共通の教師であり、彼女達がどうしても頭の上がらない、数少ない人間の一人となっていた。

「何か事件ですか?」

「ええ、彼女達のような女子高生が一人、奇妙な消え方をしまして‥‥‥まだ、マスコミには伏せてありますが」

「この娘達で、お役に立つのですか?」

「木崎部長刑事が、是非お力をお借りしたいと。それも、なるべく早く‥‥‥」

 一応社会的責任のある、二人の大人同士の会話を、同じく二人の女子高生は憂鬱な気分で聞いていた。

 基本的に、社交的な場面において、透は極めてお人好しだった。だからこそ、自分の教え子が押しかけて来た時も、大した抵抗もせずに受け入れたのだ。

 そんな彼の性格を熟知する二人は、この会話の行く先が見えていた。

「先生!早く帰らないと、お夕食の支度が出来ませんわ!」

 彩香は、何の躊躇いもなく、透の袖を引いた。我が侭と言ってもいい、強引さだった。

「私も、早く帰らないと、また母さんのお小言だわ!つまらないことで、叱られたくないわ」

 これは、京子の吉井に対する嫌味だった。彼が、仕事絡みでないと、会いに来ないことに対する、明かな不満表明にもなっていた。

「どうも、弱りましたな‥‥‥」

 吉井は、サングラスを外して、透に心底困ったような表情を作って見せた。いや、実際困っていたのだった。

「彩香、夕食はフキさんが用意してくれているんじゃ、ないのかい?」

「それは、そうですけど‥‥‥」

 彩香は、あからさまに膨れっ面をして見せた。

 普段は、およそこんな表情からは、縁遠いと思われている彩香なので、通りがかった生徒達は一様に驚きの表情を見せていた。

「京子も、お母さんには、ちゃんと連絡しておく。ついでに、拳法部の先生をブッ倒したことも、うまく説明しておくよ‥‥‥」

 道場の跡継ぎでありながら、武術がからっきしダメな叔父に、幼い頃から京子がどうしてもかなわないのは、透のこんなところだった。

「彩香、どうする?」

「夕食までには、帰していただけますか?」

 とうとう、彩香としても折れるしかなかった。未練がましく、夫を省みたが、相手は笑みをたたえるだけだった。

 こんな時、彩香は自分の力をほとんど受け付けないこの男を、本当に恨めしいと思ってしまうのだった。

「では、先生も一緒にきて下さいな。保護者として、当然でしょう?」

 彩香のこの申し出を、断わることは、二人の大人には出来ないことだった。

 結局、彩香と透はロールスロイスに、京子は吉井のクーペに、それぞれ乗り込むと、校門を後にした。

 既に、古い都には夕闇が迫っていた。



    消えた女子高生


 市警本部の木崎と言えば、この街の犯罪界において、知らぬ者はいない存在だった。中年を少し過ぎた、老成の感が漂う彼はこの時代にあってもなお、タバコを手放さない愛煙家でもあった。

 その木崎が、何本目かのタバコを口に喰わえた時、夕闇に沈む街路の向こうから二台の車が迫って来た。

「長さん、お連れしました」

 そう言いながら、車を降りてきた部下の吉井の後から、制服を来た女子高生が降りて来た。彼女は明らかに不機嫌な面持ちで、リンゴをかじっていた。

 もう一台のロールスロイスからは、素早く白手袋の運転手が降りると、ドアを開けて制服姿の女子高生が降りるのを、恭しく出迎えた。

 木崎が、一瞬驚いたことにその高級車の反対側から、こちらは自分で扉を開けて一人の男も降りて来た。

「これはこれは、みなさんお揃いで、先生にまでお越しいただくとは‥‥‥」

「いや、彼女達の保護者代わりでして、甘えん坊でお恥ずかしい限りです」

 そう言うと、本気で照れて頭を掻いている叔父に、京子は抗議の視線を送った。

「叔父様、間違いないで!甘えたのは、彩香だけなんだから!!」

 京子としては、せっかく吉井と顔を合わせるチャンスがあっても、それが彩香のついでとあっては、面白いはずはなかった。

 それがわかっているだけに、彩香には京子の腹の立て方が面白かった。そのため、ついつい挑発的なことを、言ってしまうのだった。

「あら、なんでしたら、京子さんは、お帰りになっても構いませんのよ?」

「いや、それは困る!困るんです、本当に‥‥‥何でと言われても、困るけど‥‥‥」

 今にも、彩香に飛びかかりそうな京子との間に、割って入った吉井は言葉以上に情けない顔で、木崎に救いを求めていた。

 エリートと言われている部下の、何とも情けない姿を見ながら、木崎は黙ってタバコに火をつけた。

「ともかく、柳さんにも見ていただきましょう。その価値は、充分にありますから‥‥‥」

 そう言って、木崎は先に立って歩き出した。

「ご承知とは思いますが、ここはこの都でも、五本の指に入る名門女子校です。創立は明治と言いますから、まァ古さだけでも日本有数でしょうな。おっと、こんなことはむしろ、みなさんの方がよくご承知でしょうな。何しろ、現役の高校生と、その先生ですから‥‥‥」

