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正義が人を壊すとき、俺は選ぶしかなかった  作者: 慈架太子


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第15章:社会崩壊

朝だった。


夜の底から這い出してきたような、不自然に明るく、そして冷たい陽光が街を照らし出す。

だが、そこにあるのは一日の始まりを寿ぐ活気ではない。

静かすぎる朝。

耳を澄ませば、自分の鼓動と石畳を叩く靴音だけが異様に大きく響き、空気を震わせる。


誰も、挨拶をしない。

かつてはこの街の至る所で交わされていたはずの「おはよう」という短い言葉さえ、今や不用意に他者の領域へ踏み込む不吉な予兆として忌避されている。

道行く者と不意に目が合えば、弾かれたように視線を逸らす。

一歩、誰かに近づけば。

あるいは、誰かと肩が触れ合えば。


??疑われる。


その恐怖が、目に見えない膜となって人々の間に張り詰め、互いを物理的な距離以上に遠ざけていた。


市場は、形式上は開いている。

色鮮やかな野菜や焼き立てのパンが並び、商売の体裁は整えられている。

だが。

そこには「商い」の体があるだけで、血の通った交流はない。

威勢のいい呼び込みの声がない。

少しでも安く、少しでもおまけをと競い合う値段交渉もない。

何より、冗談を言い合って弾けるような笑い声が、根こそぎ消え去っている。


人々は、亡霊のように無口だった。

ただ、必要な物を台の上に置き、必要な代金を黙って置く。

必要な品を受け取り、目も合わさずにその場を去る。

それだけ。

まるで精巧に作られた人形たちが、あらかじめ決められた手順をなぞっているかのような、不気味な光景が広がっていた。


「……これでいいのか」


雑踏のどこかで、誰かが押し殺した声で呟いた。

それは疑問であり、悲鳴であり、祈りでもあった。

だが。

誰も答えない。

その問いに同調すれば、現状の秩序に対する「不満」と見なされ、次の朝には自分の姿が広場から消えているかもしれない。

人々は聞こえない振りをし、さらに深く俯いて、自分の影だけを見つめて歩を進める。


その時。


市場の隅にある、古びたパン屋の前で、ささくれ立った声が上がった。


「……少ない」


一人の男が、カゴの中のパンを指差して低い声で言った。

その指は微かに震え、瞳には飢えと、それ以上に深い「猜疑」が宿っている。


「昨日より、明らかに減ってる。重さも、形も。……誤魔化しているのか?」


その言葉が、凍りついた空気を切り裂く。

周囲の客たちが、一斉に動きを止めた。

「誤魔化し」は、この街において単なる商売上の不正ではない。

他者を欺き、秩序を乱す不浄な行為。

それは「箱」へ報告されるべき、十分な理由になり得る。


店主が、ゆっくりと顔を上げた。

小麦粉で白く汚れたその手は、カウンターの縁を白くなるほど強く握りしめている。

かつては恰幅の良かったその頬は削げ落ち、落ち窪んだ眼窩の奥で、絶望に似た光が鈍く明滅していた。


店主の唇が、震えながら動く。

言い訳をするべきか。謝罪するべきか。

それとも、この男を「不当な言いがかり」として逆に告発すべきか。


朝の静寂の中で、一つの小さな火種が爆ぜる。

誰も顔を上げない街で、また新たな「正義」という名の刃が、誰かの喉元に突きつけられようとしていた。





「……仕入れが」


店主の唇から漏れた言葉が、途中でぷつりと途切れた。

言おうとした理由が何であれ、それを口にすることの危うさを本能が察知したのだ。

だが、その一瞬の躊躇こそが、周囲に潜む飢えた獣たちの耳を逆立てさせる。


周囲の視線が、一点に集まる。

それは好奇心ではなく、獲物を見定めた瞬間の、冷たく鋭い剥き出しの殺意に近かった。


「……何か隠してるのか?」


誰かが、押し殺した声で言った。

その一言が、市場の澱んだ空気を一気に変える。

