秘密クラブで絵を描いたら宮廷画家にスカウトされました
短編ざまぁです
「秘密クラブ!?」
「声が大きい!」
思わず上ずった僕の声を、隣に座る友人――侯爵家の三男坊が慌てて手で塞いだ。
彼は周囲をきょろきょろと見回し、ひとつ大きくため息を吐く。
「誰かに聞かれたらどうするんだ。……だが、君も興味はあるだろう?」
口を手で塞がれたまま、僕はこくこくと頷く。
秘密クラブとは、表向きには「詩や哲学を語り合う、高貴で知的な集まり」とされているところだ。
貴族というものはとにかく世間体を第一に考える存在で、外に向けての自由は想像以上に限られている。
だからこそ、この場では身分や名前を隠し、芸術という言葉を隠れ蓑にして、本音の欲や好奇心を満たしている。
つまり建前を抜かせば、上流階級が「芸術」と称して欲望を楽しむ、変態紳士淑女の社交の場なのである。
興味?
もちろんあるに決まっている。
こちとら転生してきて十六年。
貴族に生まれたのは結構だが、パソコンもスマホもない。
テレビも漫画もない。
飢えに飢え、渇きに渇ききっている。
現代人からするとこんな娯楽のない世界なんて砂漠同然だ。
そんな状況で、目の前に刺激の種がぶら下げられるのであれば、是が非でも飛びついて離したくないものだ。
「僕みたいな下級男爵が参加していいのか? 相当な会費も必要だろう。うちはそんな裕福ではないんだぞ」
思わず本音が漏れる。
そりゃあ僕みたいな貧乏貴族からすれば、秘密クラブなんて雲上人の遊び場だ。
場違い感が半端ないだろうし、低い身分が混ざった際の空気感は耐え難いものがある。
友人は身分が高いので、相応の格のクラブであろうことは察せられる。
だが友人は、自信あり気に口の端を上げた。
「大丈夫。君にしかできない秘策がある」
「秘策?」
「君が描いた絵を献上すればいいのさ。それで十分、会費の代わりになると踏んでいる」
「……本当か?」
「本当だとも。間違いない。可能なら、当日その場で何人かに、希望の絵を描いて渡すと良い」
軽く言ってくれるが、命綱を握ってるのは僕のスケッチ一本ってやつだ。
僕は絵は得意だ。
というのも転生前、僕は美大生で同人漫画を描いていた。
それなりに売れていたし、大学は絵画を専門にしていたのもあって、絵に関してはちょっと自信がある。
逆に転生チートなんて何も貰えなかったが。
「それなら……まあ、やってみるしかないな」
「2日後の夜開催されるらしい。場所は公爵邸の地下だ」
「……ずいぶんな大物だな」
やはり相当な格のクラブのようだ。
緊張と期待がごちゃまぜになったが、それでもやはり興味の方が大きい。公爵主催と聞いたところで引き返す気など毛頭ない。
今から楽しみだ。
* * *
友人と二人、馬車に揺られて公爵邸へ向かう。
顔には大きな蝶の仮面、パピヨンマスクを着けている。
元日本人としてはなかなかに変態チックで抵抗はある。
女王様とおよびっ!とか言いたくなる奴だ。
「わかっていると思うが、中では身分の詮索は禁止だ。外に漏らすこともな」
「わかっている」
貴族だって人間だ。
性欲も性的好奇心もある。
けれどそれを満たす手段は驚くほど少ない。
ワンクリックで脳内麻薬がドバドバ出る動画が見られる現代とは違うのだ。
厄介なのは、貞淑を求められる立場、名誉を重んじる社会性だ。
娼館だってあるにはあるが、あるからと言って自由に通う事などできるわけがない。
行ったことだけでスキャンダルになり、貴族として社会的に死んでしまうことだってある。
性に奔放には振る舞えない。
だからこそ、身分を隠し、芸術の名を借りて、同じ志を持つ共犯者、もとい仲間で集まる――それがこの秘密クラブだ。
「私はここではアレスと名乗っている」
「アレス? あの軍神か?」
「ああ。ここでは神々の名を仮名として名乗るのが慣わしだ」
「じゃあ僕は?」
「アポロンと名乗るがいい。芸術神だ」
「……下級男爵がそんな大層な名を名乗って大丈夫か?」
「本来なら嘲笑されるかもしれないな。だが、君ならその名にふさわしいとすぐにわかるさ」
「会員証をお見せください」
公爵邸に着くと、友人はアレスの顔が刻まれたメダルを案内役に差し出した。
