表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

風呂キャンセル界隈の聖女 王国を救う

作者: haruna808
掲載日:2026/01/21

「聖女様。次なる清めの支度が整いました。さあ、泉へ」


 静かな回廊に、大司教バルドゥスの声が鋭く響く。


「……また、ですか。前回の祈りを終えてから、まだ一刻も経っておりませんが、バルドゥス様」


 聖女セレーネが絞り出した声は、ひどく掠れていた。


「『器』が汚れていては、神の愛は注がれぬのです。常に清純であれ。それが貴女の義務です、セレーネ」


「ですが、私の身体はもう……聖なる泉に浸かりすぎて、肌がヒリヒリと……」


「セレーネ」


 バルドゥスの声が一段と冷たく響き、彼女の言葉を断ち切る。


「お前の個人的な痛みなど、国を覆う災いという大海の一滴に過ぎん。お前は一人の人間ではなく、神の愛を象徴する聖なる偶像であらねばならないのです。……さあ、立ちなさい」


 差し出された大司教の手は、倒れた者に貸す慈愛などなく、ただ義務という鎖で彼女を無理やり釣り上げようとする鉄の爪のようだった。セレーネは抗う術を持たず、力なく立ち上がる。


「急ぐのだ。民は聖女の清らかな姿を求めている」


 彼女は常に完璧な聖女としての振る舞いを求められ、失言は決して許されない。また、民衆からの熱狂的な支持も、セレーネという少女へではなく、バルドゥスが磨き上げた「汚れを知らぬ白磁の像」へと向けられた物なのだ。

 バルドゥスの背中を追いながら、セレーネは目に見えない重い足枷を引きずっているように感じた。この果てしない入浴の繰り返しこそが、彼女を閉じ込める冷たい檻そのものに思えるのだった。



◇◇◇



 その夜、事件は起きた。

 月の光が差し込む大浴場。セレーネは猛烈な拒絶感を覚えた。


「聖女様、どうなさいました? さあ、早くこちらへ」


 湯気の向こう側で、侍女の一人が急かすように手招きした。

 セレーネは、その手招きに応じることなく、ただ立ち尽くしていた。そして、セレーネは自らの肩を抱くようにして、小さく言った。


「……もう十分です。これ以上、お風呂に入りたくない、です」


「な……!何を仰るのです。明日は王都の広場で祝福の儀があるのですよ。さあ、まずはこの聖衣を脱ぎましょう」


 侍女たちの手が、いつものように遠慮なくセレーネの肩に伸びる。


「触らないで」


 セレーネは短く、低く言った。侍女たちの手が止まる。


「……聖女様?」


「もう一度言います。触らないで。今の私に必要なのは、清めではなく、ただの休息です。一人にしてください」


「それは困りますわ。お身体が汚れたままでは、神への不敬にあたります。大司教様からも厳しく言い付けられているのです」


 別の侍女が、困惑というよりは「面倒なことになった」と言いたげな顔で口を挟んだ。彼女の瞳に映っているのは、セレーネではなく、大司教バルドゥスへの恐れと、同調の色だった。


