第三話:冥界の森
メアから地図を貰って三日が経った。
同行してくれる二人と情報共有し、昨夜整った作戦。注意すべき点は、冥界の森は闇雲に歩いてはいけないということ。ただ、森の中は霧が覆っているため正しい道を地道に暗記するしかないとメアは言っていた。
「では、作戦通り僕が先頭で霧を払うでいいのかな? メアくん」
「はーい。問題ないので、早速お願いします」
まだ昼だと言うのに、陽の光が届かないのかこの森の中は夜のように暗い。薄い霧は私たちを覆い、おどろおどろしく揺れる木々はまるで今にでも動き出しそうだ。生気を吸い取られているような枯れ木、一歩歩けば落ちた葉が音を立てる。
───ここが、冥界の森。
気を引き締めるため、小さく息を吐き再度作戦を思い出そう。
ミカゲがメアに聞いたように、これから冥界の森の最奥部へ向かい道中は風の魔力を使い霧を払いながら進む。そして、はぐれないように皆で手も繋ごうなった。手を繋ぐ案を出したのは私だったけど、二人とも異議なく快く承諾してくれた。
「それじゃあ姉さん、くれぐれも僕の手を離して迷子にならないように」
「ん、ガッテン承知」
「……カランの返答って、なんか軽くて不安になるんですよねー」
「失礼だなぁ、返事してるだけマシでしょ」
なんて言いながら森を進めば、徐々に濃霧へと変わっていく。この先は異界へ進む道だと伝えるように、肌に触れる空気が冷たい。息を吸う度、喉の奥から肺に冷気が入り込んでくる。
はぐれないように、二人の手を強く握った。既に濃霧だというのに、メアはずんずんと進み足元しか見えないくらいの濃さになったところで、ミカゲに声をかけた。
「一旦ここら辺で、お願いしてもいいですかねミカゲさん」
「承知。では、試してみますか」
手を繋いでいない左手をミカゲが宙へ翳せば、柔らかな旋風が私たちを中心に広がり、辺りの霧を吹き飛ばした。風の軌道に沿って流れていた星の粒子がキラキラと降り注ぐ。
この場にそぐわないほどに美しい景色に見惚れていると、不意にあることを思いついた。空気抵抗が凄そうな程、袖口の幅の広いメアのローブを引っ張る。
「……」
「ねぇ、メア」
「? なんですか、まさか今更怖気付いたとか」
「違うよ。よくよく考えたらさ、冥界の森って誰も失ってない人無敵なんじゃないかなって」
ぱちぱちとメアは瞬きを繰り返す。そのままミカゲを見て、もう一度私を見て「人選、間違えたかもしれないですね」とにっこり笑った。
「どうして? ミカゲのご両親ってまだ元気有り余ってる感じだったよね」
「それどころか、僕はまだ何も失ってないかな 。強いて言うなら、お気に入りの研磨剤が切れたくらいしか」
「ミカゲさんは、多分大丈夫だと思いますけど……。あぁ、いやでも安全だったのはスミレさんとレカムさんだったか」
珍しく焦りを見せるメアに、違和感を感じた。ミカゲは私も知っている通り、まだ誰も失っていないはず。勿論、私自身もだ。親友はまだ生きている。確認が取れていないだけで、確定しているわけでもないのだから。なのに、私がこの『幻影』を見ることを異様なまでに避けている。
───メアは、何を知っているのだろう?
