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正義が人を壊すとき、俺は選ぶしかなかった  作者: 慈架太子


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第7章:カイ帰還

街は、静かだった。


いや。


静かすぎた。


かつてこの通りを満たしていた、市場の活気ある怒鳴り声や、夕餉を告げる母たちの呼び声は、いつの間にか過去の遺物となっていた。人はいる。石畳の上を歩く足音も聞こえる。だが、誰も、話さない。


誰もが、自分の足元だけを見つめて歩いている。もし、ふいに視線が合えば、雷に打たれたかのように素早くそれを逸らす。ほんの少しでも長く相手を見つめれば――それは執着であり、観察であり、不穏な関心の兆候とみなされる。


疑われる。


その恐怖が、街の喉を締め上げていた。沈黙は安全の代償であり、孤独は生存の条件だった。


ミーナは、人通りの途絶えた大通りの中央に立ち、その死に絶えたような光景を見ていた。風が吹き抜け、路上のゴミがカサカサと乾いた音を立てて転がる。その音さえもが、不浄を告発する囁き声のように聞こえて背筋が凍る。


胸の奥が、激しくざわつく。

それは吐き気に似た、生理的な拒絶反応だった。


「……これ」


ミーナは、誰に聞かせるでもなく小さく呟いた。


「人が生きてる場所じゃない」


返事はない。建物の影も、石の壁も、ただ冷たく彼女を取り囲んでいるだけだ。かつてこの場所で笑い合った友人たちの顔を思い出そうとしても、今ではその記憶さえもが「不浄な未練」として自分を裁く刃に思えてくる。


ふと、ミーナの視界の端に、路地の奥にうずくまる人影が映った。

建物の狭い隙間。湿った地面に、一人の女が膝を抱えて座っている。

女の身なりは整っていた。汚れも、乱れもない。だが、その視線は――。

空虚だった。


何を見ているのか、何を考えているのか。その瞳には焦点がなく、ただ無限に広がる灰色の深淵を映し出しているようだった。


ミーナは、迷いながらも一歩を踏み出した。この街で他人に近づくことは、自殺行為に等しい。だが、その女から漂う、魂が抜け落ちたような気配を放っておくことができなかった。


