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第1章

今回は拙い、氷中の小説を御覧いただいて、ありがとうございます。のっけから、失礼とは思いますが、1つお断りがあります。通常、ミコという漢字は「巫女」と書きますが、「巫」でも間違いではありません。「男巫おとこみこ」ということばがあるくらいです。なおこの作者は『あんのん〈http://ryuproj.com/cweb/site/aonow〉』というホーム・ページやHINAKAのブログ〈http://blog.so-net.ne.jp/aonow/〉で、こちらにはまだ掲載できない物語や、アニメやマンガなどの評論や感想を載せています。そちらも御覧いただければ、幸いです。では、この物語が、一時の楽しみとならん事を!

    プロローグ


 夜の学校というものは、それでなくとも何となく気味の悪いものだ。近代的な建築の新設校であっても、暗く無人の校舎内はそれだけで人を恐れさせるものがある。

 それが、古い都の中の由緒ある学校で、伝統の木造建築校舎となればなおさらだった。その不気味さは、門の外の街の喧騒とは掛け離れた、一種独特の異世界のようにすら感じられた。

 そんな木造校舎の一角に、辺りを窺う人影があった。年の頃は十六・七、恐らく昼間はこの学校に通っている女子生徒だろう。しかも、その影は一つではなかった。

「あれは、ミチじゃない?どうしたのかしら、こんな時間に‥‥‥」

 忘れものを取りに来た女子生徒は、人気のあるはずのない校舎の中で、自分以外の人影を見つけて興味を覚えた。

 もしかしたら、何かしら決定的な瞬間を目撃できるのかも知れない。そんな、やや不純な動機にも動かされて、彼女は同級生の後を付けていた。

「あら、開かずのお蔵じゃない。何をする気かしら、こんな気味の悪い場所で‥‥‥」

 古い学校の御多分に漏れず、この学校にも開かずの扉といった類の場所があった。その一つが、昼なお寂しい校庭の端にある、この古い土蔵だった。

 多くの場合、生徒達のこういうロマンチックな期待は裏切られるのが普通だった。そういう場所が閉め切りであるのは、鍵が無いとか、普段必要が無いので開けるのが面倒くさいとかいう、現実的な事情であることがほとんだった。

 その蔵もまた、およそロマンのかけらもない、そういった管理者側の身勝手な事情で、閉じられているに過ぎないはずだった。

 だが、夜の夜中にそこに立つ者にとって、そんな管理者側の身勝手な事情はほとんど何の意味も持ってはいなかった。それよりも、生徒の間で代々語り継がれてきた噂の方が、はるかに現実味を帯びることは仕方の無いことだった。

「ちょっと、ミチコさん‥‥‥!」

 好奇心から様子を窺っていた女子生徒も、ついに恐怖の緊張に耐え切れなくなって、声をかけた。不穏な想像をあれこれ巡らせるよりも、本人から直接事情を聞く方が手っとり早いことに、ようやく気が付いたのかも知れない。

 だが、彼女は相手から事情を聞くことはついに出来なかった。彼女がミチコと呼んだ相手は、彼女が声をかけるのとほとんど同時に、開かずの扉の中へ消えたのだった。

 最初、彼女は相手がなんらかの方法で扉を開けて、中に入ったものと思った。だから、慌ててその扉の前に駆け寄った。

 女子生徒の予想に反して、その扉は昼間彼女達が目にしているのと同じ状態で、固く閉ざされたままだった。錆び付いた重々しい鉄性の扉は、ここ何年間もそうであったように、毛筋ほども開いた気配は無かった。

 若い娘の背筋に、恐怖が走った。

「ミチ、ミチコ!どこよ、どこにいるの!?」

 そう叫びながら周囲を見回した彼女は、足元に何かがあるのを感じた。彼女が視線を落とすと、そこには若い女の子用の赤い靴が一足落ちていた。それを拾い上げた女子生徒が、反射的に扉を見上げるとそこには、二本の棒のようなものが突き出していた。

 それは明らかに、若い女性の両足だった。しかもバタバタと動きながら、徐々に扉の中へ吸い込まれていた。そのことを知った時、女子生徒は生まれてからこの方上げたことの無い、最大の音量で悲鳴を発していた。

