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正義が人を壊すとき、俺は選ぶしかなかった  作者: 慈架太子


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第11章:マーガレット登場

朝だった。


夜の底から這い出してきたような、冷たく濁った灰色の光が街を包み込む。神殿の尖塔から、一日の始まりを告げる鐘が鳴り響いた。かつては希望や祈りの合図だったその音も、今や重苦しい鉄の塊が空気を叩き潰す不吉な予兆に過ぎない。


人々は、街路を歩きながらも決して顔を上げない。

視線を上げれば、誰かの絶望と目が合ってしまう。

顔を上げれば、監視の目に「不審」と映ってしまう。

ただ足元の石畳だけを見つめ、昨日の続きを、あるいは今日という終わりの始まりを淡々とこなしていく。


広場。

いつもの場所。

いつもの、乾いた静寂が支配する光景。

中央には、あの簡素な木製の箱が置かれ、その傍らには執行を待つ神官たちが列をなしている。

だが。

今日だけは、空気がわずかに違っていた。


「被告――エルナ・リーヴァ」


神官の声が、凍りついた広場に響き渡った。

名前が呼ばれる。それはこの街において、存在の抹消を意味する呪文に等しい。


引きずり出されたのは、若い女だった。

まだ二十にも満たないだろう。薄汚れた麻の服を着て、手首を太い縄で硬く縛られている。彼女の体は、枯れ葉のように激しく震えていた。その瞳には、理解を絶する恐怖と、信じがたい現実への困惑が混濁していた。