「確認いたしました。……そちらの方は?」
「私の紹介だ。紹介状を持たせてある」
「かしこまりました。――アポロン様ですね。それではこちらへ」
重厚な廊下を抜け、公爵邸の地下へと案内される。そこにはすでに三十人ほどの男女が集まっていた。全員が大きな蝶の仮面――パピヨンマスクをつけている。圧巻だ。
中には見覚えのある姿も混じっているが、知らないフリを決め込む。それがルールだ。
やがて主催者がゆるやかに立ち上がる。蝋燭の光に照らされた扇を掲げ、会員たちの視線を受け止めた。
「諸君。今宵もこうして集えたことを喜ばしく思う。
われらは詩を愛し、絵画を愛し、哲学を愛する者たち。
互いの芸術を分かち合い、心を磨き、感性を潤そうではないか」
芝居がかった口調で、開会の挨拶をする。
拍手がぱらぱらと広がり、やがて会場を満たす。主催者は扇を閉じ、軽く顎を引いた。
「それでは――まずは詩の朗読から始めよう」
詩の朗読というのは、きわめて一般的な文化である。
日本で言うなら、茶会や歌会、あるいは俳句を披露し合う句会に近いだろうか。
会員の一人が中央へ歩み出て、ゆったりと仮面を正した。その手には、一冊の古びた詩集。
めくる音が小さく響き、ページの影が壁に揺れる。
「それでは私から…
少女の胸には、夏に熟れすぎた桃がふたつ並んでいる。
指でそっとなぞれば、甘い汁があふれ、手を濡らすだろう。
腰はしなやかに揺れ、
花弁は夜の風にひらき、
蜜は溢れて大地を潤す。
そのすべては、知られざる楽園の門。
選ばれた者のみが触れ、味わうことを許される」
なんと清らかな情景で、生命力が感じられる詩だろうか。まるで大自然そのものだ。
卑猥?
心が汚れているのではないか?
当然僕は下水の汚泥の如く汚れてるので卑猥に聞こえるのだが、フランス文庫を読み漁った現代人としては、むしろ物足りないぐらいだ。
だが、そういう直接的な表現は品がないとされ、むしろ嫌厭される。それ自体が風紀を乱すものとして禁制品扱いだ。
「あらまあ……ずいぶん艶やかですこと」
「ふむ……味わい深い」
ワイングラスを傾けつつ、視線だけ泳がせながら、上品ぶった感想を口にする。だけどマスクの上からでもニヤついてるのがわかる。
ここにいる奴ら、全員もれなくむっつりなのだ。
続いて登場したのは、薄衣をまとった平民の踊り子。
舞うたびに布が揺れ、会員たちは「優雅だ」「清廉だ」と口々に感想を言い合う。実際には、視線は腰つきと脚線美、そして豊満な胸元に釘づけだ。
それにしたって全裸でストリップショーというわけにはいかない。そうなってしまっては芸術の体をなさなくなるからだ。僕は全裸で踊ってくれた方がどれだけ良いかと思うのだが、貴族とは本当に面倒臭い。
音楽も奏でられる。詩の時と同じように、歌詞には花や果実、水の流れが繰り返し詠み込まれ、どれも暗喩に満ちている。
会はおおむね、こうした調子で進行していった。
初めての参加ということもあり、僕はどの出し物にも興味津々で、食い入るように見ていた。
それなりに場も温まったところで、いよいよ絵画の番になった。
ここは僕が一番楽しみにしていたところだ。
前世は美大生の同人漫画家。
多少なりとも造詣があると自負している。
……決して裸婦画が見たくて仕方ないわけではない。
いや、本当に。
この世界で目にしてきた絵は、地球史で言うバロック期に近い。
ルネサンスで遠近法や明暗法が確立され、その流れを受け継ぐ――僕が最も敬愛する画風だ。
そして当然であるが、ここで披露されるのは裸の女性を描いた絵。
当たり前だ。
誰がここに来てまでおっさんの絵が見たいというのだ。
若き男女の産まれたままの姿を芸術鑑賞の体裁で、皆が口元を隠しながら愉しむ。
だが、脳が下半身についてる若き体と言えど、現代日本の出身ではさすがに、これで興奮するのは無理がある。
今、目の前にある裸婦画もこの世界では最高峰だろう。写実の頂点にあると言っていい。
だが、現代日本ではすでに写実は、写実の到達点にいるのだ。
写真と見紛うほどの絵を描く人も数多くいるし、書き方の動画だって上がっている。最新の画材や技術がそろう環境と比べること自体が間違いだとしても――結果だけを見れば、どうしたってレベルの差は歴然だった。
