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正義が人を壊すとき、俺は選ぶしかなかった  作者: 慈架太子


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第6章:ミーナの違和感

神殿の尖塔から、重苦しい鐘の音が響き渡った。


かつて、その音は人々に祈りの時間を告げ、安らぎを与える合図だった。制度が始まった当初、鐘が鳴れば誰もが驚愕し、何事が起きたのかと顔を上げたものだ。広場に引きずり出される「不浄」な隣人の姿に、ある者は憤り、ある者は恐怖し、ある者は歪んだ正義感に酔いしれた。


だが、今は違う。


「……またか」


通りを歩く一人の男が、歩みを止めることなく低く呟いた。その声には怒りも悲しみもなく、ただ、予定通りに雨が降り出したことを確認するかのような、乾いた諦念だけが宿っていた。

鐘の音は、もはや日常の雑音に過ぎない。

それだけだ。


広場には、義務感に突き動かされた人々が集まってくる。

だが、以前のような熱狂はない。

告発が相次ぎ、光が誰かを消し去る光景を、人々は見飽きていた。

慣れたのだ。

隣人が消えることに。

叫び声が途絶える瞬間に。

そして、自分がまだそこに立っているという、薄氷のような安堵に。


広場の中央、石畳の上に立たされているのは三つの影だった。

一人の男。

その隣に、肩を震わせる女。

そして――。

その間に挟まれるようにして立つ、小さな影。


「被告三名」


神官の声が、静まり返った広場に響く。感情を排したその響きは、もはや人間が発するものとは思えないほど冷酷だった。

「罪状は、食料窃取、および告発回避の共謀である。彼らは神殿の備蓄を不正に持ち出し、さらにその罪を隠蔽するために互いの名を箱に投じることを拒んだ」


女が、我慢しきれず叫び声を上げた。

「違います!!」

その顔は涙と泥で汚れ、必死に周囲の群衆へ訴えかける。

「盗んだのではありません! 廃棄されるはずだった分を、ほんの少し……子供に食べさせるために……! この子が、もう三日も何も食べていなかったから……!」


女の叫びは、虚空に吸い込まれていった。

群衆の中に、彼女を知る者は何人もいたはずだ。同じ井戸を使い、同じ市場で言葉を交わしたはずの隣人たち。だが、彼らの瞳は一様に濁り、感情のシャッターを降ろしている。

誰も、反応しない。

ここで同情を示せば、それは「共謀」への加担と見なされる。

女の悲痛な訴えは、正義という巨大な歯車の前では、単なる不快な軋み音でしかなかった。


そのとき、女の袖を小さな手が掴んだ。

母親の傍らで立ち尽くしていた子供が、顔を上げた。

「……ねえ」

震える、しかし妙に透き通った小さな声。


子供の瞳には、大人たちが抱えているような複雑な恐怖や計算はなかった。ただ、目の前に広がる光景に対する、純粋で根源的な困惑だけがあった。

「……お母さん。僕たち、悪いことしたの?」


母親は答えることができず、ただ激しく首を振って子供を抱き寄せた。

その様子を、神殿の壇上から見下ろす影があった。

アリアだ。

彼女は、親子が抱き合う光景を、冷徹な観察者の目で見つめていた。

彼女にとって、この親子が空腹であったか、あるいは愛し合っているかなどは、判断の材料にはならない。

あるのは「規則」と「逸脱」、そして「排除」という結論だけだ。


アリアが、隣の神官に短く合図を送った。

「情に流される必要はない。例外を認めれば、そこから秩序は崩壊する」


神官が、高く手を上げた。

広場を包む空気が、一気に緊張を帯びる。

「処刑を開始する」


その瞬間、子供は母親の腕の中で、広場を埋め尽くす群衆の顔を一つ一つ見つめた。

そこには、かつて優しく頭を撫でてくれたパン屋の主人がいた。

一緒に遊んだ友達の父親がいた。

誰もが、目を逸らしていた。

誰もが、心の中で「自分じゃなくてよかった」と唱えていた。