 女子高生の絶叫が、夜の静寂を破って門の外の街の喧騒に届いた時には、既に彼女は気を失って、その場に崩れるように倒れていた。その傍らには、彼女が拾い上げた靴が落ちていた。



    彩の姫巫あやのひめみこ


 薄暗い、広い畳敷の部屋の中央に、二人の男性が座っていた。どちらも、キチンと背広を着こなし正座をしていたが、その額や首筋から流れる脂汗を拭うことも忘れたように、硬直していた。

「すると、機密は既に知られていると?」

 やや小柄な、頭の中央部分が薄くなった男は、緊張に声を張りつかせていた。

「信じる、信じないは、あなた方の勝手。ご自分の目で、お確かめなさい‥‥‥」

 その声は、二人の正面から少し離れた、御簾の中から静かに響いてきていた。揺らめく灯明の光の中で、その御簾の中の影がわずかに片手を上げた。

 二人の男の前の空間に、幻のような情景が浮かんだ。

「こ、これは‥‥‥!」

 二人の男は、驚きの呻き声を上げ、顔を見合わせた。

「ここがどこで、そこにいるのが誰なのか、それはあなた方の方が良くおわかりでしょう?」

 御簾の奥で、赤く染まった薄い唇が、皮肉な言葉を発していた。だが、男達にはそんな皮肉を感じる余裕はなかった。

「首相‥‥‥これはまさしく、ホワイトハウス‥‥‥大統領執務室!しかも、あそこにあるのは、今日の日付のワシントン・ポスト!!」

 小柄な男の隣に座る男は、はるかにガッチリとした体格の持ち主であったが、その体が細かく震えていた。

 そして、小柄な男に至っては、その言葉に返事をすることもできなかった。

「あなた方のお捜しのものは、そのテーブルの上のものではありませんか?ご覧なさい‥‥‥」

 御簾の中の影が腕を一振りすると、その幻のような映像の一部がクローズアップされるように、机の上の書類が浮かび上がった。

「ゲッ!」

 という声を挙げて、小柄な男は後ろに仰け反った。口からは泡を吹き、白目を剥いていた。

 隣の大柄な男は、泡を吹いて倒れた男には見向きもせず、御簾の奥に尋ねた。

「こ、これを、持ち出した者は!?」

 今にも立ち上がりそうな男の勢いに、淡い映像は消えた。

「無礼であろう!彩の巫様に対して!!」

 とたんに、暗がりの中から激しい叱咤の声が飛んだ。御簾で閉ざされ部屋の奥は、一段高くなっていたがその手前両側に、白装束に身を固めた者達が控えていた。

「よい。これは、願いの筋ではなかったな?」

 御簾の中の、形の良い薄い唇から漏れた言葉に、立ち上がりかけた大柄な男は萎縮して座り直した。

「申し訳ありません。余りのことに、取り乱してしまいました。しかし、ことは国家の大事。どうか、お教えを‥‥‥」

 平伏して、額を畳に擦り付ける男に対して、控えの白装束から再び厳しい言葉がかかった。

「ならぬ!巫様のお告げは一度に一つ。早々に、その見苦しい男を連れて、引き取れいッ!」

「よい。その問いに答えることはできぬが、一言だけお伝えしよう」

 再び、控えの者の言葉を押さえた御簾の中の声は、身を震わせて平伏する男に、向かって言った。

「そなた達の予想は、間違っておらぬ」

 その言葉が終わると同時に、ほの暗い部屋の明りがすべて消えた。

「姫巫様の、お立ちィ!」

 近従の声が、御簾の奥の主の退出を告げた。