「皆様にご覧いただきたいものがございます」
鑑賞の最中、友人が一歩前に出て割って入った。
「本日お招きした、我が友の作品でございます。ぜひご覧いただければと」
会員たちの仮面の下からでも、渋い表情が透けて見える。
「芸術を理解しているとよいのですがな」
「まあ、酒の肴くらいにはなりましょう」
ワイングラスを弄びながら、軽く笑う声が広がる。
表向きは身分の詮索が禁じられているが、すでに前情報が流れていたのだろう。明らかに期待されていない空気だった。
だが友人は、そんな空気など意にも介さず、不敵な笑みを浮かべたまま言った。
「それではご覧ください」
友人が布を払った、その瞬間――。
蝋燭の炎に照らされて、大きめのキャンバスに立て掛けられた一枚の絵が姿を現した。
そこに描かれていたのは――三人の裸婦。
中央には女神のように堂々とした裸体。
その左右には侍女めいた影が寄り添い、片方は布を差し出し、片方は果実を抱えている。
陰影は深く、質感は生々しい。まるで空気までも閉じ込めたかのような写実だ。桃の産毛を思わせる繊細さ、纏う布の皺に至るまで正確無比。その立体感はまるで本物を前にして、手で触れそうな錯覚すら与える。
実際のところなんてことのないただのヌードデッサンだ。だが前世で何千回とかいたその技術と観察力に裏打ちされたものだ。
まるで白黒写真のように精密な絵。
ざわめきも、咳払いも、ひとつとして起こらない。
ただただ、皆一様に沈黙、と言うよりは絶句していた。
「……っ、これは……」
「……人の手で……描けるものなのか……?」
ようやく、誰かの口からぽつりと声が漏れる。
写実があまりに生々しすぎて、下品と受け取られる危険もあったので、神話的な意匠を添えてはいるが、むっつり紳士淑女たちの脳裏には、深く突き刺さったようだ。
リアルな神々のヌードから目を離せずにいる会員の一人が、震える声を上げる。
「こ、これを……売ってはいただけないか? 言い値で払うぞ!」
「こちらは会費の代わりに提供することになっております」
僕はそう前置きし、続ける。
「ですが、ご希望でしたら――この場で簡単なものにはなりますが、お描きいたしましょう。
構図はどのようなものでもかまいません」
「で、では、豊穣の女神が、大地に実る果実を両腕に抱えている姿を」
真っ先に名乗り出たのは、確かヘルメスと名乗っていた男だ。商業神らしく、こういう機には敏いのかもしれない。
さて、ご希望の絵だが… ヘルメス様はきっと“巨乳は正義”派だな。
あれだ、胸さえ大きければキャラの性格も設定もどうでもいいタイプだ。
同人誌時代の経験でもとにかく大きいのがウケる傾向にあるのはわかってる。
絶対、ご婦人方の胸元をチラチラ見てバレてそうだ。
でもまあ、男なら仕方ない。
夢が詰まっているのは、どこの世界でも一緒だ。
果実をわざと少し大きめに描いたラフ画を、十五分ほどで仕上げる。
持参したキャンバスとは比べものにならない簡素なスケッチだったが、それでもヘルメス様は十分に満足したようだった。
「他にもいらっしゃいますか?」
「では私も。大地を踏みしめる女神を描いてほしい。
花々がその歩みに身を委ねるように、足もとに自然の恵みを添えていただきたい」
なるほど――この人は確かガイア様だったな。
足フェチは一定数いるが、彼は特に“踏まれたい欲望”を隠しきれていない。
絶対Mだ。
そんなやつが求めている絵なんて、もう決まっている。
同人作家の血が騒ぐ。
僕は女神を座らせ、片膝を抱えさせる。もう片足はぐっとこちらに伸ばし、足裏と指先を余すところなく見せる。
さらに表情にはわずかにSっ気を滲ませる。
否が応でも視線は足先に吸い寄せられてしまう。
「なんという迫力……いや、美だ! 視線が奪われて離せぬ。今、私は芸術の極致を見ている。生涯のうちにこのような作品に出会えるとは……もう思い残すことはない!」
まあそうだろう。
これぞ変態紳士の国として名高い日本人の研鑽の賜物だ。
枯れ木も一気に芽吹くに違いない。
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたします。本日は即興ゆえこの程度ですが、いずれ改めてキャンバスに仕上げて披露させていただきます」