「……ねえ。みんな、どうして怒ってるの?」


子供の最後の問いに、答える者は誰もいなかった。

光が溢れ出す。

かつてマリクを消し去り、無数の市民を飲み込んできた、あの眩しく残酷な純白の光だ。

男が、女を、そして子供を包み込む。


光が収まった後、広場には何も残っていなかった。

脱ぎ捨てられた靴一足すら、そこにはない。

ただ、冷たい石畳の上に、先ほどまでそこにあった熱の残滓が漂っているだけだった。


「解散」


神官の言葉に従い、人々は蜘蛛の子を散らすように自分の家へと戻っていく。

彼らの足取りは重いが、どこか機械的だった。

広場の隅にある木製の、簡素な箱。

それは今日も、新たな名前を待ち望んでいる。

愛する者を失った悲しみよりも、告発の手を止めれば自分が標的になるという恐怖が、人々の足を箱へと向かわせる。


正義という名の怪物は、ついに子供の命までも餌食にした。

しかし、街の人々はそれを「正常」だと言い聞かせる。

そうでなければ、自分たちの立っている場所が地獄だと認めることになってしまうからだ。


アリアは、無人となった広場を見つめ、静かに息を吐いた。

彼女の足元には、一筋の影が長く伸び、消えた親子の跡を塗りつぶしていた。





「なんで……ここにいるの?」


子供の無垢な問いが、静まり返った広場に波紋のように広がった。その声はあまりに幼く、自分たちが立たされている場所が死の淵であることを理解していない響きだった。


母は、答えられない。

喉の奥が熱く焼け付くようで、言葉の形を成さない。ただ、震える腕で子供を抱きしめる。骨が軋むほどに、強く。

「大丈夫……」

それは、この街で最も空虚で、最も残酷な嘘だった。母親の涙が子供の頬に落ち、冷たく弾ける。子供はその雫を不思議そうに見つめ、母親の背中に小さな手を回した。


父親が、狂ったように叫びながら前に出ようとした。

「俺がやったんだ!! 食料を持ち出したのは俺だ! こいつらは何も知らない、ただ俺に付いてきただけなんだ!!」

彼の叫びは、家族を守ろうとする本能の咆哮だった。だが、彼を阻む衛兵たちの盾は岩のように動かない。

「こいつらは関係ない!! 頼む、子供だけは……!!」


「順番を守れ」

神官の隣に立つ衛兵が、感情の失せた声で言い放った。彼らにとって、この家族はすでに人間ではない。処理を待つ「不浄のサンプル」に過ぎない。

「不浄は伝染する。共謀の疑いがある以上、一括して排除するのが規定だ」


子供は、依然として状況が分からなかった。

なぜお父さんが怒鳴っているのか。なぜお母さんが泣いているのか。なぜ、いつも優しかった近所のおじさんや、パン屋のおばさんが、まるで自分たちが見えていないかのように遠くを見つめているのか。

ただ、周囲の空気だけを感じている。

冷たく、鋭く、肌を刺すような悪意の不在。

誰も自分たちを助けようとしていないという、絶対的な孤独。

怖い。

子供の小さな体が、母親の腕の中で小刻みに震え始める。


でも。

誰も、止めない。

群衆の中にいる誰かが一歩踏み出せば、あるいは「待て」と声を上げれば、この狂気は止まったかもしれない。だが、広場を埋め尽くす数百人の目は、一様に凍りついていた。彼らは、この光景を「正義の執行」として受け入れることで、自分たちの安全を買い叩いていた。


「……ねえ」

子供が、もう一度言う。震える指先が、空中に漂い始めた光の粒に触れようとした。

「これ……何? きれいな光……」


誰も答えない。

その「きれいな光」が、自分たちの存在をこの世界から完全に消去するためのエネルギーであることを、誰が教えられるだろうか。


アリアが、ゆっくりと手を上げた。

彼女の指先が動くたびに、広場の中央に渦巻く光が密度を増していく。粒子は共鳴し、高周波の唸り声を上げ始めた。アリアの瞳には、一切の躊躇も、サディスティックな喜びもなかった。ただ、事務的に、完璧に、不浄を処理しようとする意志だけが宿っていた。