「大丈夫……?」


ミーナの声は震えていた。

女は、機械が油を差されたような鈍い動きで、ゆっくりと顔を上げた。

視線が合う。

以前なら、恐怖に顔を歪めるか、拒絶の言葉を吐くはずの場面だ。

だが、女の反応は違った。


女は、唇の端を吊り上げ、ゆっくりと笑った。


「……大丈夫よ」


その笑顔には、一切の感情が宿っていなかった。

喜びも、悲しみも、苦痛さえも。

ただ、筋肉がその形に固定されただけの、仮面のような笑み。


「だって、もう何も持っていないもの。家族も、友達も、明日への不安も。全部、あの箱に入れたわ。全部、捨ててきたの」


女の手には、まだ新しい羊皮紙の端切れが握られていた。

「清浄になるって、こういうことなのね。何も考えなくていい。誰も愛さなくていい。ただ、正しくあり続ければいいだけ」


女は再び、虚空を見つめた。

「私は、正常よ。アリア様が言った通りに。私は、完璧に安全だわ」


ミーナは、その笑みを見て、全身の血が逆流するような恐怖を覚えた。

目の前にいるのは、生きている人間ではない。

正義という名の外科手術によって、心という「不純な臓器」を摘出された、空っぽの器だ。


アリアが求めた「正常」の完成形が、ここにあった。

誰も争わず、誰も疑わず、ただ虚無を受け入れて微笑む世界。

それは平和などではない。

人間が、人間であることを放棄した果てに広がる、巨大な墓場だった。


「……ごめん。私、行かなきゃ」


ミーナは逃げるようにその場を離れた。

背後から、女の乾いた笑い声が追いかけてくる。

街は、相変わらず静かだった。

石畳を叩く自分の足音だけが、不気味に響き渡る。


広場の箱は、夕闇の中で黒い影を落としていた。

明日も、明後日も、あの箱は人々の心を吸い込み、空っぽの笑顔を増やし続けるだろう。

加速する正義。

止まらない浄化。

その行き着く先にあるのは、神殿だけがそびえ立ち、微笑む人形たちだけが徘徊する、完璧に美しい死の街だ。


ミーナは走り出した。

自分の心臓の鼓動が、まだ「不純」な早鐘を打っていることを確かめるように。

だが、どこまで走っても、この静かすぎる街から逃げ出す道は見当たらなかった。





「もう、誰もいないから」


女の声は、春のそよ風のように軽やかだった。だが、その言葉が含んでいる絶望の質量に、ミーナの心臓が警鐘を鳴らすように強く、速く打つ。


「……え?」


聞き返した声は掠れていた。女は膝を抱えたまま、汚れ一つない空を見上げて淡々と続ける。


「夫も、弟も、隣の人も。全部、私が出したの」


周囲の空気が凍りついたように止まる。呼吸をすることさえ、罪悪感に思えるほどの沈黙。

ミーナの思考が停止する。夫? 弟? 最も身近で、最も愛すべきはずの者たちを、彼女はその手で「箱」へと送り出したというのか。


「……え……? そんな、どうして……」


「だって」


女は、さも当然のことを指摘するように、無邪気に笑う。


「やらないと、私が疑われるでしょ? 彼らが何か不浄なことを考えているかもしれない。それを黙認している私まで、光に連れて行かれたら困るじゃない。だから、先に出したの。彼らが私を出す前にね」


ミーナの喉が、熱い塊に塞がれたように詰まる。言葉が出ない。

女の語る論理は、今のこの街においては「模範的」な正解だった。生存するための最短距離。だが、その距離を稼ぐために踏みつけにされた命の重みが、ミーナの胸を圧迫する。


女は、どこか遠い記憶を慈しむように続けた。


「最初はね、怖かったの。ペンを握る手が震えて、名前を書くだけで吐き気がしたわ。でも、慣れるのよ。一度やってしまえば、二度目からは作業になる。どうせ、みんなやってるし。私だけが聖者でいる必要なんてないもの」


その言葉は、研ぎ澄まされたナイフのようにミーナの心臓を深く刺し貫いた。

慣れる。

みんなやってる。

その、ありふれた、あまりにも卑怯で強固な言い訳。


ミーナは、恐怖に突き動かされるように後ずさった。女の座っている路地が、巨大な化け物の口のように見え、今にも自分を飲み込もうとしている気がした。視界が歪み、街の輪郭がぐにゃりと曲がる。


「……違う」


小さく、自分に言い聞かせるように呟く。


「こんなの……違う。こんなのが正しいはずがない。人は、こんなふうに生きるものじゃない……」


だが。

必死に否定しようとするミーナの心の奥底で、冷たい何かが、釣り針のように引っかかった。


――違う?

本当に?


その問いかけが、脳裏で反響する。自分はこの女と違うと言い切れるのか。自分は一度も、あの箱を意識せずに過ごした日があっただろうか。


その瞬間。

封印していたはずの記憶が、濁流のように脳裏に浮かび上がる。


数日前。

深夜、ミーナは窓の隙間から外を見ていた。

向かいの家の老人が、庭に何かを埋めているのが見えた。ただの苗木だったかもしれない。あるいは、古くなった道具だったかもしれない。だが、その時のミーナの胸を支配したのは、「なぜ隠れて作業をしているのか」という鋭い疑念だった。


