とセレルの出会い
乾燥した大地を少女が――セレルが歩く。小さな背中に大きな荷物抱えて。
彼女の通った後には、小さな足跡が刻まれる。が、それもすぐに吹き荒れる寒風によって消え去る。くすんだ色したコートは長旅のせいですっかりとくたびれてしまった。
轟々と吹き荒れる風音に紛れて、しゃっくりする音が響く。俯くセレルが顔を上げると、つぶらな碧眼から大粒の涙が零れた。
「もぉやだよぉおぅ。家に帰るぅう」
挫折を口ずさみつつも、彼女の足は確実に前に進んでいた。どんなに嫌がっても、彼女は前進するしか無いのだ。
何故なら、セレルは『勇者』だから。
泣こうが喚こうが、荒野の果てに住まう『魔王』の元へと向かわなくてはならない。それが彼女の宿命なのだから。
だが、それとセレルの思いは別だ。彼女の胸中には、世界の命運も勇者としての使命もなかった。ただ心優しい家族たちの待つ我が家に帰りたかった。
望郷の念が強ければ強いほど、これから対面しなくてはならない魔王への恐怖が湧き上がる。
強大な魔力を持つ魔王は生まれ落ちた瞬間に、故郷の街を滅ぼし荒野に変えた。魔王が吐く息は毒となり、その足跡が刻まれた大地はひび割れて死の土となる。魔王が一点の方角を指差せば、そこには嵐が吹き荒れると云う。
人々はその魔王を、『災厄』と呼んだ。
旅を続けるセレルの耳には、嫌というほど魔王の恐ろしい噂が届いていた。
その魔王に、これから二人きりで会わなくてはならない。改めて恐怖で心臓が凍り付きそうだ。
何でも魔王の魔力を勇者は無効化出来るらしいが、所詮それは伝聞だ。実際はどうなのか、セレルは分からない。
さめざめと泣きながら、セレルは懐に手を伸ばす。あかぎれた指先には、一枚のクッキーが摘まれていた。
「これが最後……」
旅立ちの朝、母が焼いてくれたものだ。乾燥させた木苺を砕き、生地に練り込んだクッキー。セレルの好物だ。麻袋いっぱいに詰め込まれていたのに、もう一枚しか残っていない。
風音に紛れて、セレルの腹から空腹音が響く。
名残惜しみながら、セレルはクッキーの端を口にした。そして反芻するように少しずつかじってゆく。
木苺の甘酸っぱさを堪能しながらも、セレルは涙を零す。魔王に対する恐怖もだが、荒野の厳しさにも彼女は辛さを感じた。歩き辛いし、寒いし、何より風で舞う土煙が目にいたい。コートを頭ですっぽりと覆っているが、それでも乾いた砂は容赦なく目に入ってくる。口なんか開いたら一気に砂利塗れに……。
「ん?」
確かめるように咀嚼したが、口の中にはクッキーの味しかない。さらに、吹き付けられる寒風も今は感じられない。それどころか暑く感じる。
顔を上げるとそこには、緑が広がっていた。のびのびと生えた樹木からは、色とりどりの花やみずみずしい果実が生っている。地面に広がる植物も同じだ。
この場を一言で表すのなら、楽園。ただし、セレルには違和感の塊でしかない。
「何で春と冬の花が一緒に咲いて……うわっ、あっちには秋の作物に夏の野菜がごっちゃ混ぜに出来てる」
もごもごと口を動かしながら、恐る恐ると足を進める。太陽は無いのに、日差しのような暑さがセレルを包む。灰色のローブを頭から下ろせば、肩口で切りそろえられた亜麻色の髪がふわりと揺れた。
周囲に視線をさまよわせていると、セレルの瞳はある一点に釘付けとなった。
彩り豊かな花々の中心に女神がいた。
透き通るような白の肌。腰まで伸びた艶やかな髪は赤みがかった金色だ。纏う衣服は淡い色した質素な物だが、それが返って彼女を神秘的に見せる。
女神は手にした柄杓で水を撒く。流れるようなその動作に、見惚れてしまう。飛び散る水滴が太陽の光に反射して、金剛石のように煌めいた。
ふと、女神がこちらを見た。晴れた夜空に似た藍色の瞳に射られ、セレルの心臓が大きく跳ねた。
「あら。あらあらあら!」
女神がセレルの方まで駆けてきた。その顔に極上の微笑みを浮かべて。それは、同性のセレルですら見惚れてしまうほどに魅力を持っていた。
セレルのすぐ間近までに女神が近寄ると、ますますその美貌に圧倒された。
きめ細かい白磁の肌。長く伸びたまつげが翠玉の瞳に影を落とす。高くすらっと伸びた鼻筋。鳥肌が立つほどの美しさ。精巧に造られた人形ようだ。彼女の体から後光のようなものが発せられているような錯覚すら覚える。
固まるセレルの手を取り、彼女はふっくらとした唇を開いた。
「貴女がセレルね。ずっとずっと待ってたのよ」
「え?」
何故、女神が自分の名を知っているのか。さらに『ずっと待っていた』だと?