「――ならば、次は我に書いてみろ。芸術というものを教えてやる」
割って入った声に、場が一瞬で張り詰めた。
現れた男は……ゼウス様。パピヨンマスク越しでも気品と威圧がにじみ出ている。この国に住む貴族で、彼を知らぬ者はいない。王位継承権を握る存在、第一王子殿下だ。
ここまで知名度があると、仮面などほとんど意味をなさない。
「どうぞ。こちらで最後とさせていただきます。……なんなりと」
「大地に抱かれる子のように、安らぐ姿を描け。
柔らかな衣に身をくるみ、膝の上に頭を預ける――まるで母の腕に眠る幼子のように。
そこに宿るのは力を誇る神ではなく、ただひとりの無垢な存在だ。
庇護と甘え、その境目にある安らぎ……貴様にこの芸術がわかるか?」
ブフォッと、思わず笑いかけて慌てて口を押さえる。
危ない。
首が飛ぶところだ。
木っ端貴族なら視線ひとつで吹き飛ばせる身分のお方が、よりにもよって退行プレイをご所望とは。
周囲を見回すと、仮面越しにも若干引いているような空気が漂っている。
貴族なのに顔に出していいのか?
やはりこの世界でも異質な願いらしい。
もっとも、その手の絵は僕の得意分野だ。
性癖ど真ん中の一枚だって描ける。
だが問題は、直球で表現すると芸術の皮を被せるのに無理があること。
有り体に言えば、ただの禁制品になってしまう。
芸術として昇華すればするほど、殿下の望むものから遠ざかる。
とりあえず、子が母に抱かれながら授乳されている場面をさらさらと描いてみた。
……だが、やはり殿下の表情は不満げだった。
「……この程度か。所詮、貴様には芸術など理解できまい」
そう言って、絵をビリビリと破いて、これ見よがしに僕の目の前で散らす。
呆気に取られる僕の前で、ゼウス様はニヤニヤとバカにしたような笑みを浮かべて、腕を組んでいる。
腹は立つが相手は王族だ。つっかかったらこちらの命の方が危ない。どんなに理不尽でも引くしかないのだ。
「申し訳ございません……ゼウス様の望まれる芸術は、どうしても時間を要します。次回までに仕上げたものをお持ちいたしますので、それまでお待ちいただければと」
「ふん……まあ良いだろう。お前ごときに期待はしていないがな」
そう吐き捨てると、ゼウス様は顎をしゃくる。
「代わりに、そこの絵を貰っていく。我を待たせる罰だ」
指さしたのは、会費代わりに提供した、三女神の作品だった。
「そ、それは……」
「文句でもあるのか。不敬だぞ」
こいつ、身分を隠す気ゼロじゃないか。
ふざけたこと言いやがって。
結局、絵はしっかりと持ち去られてしまった。だが場はなんとか収まり、僕も首をつながれたままで済んだ。
その後、会費代わりの絵画は、主催者が「まあ仕方あるまい。また次の機会に描いてくれればよい」と取り計らってくれた。
表立っての声こそかけられないが、同情してくれてる人は大勢いるようで、代わり代わり絵の感想を述べに来てくれた。中には次回作へのリクエストまでしてくる人もいて、どうやら、新入りとしては無事に認めてもらえたらしい。
ゼウス様の一件以外は、楽しく夜を過ごせたのだった。
* * *
秘密クラブに顔を出してから、一週間が過ぎた。
それなりに穏やかな日常を取り戻しつつあったある日の午後――。
屋敷の門前に、息を切らした使いの者が駆け込んできた。
友人の名を告げ、至急だと繰り返す。
一体何が起きたんだ?と思いながら、僕は急ぎ馬車に飛び乗った。
指定された場所に着くと、友人はすでに待っていた。
普段は焦りや緊張を表に出さない男なのだが、落ち着かぬ様子でこちらへ歩み寄ってくる。
「……良かった。無事だったか」
顔を合わせるなり、彼は深く息を吐いた。
ただ事ではない気配に、胸がざわつく。
「無事? 一体どういうことだ」
「君にとっては悪い話になるが――殿下が君を監禁しようとしているらしい」
「かっ……監禁!? 僕は何もしていないぞ!」
「君の絵を、大層気に入ったようだ。その結果、禁制品の制作者だと濡れ衣を着せ、逮捕する口実にしようとしている。そして監禁し、自分のためだけに筆を取らせるつもりらしい」
絶句した。
監禁?
