第1話
「私に何を望む」
問い掛けるリゼフィアが見つめる先は、常に闇だ。
その向こうに佇む者を嫌というほど知りながら、暴くことも、逃れることもできず、見つめ続けるのだ。
「破滅の子を産むと予言された女に、望むべきことを」
低く響く声が、内臓を縮ませる。
身に刻まれた怖れは、幾年経っても薄れもしない。
虚勢を張って瞬きもせず見つめるうちに、身を守る鎧も剣も腐り落ち、頼りのない白い装束のみを纏うようになる。
闇がじわり、と近づいてくると、えもいわれぬ臭気が肌すら刺激するようだった。
思わず目を細めると、ふいに首筋に悪寒が走り、リゼフィアはたまらず身を捩った。
目を反らした。
それは決まって訪れる敗北だ。
闇はリゼフィアを組み敷き、思うがままに苛む。
悲鳴をかみ殺し、必死で相手を探る。体を明け渡しながら、震える指先が闇の背に印を刻んでいく。
ゆっくり、ゆっくり、狂うほどの時間をかけて。
「時よ、連れ去れ」
印を呼び覚まし、闇を葬る。
印は闇の背を裂き、その憎しみの眼差しさえ覆い隠して消してしまう。
いつも残るのは、放り出された白いからだと、血のように散る赤い跡だ。
もう手遅れなことを認めるためにみっつだけ息をして。
そろりと体を起こしたリゼフィアは、心臓を握りつぶされるような感覚を味わう。
開かれた足の間、ごそごそと蠢く小さな赤黒いものは、、、。
凍りついたリゼフィアは、ゆるりと上げられた瞳を腹の向こうに見た。
闇の色をした目が、笑うのを。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・
ありったけの息を吐き出して、それでも足りずに喉を削って叫んだ。
冷静な意識が、ここが野営地であり、周囲に粗暴な戦士が暇を持て余していて、なめられたら面倒だということを叫んでいたが、体がとうに言うことを聞かなくなっていた。だから自分が誰かに抱きしめられていて、叫び声が外に漏れなかったようだと気がついたのは、かなりの時間震え続けた末だった。
「よしよし」
ふざけた宥め声は、よく知る男のものだ。といってもこの一週間共に戦ったというだけであり、抱きしめられる謂れは何もない。
急激に腹は立ったが、体中に残る夢の感触が生々しすぎてとても動く気にはなれない。過去の出来事が夢という形で今もリゼフィアを犯し続けているのだ。やむなく、小娘のように震えながら背をさすられ続けなければならなかった。
男は、カゼル。
若いながら鬼神のような戦士であり、リゼフィアも属する傭兵部隊を束ねる部隊長である。使節の護衛という任務に当たり、使節団と遜色ない天幕をひとりで使うほどに偉い立場だ。噂では、形ばかりながら王家の血も引くという。そのわりに傭兵には人気があると、遠慮のない兵士たちは笑っていた。
リゼフィアは臨時雇いの剣士としてこの男の面接を受け、雇われた。半月契約で50レイ。半年はゆとりを持って暮らせる額。
それだけが関係だったはずだが。
「別になにもしないさ。噛みつくような眼をするな」
カゼルは腕の中の息遣いが収まるのを見計らっていたように、手をほどいた。
リゼフィアが見つめると、少し眼を細めた。
「ほんと、きれいな紅い眼だ。もう平気か?」
リゼフィアは答えなかった。頭ははっきりしている。いろんなことを考えることができる。だが、体がついていかない。なによりまずは男から離れたいのに、鎧を外された体はカゼルの腕の中に収まったままだった。
かろうじて、二文字だけ舌が動いた。
「なぜ」
「覚えてないか。通りかかったら助けを求められたから、連れて帰ったんだ」
男がどれほど真実を話しているのかわからずに、リゼフィアは黙り込んだ。ここ数日夢見が悪くてろくに寝ていない。だがだからといって、寝言を聞かれるほど近くに寄られて気がつかないとも思えなかった。
