2-現
「んで――落ちた」
香苗〈かなえ〉はそう言うとがっくりと項垂れて、ひひ、と気色悪く笑った。
「落ちたって、何が?」
「だからブレーカーが」
「ああ」
香苗はがっくりついでなのかそのまま机に伏してしまい、ハイスペは良いけど電気食いすぎなんだよなとこぼす。
窓から差す光が赤昏い。壁時計に目をやると十七時を指していた。
かれこれ三十分以上話している。
わたしはそろそろ帰ろうかと机に伏す友に声をかけたが、
「やっぱり電気工事して新たに増設しなきゃいかんかな」
返ってきたのは話の継続を示すそんな言葉だった。
パソコンの話――らしい。
正直よくわからない。
授業で使ったことくらいはあるけれど、持ってはいない。欲しいとも思わない。機械に疎いという意識はないのだけれど、おそらくもて余してしまう。
機械の利便性を必要とするほど、わたしの日常は充実してはいない。
いや充実はしている。ただ不便な日常を送ってはいないというだけだろう。
携帯電話だって持っていない。電話連絡は自宅の固定電話でこと足りているし、家族の伝達はメモ用紙一枚で良い。友達とのおしゃべりだって学校ですれば良いのだし、だから自分専用の端末なんていうものは必要ないのだ。
香苗は機械――特にパソコンが好きらしい。十四という年齢を考えれば早熟した趣向だと思う。そう言うと香苗は時代遅れなんて返すけれど、同じクラスで自分専用のパソコンを持っているのは香苗くらいである。
香苗はパソコンの話ばかりだ。
先日パソコンを新調したらしい。
だから。
迫る期末テストに向けて部活動が停止している今、静かな教室に響くのは香苗の新しいパソコンの話題だけである――。
というか他に誰もいない。
帰らないと。
ここにきてようやく、わたしはそわそわし始めた。
別に、香苗とのおしゃべりに熱中しているわけではない。しゃべるのはもっぱら香苗の方だし、しかも語られる内容のそのほとんどがわたしには理解できないものだから、わたしはこの三十分間ああとかうんとか実に適当な相づちを打っていただけだ。
だから。
だから、会話を終えることに対して心残りも惜しむ気持ちもない。残っていることを先生に咎められる方が嫌だ。
「まあ工事はさすがにやり過ぎかな。お金かかるし。今回のパソコン費用ん十万払ったのも親だしね、さすがにこれ以上の出費は親としてもきついっしょ。あきらめるしかないかなあ。でもなあ、ライン繋いでる時にバチん――なんて、結構辛いものがあるわけさ。現実だろうが非現実〈ネット〉だろうがコミュニティーって大事なわけで――」
「……香苗、そろそろ――」
「ああごめんごめん、帰るんだっけ。了解了解、くだらない話に付き合わせちゃってごめんね。なんせあたしのパソ話を嫌な顔せず聞いてくれるのは柚子〈ゆうこ〉だけだから、ついつい長くなっちゃった」
「ううん、それは全然良いんだけど……」
わたしは話を聞いているだけだ。
理解できないから適当な相づちを返して、あとは聞いているだけ。かといって、わたしが聞き上手な人間かというとそうではない。
わたしが思うに、聞き上手な人間というのは、たとえ自分の知らない話題に対しても知っている体を崩さず、あるいは興味があるぞ、という態度を出して相手の話の進行に積極的に乗っかっていく人間のことである。
時にはオーバーに、時には引いて、そういう『表現の細工』を用いて、上手いこと相手の気分をコントロールできる人間こそ聞き上手なのではないか。
ならわたしは絶対に違う。
わたしはそんなことしていない。できない。
わたしがしていることはただ聞き、相づちを打つ、それだけである。
それだけでも表情に笑みがあれば多少は良いのだろうけど、わたしは常に無表情で、香苗が自分の話の流れで笑おうが不満を言おうが俯こうが、わたしはそれに合わせない。
ずっと、無表情である。
香苗のいう「嫌な顔しない」というのは実のところ、嫌な顔『も』しない、というだけなのだ。
――それって。
楽しいのだろうか。
もちろん香苗が――である。
会話とは一人で行うものじゃない。そして人と行うものだ。
よくキャッチボールに喩えられるが、投げたボールが一向に返ってこないというのは至極つまらないと思う。
投げっぱなしだ。
掴んでもらう喜びも返される楽しみも再び手にする快感も――何もない。
そんなの、壁に向かって投げているようなものだ。
いや、幾ばくか予想外の返投をするものの、まだ返すだけ壁の方がましだろうか。
まあそれは本当にボールを投げた場合だけど。
でも、やっぱりわたしは壁程度のものなのだと思う。
香苗に対してだけではない。誰と話していてもこういう風だ。