「……いつもそれね。私の気持ちはどこにあるのかしら」


「お気持ち……? 聖女様に必要なのは信仰と献身であって、個人の感情など……。さあ、ワガママを言わず。泉へ」


 再び伸びてきた、冷淡な指先。その瞬間、セレーネの中で何年もの間、張り詰めていた糸が、音を立てて千切れた。


「……嫌です」


「……はい? 何と仰いましたか?」


「お風呂、キャンセルします。今日は、もう、絶対に。いえ、明日も、その次も」


 セレーネは、差し伸べられた手を強く振り払うと、裸足のまま床を踏みしめ、寝室へと向かった。そして、純白のシーツが敷かれた寝台に倒れ込んだ。

 侍女たちは悲鳴を上げた。聖女が、清めもせずに、あろうことか汚れを神聖な寝室に持ち込むなど。


「セレーネ! 正気か! 身体を洗わねば、神の加護が失われ、この国は災厄に見舞われますぞ!」


 駆けつけた大司教バルドゥスが、寝室の扉の向こうから怒鳴り散らす。しかし、枕に深く顔を埋めたセレーネは、不思議なほど穏やかな気持ちだった。


「災厄が来るなら、来ればいいわ。私を「人間」として見ない神様なら、もうお仕えしなくて結構です、バルドゥス様」


 それは、彼女が生まれて初めて、自分自身の意志で「役割」を投げ出した瞬間だった。



◇◇◇



 3日後、セレーネは騒がしいノックの音で目を覚ました。髪は乱れ、肌は脂ぎり、純白だったはずの聖衣には汚れがこびりついている。けれど、鏡に映るその姿を見た彼女の口元には、かつてないほど晴れやかな笑みが浮かんでいた。


「聖女様、開けてください! 大司教様がお呼びです!」


 扉の向こうで慌てふためく侍女の声を無視し、セレーネは窓枠に足をかけた。


「悪いけど、今日のスケジュールも『キャンセル』よ」


 軽く変装した彼女は、そのまま鮮やかに神殿を抜け出し、活気溢れる市場へと飛び込んだ。


「おじさん、その揚げパンを一つ。……あと、そっちの焼き菓子も」


「おや、見慣れないお嬢ちゃんだな。その服……えらく上等な布を使ってるじゃないか。どっかの貴族の屋敷から、こっそり抜け出してきたのかい?」


 店主は使い古された前掛けでゴシゴシと手を拭いながら、まじまじと彼女を観察した。セレーネは一瞬、正体がバレたのかと思ったが、店主の目にあったのは、好奇心と、世慣れた大人特有のからかい混じりの親しみだった。


「ええ、まあ。……窮屈な場所でしたから」


 彼女はそう短く答えると、祭壇の上では決して見せることのない、いたずらっぽい微笑を浮かべてみせた。

 買った品を食べる。砂糖の甘さと油の香りが口いっぱいに広がる。神殿で与えられていた無味乾燥な聖食とは比べものにならない、強烈な「生の味」だった。


「美味しい……。ああ、私、生きてるんだわ」


 歩き疲れて路地裏に座り込むと、そこには木の枝で地面に絵を描く子供たちがいた。


「ねえ、お姉ちゃんも描く? ほら、枝貸してあげる!」


 一人の少年が、屈託のない笑顔で折れた枝を差し出してきた。


「いいの? ありがとう。じゃあ……大きなドラゴンを描いてみようかしら」


 セレーネは汚れも気にせず、地面に膝をついた。高価な聖衣の裾が泥を吸うのも、爪の間に砂が入り込み、汗が頬を伝うのも、今の彼女には心地よい「生」の感触だった。


「お姉ちゃん、上手いね! でも膝が真っ黒だよ!」


「ふふ、本当ね。でも、不思議と嫌な気分じゃないの」


 そこへ、一人の花売りの少女が通りかかり、セレーネの前に足を止めた。


「あの……聖女様、ですよね? 違っていたらごめんなさい」


 少女の問いかけに、セレーネは一瞬肩を震わせた。反射的に顔を伏せ、胡麻化そうとする。


「ええ……。あ、あの、これはその、修行の一環で……」


「うふふ、やっぱり! びっくりしました。そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。だって、今の方がずっと人間味があって素敵ですもん」


「素敵……? こんなに泥だらけで、髪もボサボサなのに?」


 セレーネが戸惑いながら言うと、少女は陽だまりのような笑顔を向けた。


「ええ。前までの聖女様は、綺麗すぎて、どこか遠い世界の存在みたいでした。触ったら壊れてしまいそうな、冷たい氷のお人形みたいに。でも、今のあなたは……土の匂いがして、お花が似合う、ただの優しいお姉さんに見えます」