「罪状」


神官が、羊皮紙を無機質に読み上げる。

「水源付近での不審行動、ならびに毒物混入の疑い」


広場に、さざ波のようなざわめきが広がった。毒。それは、一人の排除では済まない、街全体を滅ぼしかねない禁忌の言葉だ。

「水源付近での不審行動。複数の目撃証言あり」


エルナが、喉を引き裂くような声で叫んだ。

「違います!!」

その叫びは、静止した群衆の壁にぶつかって虚しく跳ね返る。

「私は……私はただ、水を汲みに行っただけで……! 毒なんて、そんな恐ろしいもの、持ってなんていません!」


彼女の頬を涙が伝い、石畳に落ちる。

「母が……病気で……! 熱がひどくて、喉が渇いたと苦しんでいたから、少しでも綺麗な水を飲ませてあげたくて……!」


エルナは周囲を見渡した。助けを求めるように。自分の潔白を証明してくれる誰かを探すように。

だが、群衆は一様に視線を逸らした。

「水を汲みに行っただけ」という彼女の言葉を信じる者は、ここにはいない。いや、信じる余裕のある者がいないのだ。

「複数の証言」という重圧。

誰かが彼女を見た。誰かが彼女を「怪しい」と箱に書いた。

その事実がある以上、彼女はすでに「人間」ではなく、排除されるべき「リスク」でしかなかった。


「証言は、箱(窓口)によって保証されている」


神官の言葉は、絶対的な宣告だった。

「母の病というのも、主観的な言い逃れに過ぎない。不審な行動があったという客観的事実が、すべてに優先される」


エルナは崩れ落ちた。

「お母さん……お母さんを、一人にしないで……」


広場の隅で、カイはその光景をじっと見つめていた。

感情を殺したその瞳の奥で、昨日、アリアに突きつけた「名前で数えろ」という言葉が、鋭い痛みとなって彼自身を突き刺していた。


エルナ・リーヴァ。

今、目の前で消えようとしている一人の名前。

彼女が毒を入れたのか、あるいは本当に母親のために水を汲んだのか。

真実など、この「仕組み」の前では何の意味も持たない。

ただ、誰かが彼女を疑い、彼女が「排除」の基準に触れた。それだけですべてが決まる。


アリアが、祭壇の上に姿を現した。

白い衣をまとい、揺らがない光を背負った彼女の瞳が、エルナを射抜く。

アリアの指先が、ゆっくりと持ち上げられた。

執行の合図だ。


「待って……待ってください!!」


エルナの最後の叫びが、鐘の音にかき消される。

神殿の奥から、あの純白の、感情のない光が溢れ出し始めた。


朝の光の中で、一つの名前が、また消されようとしていた。

人々は依然として、顔を上げない。

自分だけは、あの縄で縛られないことを、祈るように足元を見つめ続けていた。





誰も、前に出ない。


広場を埋め尽くした群衆は、彫像のように固まっていた。隣り合う肩が触れ合っていても、そこには断絶しかない。エルナの悲痛な叫びは、冷たい石畳に吸い込まれ、誰の心にも届かないかのように霧散していく。助けようとすれば、自分も「共犯」という名のリスクに書き換えられる。その恐怖が、人々の足を地面に縫い付けていた。


だが、その沈黙を切り裂いて、ミーナが一歩を踏み出した。


「待って」


その声は、震えていた。けれど、広場の端々まで鋭く響いた。

アリアは、ゆっくりと視線を向けた。高い祭壇の上から、かつての友であり、今は迷える市民の一人に過ぎないミーナを、光を背負った瞳で見下ろす。


「……証拠は?」


ミーナは、自分でも驚くほどの速さで鼓動する心臓を抑え、問いかけた。

神官が、事務的な手つきで羊皮紙をめくり、感情を排した声で答える。


「物的証拠なし」

「毒物そのものの発見には至っていない。だが、水源付近での不審な動き、および何かを投げ入れたという目撃証言は完全に一致している。複数人による一致だ」


「……それだけ?」


ミーナの声が、絶望に揺れる。

「それだけで、この子の命を奪うの? 毒そのものが見つかっていないのに?」


「一致は、強い客観的証拠だ」

アリアの声は、微塵も変わらない。水面に映る月のように、冷たく、静かだ。

「個人の主観は嘘をつくが、複数の視点による合致は真実を浮き彫りにする。この街の平穏を脅かす兆候がある以上、放置は許されない」


「でも!!」

ミーナは叫んだ。

「みんな、自分たちが疑われたくないから、誰かを指差してるだけかもしれない! 見たって言ってるだけで……その人たちが本当に何を見たかなんて、誰にも証明できないはずよ!」


「意図は?」

アリアが、短く問うた。

その問いは、ミーナの喉元に突きつけられた冷たい刃のようだった。


ミーナは、言葉に詰まる。

「分からない……けど……お母さんの病気を治したかっただけかもしれない。ただの、汲み損ねた水が跳ねただけかもしれない……」


「分からないものは、排除する」


即答だった。

一切の慈悲を排した、純粋な論理の宣告。

「善意か悪意か、その内面を測る術はない。確かなのは、彼女の行動が市民に不安を与え、水源という急所に触れたという事実だけ。不明瞭な個人の事情よりも、明確な全体の安全が優先される。それがこの街のルールよ」