 明るくなった部屋では、二人の男だけが取り残されていた。

「首相、お気を確かに‥‥‥」

 大柄な男に揺り動かされた男は、口の端からだらしなく涎を流しながらも、何とか意識を取り戻した。

「計画書を、あの計画書を取り戻さなくては‥‥‥」

「もはや、遅いでしょう。それよりも、あれを持ち出したのはどうやら我々の予想通りでした」

「では、官房長官が!?」

 大柄な男は、ゆっくりと立ち上がった。慌てて、小柄な男も続いた。

「ともかく、これで計画は白紙に戻すしかありませんな‥‥‥」

「そんな、それでは、次期総裁選で私は勝てんぞ、君も大蔵大臣ではいられん!」

「そうですな‥‥‥」

 そう言いながらも、大柄な男は冷やかな目で、自分の前にいる小柄な男を見おろしていた。



   荒神彩香あらみ・さいか


 明るい部屋で白装束の女性が、主人の着替えを手伝いながら自分が見たことに、腹を立てていた。

「まったく、あれがこの国の首相だなんて、信じられません。あれなら、旦那様か姫様が首相になられた方が、よっぽどましでしょうに!」

 そんな侍女の言葉に微笑みながらも、堅苦しい巫の衣装をさっさと脱ぎ捨てられる解放感に、主人の顔はほころんでいた。

「冗談ではないわ。こんなことだけでも嫌なのに、首相だなんてゾッとするわ。ああ、そんなことより、フキはちゃんと家に行ってくれた?」

 そんな若い女主人の言葉に、彼女が脱いだ着物を丁寧に折りたたんでいた、もう一人の侍女が応えた。

「もちろんですよ。あの方が、お嬢様のお頼みを聞かないはずはありませんでしょう?」

「よかった。お祖父様にご挨拶したら、すぐに帰るから、車の用意をお願いね」

「嫌ですわ。家に帰るだなんて、彩香お嬢様のお屋敷はこちらでございましょうに‥‥‥」

「いいえ、私の家は、もうここではなくてよ!」

 侍女のため息をよそにそう言うと、彩香と呼ばれた若い女主人は、白いワンピースに着替え、水色のリボンでその長い黒髪を束ねた。

 そして、度の入っていないメタルフレームの眼鏡をかけながら、部屋を出た。

「お祖父様。お言いつけの件、終了致しました」

 縁側で、ピタリと正座をした彩香は両手を丁寧について、頭を下げた。

「女達が嘆いておったが、やはり向こうに帰るか?」

 かすりの着物の上に、そでなしの上着を上品に羽織った老人は、床の間の前で花を活けながら、縁側の娘に尋ねた。

「はい、私はもう、荒神彩香ではなく、高野彩香です。どうか、このようなお言いつけは、お許し下さい」

 そう言うと、深々と頭を垂れた彩香の髪が、崩れるように縁側の廊下に広がった。

「その若さで、つまらぬの男のものになりたがるとはな‥‥‥だいたい、そなたがあの男のもとに走ったのは、その力を忌み嫌ってのことであろう?純血を失えば、巫としての力が無くなるとおもったのじゃろう?違うか?」

 彩香は、赤く染まった顔を上げるに上げられず、平伏したままだった。

 そんな孫娘の様子に、意地の悪い視線を投げかけながら、老人は言葉を続けた。

「じゃが、そんなことではそなたの力はなくならん。それどころか、男を知ったことで、より大きな力を操れるようになった。今日のことにしても、太平洋の向こうの景色を映し出すとは‥‥‥大したものじゃ。どうじゃ、その力、今少し利用してみては?」

