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正義が人を壊すとき、俺は選ぶしかなかった  作者: 慈架太子


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第23章:最深部前

通路は、静かだった。


さっきまでの鼓膜を震わせる金属音も、誰かの叫びも、すべてが嘘みたいに消えている。

あまりに急激に訪れた静寂は、耳の奥でキーンと不快な音を立てていた。


戦いの狂気は去り、ただ、重く澱んだ血の匂いだけが、そこに残っていた。

大理石の白さが、赤黒い染みをよりいっそう際立たせている。


カイは、一人で歩いている。

汚れ一つないはずの聖域を、泥と血にまみれた軍靴で踏みしめていく。


足音だけが、高い天井に反響し、規則正しく響く。

その音は、まるで自分自身の心臓の鼓動を外側から聞いているかのようだった。


後ろに、気配はない。

共に地獄を潜り抜けてきたガルドたちの咆哮も、敵として、あるいは背中を預ける者として対峙したマーガレットの鋭い指示も、もう届かない。


ここにはいない。

彼らは、それぞれの戦場に、それぞれの「正義」の中に置いてきた。


ここから先は、一人


その事実が、カイの肩を冷たく撫でた。

誰にも相談できず、誰に責任を転嫁することもできない、最も孤独な聖域。


扉が、見える。

これまでくぐってきたどの門よりも巨大で、荘厳な、白銀の大扉。

その彫刻一つ一つが、侵入者を拒むように鋭く尖っている。


その向こう。

アリアがいる。

すべての始まりであり、終わりの地。


カイは、止まる。

扉の数歩手前で、完全に動きを止めた。


動かない。

震えていた指先は、今はもう冷たくなっている。

手をかけない。

ただ、吸い込まれるような白銀の面を見つめている。


「……ここまでか」


小さく、掠れた声で呟く。

その一言が、静寂の中に波紋のように広がった。


長かった。

ほんの数日、あるいは数時間の出来事だったはずなのに、遠い昔のことのように感じる。


戦い。

奪い合った命。

選択。

切り捨てた未来。


全部。

走馬灯のように、頭の中を流れる。


広場でのミーナの絶叫。

南区の赤黒い炎。

腕の中で軽くなった、あの子供の質量。

それらすべてが、今、この大きな扉の前に集約されている。


自分が選んだ「間違い」が、アリアの「正解」と衝突する瞬間。

カイは深く息を吐き、自らの内に澱んだすべての毒を、覚悟へと変えていった。


物語は、全ての装飾を剥ぎ取り、たった二人の少年と少女の、剥き出しの再会へと向かっていく。





ミーナ。


脳裏に、あの瞬間の光景が鮮明に蘇る。

広場の冷たい石畳の上で、孤立し、震えながらも、自分たちを見つめていたあの顔。

かつての親友に、せめて自分だけはと、声なき助けを求めたあの目。

カイは、その視線から逃げるように背を向けた。論理という盾を構え、効率という剣を振るうために。


南区。

網膜に焼き付いた、赤黒い炎。

崩れ落ちる瓦礫の音と、肺を灼くような焦燥。

燃える街。

そこでカイが掴んだのは、あまりにも細く、あまりにも頼りない、子供の手だった。


だが。

その温もりは、長くは続かなかった。

消えた呼吸。

腕の中で、一つの世界がふっと幕を閉じる感覚。

助けたはずの命さえ、自分の指先からこぼれ落ちていった。


「……」


言葉が、出ない。

聖堂の冷たい沈黙が、カイの喉を締め上げる。

かつての自分なら、ここで何万もの言葉を並べ立てただろう。

状況が最悪だった。

他に手段がなかった。

あれが統計的に最も被害の少ない選択だったのだと。


だが。

もう、言い訳はしない。

そんな薄っぺらな論理で自分を塗り固める段階は、とうの昔に過ぎ去っていた。


見捨てた

親友の叫びを、自分の意志で黙殺した。


選んだ

一人の命よりも、数百の記号を優先した。


救えなかった

その結果、守りたかったものすべてを失った。


全部。

揺るぎようのない、残酷な事実だ。

聖堂の白い壁が、その罪の記録を冷徹に反射している。


「……それでも」


掠れた声が、肺の奥から絞り出される。


「止める」


短い。

そこに論理的な構築はない。勝算の計算さえ、今のカイには意味をなさなかった。


「止めなきゃいけない」


理由はない。

これが「正義」だからではない。