「隠し事」という言葉はこの街において、水源に毒を撒くのと同義の重みを持つようになった。

秩序から外れた秘密を持つ者は、それだけで社会という巨大な肉体から切除されるべき癌細胞と見なされる。


店主の顔から、一気に血の気が引いていく。

小麦粉にまみれたその肌が、病的なまでに青ざめていく。

「ち、違う……! 隠してなんていない!」

彼はカウンターを叩くようにして、必死に声を張り上げた。

「ただ……物流が滞って、粉が少し減っただけで……! 他に意図なんてないんだ!」


沈黙。

その弁明は、誰の心にも響かない。

人々が求めているのは真実ではなく、自分が「正義の側にいる」という免罪符だった。


一人の男が、懐からゆっくりと一枚の紙を取り出した。


??告発用紙


その紙の白さが、朝の光を浴びて残酷なほど鮮明に浮かび上がる。

店主の目が、見開かれた。

喉の奥が引き攣り、言葉にならない悲鳴が漏れる。


「……やめてくれ。頼む……! 子供がいるんだ。私が連れて行かれたら、あの子たちはどうなる……!」


必死の懇願。

だが、誰も止めない。

ここで店主を庇えば、次は自分が「共犯者」としてあの紙に名前を書かれる番だ。

人々は石像のように動かず、ただその光景を網膜に焼き付けていた。


カサリ、と。


紙が、設置された「箱」の隙間へと吸い込まれ、底に落ちる。

その小さな、あまりにも軽い音が、店主には世界の終わる轟音のように響いた。


それだけで。

すべてが、決まる。

事実は関係ない。疑いが提出され、記録に残った。その時点で、彼の人生という時計の針は止まったのだ。


「……終わったな」


誰かが、感情を殺した声で呟く。

人々は蜘蛛の子を散らすようにその場から立ち去り、ただパン屋の店主だけが、自分の焼いたパンの香りに包まれながら、死刑宣告を受けた者の顔で立ち尽くしていた。


別の場所。

固く閉ざされた、ある家の地下室。


薄暗いランプの火が揺れる部屋で、父と娘が向かい合っていた。

卓上には、半分に割られた一切れの硬いパン。

外の喧騒はここまでは届かないが、部屋を支配しているのは、市場よりもさらに重苦しい「沈黙」だった。


娘が、震える手でパンに手を伸ばそうとする。

だが、父親がその手を優しく、しかし有無を言わせぬ力で制した。


「……食べる前に、確認だ」


父親の声は、掠れていた。

「今日、学校で何を話した。誰と目が合った。……先生に、何か聞かれなかったか」


娘は、怯えたように首を振る。

まだ十にも満たない少女の瞳には、子供らしい輝きは欠片もなく、ただ「間違えてはいけない」という強迫観念だけが張り付いている。


「何も……言ってないよ。お父さんの仕事のことも、お母さんがいなくなった日のことも。……ずっと、黙ってた」


父親は、安堵の溜息を漏らす。

だが、そのすぐ後に、さらに鋭い疑念が彼の脳裏をよぎる。


「……本当にそうか? 誰かに見られていないか。お前の『沈黙』が、逆に不自然だと思われてはいないか」


家の中でも。

親子の間でも。

愛よりも先に、疑いという名の「正義」が食卓を囲んでいる。

窓の外では、また誰かを連行する兵たちの足音が近づき、そして遠ざかっていった。





沈黙。


部屋の隅で埃が舞い、ランプの芯が小さく弾ける音だけが、不自然なほど大きく響く。

父親の手が、一切れのパンを握ったまま空中で凍りついた。


「……父さん」


娘が、重い口を開く。その声は細く、今にも消え入りそうだった。

だが、その言葉に含まれた響きは、鋭い剃刀のように父親の心臓をなぞった。


「昨日、夜中に外に出てたよね。……裏の勝手口から。私、見てたよ」


父親の指先が、微かに震える。

「……あれは。ただ、少し様子を見に……」

言い訳を紡ごうとするが、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。夜間の外出。それだけで、この街では「謀議」や「不浄な接触」の証拠として十分すぎるほどだ。