冗談じゃない。
人の絵を破り捨てておきながら、作者を拉致して専属にするとかどの口が言ってるんだ。
「……それにしても、どうやって知ったんだ?そんなこと」
「君が絵を贈った人がいただろう。ガイア様が教えてくださった。あの方も殿下の横暴に耐えかねてるし、君がそんな扱いされるなんて世界の損失だと嘆いていたよ」
あの夜のことを思い出す。
ガイア様……たしか、あの足フェチの枯れたMだったか?
いや、そんなことを言ったら申し訳ないな。おかげでいち早く危険を知ることができたのだ。
そんな情報を流せる時点で、よほどの地位にある人なのだろう。
だとすれば、そんな人に気に入られたのは幸運だったのかもしれない。
多少無茶しても庇ってくれる公算がある。
当然監禁なんてされるわけにはいかないし、なんとか身を守る手段を考えないと。
できるなら殿下にも一泡吹かせてやりたいところだ。
「君の描いた絵をすでに自分のものとして、今夜発表会を行うらしい。僕も参加予定だから、君も一緒に来るかい?」
「ああ、そうさせてもらおう」
発表会、僕は友人の招待ということで、参加をすることができた。何が悲しくて取り上げられた自分の絵を鑑賞するために参加しているのかはわからないが、ここで、勝負を仕掛けるしかない。
殿下が壇上に立ち、キャンバスを覆う布を勢いよく払った。 その瞬間、数十人の招待客が一斉にどよめく。
観衆の反応は、まあ秘密クラブでのあの夜と大差ない。
驚嘆とざわめきが渦巻く中、殿下は得意げに胸を張り、さも自らの手柄であるかのように語り始めた。いい気なものだ。
「諸君、この絵をただの偶然の産物と思ってはならぬ。
私がこの作者の作品を最初に目にしたとき――確かにまだまだ未熟な部分も多く見られた。
線は粗く、構図も定まらず……だが、その中に私にだけは光るものが見えたのだ。
私はその才を見逃さなかった。
幾度か助言を与え、時に指導を行った。
するとどうだ、わずかな期間でここまでの水準に到達したではないか。
作者はその成長を喜び、私に深く感謝した。
その証として、この絵を献上してきたのである。
つまり、この作品はただの一枚の絵にあらず。
私の慧眼と導きによって生まれた――そう、私の芸術を愛する心そのものなのだ」
殿下は高らかと芝居掛かった口調で、そう宣言した。
何言ってんだこいつ。
思わず怒りが沸々と込み上げてくる。
こっちは前世から絵に人生賭けてんだぞ。こいつの助言一つで腕が上がるくらいなら、美大の予備校にあんな金かけてない。
俺の血と汗と寝不足の結晶を奪い取った癖に、“献上された”の大ホラ吹きやがって、冗談じゃない。
鑑賞会がひと段落し、場のざわめきが落ち着いたその瞬間を狙って、僕は殿下へと歩み寄った。
その両腕には、持ち運び用のイーゼルと包んだキャンバスを抱えていた。
「お初にお目にかかります、殿下。少々、お時間をいただけますか」
「……なんだ。下級貴族ごときに構っている暇はない。手短にせよ」
「恐れながら――私はこの絵の作者にございます」
殿下は明らかに不愉快そうな顔をしながら、見下したように言った。
「なんだと?ばかばかしい。この絵は、私の審美眼と、芸術を愛する心があったからこそ描かせ得たものだ。お前ごときには描けるはずもなければ、その価値を理解することすらできまい」
「当時は仮面で顔を隠しておりましたゆえ、殿下もお気づきになられなかったのでしょう。
このたび殿下に見出していただいたこと、まことに光栄に存じます。
その感謝のしるしとして、殿下のご所望なされた絵を、お持ちいたしました」
「お前などに頼んだ覚えはない!どうせ今の話を口実にして、私に取り入りたいだけだろう。擦り寄れば、私が芸術に対する評価を甘くするとでも思ったか――身の程をわきまえろ!」
「……大変失礼いたしました。私の勘違いかもしれませんが――確か、こう仰せになられたと記憶しています。