そして。

ミーナの指先は、確かにあの時、神殿から配られた白い羊皮紙に触れていた。

書こうとした。

「向かいの老人が、夜間に不審な埋設作業を行っている」と。

書けば、自分は「不浄を見逃さない優秀な市民」になれる。

書けば、自分が疑われる確率は下がる。


結局、その時は恐怖が勝って筆を置いた。だが、それは老信を信じたからではない。単に、自分の筆跡が割れることを恐れただけだ。


ミーナの足が震える。

女が笑っている。

女の姿は、鏡に映った自分自身の未来ではないのか。

アリアの言う「正常」へと向かう、自分自身のなれの果てではないのか。


「……私も、同じなの?」


ミーナは自分の手を見つめた。

不浄を憎み、正義を求めていたはずの手。

だが、その指先はすでに、他人の命を量りにかける冷たさを知ってしまっている。


路地裏の女は、もうミーナのことなど見ていなかった。

彼女はただ、誰もいなくなった自分の家へ帰る時間を待っているようだった。

一人きりの、完璧に安全で、完璧に孤独な場所へ。


「加速する」とアリアは言った。

それは、街の制度だけではない。

人々の心の中に飼われた「疑心」という名の怪物が、共食いをしながら巨大化していく速度のことだった。


ミーナはよろめきながら、広場へと向かった。

そこには、今日もあの簡素な木の箱が置かれている。

誰の人生も、誰の愛も、等しく無機質な「報告」へと変換してしまう、悪魔の装置。


記憶の中の老人の姿が、光に包まれて消える幻影が見えた。

ミーナは頭を振り、それをかき消そうとする。

だが、一度芽生えた「もし、自分があの時書いていたら」という思考は、猛毒のように彼女の精神を侵食し始めていた。


正義は完成に近づいている。

そして、その完成の代償は、人間としての「良心の死」だった。

ミーナは、広場の中央で立ち尽くす。

青い空の下、街は相変わらず死んだように静かだった。





■回想


記憶の底から、引きずり出された光景がある。

それは、今の静寂に包まれた街とは対照的な、混沌と暴力に満ちた地獄の色をしていた。


鼻を突く、生々しい血の匂い。

空を焦がす黒煙と、パチパチと爆ぜる家々の断末魔。

焼けた村の入り口で、ミーナは泥にまみれて膝をついていた。耳の奥には、今もあちこちから上がる泣き叫ぶ声がこびりついている。


目の前に、一人の男がいた。

薄汚れた服をまとい、地面に這いつくばってガチガチと歯を鳴らし、震えている。

「……頼む」

男の細い指が、ミーナの靴を掴んだ。

「助けてくれ……俺は……何も悪いことなんてしてないんだ……。信じてくれ……」


ミーナは、激しく迷っていた。

その男には、どこか不可解な点があった。村が襲われた混乱の最中、彼は一人だけ返り血を浴びていない場所に立っていた。逃げ遅れたにしては、その足取りは妙に落ち着いていた。