光が集まる。

家族を包み込むように、白銀の檻が形作られていく。

父親は絶望に顔を歪ませ、母親は子供の耳を塞ぎ、目を閉じさせた。

「見ちゃだめ。すぐ終わるから。すぐ……」


そのときだった。


ミーナが、群衆の中から一歩踏み出した。

「待って!!」


彼女の声は、悲鳴に近かった。

反射的に、アリアの動きが止まる。神官たちが不快そうに眉をひそめ、衛兵たちの矛先がミーナへと向けられた。群衆は一斉に息を呑み、彼女から距離を置いた。

ミーナは震えていた。膝が笑い、呼吸が浅い。だが、彼女の瞳には、この数ヶ月間、街から失われていた「生きた人間」の光が宿っていた。


「おかしいよ……こんなの、間違ってる! 食べ物を少し分けただけで、家族全員を消すなんて……! そんなのが、どうして正しいって言えるの!?」


ミーナの叫びは、静止した広場に鋭く突き刺さった。

アリアは、ゆっくりとミーナを見つめた。その視線は、親友に向けるものではなく、不具合を起こした機械を検品するような冷たさだった。


「ミーナ。あなたはまだ、感情という不純物に囚われているのね」

アリアの声が、低く響く。

「この子供も、やがては飢えに苦しみ、再び盗みを働く。不浄の血筋をここで断つことは、未来に対する慈悲なのよ」


「慈悲なんかじゃない! ただの殺戮よ!!」


「いいえ」

アリアは首を振った。そして、掲げた手をさらに高く突き上げた。

「これは、浄化よ」


だが。

ミーナがさらに何かを叫ぼうとした瞬間。

アリアの指先から、眩い閃光が放たれた。


「やめて――!!」


ミーナの制止は、轟音にかき消された。

広場全体が白い光に塗りつぶされる。

人々の絶叫も、祈りも、母親の啜り泣きも、すべてが光の中に溶け、消音された。


光が収まったとき。

広場の中央には、誰もいなかった。

先ほどまで抱き合っていた親子も、叫んでいた父親も、影一つ残さず消滅していた。

そこにあるのは、ただ、無機質な石畳と、広場の隅で口を開けているあの木製の箱だけだった。


ミーナは、その場に崩れ落ちた。

自分の無力さと、目の前で行われた「完璧な正義」の残酷さに、心が粉々に砕ける音がした。

周囲の人々は、一瞬の沈黙の後、何事もなかったかのように動き始めた。

「終わったな」

「さあ、帰って夕食だ」

「明日は、誰の名前を書こうか」


人々は、再び日常へと戻っていく。

子供を消した光のことなど、すでに忘れたかのように。

アリアは、祭壇の上からミーナを見下ろしていた。その顔には、わずかな悲哀さえ浮かんでいない。


「これで、三件の不浄が処理された。世界はまた一歩、完成に近づいた」


アリアの呟きは、誰に届くこともなく、風に流されていった。

広場の箱には、すでに次の紙が投じられようとしていた。

新しい、誰かの名前が記された、死の宣告書が。





ミーナの足が、止まる。

一歩、踏み出そうとしたその意志を、冷酷な現実が凍りつかせた。

止められない。

喉まで出かかった叫びは、形を失い、乾いた音となって消えた。

止める言葉が、もうどこにも見当たらない。正義という名の絶対的な論理の前に、人間の感情はあまりに無力で、あまりに不純なものとして切り捨てられていた。


「……執行」


アリアの唇が、神託を下すように動いた。

その瞬間、天空から白銀の光が垂直に降り注ぐ。

爆発音も、断末魔の叫びも、肉が焼ける臭いもしない。ただ、世界が真っ白な空白に塗りつぶされた。あまりに洗練された、あまりに清潔な消去。


光が収まったとき、そこにあったはずの三つの影のうち、二つが跡形もなく消えていた。

子供だけが、その場に残る。

親に抱きしめられていたはずの小さな体は、今は何に支えられることもなく、ぽつんと石畳の上に立ち尽くしていた。


沈黙。

広場を支配していたざわめきが、潮が引くように消え去った。

人々は息を潜め、まるで自分たちがそこに存在していないかのように身を固くする。

子供は、立ったまま。

動かない。

その手は、まださっきまでそこにあった母親の服の感触を求めて、空を掴んでいる。


「……お母さん?」


子供の声が、静寂を切り裂いた。

返事はない。

「……お父さん?」

誰も、答えない。

背後の父親も、盾となって自分を守っていた温もりも、すべては最初からなかったかのように消滅している。


子供は、ゆっくりと振り返る。

自分を囲む、壁のような群衆を。

自分を見下ろす、祭壇の上の神官たちを。

そして、その中心で冷たい光を宿した瞳でこちらを見ているアリアを。

子供は一人一人、確認するように周りを見る。

だが。

誰も、目を合わせない。

かつては微笑みかけてくれた隣人も、一緒に遊んだ友達の親も、一様に視線を石畳に落とし、石像のように固まっている。彼らにとって、この子供はもはや「生きた人間」ではなく、いつ自分たちに伝染するかもわからない「不浄の残り滓」でしかなかった。