自分たちが始めたこの「間違いのない世界」という名の狂気を、このままにしておくわけにはいかないのだ。


正しさでもない。

今のカイに、正しさを語る資格など一欠片も残っていない。

両手は血に汚れ、魂は取り返しのつかないほどに損壊している。

これは贖罪でも、英雄的行為でもない。


ただ。


「これ以上、増やさない」


それだけだ。

自分のような、救えない後悔を背負う者を。

アリアのような、人間であることを捨ててしまった孤独な怪物を。

そして、ミーナのような、絶望の中で消えていく光を。


「……もう、十分だ」


カイは、血の滲む拳を固く握りしめた。

聖堂の奥、大扉の向こう側に感じる、圧倒的なまでの「清浄」。

その美しすぎる狂気に終止符を打つために。


カイは、一歩を踏み出した。

背負った死者たちの重みを、自らの骨身に刻み込みながら。

物語は、正しさを失った少年が、正しすぎる世界を壊すための、最後の一歩を刻んだ。





カイは、ゆっくりと、深く、まぶたを閉じる。


視界を閉ざせば、闇の向こう側にこびりついた残像がうごめく。

広場で背を向けた瞬間の、冷たい空気。

南区の業火に焼かれた、鉄の匂い。

腕の中で、次第に熱を失っていった小さな命の重み。


呼吸。

一度、肺の底にあるよどんだ空気を吐き出し、聖堂の凍てつく冷気を吸い込む。


整える。

乱れていた鼓動が、機械的な一定のリズムへと収束していく。


感情は、まだ、そこにある。

消えない。

消せるはずがなかった。親友を見捨てた罪悪感も、救えなかった無力感も、自分の選択が生み出した凄惨な結果への嫌悪も、すべてが内臓をく毒のようにカイの中に渦巻いている。


だが。

振り回されない。

その毒さえも、今は自らを動かすための冷徹な燃料へと変えていた。

悲しみに膝をつく時間は、とうの昔に過ぎ去っている。絶望に身を任せる贅沢など、今の自分には一欠片ひとかけらも残されていない。


決まっている。

自分が何をすべきか。

誰を、どの場所へと引きずり下ろさなければならないのか。


カイは、目を開ける。

濁りのない、底知れぬ静寂をたたえた瞳。


目の前には、白銀の装飾が施された、巨大な大扉。

聖域の心臓部を守る、最後の境界線。


「……俺が」


小さく、掠れた声が、聖堂の天蓋へと昇っていく。


「終わらせる」


その言葉に。

迷いは、もう微塵も存在しなかった。

正しさを捨て、汚れを選び、人殺しの指先で未来を掴もうとする少年の、血を吐くような決意の響き。


手を、かける。

冷たい金属の感触が、手の平の傷口に障る。

止まらない。

迷いの一歩を踏み出したあの日から、この瞬間まで、カイの歩みは止まることを許されていなかった。


一瞬。

本当に、呼吸を止めるほどの、ほんの一瞬だけ。


ミーナの顔が、脳裏に浮かぶ。

広場で最後に見せた、あのはにかむような、けれどどこか寂しげな、いつもの笑い顔。

「間違いだ」と叫ぶ前の、ただの少女であった彼女の面影。


「……」


カイは、何も言わない。

謝ることも、許しを乞うことも、自分にはその資格がないことを痛いほど理解していた。

想い出を美化して自分を慰めるような、汚い真似はしない。

ただ、その痛みごと、扉の向こう側へ持っていく。


前を見る。

視線の先には、透き通るような白銀の扉があるだけだ。


進むしかない。

振り返れば、そこには数えきれない死者たちの行列が続いている。

彼らが支払った「死」という名の対価を無駄にしないために、カイは力を込めた。


扉を、押す。


重厚な石の門が、内側から溢れ出す圧倒的な「清浄」に抗うことなく、静かに、そして無慈悲に左右へと分かれていく。


開く。

視界が、一気に白に塗りつぶされる。


光が、漏れる。

それは救済の輝きではなく、すべてを焼き払い、均一化し、影を許さない断罪の輝きだった。

人々の迷いも、痛みも、弱さも、すべてを不純物として消し去るための、冷徹な神の眼差し。


その先へ。


カイは、光の渦の中へと足を踏み入れた。

一歩、踏み出すごとに、自分という人間が剥ぎ取られていくような錯覚。

だが、その足取りは、かつてないほどに力強かった。


物語は、全ての言い訳を切り捨てた少年の、最期にして唯一の「答え」へと向かっていく。

光の彼方。

静謐な玉座に腰掛け、虚無そのものの瞳で、世界を見守り続けている少女の姿が、今、ゆっくりと目の前に現れようとしていた。






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