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正義が人を壊すとき、俺は選ぶしかなかった  作者: 慈架太子


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第20章:責任

夜だった。


聖堂が、目の前にある。

月の光を反射して、それは青白く、冷徹なまでに美しくそびえ立っていた。


白い石。

汚れ一つないその壁面は、街を覆うすすや血の匂いを一切拒絶しているかのようだ。

静かな外観。

窓から漏れる微かな灯火ともしびは穏やかで、ここが惨劇の震源地であることを忘れさせる。


何も知らなければ――

誰もがここを、救済の拠点だと信じるだろう。

ただの、祈りの場所。

罪を許し、迷える魂を導くための、聖域だと。


カイは、立っていた。

聖堂の入り口へと続く階段の途中で、彫像のように静止している。

動かない。

動けば、全身の関節から、溜まりに溜まった疲労と絶望が噴き出してしまいそうだった。


風が、吹く。

それは、南の方角から、熱を帯びた不吉な残り香を運んできた。

遠くで、まだ煙が上がっている。

闇に溶けきらない、よどんだ灰色の柱。


南区。

そこにある現実は、今もカイの網膜に焼き付いて離れない。

目を凝らせば、まだ炎の中に立ち尽くしている自分が見える。


小さな体。

腕の中に残る、あの軽すぎる質量。

掴んだ手。

自分の袖を握りしめ、最後まで「お母さん」を求めていた、細く汚れた指先。


消えた呼吸。

自分の指先から、確かに、そして無慈悲に滑り落ちていった命の感触。


「……」


何も言えない。

喉の奥は、吸い込んだ煙と、吐き出せなかった叫びで、焼けるように乾いている。


いや。

言えることは、ある。

論理的に分析し、被害を最小限に抑えるための「次」の策を提言することはできる。

「あの犠牲は必要だった」と、自分を納得させるための数式を組み立てることだってできる。


だが。

言いたくない。

そんな言葉を口にした瞬間に、自分の心の中にある「人間」の残骸が、完全に消えてしまう気がした。


目を閉じる。

逃げるように。

視界を遮断すれば、あの燃え盛る南区の光景も、瓦礫の底に沈んだ母親の眼差しも、消えてくれるのではないかと。


だが。

消えない。

まぶたの裏側には、広場で一人立ち尽くしていたミーナの、あの拒絶の瞳が浮かんでいる。

「間違いだ」と叫んだ彼女の声が、耳鳴りのように響き続ける。


自分が選んだ「正解」の重みに、カイの膝が微かに震えた。

聖堂の白い石は、何も答えない。

ただ、静かに、そして残酷に、生き残った者の罪を照らし出していた。





選んだ。


見捨てた。


夜の底に、自らが下した決断の残滓ざんしが沈殿していく。

聖堂の白い石壁に背を預け、重く、濁った肺の空気をゆっくりと吐き出す。


「……違う」


小さく、掠れた声で呟く。

その一言は、自分を正当化しようとする最後の悪あがきを、自ら断ち切るための刃だった。


「助けられなかったんじゃない」


一拍。

思考の海に浮かんでは消える、論理的な言い訳の数々。

「時間がなかった」「戦力が不足していた」「確率論的には正しかった」。

それらすべてを、カイは自分の意志で踏みにじった。


「見捨てた」


沈黙。


言葉にした瞬間。

これまで脳内で必死に組み立てていた「仕方のない犠牲」という名の防壁が、音を立てて崩落した。

逃げ場が、完全に消える。

冷徹な観測者としてではなく、血の通った一人の加害者として、その罪が輪郭を持って立ち上がる。


「……俺が」


指先が、目に見えて震え始める。


「選んだ」


「南区を」


「ミーナを、見捨てて」


声が、激しく震える。

広場で一人、絶望の淵に立ちながらも「間違いだ」と叫び続けた少女。

自分を信じ、助けを求めるような眼差しを送ってきた、唯一の理解者。

彼女が闇に飲み込まれていくのを、カイは計算式の結果として、ただ静かに受け入れたのだ。


「それで」


喉の奥で、苦い液がせり上がってくる。


「助けられなかった」


拳を握る。

あまりに強く、指の節々が白く浮き上がり、爪が手の平の肉を無慈悲に裂いた。

じわりと熱い感触が広がり、黒ずんだ石畳に血が滲む。

その痛みさえ、今のカイには生ぬるい罰にしか感じられなかった。


「……誰も」


視線の先、南区の方角では、まだ細い煙が夜空を汚している。

瓦礫の下で微笑んだ母親。

腕の中で冷たくなった、名もなき子供。

そして、気配さえ消えてしまった、たった一人の親友。


「救えなかった」


沈黙。


かつてアリアと共に夢見た、完璧で清浄な世界。

その理想を実現するために積み上げた「正解」の果てに、カイの手元に残ったのは、救えなかった命の重みと、自らが殺した良心の死骸だけだった。


風が、吹き抜ける。

聖堂の白さは、どこまでも無機質で、生き残った者の懺悔ざんげを一切聞き入れようとはしない。


カイは、動かない。

血の滲む拳を見つめたまま、ただ、自分が作り出した地獄の静寂の中に、独り取り残されていた。

物語は、救済という名の欺瞞ぎまんを剥ぎ取り、一人の少年に、決して消えない「人殺し」の刻印を焼き付けていた。





「……これが」


掠れた声が、聖堂の白い壁に吸い込まれていく。


「現実だ」


カイは、ゆっくりと目を開ける。

網膜に焼き付いていた南区の赤黒い残像を、無理やり思考の奥底へと押しやる。だが、鼻腔に残る焦げた匂いと、手の平にこびりついたすすの感覚だけは、どうしても拭い去ることができなかった。