「……なんで?」


その声は、小さい。

消え入りそうなほどに、か細い響き。

だが。

その一言は、広場に集まった数百人の耳に、雷鳴よりも大きく、深く突き刺さった。


なんで。

なぜ、お父さんとお母さんは消えたのか。

なぜ、誰も助けてくれないのか。

なぜ、みんなそんなに怖い顔をしているのか。

子供の純粋な疑問には、この街の「正義」では答えられない毒が含まれていた。


アリアの眉が、わずかに動いた。

彼女は子供を見つめ、その不確定要素をどう処理すべきか、脳内で冷徹に計算を巡らせているようだった。この子供を放置すれば、それは新たな不浄の種となる。恨み、悲しみ、絶望。それらはすべて、この完成された秩序を乱すノイズに他ならない。


ミーナは、崩れ落ちたまま子供を見つめていた。

助けに行かなければならない。そう思っても、体が動かない。アリアの視線が、そして広場を包む無数の「監視の目」が、彼女をその場に縫い付けている。もし今、あの子に駆け寄れば、自分もまた「不浄」として箱に名前を書かれるだろう。


「……なんで、みんな黙ってるの?」


子供が、一歩、歩き出した。

その小さな足音が、石畳にコツンと響く。

群衆は、波が割れるように子供から距離を取った。誰一人として手を差し伸べようとはしない。汚物を見るような目、あるいは自分に火の粉が飛んでくるのを恐れる目が、子供を追い詰めていく。


