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ある休日の出来事

作者: 三角

 ローラーを走らせたような音と、独特の匂い。

 それが、僕に日曜日の到来を教えた。

「父さん、今日も海?」

 僕は欠伸をしながら、リビングに居る父さんに訊いた。

 父さんは、額にうっすらと汗を浮かべながら、力いっぱい、サーフボードにワックスを塗り込んでいた。

「ああ、昼過ぎには帰るよ」

 そう答えている時にも、父さんの目はボードに向けられていて、手も休むことなく動き続けていた。

 僕は、窓の外を見てみた。

 夏はすでに過ぎ去り、きらきらとした、夏の不思議な空気はもうそこにはなかった。外に満ちているのは、秋の乾いた空気。薄いブランケットをかけているような、ほんのり暖かい空気に満ちている。

「今日は、いい波だといいね」

「今日は風もあるし、多分いい波だと思う」

 父さんは、夕方に外を駆けまわる子供のような純粋な声でそう言った。

 僕は温かいお茶を淹れて、ボードをしまっている父さんに手渡した。

「ありがとう」

 お茶を美味しそうに飲んでいる父さんを見つめながら、訊く。

「ねえ父さん、今楽しい?」

 僕の問いに対して、父さんは最初疑問の表情を浮かべた。だけど、すぐに明るい笑顔になって、答えてくれた。

「ああ、楽しいよ。家族と過ごす時間も最高に楽しいが、やっぱり海に入るのは特別だな」

「特別?」

「俺は、昔っからサーフィンが好きでね。学生時代もしょっちゅう海に行ってた。母さんと知り合う前までは、仕事前に波乗りしてたくらいだ。恥ずかしい話だけど、昔はプロサーファーになるなんて思ってたりもしてな」

 父さんは恥ずかしそうに言った。

 だけど、僕はそれを恥ずかしいことだなんて思わなかった。父さんの情熱をかっこいいと思ったし、夢を見ていたのだって、かっこいいと思えた。

「じゃあ、そろそろ行ってくる」

「うん、いってらっしゃい」

 ボードを抱えて出掛ける父さんを見送って、僕はリビングでくつろいでいた。

 お茶をちびちび飲みながら、テレビを観る。

 日曜の番組と言うのは、独特の雰囲気が合って、内容が好みかどうかは別にして、その雰囲気を楽しむのが僕は好きだった。

 

 父さんが出掛けてから一時間と少し。母さんが大きな欠伸をしながら起きてきた。

「おはよう」

「おはよう。もう出掛けたの?」

 母さんはリビングを見回してから、僕に訊いた。

「うん、一時間くらい前に」

「ふーん。いい歳してよくやるね、まったく」

 母さんはそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。

 父さんがサーフィンをまた始めたのも、母さんのひとことだったのだから。

「父さん、元気になったよね」

 パジャマの上からエプロンをつけて、朝食の準備をしている母さんに話しかける。

「あそこまで元気になるとは思って無かったけどね」

 キッチンから水の流れる音が聞こえてきて、次にがちゃがちゃと何かを取り出す音。それから、トントンとかグツグツとか、食欲を刺激する調理音が聞こえてきた。

「父さん、相当好きなんだね、サーフィン」

 調理を始めると、リビングからキッチンまでは声が届きにくくなる。僕は少し大きめの声で、キッチンにいる母さんに呼びかけた。

「昔っから大好きだったわよ。聴いてる音楽はほとんど洋楽で、今時のこととか何にも意識しないで、海のことばっかり。デートもほとんどが海だったし」

 母さんは昔のことをとても嬉しそうに話しているように思えた。声が少し遠いのが残念だ。

「でも、いつからか、やめちゃった」

「どうしてやめたんだろ」

 調理音が止んで、母さんは食器棚からお皿を取り出し始める。

 僕もキッチンへ行って、それを手伝った。

「色々あるのよ、特に男には」

 少し寂しげに、母さんは言った。

「とりあえず、並べちゃいましょ」

「うん」

 皿にスクランブルエッグやパンを乗せて、僕達は朝食を食べはじめた。パンにかじりつきながら、母さんの方を見ると、母さんはさっきの話の続きを語り始めた。

「結婚を決めてから、あの人が一番最初に始めたのは、職探しだった」

「職探し?」

「そう。今までの仕事は、あの人の趣味をなによりも尊重したものだったから。家族を養うっていう重しを背負うようになると、その仕事じゃ厳しかったのよ」

 母さんは当時の事を思いだしているのか、悲しげな目をしていた。

「あの人は、それを嫌とも言わなかったし、私の方がびっくりするぐらい、すぱっと仕事をやめた。あれだけ大事にしてたサーフボードも奥の方にしまって、慣れないスーツ姿で職探し」