大地に抱かれる子のように、安らぐ姿を描け。
柔らかな衣に身をくるみ、膝の上に頭を預ける、まるで母の腕に眠る幼子の…」
途端に、殿下の顔色がさっと青ざめた。
さきほどまでの自信満々な態度が嘘のように、唇が震える。
「ま、待て! 勝手なことを言うな! 我はそのようなものを頼んだ覚えはない!」
殿下の声が会場に響き、招待客たちがざわめく。
その様子を前に、僕はあくまで穏やかに頭を下げた。
「そうでございましたか。……もし私の勘違いであったとしても、この絵は殿下に献上するためにご用意したもの。ぜひこの場にお集まりの皆さまとともに、ご覧いただければと存じます」
「や、やめろ!」
殿下が思わず声を荒げる。
場の空気が張り詰め、観客の視線が一斉に壇上へ集まった。
「いかがなさいましたか、殿下?」
僕はあくまで静かに問いかける。
動揺も当然だろう。殿下は自分で頼んだものなんだから中に何が描かれているかわかっている。こんなもの他人に見られるなんて、ただの公開処刑だ。
「き、禁制品だ! そんなもの、この場で公開できるはずがない!」
「これは妙なことを。殿下はまだ、中身をご覧になっておられませんでしょうに」
「お前には禁制品製作者の疑いがかかっている! その絵も怪しいに決まっておる!」
馬鹿なこと言いやがって。さっきまで、お前に頼んだ覚えなどないとか言っていたくせに、今さら疑いだと?往生際が悪いやつだ。
「私は禁制品など描いたことはございません。どうぞ――中をご確認なさっても構いません」
殿下は逡巡しつつも、布の端に手をかけた。
そして、ちらりと中をのぞき込む。
「……な、なんだこれは……老人と枯れ木の絵?」
「こちら、題して《ゼウスの戯れ》にございます」
殿下の顔に、安堵と拍子抜けが入り混じった表情が浮かんだ。先ほどまでの焦りは消え、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「ふん……やはりその程度か。お前ごときに描けるものなど、所詮このレベルだろう」
「では――禁制品ではなく、芸術作品だと殿下がお認めくださるのですね?」
「……ふん。ああ、その程度で芸術を名乗るとは、烏滸がましいがな。まあ我に献上されるものゆえ、芸術品としておいてやろう」
言質を取った。僕は内心でほくそ笑みながら、殿下の嘲笑を受け流し、一歩前に出る。
「皆さま、ご覧ください!
今しがた殿下ご自身が、芸術品とお墨付きをくださった絵でございます!」
会場にざわめきが広がる。
キャンバスをイーゼルに立てかけると、僕は大きく布をつかみ――観客の前で、勢いよく引き払った。
布が払われ、現れたのは老人の肖像だった。
痩せこけた頬には深い皺が刻まれ、背には枯れ木が何本も突き立つように伸びている。
ごつごつと割れた樹皮の線は、そのまま老人の皺とつながり、幹の節穴は黒く沈んだ瞳のように見えた。
肩から垂れる衣はところどころ擦り切れ、風に煽られた裾は乾いた大地にしがみついているかのようだ。
観客も不思議な顔をしている。変な老人がこっちを向いているだけの絵だ。
「失礼、上下逆でした」
僕はゆっくりとキャンバスに手をかけ、上下を反転させた。
その瞬間――絵はまったく別の姿に変わった。
老人の皺は肉付きの柔らかな頬へと変わり、枯れ木の枝は小さな手足の線に見える。
白く垂れた衣の陰影は、丸々とした腰を覆う布――まるでオムツのような形へと転じ、唇の影は幼子がおしゃぶりをくわえているかのように浮かび上がった。
そして、背後の木立の一部は滑らかな曲線へと変わり、今度は裸の女の体躯を形作る。
写実的に積み重ねられた影と光が、赤子殿下と、彼を抱きかかえる裸の女という、まったく別の光景を立ち上がらせていた。
つまり、先ほどまで老人と枯れ木にしか見えなかったその絵は、上下を逆さにされた瞬間、誰の目にも明らかな、オムツとおしゃぶりをした殿下を抱きかかえる裸の女の絵へと変貌したのだった。