 ようやく、彩香は顔を上げた。

「お祖父様。何と、おっしゃられても、私はもう荒神一族のしがらみに捕らわれとうはありません。夫と、平凡でも静かな一生を終わりとうございます」

「やれやれ、その夫とやらが、そなたの通う学校の教師とあっては、既に平凡で静かとは、言えまいに‥‥‥」

「彩の姫巫として生きるよりは、よほど平凡と思いますが?」

「この国、いやその気になれば、この世界をも支配できる力を持つ者が、たかが高校の美術教師と一緒にいたいとは‥‥‥で、あの男は良くしてくれるのか?」

「相変わらず、絵ばかり描いています。このままで、秋の日展に間に合うのやら、間に合わないのやら‥‥‥」

 そう言う彩香の表情は、困ったような顔をしていながらも、誰よりも幸せそうだった。さすがに、そんな孫娘の表情を見てしまうと、祖父としてはそれ以上何も言えなかった。

 孫娘は、ニッコリと微笑むと、大きな白い帽子と手袋を持って立ち上がった。

「嫌になったら、いつでも帰るのじゃぞ」

 岩倉の老人と呼ばれ、政財界の黒幕として君臨するこの老人も、孫娘に対してはそんな月並みなことを言って、送り出すしかできなかった。



   高野透たかの・とおる


 いつの間にか、空は夜の闇に閉ざされていた。

 彩香を乗せたロールスロイス製のリムジンは、ロールスロイスが世界の金持ちや上流階級に愛された清粛性を発揮し、静かに家の前に止まった。

「ただいま」

「お帰りなさいまし、お嬢様」

 彩香の声に答えて、着物姿の老女が玄関まで出て来た。彼女は、幼い頃から彩香の面倒見ているのだった。

「留守番ありがとう。どう?何かあった?」

「いいえ、何にも‥‥‥それどころか、あの方、少しおかしいんじゃありません?私が来てからずっとあのまんまですよ。お茶をお入れしても、ああッと言った切り、振り返りもしない。いえ、芸術家なんて者がおかしいのは存じておりますが、絵を描いているならまだしも、あの人ときたら絵を描くでもなく、ただ黙って睨んでいるだけ。お嬢様の前でこう言うのはなんですが、私は気味が悪くって‥‥‥」

 老女の愚痴にも似た早口に、辟易したように彩香は彼女の肩を叩いた。

「わかった、わかったわ。わかったけどね、婆や。あなたでも、あの人の悪口はよしてちょうだい。あれでも、れっきとした私の旦那様なのよ!?」

「冗談じゃありませんよ、お嬢様。ああァ、その気になればどんなお家柄でも、選り取り緑のお嬢様が、何を好き好んでこんな絵描きの教師風情と!それというのも、お嬢様が、あんなあられもない姿を描かせた上に、美術展とやらで公表されたために‥‥‥わたしゃ悔しいやら、悲しいやら、情けないやら!」

 そう言うと、本当に涙ぐんで目元を押さえる婆やに、彩香はため息をついた。

「アーア、だから婆やに家のことを頼むのは嫌だったのよ。こんなことなら、もう二度と頼まないわ!」

「とんでもありません!お嬢様。お嬢様がこんな家の雑用をなさるなど、このフキの目の黒い内には、決してさせません。どうか、お嬢様、私をこの家において下さいましな‥‥‥」

「あーら、たった今、気味が悪言っていた人が、どうしたのかしら?」

「そっ、それは、あの人‥‥‥いえ、あの方が少し変わっていると申し上げたただけで、私は決してこの家がどうのと‥‥‥」

 さっきとは、また違った表情で涙を浮かべる老女に、彩香はやさしい瞳を向けた。

「わかっているわよ。婆やの気持ちは‥‥‥その内、きっと婆やにもあの人の良さがわかるわ。さッ、後は私がやるから、婆やはもう帰ってちょうだい。車が待っているわ」

「お嬢様。その、やはり、置いて下さるわけには?」

「いくら婆やでも、新婚家庭の邪魔はして欲しくないもの。今日みたいに、用があったら必ず来てもらうから、ねッ、お願い」

「わかりました。では、くれぐれも、お気を付けて、いつでも呼んで下さいましね?」

「もちろんよ」

 そう言うと、彩香の笑顔に促されるようにして、老女は玄関の外へ消えて行った。何度も、名残惜しそうに、彼女を振り向きながら。

 そんな婆やを見送った彩香は、キッチンに入ると帽子や手袋を取ると、手近な台に置いた。そして、婆やが用意してくれたテーブルの上の食事に目を細めた。

 なんだかんだ言いながら、婆やはちゃんと二人分の食事を用意してくれていたのだ。

 婆やが準備しておいてくれた、コーヒー・メーカーのスイッチを入れた彩香は、奥のアトリエのドアをノックした。中から返事はなかったが、彩香はそっとドアを開けた。

 天窓から空にかかる月の、優しい光が差し込む広いアトリエには、描きかけの画布が乱雑に並んでいた。フローリングの床の上には、デッサンやスケッチが散らばり、その美しい木目を見ることはできなかった。

 そんな乱雑で、息がつまりそうな絵の具の臭いの中で、一人の男が大きな画布の前で腕組をしたまま座り込んでいた。

「ただいま、先生」

 その背中に彩香は挨拶したが、反応はなかった。その様子を確かめるようにした彩香は、そっとドアを閉めると、キッチンへ戻った。

 キッチンで眼鏡を外した彩香は、二つのカップにコーヒーを注ぐと、そのカップを小さな盆に乗せて、再びアトリエのドアを叩いた。

「先生、コーヒーが入りましたよ」

 そう言いながら、男の背後に腰を降ろした彩香は、散らかっているスケッチを集めて、一つにまとめた。そして、ようやく顔を出したフローリングの床から、自分用のクッションを見つけると、その上に膝を折って座った。