周囲の者たちは囁いていた。

「あいつは怪しい」

「敵を手引きしたんじゃないか」

だが。

確証はどこにもなかった。彼が直接誰かを傷つけたところを見た者はいない。ただの臆病者が、運良く生き残っただけかもしれない。


「……助ける」


ミーナは、自分に言い聞かせるように決断した。

人を疑うことよりも、信じることを選んだのだ。それが正しい人間の在り方だと、当時の彼女は固く信じていた。震える男の手を握り、力強く引き上げる。


男は、子供のように泣き崩れた。

「ありがとう……ありがとう……。あんたは、命の恩人だ……」


その涙を、ミーナは清らかなものだと疑わなかった。

彼を安全な避難所へと導き、温かいスープを分け与え、毛布を貸し出した。安らかな寝顔を見て、自分は一人、善い行いをしたのだと胸をなでおろした。


だが。


その夜。


沈黙を破ったのは、鋭い悲鳴だった。

ミーナが駆けつけたとき、そこにはもはや「恩人」への感謝など微塵も持ち合わせない、獣の眼をした男が立っていた。


男の手には、血に濡れたナイフが握られていた。

足元には、三つの骸。


一人は、未来を奪われた子供。

一人は、長く生きた知恵を散らされた老人。

そしてもう一人は、男を介抱した若い女性だった。


男は、笑っていた。

「助けてくれて、本当に感謝してるよ。おかげで、最高の獲物にありつけた」


ミーナの目の前で、善意は無残に踏みにじられ、信頼は死体へと変わった。

自分が「正しい」と信じて差し伸べたその手が、間接的に三人の命を奪ったのだ。

もし、あの時。

彼が「怪しい」と思った瞬間に、彼を拘束していれば。

彼を排除していれば。

この三人は、今も生きていたのではないか。


その夜の血の感触が、今のミーナの手のひらにはっきりと蘇る。

あの絶望。あの後悔。

「私のせいだ」

その言葉が、数年経った今も、呪いのように彼女の魂を縛り付けている。


回想が終わる。

目の前の景色が、現代の静かな街へと戻る。


ミーナの視線の先には、広場の「箱」がある。

そして、その横で「正常だ」と断じるアリアの横顔がある。


アリアのやり方は、残酷だ。

一人の無実を殺すかもしれない、恐ろしい制度だ。

だが。

あの夜のミーナのような「間違い」は、決して起きない。

兆候の段階で排除し、可能性の芽を摘み取る。

そうすれば、子供も、老人も、不意に殺されることはなくなる。


「……だから、アリアは」


ミーナの指先が、再びポケットの中の紙に触れた。

今度は、震えが止まっていた。

あの夜の血の匂いを消すために、彼女は無意識のうちに、この冷徹な秩序を求めていたのではないか。

誰かを信じて裏切られる恐怖よりも、誰かを疑って消し去る安寧を、選ぼうとしているのではないか。


心の奥底で、何かが死んだ音がした。

それは良心という名の脆いガラスが砕け散る音だった。


ミーナは、ゆっくりと歩き出す。

広場の隅、口を開けて待つあの箱へと。

自分の中にある、あの日死なせてしまった三人の顔を思い浮かべながら。

二度と、あんな思いをしないために。

誰一人として、自分を裏切らせないために。


「加速する」


アリアの言葉が、今度は祝福のように聞こえた。

正義は、止まらない。

それは過去の過ちを塗りつぶし、痛みのない空白へと世界を導いていく。


ミーナは、迷わずに筆を握った。

書くべき名前は、もう決まっていた。

それが「正しいこと」なのだと、彼女は自分自身に冷たく言い聞かせた。

路地の女が言った通り、慣れてしまえば、それはただの作業になるのだから。


広場の鐘が、また一度、高く鳴り響いた。





そして――。


男の背後に倒れていたのは、ミーナが何年も苦楽を共にしてきた、大切な仲間だった。


足元に広がる鮮血は、まだ温かい湯気を立てていた。男が握りしめているのは、ミーナが夕餉の準備のためにと彼に貸した、手入れの行き届いた鋭い小刀だった。


炎。

周囲の家々は燃え盛り、夜空を不気味な橙色に染め上げている。

悲鳴。

遠くで、近くで、逃げ惑う人々の声が上がり、やがて一つ、また一つと途切れていく。


「なんで……」


ミーナは、崩れ落ちるようにその場に立ち尽くしていた。

目の前の光景が信じられなかった。自分が信じた「善意」の結果が、これなのか。自分が手を差し伸べた「弱者」の正体が、これなのか。