「お姉さん……。私を、聖女ではなく、ただの人間として見てくれるの?」


「もちろんです! 私は、神殿の奥に閉じ籠っているお方より、ここで泥んこになって笑ってくれるお姉さんの方が、ずっと……ずっと、素敵だと思います」


 その温かな言葉が、セレーネの心の奥底に、こびり付いていた何かを、静かに、確実に溶かしていく。偶像という名の檻を壊し、不完全な一人の女性として迎え入れられた、安堵感。

 張り詰めていた心がゆっくりと解け、熱いものが頬を伝う。セレーネの瞳から一筋、また一筋と、それは頑固な汚れを洗い流すようにこぼれ落ちていった。



◇◇◇



 そんなある日、王都の空がドス黒く染まり、かつてない異変が街を襲った。「嘆きの霧」が王都を包み込んだのだ。それは単なる気象現象ではなく、民衆の心に長年降り積もった疲れ、抑圧、不安が魔力と結びつき、物理的な重みを持って実体化した「絶望の霧」であった。

 街のあちこちでは人々が、糸の切れた人形のように力なく座り込んでいた。霧は呼吸するたびに肺の奥へ「諦め」を運び込み、人々の四肢から活力を奪い去っていく。

 「……もう、どうでもいい。明日なんて来なければいいのに。頑張る理由なんて、どこにもなかったんだ」

 広場に座り込んだ職人は、仕事道具を投げ出し、黒い霧を見つめて呟いた。

 「体が鉛のように重い。店を開ける気力も、パンを焼く力も、もう湧いてこないんだ……。このまま霧に溶けて、消えてしまいたい」

 市場の片隅でも、店主が虚無に目を細め、静かに沈黙を守っている。

 その無気力の連鎖は、親子の絆さえも浸食し始めていた。路地裏の軒先、力なく壁にもたれかかる母親の袖を、幼い子供が必死に引いている。


「ねえ、お母さん。お腹空いたよ……何か食べさせて」


「ごめんね……。今は、火を焚くことさえ億劫なの。何をしても無駄な気がして……。この霧の中にいると、ただ、何もかも放り出して眠りたくなるの……」


 母親の瞳からは生気が失われ、我が子の訴えさえもが、彼女の心を素通りしていく。王都は重苦しい沈黙と、逃れようのない湿った無気力に飲まれていった。

 事態を重く見た大司教バルドゥスは、国中の神殿から数十名の高位神官を招集した。彼らは王都神殿前の広場で巨大な魔方陣を囲み、厳かな聖歌とともに最大級の浄化儀式を開始した。


「穢れをはらえ、聖なる光よ! 弱き心の生み出したる、不浄なる闇を打ち砕け!」


 魔法陣から放たれたのは、眩いばかりの純白の光。それは、いかなる邪悪も許さぬ絶対的な「正義」の輝きだった。 光の奔流は、街を覆うドス黒い霧を凄まじい勢いで飲み込んでいく。激しい衝突音が響き、視界は真っ白な閃光に塗り潰された。

 やがて……光が収まると、そこには静寂が訪れていた。 あれほど濃厚だった霧は消え失せ、広場には清浄な空気が戻ったかのように見えた。


「……終わった、のか?」


 誰かが、震える声で呟いた。 神官たちは互いに顔を見合わせ、安堵の笑みを浮かべる。バルドゥスもまた、自身の杖を握り直し、勝利を確信して深く息を吐いた。

 しかし、その安堵はわずか数秒で打ち砕かれる。


「ピキ……」と不吉な音が響いた。 次の瞬間、浄化されたはずの空が、ガラスが割れるように弾け飛んだ。


「なっ……何事だ!?」


 霧は消えてなどいなかった。それは「正義」の光を喰らい、その内側でより禍々しく、より巨大な力へと変質していたのだ。

 ドォォォォン! という爆音と共に、噴き出したのは、先ほどまでの比ではない漆黒の濁流。


「ひ、……霧がこっちに!来るな!!……」


 霧は生き物のように激しくのた打ち、爆発的に膨れ上がると、逃げ惑う神官たちを次々と飲み込んでいく。王都を救うはずだった浄化の儀式は、皮肉にも災厄を加速させる「呼び水」となってしまったのである。