 もう一度、声をかけようとした彩香は、夫が筆に手を伸ばしたことに気付いて、その声を飲み込んだ。やがて、男は立ち上がると、パレットに新たな絵の具の色を落し始めた。

 その後ろ姿を見つめていた彩香は、黙って自分のカップをその薄い唇へ運んだ。絵の具の臭いに、コーヒーの芳香が混じり、常人には耐えられないような奇妙な臭いに染まることも、彩香には何ともなかった。

 どのくらい時間が経ったのか、描きかけの画布を前に、夕方からずっと考え込んでいた高野透は、ついに意を決して筆を使い始めた。色合いに、どうしても納得が行かなかったのだが、これ以上考えていても始まらないと結論したのだろう。

 一心不乱に筆を奮う透が、ふと背後の気配に気付いたのは、すでに真夜中を過ぎた頃だった。

「なんだ、彩香、帰っていたのか?」

「なんだは、ないわ。ほら、せっかく入れたコーヒーが、すっかり冷めてしまいましたわ」

 口調は相手をなじるものだったが、彩香の表情には相手に対する非難がましさはなかった。透は、そうかとも、ごめん、とも言わずに、その冷め切ったコーヒーに手を伸ばした。

 とっさに彩香は、軽く指を鳴らした。すると、透が自分の口元に運ぶ途中のカップから、微かな湯気が立ち昇った。

「なんだ、そんなに冷めていないじゃないか。うん、おいしいよ」

「よかった。先生の、私に対する愛情まで、冷めてしまわないで‥‥‥」

 そう言いながら、彩香は透の胸に寄り添った。

 彩香が、この透の家に一緒に住むようになって既に半年以上経っていた。それにも関わらず、透は未だに彼女にこのように甘えられると、どうしていいのかわかっていなかった。

 それは、透が彼女のことを意識して硬直しているというより、根本的に、彼が女性の扱いに馴れていないことが、原因のようだった。透は、寄り添う彩香を無視するでもなく、さりとてその肩を抱くでもなく、ボンヤリとコーヒーを呑込んだ。

「お食事になさいません?婆やが、食事の用意をして行ってくれていますの‥‥‥」

「あの婆さん‥‥‥、いやフキさんが来ていたのか?」

 キョトンとした顔で、真面目に尋ねる透に、彩香は笑顔を向けると立ち上がった。

「婆や、怒っていましたわ。先生が挨拶もロクにしないって」

「そりゃ、失礼をしたな‥‥‥今度会ったら謝っておいてくれよ‥‥‥そう言えば、おじいさんの用事ってなんだったんだい?また、早く帰って来いってことか?」

 カップが空になったことにも気が付かず、新たに筆を入れたばかりの画布を眺めながら、透は機械的に尋ねた。

 彩香は、その透の手からカップを取って、自分のカップと一緒に盆の上に乗せた。

「うん、それもあったけど、大したことじゃないわ。ちょっとした、内閣の危機の話で、先生との夕食をキャンセルするほどのことじゃなかったわ‥‥‥」

そう言いながら、立ち上がった彩香はドアに向かった。

「ああ、そうか。確かに、首相が誰になったところで、大した違いはないもんな‥‥‥」

 ドアを出る彩香を、振り向きもしないで、透はそう言った。ドアを閉めた彩香は、少し驚いたような顔で肩をすくめた。

「どうしてわかるんだろう?勘がいいのか、悪いのか、さっぱりわからないわ!」

 そう呟きながらも、彩香は嬉しそうだった。

 そして、いそいそと、夕食に支度を始めるのだった。もっとも、支度と言っても、婆やが作っておいてくれたものを、レンジで暖め直すだけなのだが‥‥‥。



    柳京子やなぎ・きょうこ


 透と彩香は同じ私立聖麗せいりょう高校に、生徒と講師として通っている。

 朝、彩香が目覚めると、たいがい透は既に着替えていて、出勤の準備が出来ていた。

「先にいくぞ。遅刻するなよ」

 それが、いつもの透の挨拶だった。

 その声で、ベッドからモゾモゾと起きた彩香は、先ず顔を洗うと、指先を鳴らして一瞬で制服に着替えた。顔も一瞬で済ませることはできるのだが、朝に弱い彼女は冷たい水を素肌に感じないと、なかなか目が覚めなかった。