首を傾げながらミカゲの方へ視線を向ければ、同じように彼も私の方を見て傾げていた。だからだろうか、私は少しだけ幻影が見せるものが気になってしまった。メアの知っているものが、知りたい。
「まぁ、いいや。とりあえず此処を右に曲がって直進していきましょう。この奥はまた霧があるので、気をつけてください」
「随分と歩くね」
「姉さん、体力キツかったら言ってね。僕はいつでもおんぶしますから」
「じゃあ、いざとなったらお願いします」
そんなたわいもない話をして、先も見えない森の中を歩いた。歩いて、その度に足が重くなっていく。これは、体力切れではない。それなのにまるで行きたくないというように、どんどん鉛のように重たくなる。脳が警鐘を鳴らしているのだろうか、言葉では言い表せない不安に襲われる心。
森を進み、メアの指示で繰り返しミカゲが霧を払う。彼の風が止んだ瞬間、まるで森全体が息を潜めたような静寂が訪れた。まるで、森そのものが私たちを見ているように。そのとき初めて、この森が何者かによって動かされていると気づいた。ミカゲの風に怯えるように鳥も虫も声を潜め、聞こえるのは自分たちの呼吸音だけだった。
「───カラン、俺たちはここでお別れだ」
ふと、後からいるはずの無い人の声がした。
「大丈夫、大丈夫だよ。カランはこの世界で誰よりも強いからさ」
懐かしい声が耳に落ちる。懐かしいも何も、彼はまだ家にいて、朝会ったばかりなのに。なのに、どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろう。目頭が熱い、喉が震える。
私の記憶にこんなものは存在しない。それでも、心はその悲しみを覚えているように揺れるのだ。ダメだと、気を確かに持てと二人の手を握ろうとした時だった。
「うわっ、バクまだ餌の時間じゃないですよ。急に肩から落ちないでくださいよ。……っ、ミカゲさんオオカミがこっちに来てます!」
「了解」
二人の手が離れる。ミカゲはアクシデントに対応するために剣を持ち、メアはバクを拾い上げるために。霧を晴らしたばかりだから、視界は良好だった。けれど、瞬きをした刹那の事。先程まで見えていた二人の姿は消え、私の周りは濃霧に包まれていた。
まずいと冷や汗が頬を伝う。どうにかこれを打破しなければと一歩足を出した時、また声が聞こえた。
「そうだカラン、最後にお兄ちゃんの願いを聞いてくれる?」
振り向くな。幻影であれ、見ない選択ができるのならその方がきっといい。目尻から零れる涙を無視して、私はもう一歩進む。二人を探さなければいけないんだ。幻影は所詮、心が映し出す闇。だから、向き合ってはいけない。そう言い聞かせているのに、離れようとすればするほど、涙が込み上げてくるのはどうして?
「俺はね、この世界が大好きなんだ。カランと一緒に過ごせた大切な場所だから」
「……うるさい」
「だから、カラン。俺が愛したこの世界を、守って欲しい」
「黙ってよ! 貴方は、カキラはそんな事言わな……。っ!」
いやだと叫ぶ心が煩わしい。例え幻影でも、双剣で振り払えばどうになるはずだと剣を構えて振り向いた。振り向いたんだ、標的を捉えるために。それなのに、視界が滲む。私の目に映ったカキラの眼に光はない。それでも必死に、何かに堪えるように片手で頭を抑えている。自我を奪われないためなのか、腕は血だらけだ。お揃いの真っ白な正装は赤く、黒い。
「もう、一緒に世界を守ることは出来ないけど」
剣を持つ私の手を、カキラは重ねるように握った。その手が、あまりにも氷のように冷たくて。
「俺はもう、カランを守ってあげられないけど」
「やめて、やめてよ……」
知らないはずなのに、私はこの光景を知っている気がする。目を逸らしてしまいたい、だけど釘付けられたように逸らすことが出来なかった。彼の心の臓へ光る、己の、剣先を。
「カランが、俺を忘れないでいてくれる限り、ずっと俺たちは一緒だから」
「いやっ! お願い離して、私は……!」
悲鳴にも近い叫びは森に溶け、どこにも届かない。私の手は、前へ。その一点をめがけて光る剣先。理解したくない、嫌だと必死に頭を振る。そして、持つ手を引こうとした刹那、彼の髪が頬に触れた。背中に回された手は、私を取り込むように力強くて。苦しそうに零れる吐息が耳を掠めた。
「愛してる。この世界で誰よりも、俺は、カランのことを愛してるよ」
霧が血の匂いを運んでくる。白銀の剣先は赤く、涙のように刃を伝う。
背中に触れる手は、壊れた人形のように垂れて。重ねられた手は、名残惜しそうにゆっくりと落ちていく。私とカキラの間にどうして、柄があるのだろうか。どうして、手についたそれは温かいのに触れる肌は冷たいの?
どうして、私の服は赤いの……?