男は、返り血を浴びた顔で、獣のような歪んだ笑みを浮かべていた。

「感謝してるよ、ミーナ。あんたが俺を隠してくれたおかげで、こいつらの喉元まで、音もなく近づけた」


「……お前が助けたんだろ」


暗闇の向こうから、誰かの声が響いた。

生き残った村人の一人か、あるいは神殿の衛兵か。その声は、鋭い針のようにミーナの鼓動を突き刺した。


「お前が、あの男を村に入れた」

「お前が、怪しいあいつを庇ったんだ」

「……お前が、こいつらを殺したも同然だ」


ミーナは、何も言えなかった。

反論する言葉など、どこにも残っていなかった。

男の背後で物言わぬ骸となった仲間。その開いたままの瞳が、ミーナを糾弾しているように見えた。「なぜ、あんな奴を信じたの?」「なぜ、私を見捨てたの?」と。


あの時、もし自分が「疑い」を優先させていたら。

彼を不審者として捕らえ、あるいは村から追い出していれば。

仲間の命は、今もここにあった。

子供の笑い声も、老人の穏やかな昼寝も、すべては守られていた。


「正しさ」とは、何だったのか。

人を信じ、慈悲をかけることが、これほどまでに残酷な結末を招くというのか。

ミーナの指先は、返り血で汚れ、洗っても洗っても落ちないような錯覚に囚われた。


回想が、静かに幕を閉じる。


現在の、静まり返った広場。

ミーナは、自分の指先を見つめていた。

震えはもう、止まっている。


「……だから」


ミーナの唇が、小さく動いた。


「もう、間違えない」


不浄は、芽のうちに摘まなければならない。

「もしかしたら」という微かな疑念は、そのまま「確定した罪」として処理されなければならない。

誰かが犠牲になる前に。

大切な誰かが、光の中に消える前に。

先に、排除する。


それが、この地獄のような世界で唯一、自分を許すための儀式だった。


アリアが、隣で静かにミーナを見つめている。

彼女には、すべてが見えているようだった。ミーナが抱える過去の傷も、その傷が今、どのような形の「正義」へと変質したのかも。


「……執行」


神官の声が、再び広場に響く。

ミーナは、迷わずに一歩を踏み出した。

ポケットの中から、一枚の紙を取り出す。

そこには、先ほど路地で虚空を見つめて笑っていた、あの女の名前が記されていた。


「あの方も……きっと、楽になれるわ」


ミーナは、自分に言い聞かせた。

何も持たず、誰も愛さず、ただ空っぽのまま生きる彼女に、引導を渡してあげること。

それが、今の自分が持ちうる、精一杯の「慈悲」なのだと。


紙が、箱の中に吸い込まれていく。

カタン、という乾いた音。

それは、ミーナがかつて持っていた「人間らしい弱さ」を、完全に葬り去った合図でもあった。


広場の隅に置かれた、簡素な木の箱。

それは、人々の良心と過去を糧にして、より一層深く、重い影を落としていた。


加速する正義。

完成へと向かう秩序。

その中心で、ミーナはアリアの隣に並んだ。

かつて泣き叫んでいた少女はもういない。

そこには、冷たい光を宿した瞳で、次の「不浄」を探し続ける、新しい処刑人の姿があった。


街は、どこまでも静かだった。

人間が壊れ、心が死に絶えた、完璧に清浄な世界。

鐘の音が、祝福のように街全体を包み込んでいった。





■現在


記憶の濁流が引き、広場の冷たい空気が肺に刺さる。ミーナの呼吸は、短く、浅く、荒くなっていた。視界が点滅し、石畳の輪郭がぐにゃりと歪む。


「……私が……」

「助けたから……」


その言葉が、自分自身を切り裂く刃となる。あの夜、男の手を引いた自分の指先。その指が、結果として仲間の喉を裂いた。その感触が、数年の時を超えて今の右手に、生々しい熱を持って蘇る。


手が震える。止めることができない。

その震えを見透かすように、アリアの無機質な言葉が重なる。


「兆候は、連鎖の前段階」

「不浄は、慈悲という名の隙間から入り込むのよ、ミーナ」


「……違う」

ミーナは、弱々しく否定した。

だが、その声には力がない。脳裏に焼き付いた仲間の死に顔が、その否定を「欺瞞だ」と嘲笑っている。もし、あの時、今のこの制度があれば。あの男が「怪しい」と一言書かれていれば。自分は、あんな地獄を見ずに済んだはずなのだ。