視線を上げる。

正面にそびえ立つ聖堂を見据える。

その奥、静謐せいひつな光のただ中に、彼女はいる。


アリア。


かつて同じ理想を掲げた少女は、今や迷いを断ち切り、完成された「正義」の執行者として君臨している。彼女を止めなければならない。このままでは、街は清浄という名の虚無に飲み込まれ、すべての人間性が「不純物」として間引かれてしまう。


分かっている。頭では、誰よりも理解している。


だが。

一歩を踏み出す足が、鉛のように重い。


「……だからって」


自嘲気味な呟きが、夜の静寂を乱す。


「許されるわけじゃない」


自分に言い聞かせる。

鏡のない闇の中で、自分という加害者の姿を直視するように。


「正しい選択だった。……論理的には、そうかもしれない。多数を救うために、少数を見捨てる。生存確率を最大化する。それがこの地獄で生き残るための、唯一の最適解だったはずだ」


「でも」


視界が、一瞬だけ歪む。


「死んだ奴は、戻らない」


沈黙。


瓦礫の下で微笑んだ母親。

腕の中で冷たくなった、名前さえ知らない子供。

そして、自分が背を向けたその瞬間に、気配さえ消えてしまったミーナ。

彼らが支払った対価の上に、今の自分の「生」が成り立っている。その不条理な事実は、どんな高度な数式を用いても相殺することはできない。


「……正しさは」


言葉が、一瞬だけ止まる。

脳裏をよぎるのは、祭壇の上で光を背負い、迷いなく処刑を宣告したアリアの姿。

彼女もまた、自分と同じ言葉を口にするだろう。「これが正しいことだ」と。


そして。

カイは、絞り出すように言葉を続ける。


「……免罪符じゃない」


静かに。

けれど、自らの魂に刃を突き立てるような鋭さを持って。


正しければ、人を殺していいわけではない。

正しければ、涙を無視していいわけではない。

正しければ、犯した罪が消えてなくなるわけではないのだ。


アリアは、その「正しさ」という鎧を纏い、自らを神の領域へと引き上げた。

だがカイは、その鎧を脱ぎ捨て、泥まみれの、血に汚れた一人の人間として、地を這うことを選んだ。


「正しいからこそ、苦しまなきゃいけないんだ。……俺も、お前も」


カイは、再び聖堂を見上げた。

そこには、救済をかたる断罪の光が満ちている。

免罪符を持たない「人殺し」の少年は、自らが背負った死者たちの重みを踏みしめながら、一歩、また一歩と、白い石の階段を登り始めた。


物語は、正しさを盾にしない、最も泥臭い「決着」へと向かおうとしていた。





「俺は」


静寂を裂くように、カイの唇が動く。


「正しくて」


「間違えた」


矛盾。

論理学が、数学が、これまで信じてきたあらゆる法則が、その一言で音を立てて崩壊する。

多数を救うために少数を見捨てる。生存確率を最大化する。それは計算上、一点の曇りもない「正解」だったはずだ。

だが、その正解を選んだ指先は、今も救えなかった命の重みで震え、魂は修復不可能なほどに損壊している。


だが。

それが現実だ。

この歪んだ世界において、清浄な正解などどこにも存在しない。あるのは、血に塗れた選択と、その後に残る凄惨な結果だけだ。


「……だから」


カイは、深く、肺の奥まで夜気を吸い込む。


「逃げない」


一歩、踏み出す。

石畳を叩く靴音が、かつてないほど重く、確かな響きを持って聖堂の壁に反響した。


「背負う」


「全部」


「選んだ結果も」


「見捨てた命も」


「救えなかった現実も」


沈黙。


その宣言は、誰への誓いでも、神への祈りでもない。

自らが犯した罪を、自らの血肉として取り込み、地獄の果てまで歩き続けるという、冷徹な自己宣告だった。

「仕方なかった」と天を仰ぐことも、「力不足だった」と膝をつくことも、今のカイには許されない。

自ら選んだ道の先にある、救いのない暗闇を、その眼差しで真っ向から射抜く。


カイの目に、迷いはない。

数千の演算回路が、一つの結論へと収束したわけではない。

ただ、泥にまみれ、血を流し、一人の少女を見捨てた最低の自分を、そのままの姿で受け入れたのだ。


ようやく決まった。

救済者としての自分を殺し、一人の加害者として、アリアの前に立つことを。


「……行くぞ」


声は低いが、鋼のような強靭さを孕んでいる。


後ろに、気配。

ガルド、リーヴ、セレス、ユークス。

南区の業火を潜り抜け、絶望の味を知る戦友たちが、無言でカイの背後に並び立つ。


誰も、何も言わない。

慰めも、鼓舞も、今の彼らには不純なノイズでしかない。

もう。

言う必要がない。


覚悟は、終わった。


巨大な聖堂の扉の前。

装飾の施された冷たい金属に、カイは震えない手をかける。

この扉を開ければ、かつて同じ理想を抱き、今は神の如き独裁者となった少女との、決定的な決裂が待っている。


止まらない。

足は、一歩も引くことを拒んでいる。


「……俺は」


最後に、もう一度だけ。

消え去ったミーナの面影を、脳裏の特等席に刻み込みながら、自分に言い聞かせる。


「見捨てた」


それを。

否定しない。

隠さない。

美化しない。

ただ、生涯消えることのないあざとして、胸に受け入れる。


そして。

カイは、ありったけの意志を込めて、聖堂の扉を力強く押し開けた。


溢れ出すのは、眩いばかりの純白の光。

その光の向こう側、静謐な玉座で、迷いなき正義を完成させたアリアが待っている。

物語は、正しさを捨てて罪を選んだ少年と、正しさを極めて神となった少女の、最終決戦へと幕を上げた。







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