空気が、物理的な重圧を持って凍りつく。

もはや議論の余地はない。アリアの「正しさ」の前では、エルナという一人の少女の人生は、計算式の端数に過ぎなかった。


エルナが、溢れ出す涙を止められずに首を振る。

「違うんです……! 信じてください……! 毒なんて……持ってない……母さんに、冷たい水を飲ませてあげたかっただけなんです……!」


縄が食い込む手首を震わせ、エルナは地面に額を擦り付けた。

広場の隅では、カイがその光景をじっと見つめていた。彼の目は、泣き叫ぶ少女ではなく、彼女を囲むシステムそのものを解剖するように見つめている。


アリアの指先が、再び持ち上げられた。

執行を告げる光が、神殿の奥で唸りを上げる。

「エルナ・リーヴァ。あなたの存在がもたらすリスクを、ここで処理する」


「待ちなさい!!」


ミーナの声は、もはや悲鳴に近かった。

だが、その声もまた、加速する正義の歯車を止めるにはあまりに微力だった。

光が広場を白く染め上げ、影を長く引き伸ばしていく。

一人の名前が、またしても「無」へと還されようとしていた。





その時。


一人の男が、絞り出すような声を上げた。


「……あの子じゃない」


広場を埋め尽くす沈黙に、小さな、しかし決定的な亀裂が走る。

群衆の波がわずかに揺れ、ざわめきが広がった。人々は互いに顔を見合わせ、声の主を探す。

一人の、年配の男がそこに立っていた。使い込まれた作業着をまとい、その手は目に見えて激しく震えている。


「見たのは……俺だ。箱に、あの娘を見たって書いたのは、俺なんだ……」


沈黙。

神官の冷徹な眼差しと、アリアの無機質な光が、男の全身を射抜く。男は恐怖に膝をつきそうになりながらも、言葉を続けた。


「夜に……水源にいたのは……別の奴だ。体格も、動きも違った。あの子じゃないんだ……」


全員の視線が、一点に集まる。

被告席で縄を打たれたエルナが、縋るような瞳で男を見つめた。


「……じゃあ、なんで」


群衆のどこからか、責めるような、あるいは戸惑うような声が上がった。


「なんであの子だって言った? 箱(窓口)に、そう書いたのはお前なんだろう?」


男は、答えられなかった。

唇を戦慄かせ、ただ床の石畳を凝視する。

その沈黙が。

この街の、最も醜悪な「証拠」となって曝け出される。


「……言わないと、俺が疑われるからだ……」


その呟きは、風に乗って広場の隅々にまで届いた。

「誰の名前も書かなければ、見て見ぬふりをした罪に問われる。誰か不審な奴を報告しなければ、俺が共犯だと疑われる。……だから、あの子を見たことにした。汲み場の近くで見かけたのを思い出して、無理やり……」


沈黙。

その言葉の背後にあるのは、正義などではない。

自分だけは助かりたいという、剥き出しの生存本能と、隣人を差し出すことで買う安寧。

男の告白は、広場にいる全員の胸を抉った。なぜなら、ここにいる誰もが、同じ理由で誰かの名前を「箱」に投げ入れた覚えがあったからだ。


「証言に揺らぎあり」


神官が、事務的な口調で淡々と言った。羊皮紙をめくる音だけが、耳障りに響く。


「だが。被告が水源にいた事実は変わらない。証言の撤回は、証人自身の混乱によるものとも取れる。不透明な要素が増しただけであり、被告の白を証明するものではない。……疑いは、依然として消えない」


ミーナが、その場に立ち尽くすエルナを庇うように叫んだ。


「消えたでしょ!!」

「今の聞いたでしょ!? おじさんは、嘘をついたって言ってる! 怖かったから、関係ない子を売ったって言ってるのよ! 疑いなんて、最初からどこにもなかったじゃない!!」