「バカな……浄化が効かぬどころか、霧が神官たちを飲み込んでいく……!」


 人々の疲れや弱さを「悪」として切り捨てようとする高慢な浄化儀式は、かえって嘆きの霧を刺激し、霧をより強固な物へと変えてしまったのだ。広場は阿鼻叫喚に包まれた。何とか神殿まで逃げ帰った大司教バルドゥスは青ざめ、セレーネに泣きついた。


「セレーネよ! もはや我らの手に負えぬ! 今すぐ身を清め、命を賭して大祈祷を!お前の無垢な魂を捧げるのだ!」


「お断りします」


「な……! 正気か、セレーネ! まさかお前まで霧にやられたというのか!」


「いいえ、バルドゥス様。霧のせいではありません。ただ、私はもう、神の前で自分を偽り、偶像を演じるような祈りは捧げない。そう決めたのです」


 セレーネは、自らの掌を見つめた。それはかつての白く冷たい手ではなく、一人の少女として生を握りしめた、温かな「人間の手」だった。


「この仕事、私にお任せください。ですが、私は私として祈ります」


 セレーネは城壁の最上段へと踏み出した。乱れた髪が風に煽られ、薄汚れた聖衣が鳥の羽ばたきのように翻る。

 生きていれば汚れる、生きていれば疲れる。それは、決して罪などではない。彼女は静かに、しかし確信を持って、汚れたその両手を澱んだ空へと掲げた。


「……いいのよ。もう、無理に清く白くあろうとしなくて」


 唇から零れたのは、呪文でも聖歌でもなかった。それは、隣り合って生きる者に贈る、慈しみを込めた言葉だった。


「泥にまみれて、不器用で、ひどく汚れたままで……。それでも私たちは、こんなに温かく、今ここで生きているのだから!」


 その瞬間、彼女の身体から溢れ出したのは、神官たちの刺すような銀光ではなかった。それは、全てを包み込むような黄金色に輝く琥珀の光だった。霧の奥底でうずくまっていた人々の鼻腔を、懐かしい生活の匂いがくすぐる。それは「正しさ」で人を裁く光ではなく、ありのままの「生」を抱きしめる光だった。泥臭くて、温かくて、それでいて力強い生命の輝き。

 光が波紋のように広がるたび、人々の心を縛っていた「嘆きの霧」が、まるで春の陽射しを浴びた残雪のように、静かに、そして確実に溶けていった。絶望に沈んでいた市民たちが、ふと顔を上げる。

 王都を埋め尽くしていた暗い澱みは、セレーネが放つ「いのちの輝き」に飲み込まれ、最後の一片まで消え去っていった。



◇◇◇



 霧が晴れた後、そこに立っていたのは——世界で一番「汚れた」聖女だった。

 それでも民衆は、彼女を讃えた。喝采が、広場を震わす。

 

 セレーネは、迎えに来た大司教バルドゥスに目をやると、軽やかな足取りで歩き出した。


「……よくやった。これで王都は、王国は救われた。しかし、セレーネかなり臭……いや、少々刺激的だぞ。祝宴の前に、せめて入浴と着替を」


 セレーネは振り返り、悪戯っぽく微笑み、


「そうね。今日はたくさん汗かいちゃった。……風呂キャンセルをキャンセルするわ」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
すごく面白いです! そして言葉の使い方が素敵です。 新米作家として尊敬します!! 綺麗すぎる水で、生き物は住めません。 それでも、綺麗さを求めてしまう。 よく目にする物語は、 澱みの無さが浄化であり…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