「……私は……」

言葉が続かない。

自分を責める声と、制度を肯定したくなる誘惑。その二つの間で、ミーナの精神は引き裂かれようとしていた。


目の前の路地裏の女。

彼女は、ある意味で「正しい選択」をしている。

自分を裏切るかもしれない者を、愛する前に、裏切られる前に、自らの手で切り捨てる。

自分を守るために。

二度と、あのような絶望を味わわないために。

それは、かつてミーナができなかった、最も合理的で、最も安全な生存戦略だった。


ミーナの中で、何かが音を立てて崩れていく。

積み上げてきた倫理も、人を信じるという誇りも、過去の血の海に沈んでいく。


「……それでも」

喉の奥から、血を吐くような思いで言葉を絞り出す。

「それでも……違う」


涙が溢れ、石畳を黒く染めた。

「こんなの……人じゃない……。家族を売り渡して、笑顔を消して、ただ生きてるだけなんて……こんなの、人間が住む場所じゃないよ……!」


アリアは、その叫びを冷徹な眼差しで受け止めた。彼女の瞳には、同情も、嘲笑もない。ただ、絶対的な事実を突きつける、執行者の冷酷さだけがあった。


「では、どうする」

アリアの問いが、静寂を切り裂く。

「また、助けるか。根拠のない信義を盾にして、再び不浄を招き入れるか」

「また、誰かを殺すか。あなたの甘さが原因で、罪のない誰かが血を流すのを、黙って見届けるつもり?」


ミーナは、言葉を失った。

逃げ場のない問いだった。

助ければ、誰かが死ぬかもしれない。

助けなければ、心が死ぬ。

どちらを選んでも、そこにあるのは絶望だけだった。


沈黙が、重く、長く、広場を支配した。

吹き抜ける風が、焼けた村の煙の匂いを運んできたような気がして、ミーナは吐き気を覚える。

彼女は、力なくその場に膝をついた。


「……分からない」


初めてだった。

自分の「正しさ」が、根底から崩れ去ったのは。

これまで彼女を支えていた「善意」という名の杖が折れ、暗闇の中に取り残された。自分が善人だと思っていたその自負こそが、最も醜い傲慢だったのではないか。そんな疑念が、彼女の魂を侵食していく。


アリアは、崩れ落ちたミーナを、高い場所から見下ろしていた。

その瞳に、わずかな、しかし決定的な変化が訪れる。


「……そう」

短く、静かに。

アリアの声は、迷いの中にいる子供に安息を与える母親のように、穏やかだった。


「なら、任せろ」


その一言が、決定的だった。

自分で考え、自分で悩み、自分で責任を取る。その重荷に耐えきれなくなったミーナにとって、アリアの言葉は甘い毒のように染み渡った。

「もう、悩まなくていい」

「もう、間違えなくていい」

「すべての判断を、正義という名のシステムに委ねてしまえばいい」


アリアが、一歩前に出る。

彼女の影が、地面に伏したミーナを完全に覆い隠した。

「不浄は、私が消す。秩序は、私が守る。あなたはただ、清浄な世界の一部として、静かに生きていればいいのよ」


アリアの指先が、ミーナの頭に触れる。

それは祝福のようであり、同時に、一人の人間としての意志を摘出する、最後の手続きのようでもあった。


広場の隅に置かれた、簡素な木の箱。

夕闇の中で、それは街のあらゆる苦悩と決断を飲み込み、肥大化していく。

ミーナは、もう泣いていなかった。

ただ、空っぽの瞳で、アリアの裾を見つめていた。


正義は、完成した。

迷う者がいなくなり、判断を放棄した人々が、ただ秩序という名の檻の中で微笑む世界。

加速する加速の果てに、街はついに、究極の静寂を手に入れた。


誰かの名前が、また箱に落ちる。

カタン。

その音は、もうミーナの心を揺らすことはなかった。






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