 もっとも、彼女がここに住む以前は、顔も侍女に洗ってもらっていたものだった。着替えると、なんとか目を覚まさせた彩香は、キッチンに入って昨夜の夕食の後を見つめた。時計を見ると、間もなく迎えが来る時刻になっていた。片付けをしている時間はなかった。

 彩香は目を閉じて、口の中で小さく呟くと、両手を広げて大きく回した。

「あるべきところ、あるべき姿に!」

 その声と同時に、テーブルの上の食器達はガタガタと移動を始めた。

 蛇口は自動的に開き、水が皿を次々と洗い、フォークやスプーンは、食べ残しをごみ箱に滑り込ませた。

わずかな時間で、食器達は食器棚に収まり、テーブルは磨かれ、食べ残しは片付けられた。棚の最後の引出しが閉まって、スプーンが消えると、彩香は改めてキッチンを見回した。

「うーん、まァまァね。これなら、婆やが来ても、文句はないでしょう」

 そう呟いた彩香の耳に、小さなクラクションの音が響いた。

 家の前に、岩倉から差し回されたロールスロイスが止まり、運転手が恭しく彩香を出迎えた。

 案の定、フキが車から降りて来た。

「あら、婆や。何しに来たの?」

 少し意地悪く、彩香は尋ねた。

 だが、そんな嫌味もフキには通じなかった。

「お留守の間に、お家の片付けをさせていただきます。お嬢様がお帰りにならない以上、不本意ですがこの家を少しでもお嬢様にふさわしく管理するのが、私の役目と存じます」

「別に構わないけど、この家はフキが腕を振るうには、少し小さ過ぎるのじゃなくて?」

「本当に、左様でございます。でも、それはそれ、これはこれ。どうぞ、行ってらっしゃいまし」

 そう言われた以上、彩香としても逆らう言葉はなく、やれやれといった表情で車に乗った。だが、フト気が付いて、窓を開けた。

「婆や、言い忘れたけど、アトリエだけは絶対に触っちゃだめよ!」

「もちろんでございます!誰があんな、ゴミ溜のような部屋‥‥‥どうぞご心配なく、お任せ下さい」

 老女は、深々と頭を下げ、彩香もそれ以上は何も言わずに車を出すように命じた。

 この話を聞いて、頭に来たのは柳京子だった。

「家が狭いか、大きいかなんて、余計なお世話よ!まったく、あの婆さんときたら、生け好かない!!あんたもあんたよ!なんで、そこまで言われて好きにさせるの?あそこは、あなたの家である以上に、叔父様の家なのよ!叔父様が迷惑するじゃない!!」

 放課後の生徒会室で、京子は頭のかなり高いところでまとめたポニー・テールを振り回すようにして、彩香に喰ってかかっていた。

「あら、先生は、家が片付くって喜んで下さっているわ」

 生徒会懸案の書類をめくりながら、メタルフレームの中の彩香の細い眼差しは、動じる気配がなかった。

「叔父様は、ああいう人だから、何でも許しちゃうのよ!だいたい、そういう叔父様の人の良さに漬け込んで、押しかけたのはあんたじゃない!あんたが、叔父様に言い寄ったから、叔父様はそんな言われ方をするんじゃないの?そもそも、悪いのは全部あなたじゃないの!?」

 勢い良く立ち上がって、一気にまくしたてた京子は、さすがに息が切れたのか、書類の散乱した机に手を付いた。

「京子さん、話の筋がズレていますわよ」

「あんたねーェ!」

 京子の声が変わり、握りしめた拳がフルフルと震えるのを見た他の生徒会役員が、素早く目配せをすると、男子役員が慌てて立ち上がった。

「副会長!そろそろ、拳法部の対抗試合が始まりますが、立ち会われないんですか?」

「私が、出るのかい?」

 キョトンとして、京子は相手の顔を見返した。

 とっさに、返事につまった役員に代わって、しゃれたベッコウ模様の眼鏡フレームの女性役員が、座ったまま説明した。

「これは、拳法部が地区大会に備えた、選手選抜のための対抗試合です。体育実行委員長である、副会長が出席されないと、その試合結果は認められません」

 書記長でもあり、京子や彩香より学年が上でもあるこの女生徒は、京子達よりもはるかに生徒会の仕事に精通していた。そのため、彼女の言葉は、それなりに京子も尊重せざるを得なかった。