「いや、いやだよ……ねぇ、カキラ、嘘だよね。起きて、起きて置いてかないで」
「……」
「今日は、美味しいケーキ買ってくれるって……私たちの」
瞬きをする度、雫が溢れ零れる。拭う暇なんてない、だってカキラが寝ちゃうから。起こさないと。起こしてあげないと、今日は私たちの。
「誕生日、一緒に過ごそうって。約束は、ねぇカキラ。蝋燭の本数はどっちにしようかってまだ決まってないよ」
「……」
「いや、いやだっ。イヤーーッ!!」
へたり込む私の手の甲に落ちたのは、涙か彼の吐血か。もう分からない。心が壊れてしまいそうだ。これは、本当に幻影なのだろうか? 私は、この過去を知らな……
───知っている。
思い出せと、顔が上がる。心は嫌だとこんなに泣いているのに。その光景から目を逸らすことを許さない。どくん、と心臓が音を立てる。私は、これを知っている……? 息が上がる、呼吸が苦しい。それでも、何か大切なものが。
「私は、何を忘れて」
空に手を伸ばしたその瞬間、バサァッと霧が裂かれる音がした。蛍のように舞う星々、その向こう側から光が差すようにメアの声が、遠くから聞こえる。
「─── カラン、目を覚ませ!」
霧が晴れる。もうそこには、何も無い。
「姉さんっ!」
「っメア、ミカゲ……? わっ」
振り向けば今にでも泣き出してしまいそうな顔で、ミカゲは私を抱きしめてくれた。それが、あまりにも温かくて、同時に怖くて。ふと、左手を見れば私の手には小さな木の枝があった。緊張が溶けたのか、あるいは人肌に安堵したのか体から力が抜ける。
「ごめんね、大丈夫。大丈夫だよ」
今度はちゃんと腕を回して、抱きしめ返すことが出来た。大丈夫だよと繰り返す言葉は、ミカゲに向けてか自分に言い聞かせるためか分からない。それでも互いの心音が溶け合うまで、ぎゅっと抱きしめた。
呼吸が重なって、閉じた目を開ければもう濃霧は何処にもなかった。星の雨がキラキラと降り続けている。記憶の欠片のように舞うそれが、あまりにも綺麗だから捕まえてみようと手を伸ばす。けれど、その光は雪のように溶けるだけで何かを教えてくれるわけではなかった。
「ほらバク、ご飯の時間ですよ」
「うわっ、おもい」
ずしりと頭に重みがやってくる。いきなり何するのと、文句のひとつ言ってやろうと口を開いて、閉じた。彼の真紅の双眼が、哀しげに揺れるから何も言えなくなってしまった。メアはもしかすると、この幻影の記憶を知っているのかもしれない。だから、私に来て欲しくなかったんだ。でもあれは、私であり私じゃない誰かの記憶。
ぐるぐると思考は回る。幻影だと、分かっていてもあの光景は深く私の記憶に根付いてしまった。忘れることを、許さないというように。そしてそんな私の考えを見透かしたように、メアは呆れたように笑った。
「魔術の使用を禁止されているのに、剣すら持てなくなったら大変ですから。ほら、バクさっさと食べてあげてください」
「えっあげない。バクに食べさせる悪夢なんてないよ」
「それはバクが決めることです」
───まさか、あの記憶を食べさせるつもりなのだろうか。
そんなのダメだ。早くバクを頭から退かさないと。
そう思いミカゲから離れようとすれば、拒むように背中に回されている腕が強くなる。ふわりと彼の優しいムスクの匂いが、私を落ち着かせるように香る。あぁ、瞼が重い。頭に乗るバクが、ちいさく手を握った。
「おやすみなさい、カラン」
メアの手が私の目元を覆う。
「───ごめん、姉さん」
どうして、ミカゲが謝るのだろう。貴方は何も悪くないのに。だけど、彼が私を眠らせることに加担する必要はあっただろうか。今思えば、ミカゲが泣きそうな顔で私に抱きついたのも不思議な気がする。たしかに彼は昔泣き虫だったけど……。あぁ、ダメ。意識が、遠くなっていく。
「今度こそ、守るから」
眠りの底で、彼の声が微かに響いた。
けれど、その言葉の意味を思い出すのは──もう少し先のことだった。