感情がない――なんて格好をつけた言葉は使わないけど、感情の起伏をあまり表に出せない人間ではあるのだろう。と、思う。
不器用だとか淡白だとかはよくわからない。だけど冷たい人間だとは実感している。それがつまらない人間性質だということもわかっている。
「ううん――」
香苗が大きく伸びをして立ち上がる。椅子を引く鈍い音が耳を突いた。
「んじゃ帰りますか」
無言で頷き、机に掛かった鞄を取って、わたしたちは教室を後にした。
話し疲れたのか、それとも反応の薄いわたしに愛想をつかせたのか、香苗は黙々と廊下を進む。
響くのは上履きが床を擦る音だけ。誰もいない。
静かだ。
少し心地良かった。
窓の向こうは赤みが失せて濃紺色に変わっている。
――昏い。
「……暗いなあ」
香苗が呟くように言った。
わたしの心中に同調したわけではないだろう。香苗も窓の向こうを見ている。そしてごめんねと続けた。わたしは大丈夫と返す。
「暗い校舎は不気味だなあ」
一階に下りた直後、香苗はそう言った。
「暗いところはどこも不気味だよ。学校だろうが家の中だろうが、暗ければ不気味だし怖いし――何も見えなかったら不安になる。でも煌々と光が照らしているならたとえお墓の前でも怖くないじゃない?」
「そうだね。でもあたしが思うに、人間って『見える』ことに恐怖心を抱くんじゃないかな」
「見えるから?」
「そう。たとえばお化け屋敷って暗いけど少しは明かりがあるじゃない? 暗闇は暗闇だけど何も見えないほど深い闇じゃない。壁とか床とかちゃんと見えるよね」
「それは安全性のためじゃない? 何も見えなかったら転んだりぶつかったりしちゃうだろうし」
「そうかも知れないけど、でもお化けや仕掛けなんかも照らされてるじゃない? それって怖がってもらうためにわざと『見えるようにしている』わけでしょ。お化けも何も見えなかったら、ただ暗い空間を進むだけのイベントになっちゃうもんね」
それって全然怖くないよ、と香苗は笑う。
「まあそうだけど、でも何も見えないところを進むだけでも充分怖いと思うけどな」
そう答えると、その恐怖心といわゆる霊的なものに対しての恐怖心とは違うのさ――と言って香苗は笑みを作為的なものに切り替える。
「他の動物と違って人が抱く恐怖には種類があるんだよ。ちなみに柚子の言う何も見えない状況から生まれる恐怖心というのは動物的恐怖心だ」
「……動物的」
「そう。動物が暗闇を恐れるのはその闇の中に外敵がいるかも知れないからなのさ。無闇に動けば狩られるかも知れないからね。まあ中にはその闇を利点にして夜に狩りを行う動物もいるけど、大抵の動物は夜は息を潜めるのさ。動物的恐怖心ってのはつまり身を守る本能のことだね。当然人間だって同じ本能を持っているよ。だから柚子が暗闇に思う恐怖心ってのは本能が身の危険を知らせているからこそ生まれる動物的恐怖心ってわけ」
香苗はそう言い切って、下足場へ至る最後のコーナーをゆるゆると曲がった。わたしも続く。
「何となく言ってることはわかるけど……でも身の危険って言うならお化けに対してだって同じじゃない? お化けだって取り憑いたりあの世に引きずったりするって言うじゃない。それって充分身の危険を感じる恐怖だよ。だからその動物的恐怖心って言うのも霊的恐怖心も結局のところ同じものなんじゃないの?」
わたしの問いに香苗はすぐさま違うよと返す。
「動物はいるけど、お化けはいないんだよ柚子」
香苗はそう言うと振り返り、少しふくよかな頬を釣り上げまたも作為的な笑みを浮かべる。
「……断言するね」
「あれ、柚子はお化け肯定派だっけ?」
そんな派閥に入った覚えはない。
「肯定しているわけじゃないけど……まあ否定もしてない、かな。というか正直わからない」
実際に見たことはないけれど、いないと断言できる確信もない。
夏の夜に定番の怖い話特集など見た夜は一人で寝るのもトイレに行くのも嫌になるが、時間が経てば怖いという感覚は薄れてしまい、霊に対する考えもまた曖昧に戻っていく。
霊魂という概念に留まらず、非科学に分類される概念すべてに対してわたしが出せる回答は『わからない』の一言に尽きる。
それらに別の答えをこじつけることはできるけれど、それで自分を納得させられるかどうかというと、やはり曖昧だ。そう香苗に言うと、
「いや、わからないってのも立派な回答ではあると思うよ」
と香苗は返した。
下足場に着くと香苗は外靴を手に取ったまま固まる。
「どうしたの?」
ううん――と唸るが香苗は暫くそのままだった。
わたしはその様子を横目で見つつ自分の外靴に手を伸ばした。
待った――伸ばしたわたしの手は空中で束縛される。
香苗の手がわたしの手首を掴んでいた。
「肝試しをしよう」
香苗はそう言うと、ひひ、と気色悪く笑った。