嫌な予感がセレルを襲う。恐る恐ると視線を女神の頭部へと上げる。そこには、五色の光を放つ一対の角が生えていた。
それを見た瞬間、セレルの体温は瞬時に冷え切った。
「まっままま魔王?」
「えぇ、そうよ」
あくまでにこやかに女神のような魔王が答えた。
「はじめまして、可愛い勇者さん。貴女が来るのを、楽しみにしてたのよ」
手を繋がれたまま、セレルは魔王に連れられる。道すがら、魔王は始終上機嫌で色々と話しかけてきた。セレルが来るのを指折り心待ちしていたとか、長旅で疲れているだろうからゆっくりと休んで欲しい、などと言葉が途切れることは無かった。
「ここが私のお家よ」
案内された建物は、平凡な民家だった。
魔王なのに城住みじゃないのかと、セレルは少なからず衝撃を受けた。
「や、中身はこう……異空間で広々としてるかも知れないし」
「どうしたの?さぁ、入って」
家の中もごく普通の空間だった。
入ってすぐの広めの部屋の中央に大きな丸い机があった。その上には、瓶に活けられた花や茶器などが置かれていた。
「すぐにお茶を温めるから、そこに座っててね」
そう言うと、魔王は右隣の部屋へと移動して行った。どうやらそこが厨房らしい。火を点ける音が聞こえた。
薦められるまま、セレルは荷物を降ろして椅子に座った。緊張気味に辺りを見渡す。
煉瓦作りの壁に木製の棚。窓辺では清潔な黄色のカーテンが揺れている。どこをどう見ても、『災厄』と呼ばれる魔王の住処とは思えない。
「お待たせ」
そうこうしていると、魔王が戻ってきた。右手にポット、左手には青い大皿を携えて。
机の上に置かれた皿を覗き込んで、セレルは驚く。
「これ、クッキー……」
「えぇ、そうよ。木苺の」
応えながら、魔王は茶こしに瓶詰めされた茶葉をスプーン山盛り一杯分入れる。そして、その上からポットでお湯を注いだ。カップの中に落ちたお湯は緋色に姿を変え、華やかな香りが鼻に届く。
「さぁ、召し上がれ」
笑顔で差し出された紅茶にクッキー。セレルはすぐには口をつけれなかった。内心で魔王を疑っていたからだ。いくら女神のように美しくとも、仮にも彼女は『災厄』と呼ばれる魔王だ。何か裏があるのでは無いのかと疑ってしまう。
が、好物を目の前にしてセレルの猜疑心はすぐに薄れていった。何より空腹に耐えきれなかったのだ。
「いただきます」
クッキーを一口かじりつき、セレルは硬直した。
「お、お口に合わなかったかしら」
不安げに魔王は尋ねてきた。
「い、いえ……その。酸味が強くてビックリしちゃって」
クッキーは甘味が隠し味ぐらいしか無いものだった。この味を例えるならば、夏野菜の酢漬けが近い。
セレルの言葉を聞き、魔王は顔を青くさせた。
「ごめんなさい!すぐに甘くさせるわ」
「あ、いえ……」
大丈夫です、と続けようとしたセレルの口が止まった。魔王がセレルの手にしたクッキーに手をかざしたからだ。
魔王はまぶたを下ろし、何やら考え込んでいるような表情を浮かべている。彼女の頭上にある角が、濁った青へと変わり、更に黄緑色へと変化した。
「さぁ、これで大丈夫よ」
にこやかに魔王がそう言ったが、一体何が大丈夫なのかセレルにはよく分からない。とりあえず、食べかけのクッキーを再び口に含んだ。
「んんん?」
驚いたことに、クッキーの味はセレルがよく知る甘酸っぱいものになっていた。何が起こったのか理解出来ず、セレルは魔王の顔を見た。
彼女は口元を両手で押さえ、鈴のような笑い声を漏らしていた。
「甘くしてみたのよ」
「え、どうやって?」
「こうやってお願いしてみたの、甘くなれって」
皿に乗ったクッキーを一枚手にとって、魔王は瞳を閉じる。それと同時に、また彼女の角の色が変わった。今度は赤紫色だ。
「食べてみて」
手渡されたクッキーを、セレルはかじる。すると同じクッキーのはずなのに、先ほどの物よりも甘さが増していた。
「魔法、ですか?」
セレルが問うと、魔王はこくりと頷いた。
「ええ、そうよ。けど、こういう使い方したの初めてだったから心配だったけど上手く出来て良かったわ」
料理の味なんて気にしたことなかったから、と彼女は続けた。その言葉に、セレルは道行く先で耳にした話を思い出した。
魔王に、食事の必要が無い。何故なら、彼女たちはその有り余る魔力を生命力に変換出来るからだ。
「すごい、ですね」
「そうかしら。失敗を誤魔化してるだけよ。私なんかよりもセレルの御母様たちのが素晴らしいわ」
朝昼晩、全て違う献立を考え料理する。それも毎日違った美味しい味を作れる。時には失敗もあるが、それを補える腕がある。