「答えなさい」

アリアの声が響く。

「それは不浄の報い。あなたが今そこにいるのは、神の慈悲による猶予よ。自らの罪を、両親の罪を悔い改めなさい」


子供は立ち止まり、アリアを見上げた。

その瞳には、恐怖を通り越した、深い虚無が宿っていた。

「罪……? お腹が空いたのが、罪なの?」


「秩序を乱す欲求は、すべて悪よ」


「……じゃあ、みんなも罪だね」

子供は、周囲を指差した。

「みんな、隠れて何かを食べてる。みんな、誰かが消えるのを、黙って見てる。お父さんたちが消えるのを、笑ってた人もいた。……それも、正しいことなの?」


広場に、凍りつくような緊張が走った。

子供の指摘は、あまりに正鵠を射ていた。正義という盾の後ろに隠れた、卑怯で醜い生存本能。それを指摘された人々は、羞恥ではなく、剥き出しの殺意を子供に向け始めた。

「黙らせろ」

誰かが呟いた。

「不浄の芽だ」

別の誰かが続いた。


声は瞬く間に広がり、一つのうねりとなった。

「排除しろ!」

「不浄を消せ!」

「秩序を守れ!」


狂気は、再び熱を帯びる。

子供は、自分を罵倒する群衆を、静かに見つめ返していた。

絶望という感情すら、今の彼には贅沢すぎた。


アリアが、再び手を上げる。

その掌には、先ほどよりもさらに凝縮された、死の光が収束していく。

「……理解したわ。兆候は、連鎖の前段階。ここで完全に、止めるべきね」


ミーナは、叫びたかった。

だが、その喉からは、もう声は出なかった。

ただ、涙だけが溢れ、灰色の景色を歪ませていく。

子供は、逃げようとはしなかった。

ただ、虚空を見つめ、消えた両親の面影を探すように、小さく唇を動かした。


「……バイバイ」


光が、広場を飲み込む。

音のない、完璧な静寂。

その中心で、小さな影が、光の粒子となって霧散していった。


広場に残ったのは、再び訪れた「清浄」な沈黙だけだった。

人々は満足げに頷き、自分の正しさを再確認するように、胸を張って歩き出す。

箱は、そこにある。

木製の、簡素な箱。

それは、一人の子供の命を飲み込み、さらに次の、もっと純粋な「正義」を求めて、深淵のような影を落としていた。





子供の問いは、広場の全員に届いていた。

高鳴る鐘の余韻さえもかき消すような、剥き出しの純粋さ。

だが、その問いに応える者は、一人もいなかった。


代わりに。

重苦しい沈黙を破り、誰かが、吐き捨てるように言った。

「……仕方ない」

その一言が、堰を切った。

自己弁護の波が、広場を埋め尽くしていく。

別の誰かが、自分に言い聞かせるように続けた。

「ルールだからな。決まったことなんだ」

「違反したんだろ。自業自得だ」

「そうだ。正しいことをしてるだけだ。不浄を放置すれば、俺たちの生活が脅かされる」


言葉が刃となって、立ち尽くす子供に突き刺さる。

子供は、理解できない。

なぜ、お父さんとお母さんが消えなければならなかったのか。

なぜ、大人たちはこんなにも冷たい言葉を投げつけるのか。

なぜ、「正しい」という言葉が、こんなにも恐ろしく響くのか。

理解できないまま、子供はその場に立ち尽くす。小さな肩が震え、虚空を掴む指先が白く強張っていた。


ミーナは、動けない。

足が石畳に縫い付けられたかのように重く、指一本動かすことさえ叶わない。

視線を逸らすことも、できなかった。

目の前で繰り広げられる地獄のような光景を、その網膜に焼き付け、魂を削り取られるような苦痛に耐えるしかなかった。


「……おかしい」

かすれる声。

ミーナの喉から漏れたのは、祈りにも似た絶望の呟きだった。

「これ……おかしいよ……。こんなの、人間がすることじゃない……」


誰も、答えない。

群衆はミーナの言葉を無視し、自分たちの正しさを再確認するために、さらに声を荒らげて告発の正当性を説き続ける。

その喧騒の中で、アリアだけは静止していた。

彼女は、まるで完成された彫像のように動かず、静かに言った。


「正常だ」


ミーナが、弾かれたように振り返る。

涙で視界が歪み、アリアの顔がひどく遠く感じられた。

「どこが……! どこが正常なの!? 子供を一人にして、親を消して、みんなでそれを笑って……これが、あなたの言う清浄な世界なの!?」


アリアは、ミーナの激昂を柳に風と受け流し、ゆっくりと広場を見渡した。

その瞳に映っているのは、一糸乱れぬ秩序の世界だった。


「見て。誰も暴れない。誰も反抗しない」

アリアの指が、広場を指し示す。

「人々は互いを監視し、自らを律している。不満があっても、それを外に出すことはない。なぜなら、その瞬間に自分が排除されることを知っているから。暴力も、略奪も、公然たる反乱も、この街からは消えたわ。恐怖という名の完璧な重石が、この社会を安定させている。これ以上の正常が、どこにあるというの?」