会場が一瞬、息を呑むように静まり返った。
次いで、誰かが堪えきれずに噴き出す。
笑いを押し殺すような震えが、観客席のあちこちに広がっていった。
異変に気づいた殿下が慌てて壇上を回り込み、自ら絵をのぞき込む。
「おんぎゃぁぁぁぁ!」
赤子のような悲鳴が、殿下の口から漏れた。
「な、なんだこれは!」
「先ほど殿下ご自身でご確認いただいた絵ですが」
僕はしれっとした顔を崩さず、悪びれることもなく言い放った。
これはアナモルフォーズ――つまりトリックアートと呼ばれる技法だ。
上下を逆さにすると、まったく別の絵に変化する仕掛けである。美大時代、僕が夢中になって描いていた題材のひとつでもあった。
もっとも、トリックアートそのものはこの世界でも存在する古典的な芸術だ。
わかる者には、逆さになった時点で仕掛けに気づけるはず。
殿下に芸術を見る目がないのが悪い。
そもそも直球の表現など許されないのだから、どうすればよいか必死に考えた末に辿り着いた手段にすぎない。
もとはといえば殿下ご自身の希望なのだ。
希望通り、かつ世間体もわざわざ整えただけなのだから、やっぱり殿下が悪い。
「は、はやく隠せ!」
「今展示されているこの作品が、私の手によるものであるとお認めくださいますか。ちなみに、こちらも含め、すべての絵の裏には同じ署名がございます」
「わ、わかった! それでいい! いいから、はやく隠せ!」
布で被せると、殿下に手渡す。
「この絵はゼウス様より賜った御題にございますゆえ……月を照らす太陽のごとく、対となるヘラ様のもとにも映し出されるのが道理かと。
すでに水面へと投げられた光は波紋を広げ――今ごろは、その揺らめきが、静かに御方のもとを照らしている頃合いかと存じます」
一瞬怪訝な顔をしていたが、意味を理解したのか、殿下の顔がみるみる青ざめる。
「き、貴様には……人の心が無いのか!」
そう叫ぶなり、殿下は逃げるように壇上を駆け下り、そのまま会場を後にした。
ヘラはゼウスの正妻だ。つまりは殿下の婚約者にも今の絵を送ったのでそろそろ届く頃だ、と殿下にだけ伝わるように遠回しに言ったのだが、正しく伝わったようだ。
それにしてもずいぶんな言い草だな。殿下こそ気品をどこに無くしたのやら。
ただ、殿下と婚約者の夜の営みの参考になればなと、ささやかな《善意》だったのだが。
会費の代わりの絵として、今のトリックアートの絵をもう一枚描いて置いたのが幸いした。
夫婦仲を深め、ひいては王家の血統を繋ぐ助けになれば……これ以上の国への貢献があるだろうか。むしろ感謝してほしいぐらいだ。
決してヘドロのように汚れた心から滲み出した嫌がらせではない。はず。
とりあえず僕が書いたものと認めたのだから、監禁されることもないだろう。証人は大勢いるので、いくら殿下でもそこまでの無茶はできまい。
あとはしっかり大金を請求してやるだけだ。でなければ、とてもじゃないが会費が払えない。
* * *
その後、秘密クラブにゼウス様の姿が現れることはなかった。
どうやら誰もが彼には手を焼いていたらしく、あの日の一件は今やちょっとした武勇伝のように語られている。
友人の言ってた通り、アポロンを名乗るにふさわしいという評価までついたのだから、笑ってしまう。
ガイア様とも妙に気が合うようになった。
結局どこの世界も、どこの身分も変わらない。
欲望こそが、この世界を動かす一番正直な力だ。
近々、正式に王家から依頼が出るらしい。
一度、謁見の間に呼ばれ殿下と顔を合わせたのだが……目が合うなり、殿下はそそくさと逃げ出していった。
宮廷画家になるきっかけをくれたのは殿下なのだから、大広間にあの時の絵を描かせてもらえないかとお願いしたかったのだが残念だ。
いやーホントに残念だな。
ありがとうございました。
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