魔王の語りは流暢で、まるで見てきたかのような口振りだ。
「よく知ってますね」
「ありがとう。けど、全部コレの受け売りなの」
角を指差しながら、魔王はチロリと舌を出した。
「知りたいことは全部分かるの。花の名前に、美味しいお茶の煎れ方も。もちろん、貴女のことも」
だから、セレルの名前が分かっていたと言う。己と対になる、勇者の存在を。
「今日と云う日を本当に楽しみにしてたのよ」
頬を上気させてそう語る魔王の言葉は、本心からのものに思えた。
ふとセレルは気付く。この魔王は生まれ落ちた瞬間に捨てられた存在だ。今までずっと一人で生きていた。誰かと触れ合おうとしても、その強大な魔力の前に生存出来る者はいない。セレル以外に誰も。
たった一人で生きていくのは、どんな気持ちなのだろうか。
そう思うとセレルは胸が痛んだ。ここまでの道のりを、嫌々と喚きながら歩んできた。
そんな己が恥ずかしく思い、セレルは椅子から立ち上がった。
「ごめんなさいっ」
それ以上は言葉に出来なかった。何を言っても言い訳にしかならないと思ったからだ。
頭を下げるセレルを、魔王はきょとんとした顔で見ていた。が、すぐに柔らかな笑顔に戻る。
「謝ることなんかないわ。ここまで遠いし、いろいろと準備が必要だったでしょうし」
だから大丈夫だと、魔王は言う。
「それよりも、旅のお話を聞かせて。魔法で得た情報よりも、貴女の言葉で聞きたいの」
「え、あ……はいっ。えと、まず私の生まれた村は――」
誰もが恐れる魔王。全てに仇なす『災厄』と呼ばれる者。
実際対峙してみると、彼女はとてもそう呼ばれる人物では無いと感じた。心底穏やかな物腰の女性だ。セレルを騙そうと、演技しているようにも見えなかった。
それは、会話していてひしひしと実感出来た。
セレルの語る旅の話を、子供のように目を輝かせて熱心に聞いてくれている。
「――それで、その街の貴族は名前を親族にしか明かさないそうなんです」
そこまで話してセレルは気付く。
「あの、魔王さんのお名前は?」
「サイヤクよ」
さらりと告げられ、セレルは面食らった。
「え、それ……」
「皆さん、私をそう呼んでくださっているんでしょう?」
あくまで魔王はごく普通の調子で話す。その呼び名が当たり前だという様子だ。
「だから、私の名前はサイヤクなの」
「ダ、ダメです」
さすがに今のセレルには、魔王を『災厄』と呼べなかった。
「それは名前じゃないです。もっと別の――親に付けられたものとか」
「……ごめんなさい。私、それ以外に呼び名がないから」
しまったと、セレルは思う。
彼女は生まれた時に魔王としてこの地に捨てられたのだ。名付けられたとしても、それを呼ぶ人間がいない。
悪意は無かったとはいえ、酷いことを言ってしまった。とてつもない後悔がセレルを襲う。
「あの、セレル。良かったら、だけど」
おずおずと魔王が言う。
「私に名前を付けてくれないかしら?」
「え……」
そっと魔王の顔色を伺ってみれば、彼女は頬を赤らめていた。
「貴女が呼びたい名を、私に付けて欲しいの」
「そんな、私なんかでいいんですか?」
魔王はこくりと頷く。
「貴女だから、いいのよ」
ここまで言われると何だか照れくさい。しかし、嬉しいと思えた。
「えっと、じゃあ」
右手の人差し指を額に当て、セレルは思案する。
様々な名前が浮かんでは消える。どれもしっくりとこない。すぐに命名出来たのなら良かったのだが、セレルは悩んでしまう。
よくよく考えれば、かなり重大な役目を任されてしまった。自分の付けた名前が、魔王である彼女の一生に付きまとうのである。そう思うと余計に頭を抱えてしまった。
唸り続けるセレルに、魔王が声をかけてきた。
「今すぐでなくてもいいわよ。良い名前が思い付いたら、その時で」
「はい……」
何だかみっともないなぁ。そう思ってセレルはがっくりと肩を落とした。
そんなセレルに、魔王は優しく話しかける。
「大丈夫よ。時間はたくさんあるのだから」
ね、と魔王は小首を傾げた。
窓から射す日差しに照らされ、彼女の髪が金色に輝く。
「そう、ですね」
美しい微笑みを向けられ、セレルもつられて笑顔になる。
「これから、よろしくお願いします」
そっと魔王に向かって手を差し出した。魔王は少し驚いた素振りを見せたが、やがてはにかみながらその手を取った。
「ええ、こちらこそ」
お互いの温もりが、じんわりと伝わってくる。その温かさが心地良く思えた。
【了】