おそらくリゼフィアは、眠る前からここにいたのだ。記憶はないが確信を持って見れば、カゼルは性懲りもなく再びリゼフィアを抱き込みながら、にっと笑った。
「ほんとは、俺が呼び出して、一服盛った」
「何のために」
ようやく夢とうつつが乖離し、自分の体が正常であることを知ったリゼフィアは、ごく冷静に、男から身を引いた。腕はそれを引き止めない。
遠ざかった距離を詰めることなく、カゼルは起き上がって伸びをした。
「影が見えたからな。今夜あたり来るだろうと思って眠らせた」
「いったい、なんの話、、、?」
「悪夢の影だ。なぜか、俺には見える。それがおまえに纏わりついていたから、気になっただけだ」
けだるくて横たわったままのリゼフィアを、観察するようにじっと見て首をひねる。
「気が弱ってるヤツにはよく見える。そういうときは、よほどの戦士も隙を作る。それがわかってて放っておくのも寝覚めが悪い。たいていは無理にでも眠らせて夢を見ようが休ませればましになる。……が、お前は奇妙だな。影が染みついているようだ」
無理もない。とリゼフィアは納得した。普通の悪夢のように、意識の隙間に忍び入るような甘いものではない。
この悪夢は、文字通り体に巣くっているのだから。
「確かに、あなたから酒を勧められた気もする。お節介ね。大事な役目の途中でしょうに」
心底、そう思った。
他人が悪夢に悩まされていようと、依頼を受けない限りは気にも留めずに過ごしてきた。いちいち関わっていてはきりがないのだ。
そう、今だって。
リゼフィアはうっすらと目を開けて隣の男を改めて眺めたが、それにも疲れて目を閉じた。
「悲鳴を押さえてくれたのは感謝する。今後は気をつけるわ。だから気にしないで。私の影は、消える予定がないの」
閉じた目の先で、カゼルが服を身に着けているのが気配でわかった。
そしてとても、愉快そうであることも。
「男女の差というものか。俺の話をすんなりと信じる男にはいまだ出会ったことがないが。女では二人目だ。悪夢の影は、受け入れやすい話か?」
「別に、見えると本人が言うものを、他人が否定する根拠もないもの。そんな能力は珍しいけどないわけじゃないし」
「同じことを言われたことがある。……おまえ、出身はクルトか?未来を視る巫女姫がいるという」
「いいえ。ちがう」
おかしく聞こえないよう細心の注意を払って否定をして、リゼフィアはゆっくりと目を開けた。
上着を羽織っただけのカゼルが、再び横に座り込んでいる。繊細な印象を与える細面に、人を食ったようなふてぶてしい笑いを浮かべて覗き込んでくる男は、やはり少年の面影を濃く残していた。
(覚えていたんだ。私の言葉を)
それは十年も昔。
幼いながら傑出した巫女姫と讚えられていた時分に、わずかな時間で交わした占いの言葉だ。
珍しい同年代の依頼者に、常になく身を入れていた記憶があったからこそ、今回傭兵に志願したのだ。自分のことを覚えていることまでは期待していなかったが。
ようやく覚醒し、はっきりとカゼルを捉えた赤い瞳に、無視し得ないどす黒い影が映り込んだ。
「カゼル隊長。自分のことは? 悪夢の影は自分のも見えるの?」
男はにっと笑うと、意味がわからないことを言った。
「見えたらさぞ真っ黒だろうが。……悪夢ももう、見納めだ」
見納め、という言葉に眉を寄せた後に、忍び寄ってきた不審さが、リゼフィアの体を跳ね起こした。
天幕の中とはいえ、野営地がこれほど静かだろうか。遅ればせながら、首の後ろがそそけ立った。
入り口に駆け寄って幕を持ち上げたリゼフィアは、息を止めた。
白く立ちこめた霧を朝日が斜めに切り分けている。
その向こうに設営されていたはずの大きな天幕は、巨大な蝙蝠がうずくまったように、見る影も無くなっていた。