「それは……ただの死んだ世界よ!」


「生きて醜く争うより、死んで美しく整っている方が、神の御心にかなうと思わない?」

アリアの言葉には、一片の迷いもなかった。

彼女は本気で信じていた。

感情を殺し、個を消し、全体の一部として機能することだけが、人間の唯一の救いであると。


広場では、人々が列を作り始めていた。

あの木製の、簡素な箱へと向かう列だ。

彼らは、今日の「執行」を見て、自分もまた「正しい側」にいることを証明するために、新たな名前を書き込もうとしていた。

かつての友人の名前。

気に食わない商売敵の名前。

あるいは、つい先ほど隣で泣いていた見知らぬ誰かの名前。


子供は、まだそこにいた。

だが、群衆はすでにその存在を無視し、まるで道端の石くれでもあるかのように、子供を避けて歩いていく。

誰も手を貸さない。

誰も声をかけない。

関われば、自分も不浄の連鎖に巻き込まれる。

その「正常」な判断が、街のすみずみまで行き渡っていた。


ミーナは、崩れ落ちたまま、自分の手のひらを見つめた。

そこには、自分もかつて握りしめていた、あの告発の紙の感触が残っているような気がした。

自分もまた、この「正常」な世界の一部なのだ。

黙って見ているだけの、卑怯な共犯者。


アリアが、静かに歩き出す。

彼女の背中には、一切の迷いがない。

「加速は止まらない。明日には、もっと多くの名前が箱を満たすでしょう。そして最後には、誰もいなくなった広場で、この箱だけが正しさを証明し続けるのよ」


広場の中心で、子供がゆっくりと座り込んだ。

冷たい石畳の上で、彼は何を思うのか。

あるいは、もう何も思わないのか。

空は、不気味なほどに青く、澄み渡っていた。

不浄のない、完璧に清浄な空が、灰色の街を見下ろしていた。


箱の蓋が、カタンと鳴った。

また一人、新しい犠牲者の名前が投じられたのだ。

それは、日常の、ごくありふれた、正常な音だった。





神殿の広場に、凍りついた秩序が横たわっている。

かつての喧騒は消え失せ、今やそこにあるのは精密機械の内部のような、無機質で計算し尽くされた静寂だった。


「混乱はない」

アリアの声が、波紋ひとつ立てない水面のように響く。

「再発も防げる。不浄の因子を根絶することで、連鎖の可能性を完全に断ち切ったわ」

「被害は最小化されている。少数の排除によって、多数の清浄が保たれる。効率的で、無駄のない統治。それが正しい」


ミーナは、言葉を失った。

その「正しい」という言葉の重圧に押し潰され、喉の奥が石のように固まって動かない。論理は完璧だった。反論の余地などどこにもない。だが、その論理の美しさと引き換えに、この街から何が削り取られていったのか。彼女はそれを叫びたかったが、その声さえもアリアの語る「正義」に飲み込まれていく。


広場の中央では、一人生き残った子供が、ゆっくりと石畳に座り込んだ。

子供は泣かない。

大きな瞳は乾ききり、感情の揺らぎすら見せない。

泣き方が、分からないのだ。

目の前で両親が光に溶け、周囲の大人が自分を化け物を見るような目で避けていく。そのあまりに急激で絶対的な拒絶の前に、子供の心は反応することをやめてしまった。


誰も、近づかない。

親しい者も、見知らぬ者も、等しく子供を避けて歩く。

彼らは子供がそこに存在しないかのように振る舞い、同時に、その存在が自分たちの「清浄」を汚さぬよう細心の注意を払っていた。


風が吹く。

どこかで処刑が行われた名残なのか、灰色の粒が空中に舞い、子供の頬をかすめていった。

それは、かつて人間だったものの最後のかけらだったのかもしれない。


そして。

次の鐘が、鳴る。

重く、一定の間隔で打ち鳴らされる鉄の音。

誰も、顔を上げない。

以前なら、鐘の音は誰かが消える合図として人々の心に波風を立てた。だが今は、それさえも心臓の鼓動と同じ、単なる生体反応の一部に成り下がっていた。

死は、日常になった。

誰かが消えることは、明日の天気が変わるのと同じくらい、ありふれた、語るに足らない出来事になったのだ。


アリアは、ゆっくりと目を閉じる。

風に髪をなびかせながら、彼女はその「完成」しつつある世界の空気を感じ取っていた。

「……進んでいる」

その声には、深い確信があった。

疑いも、迷いも、後悔もない。

彼女が見ているのは、ただ一つの理想郷。

誰もが自分を律し、誰もが不浄を許さず、完璧な静寂の中に沈んだ、永遠の平和。

正義は完成に近づいている。


だが。

その足元で。

人間は、壊れていた。


広場に集まる人々は、生きながらにして死んでいた。

彼らの瞳には光がなく、言葉には血が通っていない。

彼らが守ろうとしている「自分」とは、果たして何なのか。

他者を売り渡し、感情を捨て、ただ「排除されないこと」だけを目的に呼吸を続ける肉塊。

それが、アリアの望んだ「清浄な人間」の正体だった。


ミーナは、震える手で自分の胸を抱いた。

自分の内側でも、何かが音を立てて崩れていくのを感じる。

正しいこと。

それは、こんなにも冷たく、残酷なことだったのか。

不浄のない世界とは、温もりさえも不純物として排除した、絶対零度の地獄のことだったのか。


子供は、座り込んだまま動かない。

風に舞う灰を見つめ、ただ、静かにそこに存在し続けている。

彼の瞳に映る世界は、もはや色彩を失い、白と黒の二階差の世界へと変貌していた。


箱の蓋が、またカタンと開く。

一人の男が、周囲を窺いながら、新しい告発を投じた。

その表情には、もはや罪悪感の欠片もない。

ただ、義務を終えた後のような、空虚な満足感だけが漂っていた。


秩序は、保たれている。

混乱はない。

再発も防げる。

だが、その秩序という名の墓標の下で、街は、人間は、静かに腐敗し続けていた。

正義が完成するその日。

この街には、誰一人として「人間」は残っていないだろう。

アリアは、その静寂の果てを、確かな足取りで見つめ続けていた。






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