ミーナの叫びは、悲鳴となってアリアに届く。

「違うって言ってる!! 証拠なんてどこにもない! あるのは、この街が作った『恐怖』だけじゃないの!?」


エルナは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

「私は……お母さんのために……」

その弱々しい言葉さえ、神殿の重圧にかき消されていく。


アリアは、祭壇の上からピクリとも動かなかった。

彼女の瞳には、男の告白も、ミーナの絶叫も、すべてはシステムの「ノイズ」として処理されているようだった。


「……不透明なリスクは、排除の対象となる。それが基準だ」


アリアの声が、氷の塊となって降り注ぐ。

「嘘が混じったという事実は、より一層、この場の不浄を証明しているに過ぎない。秩序を乱す疑義がある以上、浄化を止める理由にはならないわ」


光が、一段と激しく明滅し、広場を白一色の虚無へと変えていく。

救いの手は差し伸べられたはずなのに、その手さえもが泥にまみれ、少女の首をさらに強く絞めつけていく。


正義の加速は、もはや真実さえも踏みつぶして進んでいた。

広場の隅でそれを見ていたカイは、静かに拳を固めた。

沈黙する群衆。

嘘を吐いた男。

叫び続けるミーナ。

そして、無感情に光を放つアリア。


壊れ果てた街の、最も残酷な朝が始まろうとしていた。





アリアの表情は、もはや石像のように動かなかった。


神殿から溢れ出す純白の光が、彼女の瞳を非人間的な色に染め上げている。

そこには、救いを求める少女の叫びも、かつての親友の慟哭も、何一つ届いてはいない。


「“確定で無実”ではない」


その声は、広場全体を物理的な重圧で圧し潰すかのように、低く、冷たく響いた。


「……は?」

ミーナは、耳を疑った。

男が「嘘を吐いた」と認めたのだ。証拠が根底から崩れ去ったのだ。それなのに、アリアの口から出たのは、さらなる地獄の論理だった。


「一度芽生えた疑念、一度報告された不審な行動。それが偽証を含んでいたとしても、被告がその夜、水源という急所にいた事実は変わらない。不確定要素が残る以上、そこにリスクは存在するのよ」


アリアの論理は、もはや破綻さえも「正しさ」として飲み込んでいた。


「疑いがあるということは、可能性がゼロではないということ。完璧な清浄を保つためには、ゼロではない可能性はすべて摘み取らなければならない。なら――」


「排除」


ミーナの顔が、恐怖で凍りつく。

「……やめて。お願い、やめてよ……!」

喉が裂けるような悲鳴を上げても、アリアの視線はエルナの頭上数センチを、冷徹に見据えたままだ。


エルナは、その場に崩れ落ちた。

縄に食い込む手首も、石畳に擦りむいた膝の痛みも、もう感じていないようだった。

「お願い……! お母さんが……家で、待ってるんです……! 私がいないと、誰が水を……誰が看病を……!」


彼女の言葉は、切実な「生」の証明だった。

しかし、その祈りは、広場を埋め尽くす沈黙の壁に跳ね返され、誰の耳にも届かない。

群衆は、自分たちも「偽証」という泥にまみれていることを自覚しながら、ただ黙ってその場に立ち尽くしていた。誰かが助け舟を出せば、今度はその助け舟が「不浄」として沈められる。その恐怖が、数千人の人間を動かぬ肉塊に変えていた。