鼻に届く嫌な匂いは、天幕の中で蒸し焼きになった使節たちだろう。すでに火は消え、煙がいく筋かたなびいていたが、霧がなければ甚大な灰を吸うことになったはずだ。
異様に心臓が高鳴るのを、必死で押さえつけた。動揺すれば、それだけ弱くなる。
不思議と潰れた天幕の周囲に人がいない。ふたり、倒れ伏しているのはかろうじて天幕から逃げ出した者だろう。戦う者の格好ではない。体の下の地面の色は、周囲より暗い。
「どういうこと?」
「深夜襲撃があった。一から三小隊は消火の上、北にて戦闘態勢。四、五小隊は街道を押さえるために南で待機中だ」
「襲撃? 戦闘? 何を言ってるの」
リゼフィアの感覚は嘘の警鐘を鳴らしている。
実際に天幕は焼けている。だが、垣間見える地面のどこにも戦闘の跡は見られない。ましてなぜ、隊長がまだ天幕でだらけているのか。
「四、五小隊は疲れてたらしい。ぐっすり寝入っていたから、天幕が燃え上がるまで気がつかなかった。とるものもとりあえず移動したのが夜明け前だ」
振り返り、カゼルの澄ました顔を穴が開くほどに見て、リゼフィアは目を細めた。
「四、五小隊は新参者の隊ね。これは、貴方の計画なの? 使節団をいもしない襲撃者に殺させるのが?」
リゼフィア自身は四小隊所属だ。そして昨夜は酒を飲まされ、眠らされた。
きっと新参の傭兵たちは皆同じように薬を盛られ、そして無理矢理証人にされたのだ。
どこかの何者かに、使節団が焼き殺されたと。
「だとしたら? なぜお前をここに残したと思う?」
さりげなく腰を引き寄せられて、慌てて飛び退いた。はは、と男は笑う。
「情が移ると、命が惜しくなる。お前には俺の死を見届けてもらおうと思ってな。赤の女神と称されるほどの戦士なら、なんとか戦闘から生き延びられるだろう」
「戦闘?」
「やつらが来る。使節団が愚かにも友好を結べると信じた相手が。身内の虫を殺してからでなくては、おちおち戦ってもいられん」
するりとリゼフィアをよけて外に出たカゼルは、いつの間にか革鎧を身に着け、剣を帯び、ほれぼれするほどの偉丈夫ぶりだった。 リゼフィアの体を、ぞわり、と肌が粟立つほどの快感が駆け抜けた。
(なんて男)
それはカゼルの言う通り、彼を黒々と覆う死の気配を視たがゆえに高まった興奮だったのかもしれない。
リゼフィアの鋭敏な感覚は、白い霧の彼方に立ちこめた、恐ろしい気配を余すことなく読んでいた。
事の次第が、手に取るようにわかった。
カゼルの国は乗ってはならない誘惑に乗ろうとしたのだ。人の天敵とも言える闇精と手を結べると考え、使節を送ろうとした。
有史以来何度も裏切られてきた同盟。
それでも恐怖のあまり、あるいは恐怖の麻痺のために、人はこりずに闇精を操ろうと試みる。
代価は、国ひとつだ。
その重さを幼いとも言える王は我が侭で押しのけてしまったのかもしれない。カゼルは、そしておそらく背後の高官たちは、阻止したかった。
友好関係を持ちかけた相手に使節団及び傭兵団が襲われたなら、王はしぶしぶでも納得するだろう。うまくいけば、闇精という存在の理不尽な恐怖を少しは感じるかもしれない。
だがそのために、死ぬ覚悟で闇精と戦える男がいるとは、予想もしなかった。
カゼルには、闇精への恐怖は見えない。まして目的のために自国の人間の死を厭わない様は、彼自身が闇精であるかの錯覚を起こさせる。
(彼なら、もしかして)
ふと浮かんだ考えを戒めるように、きりり、と下腹が痛んだ。
「ついてこい。悪いが、俺が死ぬまでは逃げるなよ」
悪いとは、毛ほども思っていないに違いない。
「逃げようと思っても、もう遅いわ。来る。すぐ、そこに」
カゼルが炭と化した天幕を振り返る。と同時に、残っていた黒い残骸が、ぐず、と音を立てて崩れ果てた。