娘の肩は、小刻みに震えている。

その瞳には、かつて向けられていた無邪気な信頼の色はない。そこにあるのは、恐怖と、そしてこの街に叩き込まれた「生存のための義務」だけだった。


「……書くね」


娘が、卓の隅に置かれた白地の紙を、震える手で手繰り寄せた。


父親の目が、絶望に大きく揺れる。

「やめろ……。お願いだ、やめてくれ……! お前を一人にして、どこへ行けるっていうんだ。父さんを、見捨てるのか……?」


娘は、声を殺して泣いている。

頬を伝う涙が、無機質な紙の上に丸い染みを作っていく。

それでも、彼女のペンを握る手は止まらなかった。


「……ごめん。お父さん。……書かないと、私まで不浄になるって、学校で教わったの。お父さんを庇ったら、次は私が……箱に入れられちゃうから……」


掠れたペン先が紙を走る。

名前。時間。不審な行動。

それは親子の絆を断ち切る儀式であり、一人の人間を社会から抹消するための、あまりに事務的な手続きだった。


カサリ、と。


部屋に備え付けられた家庭用の回収箱に、紙が吸い込まれていく。


??家族が終わる音


それは、パンが焼ける音よりも、娘の寝息よりも、父親にとっては残酷に響いた。

もはや、この部屋に「親子」はいない。

告発者と、被疑者。

血の繋がった二人を隔てるのは、深淵よりも深い、正義という名の断絶だった。


路地裏。

湿った石壁に身を隠すようにして、二人の男が肩を寄せ合っていた。

彼らは周囲を何度も、何度も確認し、囁くような小声で言葉を交わす。


「……やめないか。もう、こんなこと」


一人が、吐き捨てるように言った。

「隣の家の主人も、パン屋の親父も消えた。今朝は、子供が親を売ったって話まで聞いた。……これ、どう考えてもおかしいだろ。俺たちは、何を守ってるんだ?」


もう一人の男が、沈黙した。

彼はフードを深く被り、影の中に顔を埋めている。

「……やめろ。それ以上は、命取りだ」


「命取り? 黙っていても、いつかは誰かが俺たちの名前を書く! だったら、今のうちに――」


「……聞こえてるぞ」


フードの男が、遮るように言った。

その声には、友情も同情もなかった。


「お前のその発言、記録に残るぞ。……あるいは、俺が今ここで、この耳で聞いたと報告すれば」


話していた男の顔から、一瞬で生気が失われた。

親友だと思っていた。

共にこの地獄を嘆き合える、唯一の仲間だと思っていた。

だが、暗闇の中で光った相手の瞳には、自分を売ることで一日の平穏を買おうとする、飢えた獣の輝きが宿っていた。


「……お前、まさか」


「……悪いな。俺にも、守りたい生活があるんだ」


路地裏に、乾いた足音が響く。

友情という名の残骸を踏みつけ、一人が闇の中へと消えていく。

逃げ場のない街。

愛も、信頼も、血の繋がりさえも、白い紙一枚の重さに耐えきれず、次々と砕け散っていく。


アリアの光は、届かない路地の奥底まで、冷徹な監視の目となって浸透していた。

朝の鐘が、また不吉に鳴り響く。

それは、新しい一日の始まりではなく、誰かの人生が終わる合図だった。





後ろから、低く湿った声がした。


路地裏の湿り気を吸い込んだような、感情の欠落した声。

男は、弾かれたように振り返る。


背後に、いつからそこにいたのか、影のような男が一人立っていた。

表情はない。ただ、見定めるような冷徹な眼差しだけが、暗がりに浮かび上がっている。


「今の、どういう意味だ?」


問いかけは短く、容赦がない。

先ほどまで交わされていた、体制への不信。システムの歪みへの嘆き。

それらすべてを、逃さず聞き取ったという宣告だった。


沈黙。

心臓の鼓動が、耳の奥で鐘のように打ち鳴らされる。

言い訳を探そうとするが、乾いた喉からはヒューという掠れた呼吸が漏れるだけだった。


影の男が、懐からゆっくりと白い紙を取り出す。


??もう習慣


それは、挨拶を交わすよりも、代金を支払うよりも、この街の人々にとって自然で不可逆な動作になっていた。

不審を感じ、紙を取り出し、名前を記す。

呼吸をするのと同じ頻度で、誰かの人生を終わらせるための手続きが執行される。


「……違う」

男が、震える声で絞り出した。

「誤解だ! 俺はただ……世間話をしていただけで、他意なんてないんだ。頼む、その紙をしまってくれ!」


だが、言葉はもはや、この街において何の意味も持たない。