 そんな冗談とも、説明ともつかないことを言いながら、木崎は長い並木道を抜けて校庭に案内した。

「正面に見えるのが、築百年とも言われる、本校舎です。もっとも、この裏側に鉄筋コンクリート製の新校舎があって、今の授業はほとんどそこで行なわれているそうです‥‥‥」

 そう言いながら、木崎はその木造校舎に背を向けると、校庭の反対側に向かって歩き出した。

「この奥に、木が繁ってよく見えませんが、古い講堂兼体育館があります。そして、問題の場所はあれです‥‥‥」

 それは、校庭の隅に、ひっそりと隠されるように立っていた、やはり古い土蔵のような建物だった。

「そうです、何でも江戸時代の土蔵だそうです。ここは、その昔大きな商家だったそうです」

 そう言いながら、木崎はその蔵の大きな入口に立った。周囲には、警察の調査が行なわれるためのロープが張り巡らされ、立入禁止の札が下がっていた。

 彩香達は、木崎に促されてそのロープの中に入った。

「この大きく、重い鉄製の扉の中に、この学校の女子生徒が消えたと言うのです‥‥‥」

 木崎の目の合図で、吉井が黒いお馴染みの警察手帳を開いて、説明を始めた。

「事件は、一昨日の夜、午前二時頃発生したと思われます。消えた女子高生は本田路子、十六才。この学校の、二年生です。目撃したのは、校内に忘れ物を取りに来た、同じく二年生の桃井さおり‥‥‥」

 吉井は、目撃者が被害者がこの扉の中に吸い込まれるのを見た状況を、細かく説明した。

「で、これが、その時彼女が見つけた、本田路子の靴です。家族の証言から、本人が当日履いていたことは、まず間違いありません」

 そう言いながら、木崎がビニールの袋に入った、一足の赤い靴を見せた。踵の低い、飾り気の少ない通学用の靴だった。

「赤と言うのは、制服に似合いそうもないな‥‥‥」

 美術講師らしく、透が呟くと、リンゴをかじりながら、つまらなそうに京子が言った。

「この女学館は、制服は決まっているけど、靴についての決まりはないのよ。結構、色々な靴をみんな履いているわよ。もっとも、ハイヒールはないみたいだけど‥‥‥」

「そういえば、ここは女子校の中でも、校則が厳しくない方だったな」

「良家のお嬢さん。が、多いからネ。頭の中身はともかく、お行儀はいい娘が多いみたい‥‥‥」

 この街の番長と言えるほど、その腕っぷしからも他高生に知られている京子は、自然に他校の、それも柄の悪い連中の情報には、詳しかった。

 彩香は、そんな京子達の会話には、余り興味がなかった。ここで、本当に女子高生が消えたのか、それとも何かの錯覚、あるいはタチの悪いイタズラなのか。それが、彼女の興味とは言えないほどの興味だった。

「どうです?何か、感じますか?」

 木崎は、何気なさを装いながら、彩香に尋ねた。それこそが、彼のもっとも知りたいことだった。

 木崎は、彩香が彩の姫巫と呼ばれる、一種の高度な霊能力者であることを知っていた。

「わからないのは、警察には何人もこの手の調査を行なう、占師や呪術者がいらっしゃるでしょう?なんで、私達をお呼びになったのですか?」

 彩香が、木崎に向かって、初めてその薄い唇を開いた。

 彼女もまた、この出世を棒に振ったような部長刑事が、並の捜査官でないことをよく知っていた。

「確かに、世間には伏せていますが、こんな古い街です。そういう方々の手助けが必要な事件も、少なくありません。ですが、この事件に対しては全員がわからない、もしくは事件が存在しないと、答えているのです‥‥‥」

 初めて、京子や透の背筋に、怪しい感触が走った。二人は同時に顔を見合わせると、彩香の方を振り返った。

「事件がない。ということは、目撃者が嘘をついていると?」

「あるいは、なんらかの精神的妄想かも知れないと、精神医学の先生はおしゃっていますが‥‥‥」

 どうやら、吉井はどちらかというと、その説に賛成らしかった。

 言葉に出しはしないものの、目撃者が被害者を何かの理由で、どこかに隠したのかも知れないという意見が、警察内で有力であることは、彩香でなくとも、容易に察しのつくことだった。