 母さんはスクランブルエッグをフォークで突いている。僕は母さんの手元を見ながら、パンをかじった。

 母さんは、少しの間スクランブルエッグを突くばかりで、何も言わなかった。僕も、先を促すようなことはせずに、ただ黙々とパンを食べ続けていた。そうするのが正しいと思ったから。

「でもね」

 フォークを置いて、母さんがまた話し始めた。

「やっぱり、あの人は海が好きで、サーフィンを愛していたの。時々サーフィンを特集した番組何かがやると、ずっと解説。この波は凄くいいとか、このサーファーは凄いとか、ゲストで出てきたおじさんを、この人は伝説のサーファーで、俺達のヒーローだったとかね。やっぱり、この人はサーフィンが好きなんだなって」

 母さんは、切なげで、だけど嬉しそうにも見える複雑な表情でそう言った。

 でも、その段階では、サーフィンをまた始めろとは言わなかった。だって、父さんがまたサーフィンを始めたのは、最近のことなんだから。

「それからのことは、知ってるでしょ」

 僕は頷いた。

「仕事で大きなミスをして、いつも笑ってるあの人とは別人みたいに落ち込んで、ふさぎ込んで。その時、始めて私は理解出来たのね。今まで、どれだけ無理をして、走り続けてきたか」

「大変だったんだね」

「男の人だからね。世の中って、甘いものじゃないから。たくさん笑う人ほど、その裏でたくさん泣いてるのかもって思った。そしたら、私が泣いちゃってね」

 母さんは少し俯いて、「でも」と言って顔をあげた。目が少し潤んでいるように見えた。

「私が泣きはじめたら、あの人はいつもの笑顔で励ましてくれた。それだけじゃなくて、もっと頑張るからって。私は、頑張らなくていいって言った。それが正しいのかどうかは分からないけど、そうした方がいいと思ったから」

 それから、父さんは少しの間仕事を休んだ。

 その間、父さんは何かを考えていることもあれば、散歩に出かけたりした。

 ある時、僕が学校から帰ると、父さんがサーフボードを引っ張り出して、じっとそれを見つめていた。

「また始めたら?」

 僕の後ろで、母さんがそう言った。その時のことを、僕は今でもはっきり覚えている。

 寝室に飾られている、二人の若いころの写真。僕は、父さんと母さんの若いころを、その写真を通じてしか知らない。だけど、その時、また始めたら? と言った母さんの顔と、それを聞いて、薄く笑いながら、何度も頷いている父さんは、写真の中の二人に見えた。

「好きなことばかりじゃ生きていけないけど、好きなことがないと生きにくいと思う。だから、あんたもこれは! っていうものを見つけなさい。三十までは馬鹿をやることを許します」

 母さんは意地悪に笑いながら僕に言う。

「どうして三十までなの?」

「あの人が、三十までそういう生き方だったから」


 朝食を終えて、僕と母さんはリビングでテレビを観ていた。

 ふと、母さんは言った。

「多分、私は好きな事に馬鹿みたいに本気になれる所を好きになったんじゃないかな」

 小さな一言。テレビから流れてくる笑い声に消されてしまいそうなほどの声。

 だけど、僕の耳にその声はしっかりと届いた。


 昼が過ぎて、父さんが帰ってきた。

 洗濯物を母さんに手渡しながら、今日の波はこんなだったと語る父さんと、それをはいはいと聞いている母さんを、僕は遠くから見つめる。

 幸福ってなんだろうという番組が、最近よく放送されている。

 僕は、そういう番組を観ながら、ぼそりと呟く。

 「好き」を見つけるのが、一番の近道だよと。

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