真実がどこにあるかなど、誰も興味はない。

必要なのは、不穏な影を一つ消し去り、自らの安全を「報告」という実績で買い取ることだけだ。


ペンが走り、紙が折られる。

その乾いた音が、男の耳には処刑を待つ断頭台の軋みに聞こえた。


カサリ、と。

近くの回収箱に紙が吸い込まれていく。


「やめろって言ったのに……」

誰かの呟きが、風に乗って消える。

だが、その警告に耳を貸す者はもういない。

誰もが、誰かの耳になり、誰かの目になり、互いの喉元を狙い合う狂犬へと変貌していた。


広場。

いつもの場所。

昨日と同じ、灰色の石畳。


神殿の尖塔から、正午の鐘が鳴り響く。

その音に誘われるように、人々が三々五々と集まってきた。

かつては祭りを楽しみ、語り合うために集まったこの広場は、今や「排除」の儀式を確認するための劇場と化している。


だが。

誰の顔にも、驚きや悲しみはない。

引きずり出される「被告」が、かつての友人であっても、昨日までパンを売っていた隣人であっても、群衆の瞳は硝子玉のように冷え切っている。


「次は誰だ」

一人の男が、退屈そうに隣の者に尋ねる。


「知らん」

返ってくる答えもまた、無関心そのものだ。

「でも、怪しい奴なんだろ。箱に名前が落ちた以上、不純物なのは間違いないさ」


軽い会話。

まるで今日の献立を相談するかのような、日常の断片。

命の重さは、もはや測る秤さえ失われ、ただ「処理すべき事務」へと成り下がっていた。


エルナ・リーヴァが消え、マーガレットが血を流したあの朝の衝撃さえも、この街は驚異的な速度で飲み込み、日常という名の地獄へと同化させていった。


広場の中央。

アリアが、再び祭壇の上に立つ。

その純白の衣は一点の汚れもなく、降り注ぐ光を反射して輝いている。


人々は、もはや彼女を恐れることすら忘れていた。

ただ、その光の中にいない自分を確認し、隣人をその光の中に突き落とすことで、今日という一日を生き延びる。


「被告、入廷」


神官の声が響く。

群衆は、一斉に顔を上げた。

そこに映っているのは、正義でも法でもない。

ただ、自分たち自身の姿を映し出す、底なしの深淵だった。





処刑台に、人が立つ。


縄を打たれ、泥にまみれた膝を石畳につく。

名前が呼ばれる。神官の張りのある声が、広場の隅々にまでその個人の識別符号を響かせる。


だが。

誰も、その名前を覚えない。

群衆の耳を通り抜ける音は、一秒後には無意味な振動へと変わり、忘却の彼方へと捨て去られる。覚える必要がないのだ。明日にはまた別の名前が呼ばれ、その次にはまた別の誰かがここに立つ。個人の人生、積み重ねてきた記憶、家族との約束。それらすべては「不純物」という一言で上書きされ、消去される。


光が落ちる。

神殿の奥から放たれる純白の奔流が、跪いた影を包み込み、一瞬の閃光とともにその存在を根こそぎ奪い去る。


終わる。

そこには、かつて人間であったことを示す焦げ跡すら残らない。


拍手もない。

歓声もない。

正義が執行されたという高揚感すら、もはやこの街からは枯れ果てていた。

ただ、事務的な沈黙だけが広場を支配している。人々は、予定されていた作業が滞りなく完了したことを確認する機械のような目で、その空白を見つめている。


ただ。

次に移る。


「被告、次。入廷」


神官の声が、間髪入れずに次の絶望を呼び寄せる。


??死は、完全に日常になった


朝起きて顔を洗い、パンを食べ、誰かの死を確認する。

それは、生活の一部として組み込まれた。

驚きや悲しみといった感情は、生存を脅かす「ノイズ」として、人々が自ら切り捨てたのだ。


ミーナは、群衆の端で、その光景を震えながら見ている。

昨日、喉を突いたマーガレットの血は、もう乾いて見えなくなった。エルナ・リーヴァという少女が泣き叫んだ場所には、今は別の老人が立ち、同じように震えている。


「……違う」


ミーナが、喉の奥で小さく呟く。

その声は、自分自身の存在を確かめるための、細い糸のような響きだった。


「こんなの……。こんなの、人じゃない。私たちは、人間じゃなくなってる……!」


だが。

隣に立つ男も、前を行く女も、誰も反応しない。

彼女の言葉は、透明な壁に阻まれるように霧散していく。ミーナを振り返る者は一人もいない。もし振り返れば、彼女の「正気」という名の病に感染してしまうことを、彼らは本能で察知している。