「でも、木崎さんは、目撃者の言葉をお信じになる?」

 木崎は黙って、タバコを喰わえ直したが、やがてそれを口から離した。

「これは、ほとんど、勘なんですがね‥‥‥」

 そう言いながら、吉井の持つ被害者の靴を示した。

「こいつを見た時、妙な胸騒ぎがしましてねェ‥‥‥それに、今時の女子高生なら、もっともましな嘘をつくんじゃありませんか?」

 それには、京子も同意した。扉に吸い込まれたなんて、被害者の靴を持って叫んでみても、誰も信用するとは思えなかった。

 京子は、リンゴをかじりながら彩香を見つめた。この、自分の叔父の妻を名乗っている奇妙な友人は、この手の不可思議に関して、圧倒的な強さを見せた。

「中は、お調べになったのでしょう?」

「ええ、学校側に無理矢理頼んで‥‥‥でも鍵は錆び付いていて、開けることはできませんでしたから、バーナーで焼き切りました。ご覧になりますか?」

 木崎の言葉に、彩香は小さく頷いた。

 吉井が新しく警察が取り付けた南京錠を開け、木崎と協力して重い鉄製の扉を開いた。



    残った蔵


 土蔵の中は、埃に満ちていたが、捜査員が中を隈なく調べたのだろう、床はきれいに掃かれた後があった。

「昭和の初めに閉じられて以来、開いたことがなかったそうで、最初に開けた時には、埃が層になって積もっていました」

 吉井は蔵の中の、これも警察が用意した明りをつけると、そう言いながら、二人の女子高生に手を貸して、中に入れた。

「当然、その埃には足跡はなかったんでしょう?」

 リンゴを持った手で埃を払うようにしながら、京子が尋ねた。

「ええ、人の足跡どころか、猫の足跡すらありませんでした」

 吉井が答えると、透が感心したように言った。

「これは、大正時代の学校用具じゃないか、文化財クラスじゃないか?」

「らしいですな」

 興味なさそうに、木崎が答えた。彼は、ひたすら彩香の反応を待っていた。

 しかし、彩香は埃を避けて、口元をハンカチを覆うだけで、別に何かを探そうとする様子もなかった。

「どう彩香?なにか、わかる?」

 京子の言葉に促されるように、彩香は木崎を振り返った。

「この蔵は、何で閉め切られたのですか?」

「さァ、何しろ昔のことなので、この学校の先生も詳しくは御存じなかったみたいですが‥‥‥やはり、なにか曰くがありそうですか?」

 木崎の目付きが、微かに変わったことを、彩香以外では吉井だけが気が付いて、身を固くした。

 彩香は、吉井の背後の蔵を横に繋いでいる、大きな梁を指差した。

「あそこに、何かありませんでしたか?」

 木崎は、即座に吉井に合図をした。身の軽い吉井は、近くの平均台のような物を使って上に登った。

「埃の下に、何か擦れたような痕があります。滑車でも、吊したんじゃありませんか?」

 埃を払いながら降りて来た吉井は、顔をしかめてそう報告した。

「明日にでも、古い関係者に当たってみよう。それだけですか?」

 木崎の言葉に、彩香は頷いた。

「刑事さん、これほど古い建物なら、死人の一人や二人、いてもおかしくありません‥‥‥」

 そう言う彩香の目には、蔵の梁に釣り下げられている、ボヤけた何かの姿が写っていた。だが、既にその影は薄く、その存在を感じることは、ほとんど出来なかった。

「他の方がおっしゃるように、ここには何もないようです‥‥‥」

「そうですか‥‥‥」

 明らかに、木崎は落胆していた。彩の姫巫に感じられない以上、超常現象と言うことは、ほとんど有り得ないと考えたのだ。

「でも‥‥‥」

「でも?」

 蔵の外に出たところで、彩香の足が止まった。

 最後に外へ出た吉井が、蔵の扉を締めて、鍵を掛けていた。

「なぜ、こんなところに、こんな物が、残っていたのでしょう?」

 そう言って、彩香は蔵を振り返った。

 既に夜空には星が瞬き、古い土蔵は、奇妙な威圧感を見上げる者に与えていた。

「確かに、邪魔と言えば言えますね‥‥‥」

 吉井が呟くように、頷いた。

「何の謂れもなく、古いだけだったら、潰して校庭を広げるようとは思いませんか?」

 大して広くもない校庭を取り囲むように、よく手入れされた木が植っていた。もし、ここにこの土蔵がなければ、確かにグラウンドを広く使うことが、容易であるように思えた。

 何か嘘寒いような思いを抱いて、木崎達は彩の姫巫と呼ばれる彩香を振り返った。彩香はその長い髪を、夜風がくすぐるに任せていた。

「先生、早く帰って、夕食にいたしましょう!」

 透の腕にすがりついたそんな彩香の表情から、別の何かを感じることは、透にすら不可能だった。

 京子はかじりかけのリンゴから、土蔵の中でまみれた埃を払い、再びそれに歯を当てると、そっと吉井の腕に自分の腕を絡めた。


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