「まったく面倒な‥‥‥やい、彩香!決着つけてやるから、逃げるなよ!!」

 彩香に対して凄んで見せた京子は、書記長に場所を尋ねた。

「柔剣道場だな!」

 次の瞬間、フワリと浮かんだ京子の体は、生徒会室の窓の外へ消えた。

 生徒会室は四階建ての校舎の、三階にあった。下のグラウンドから、生徒達の悲鳴と歓声が聞こえて来たのは、その直後のことだった。

「では、私も華道部を見て参ります。お後のこと、よろしいわね?」

 居並ぶ役員達が頷くのを見て、彩香は立ち上がると、深々と一礼してドアの外へ消えた。

 その瞬間、生徒会室には、どっとため息が満ちた。

「まったく、あの二人がいると、ちっとも作業が進まないわ。さァ、今の内に早く進めてしまいましょう」

 その書記長の言葉から、部屋の中は一気に事務的な活気に支配された。

「それにしても、三階から飛び降りて何ともないなんて、人間じゃないな‥‥‥」

「何度見ても驚くよ」

 配布するプリントのチャックをしながら、一年生の役員が小声で興奮気味に話し始めた。

「また、何か壊されるかと思って、ヒヤヒヤしたわ」

「この間は、この部屋が全壊したものね‥‥‥」

 そんな、上級生の言葉に、一年生が驚いた。

「そんなに凄いんですか?」

「でも、喧嘩で負け知らずの副会長はともかく、あの会長が物を壊すなんて‥‥‥」

「そうそう、聖麗の柳と言えば、ヤーさんも避けて通っるて聞きましたけど、あの荒神会長が物を壊すなんて‥‥‥」

「あなた達、いいかげんにしなさい。みなさんもなんです!?」

 役員達の手の動きが止まったのを見て、書記長がたしなめた。

「でも、一年生役員に、会長と副会長の正しい知識を身に付けていただかないと‥‥‥」

「そうそう、今日みたいな時の対処の方法を知らないと、まずいんじゃないか?」

 同じ学年の役員にまでそう言われた書記長は、それもそうねと頷くとベッコウ縁の眼鏡を外して、壁の貼紙を示した。

 そこには「物を大切に、注意一秒、怪我一生」と墨痕鮮やかに、大きく書いてあった。

「あれが何か?」

「どこにでもある、スローガンじゃないですか?」

 この春入学したばかりの一年生役員は、怪訝な顔で見つめ合った。

「あれを書いたのは校長先生。この部屋が全壊した後で、あれを自分で書いて、貼ったのよ‥‥‥」

「何しろ、あの時は居合わせた役員五人の内、三人が怪我をして、止めに入った生徒会顧問の先生は、二カ月の重傷‥‥‥」

「この部屋の中の物は、すべて粉々に壊れて、窓も吹き飛んだわ‥‥‥」

 上級生達の真剣な表情と、話の内容に一年生達は顔を見合わせた。

「そんな、いくらなんでも‥‥‥」

「そうですよ、だいたい、そんな大喧嘩をする理由があるんですか?」

「だから、君達に彼女達のことを知っておいてもらう必要があるんだよ」

 ほとんど信じていない一年生に対して、上級生達はあくまで真剣だった。

「そうよ、彼女達が聖麗の二人の魔女と呼ばれるのは、あながち大袈裟じゃないんだから‥‥‥」

 そう言った女子役員は、書記長を振り返った。

 そこにいる役員全員の視線を受けて、書記長は眼鏡のレンズを拭きながら、大きくため息を一つ吐いた。

「わかったわ、話しましょう‥‥‥」

 生徒会室の外からは、威勢のいい運動部のかけ声が届き、空の色はまだ夕暮れには早かった。




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