祭壇の上で、アリアは静かに、広場を見渡していた。

その瞳には、一人の死を憐れむ色も、執行を愉しむ色もない。ただ、完成された歯車が噛み合う様子を検分する、職人のような冷徹さだけが宿っている。


アリアは、傍らの神官に静かに告げる。


「安定している。昨日に比べ、心拍数の乱れを示すノイズは三パーセント減少した」


「……はい、アリア様。市民は完全に、浄化を受け入れております」


「混乱はない。再発も減少している。……成功だ」


アリアの声は、揺るがない。

彼女にとって、この静まり返った広場こそが、理想としていた平和の形だった。

争いがなく、疑念が即座に処理され、全員が同じ方向を向いて沈黙する世界。


ミーナは、その言葉を聞き、弾かれたように顔を上げた。

光り輝く祭壇、一点の曇りもない白い衣をまとった少女。

かつて共に笑い、明日を語り合ったはずの友。


「どこが……! どこが成功なのよ……!!」


ミーナの叫びが、広場の静寂を切り裂く。

「誰も笑ってない! 誰も話してない! 自分の親や子供を箱に投げ込んで、震えて息をしてるだけの場所の、どこが成功だっていうの!?」


ミーナは、アリアを見据える。

「あなたは、街を救ったんじゃない。……街を、殺したんだよ。アリア!!」


その言葉が、凍りついた広場に波紋のように広がっていく。

だが、アリアは眉一つ動かさない。

彼女の背負う光は、ミーナの絶叫さえも「処理されるべき不規則な音」として、冷たく照らし出していた。


「……排除の対象を、一名追加」


アリアの唇が、無機質に動く。

物語は、ついに最後の一線を超えようとしていた。





ミーナの絶叫が、広場の静止した空気の中で虚しく霧散していく。

だが。

言葉が、続かない。

彼女を支えるはずの周囲の人間は、一歩、また一歩と、目に見えない汚染を避けるように距離を取る。その物理的な空白こそが、この街における最大の拒絶だった。


カイは、何も言わない。

喧騒の中心に身を置きながら、彼の視線だけは、冷徹な観測者の位置から一ミリも動いていなかった。


ただ。

街を見る。


石畳の上を、滞りなく流れる群衆。

窓口に吸い込まれていく、無数の告発用紙。

処刑台の上で、感情を殺して「次」を告げる神官の声。

それらすべてが、精密に設計されたクロックワークのように、一分の狂いもなく時を刻んでいる。


機能している。

防犯、秩序、清浄。

かつて人々が望んだ「安全」という名の果実が、今、最悪の形で実を結んでいる。


壊れている。

信頼、慈悲、未来。

それら人間を人間たらしめていたはずの贅肉ぜいにくは、極限まで削ぎ落とされ、骨だけになった社会が白く乾いている。


カイは、その両方を。

矛盾する二つの真実を、網膜の奥に同時に焼き付けていた。


「……完成したな」


小さく、呟く。

その声には、アリアのような使命感も、マーガレットのような贖罪の情も、ガルドのような怒りも、一切の感情が含まれていなかった。

ただ、難解な数式の最終回答を導き出した時のような、乾いた納得だけがそこにあった。


告発社会は、完成した。


もはや、強大な権力による弾圧など必要ない。

人々が自ら、隣人の「異質」を検知し、自ら、愛する者の「綻び」を報告し、自ら、自分を縛る鎖を磨き上げる。

支配者が鞭を振るうまでもなく、市民の指先が、互いの首を絞めるためのトリガーとなっている。


「誰が悪いわけでもない」


カイの瞳に、祭壇の上で光り輝くアリアの姿が映る。

彼女は、人々が心の底で求めていた「責任の不在」を具現化したに過ぎない。

「正しいこと」をしていれば、誰かを殺しても罪悪感を持たなくて済む。

「決まり」に従っていれば、隣人が消えても自分のせいではないと思える。

その甘美な免罪符を、この街の全員が、血を流しながら貪っているのだ。


ミーナの叫びさえも、今やこの完成されたシステムを彩る、微細な不協和音ノイズに過ぎない。

その音は、すぐに「排除」という名の静寂によって上書きされるだろう。


風が、広場を通り抜ける。

かつては自由の象徴だったはずのその風さえも、今は誰かの秘密を運ぶ、密告者の息吹のように感じられた。


カイは、ポケットに手を突っ込み、ゆっくりと歩き出した。

行き先はない。

ただ、自分が立ち会った「実験」の完璧な成功を、その冷え切った心臓で受け止めながら。


広場の鐘が、また一つ、事務的な音を響かせる。

それは、昨日よりも静かで、昨日よりも正しい、新しい絶望の始まりを告げていた。


物語は、熱を失った。

ただ、白く光る正義の平原が、どこまでも、どこまでも、無機質に広がっているだけだった。






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