アリアの右手が、ゆっくりと天に向かって持ち上げられた。

神殿の奥から、キィィィィンという鼓膜を突き刺すような高周波が響き渡る。

光が一点に収束し、エルナを飲み込もうと膨れ上がる。


ミーナが、なりふり構わず飛び出した。

「ダメ!!」


だが、彼女の体は、祭壇を守る兵たちの無機質な盾に阻まれた。

「離して!! 離しなさい!! 違うって言ってるでしょ!? 誰の目にも明らかな間違いじゃない!!」

ミーナは兵の手を振り払おうと暴れ、叫び、石畳を蹴った。

しかし、重厚な甲冑に包まれた兵たちは、感情を持たない壁のように彼女を押し戻す。


「やめて!! アリア、お願い、目を覚まして!!」


ミーナの絶叫が広場にこだまする。

だが、アリアの指先は、迷うことなく振り下ろされた。


「……執行」


一瞬。

世界が、真っ白に塗りつぶされた。


雷光のような、あるいはそれよりもさらに純粋で残酷な、死の色をした光。

エルナの叫びが、光の奔流にかき消される。

「お母さ――」

その最後の一言さえ、完結することはなかった。


光が消えた後、そこには。

何も、残っていなかった。


縄も、服も、一人の少女が生きていたという形跡さえも。

ただ、磨き上げられたように無機質な石畳だけが、朝日を浴びて静かに輝いている。


街は、静かだった。

いや。

静かすぎた。


人々は、再び視線を足元に落とした。

一人の少女が消えたことなど、初めからなかったかのように。

自分たちの「正しさ」を、自分たちの「生存」を、その沈黙で守るために。


ミーナは、膝をついた。

喉が枯れ、涙さえも出ない。

ただ、自分が守ろうとした「名前」が、あまりにも容易く、あまりにも「正しく」消し去られた事実に、心が粉々に砕け散る音を聞いていた。


朝の光の中で、アリアは静かに手を下ろした。

その瞳は、相変わらず一点の曇りもなく、この世で最も美しい「正義」を体現していた。


加速する、死の静寂。

物語は、ついに引き返せない場所へと、その一歩を刻み込んだ。





エルナ・リーヴァという存在が。


消えた。


あまりにも鮮やかに、あまりにも「清潔」に。

つい数秒前までそこにあり、震え、涙を流し、母親の名前を呼んでいた一人の少女の質量は、神殿が放つ純白の光の中に溶け、最初から存在しなかったかのように掻き消された。石畳の上には、彼女が結んでいた縄の断片すら残っていない。ただ、朝日を反射して輝く無機質な平穏だけが、そこにある。


沈黙。


広場を埋め尽くす数百人の群衆は、その光景を網膜に焼き付けながらも、誰もが石像のように動かなかった。


一拍。


その静寂を、誰かの呟きが破った。それは懺悔でも怒りでもなく、自分自身に言い聞かせるような、乾いた納得の声だった。


「……まあ」


その声に呼応するように、別の場所からも囁きが漏れ出す。


「仕方ないよな」

「疑いがあるんだから。もし本当に毒が入っていたら、俺たち全員死んでたんだ」

「安全のためだ。一人のリスクを放置して、街全体が滅びるよりはマシだろう」


言葉が重なるたびに、広場を支配していた「居心地の悪さ」は急速に塗りつぶされていく。彼らは、少女を殺した罪悪感を、自分たちの生存という名の「正義」へと変換し始めた。誰かが死ぬことで、自分たちが生きる権利を再確認する。その残酷な儀式が、沈黙の中で完了していく。


ミーナは、動けなかった。

膝の力が抜け、冷たい石畳の上に崩れ落ちる。


「……違う」


かすれた声が、喉の奥から這い出す。


「違うよ……。あの子、お母さんのために……ただ、水を汲みたかっただけなのに……」


だが、その言葉は誰の耳にも届かない。隣に立つ者さえ、ミーナに視線を向けようとはしなかった。関われば、自分もまた「不浄な同情」というリスクに分類される。その恐怖が、かつての隣人たちを徹底した「赤の他人」へと変貌させていた。


アリアは、祭壇の上から広場を見下ろしていた。

神々しいまでの光を背負い、その表情には一片の動揺もない。彼女の瞳は、個々の悲劇を捉えることはなく、ただ「街」という一つの巨大な生命体の脈動だけを観察していた。


秩序は、保たれている。

反乱の兆候はない。民衆は自ら「正解」を選び、排除を肯定した。


「……最適」


小さく、その唇が動く。

彼女の計算によれば、不確定な一人を消去することで、数千人の安寧が担保された。それは極めて効率的で、非の打ち所がない統治の結果だった。


だが、その足元には。

“無実かもしれなかった命”の不在が、底知れぬ深淵となって口を開けている。

その深淵に落ちたエルナの名前を、アリアが再び呼ぶことはない。


風が吹き抜ける。

街の外れから運ばれてきた風は、病床で娘の帰りを待っているであろう、一人の母親の嘆きを連れてきたかもしれない。あるいは、何も知らずに流れる水源のせせらぎを。


誰も、その名前を呼ばない。

エルナ・リーヴァ。

その五文字は、今この瞬間、街の歴史から、人々の記憶から、徹底的に削り取られた。

残ったのは、名前のない平和と、自分を欺き続けるための静寂だけ。


広場の端で、カイは立ち尽くしていた。

彼は、アリアを見ている。

そして、その横で膝をつくミーナを見ている。

彼の瞳は、感情を排したまま、この「清潔な地獄」が次に何を喰らうのかを、静かに見据えていた。


加速する静寂。

物語は、救いのない朝の中へ、深く、深く沈み込んでいった。






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