01.二十歳の出立
「あなたにお墓参りをしてきてほしいのよ。老い先短い私の最後のお願いだと思って行ってきてくれないかしら。」
歳のせいか数年前から現実と虚構がいりまじった発言をするようになった祖母が、今朝はやけにはっきり喋ると思っていたら、こんなことを切り出した。
ミシェルは手にしていたパンをいったん皿に置くと「どなたのお墓でしょうか?」と聞いた。
「お世話になった大切な人がね、最近夢のなかにあらわれるのよ。亡くなったのはもう何十年も昔のことなのに、湖のむこうでおいでおいでと私を呼ぶの。でも脚も悪くなった今では長旅なんて無理でしょう?なんだか申し訳なくって。だからせめて、孫のあなたが顔をみせてきてちょうだい。」
そう言って元伯爵夫人の祖母は優雅にティーカップを傾けた。
夢のなかで死者が生者を呼びよせる。ましてや祖母は歳も歳だ。夢の意味を分かっているのだろう。それでも祖母は、懐かしい友人に久しぶりに再会したように笑うのだった。
おばあ様はもう長くはないのかもしれない。ミシェルはふとそんな予感にとらわれて恐ろしくなった。
早くに両親を亡くしたミシェルにとって、祖母は唯一の身内だった。
伯爵令嬢だったミシェルの母は政略結婚を拒絶して、商人だった父と駆け落ち同然で結婚した。
織物問屋から独立して小さな商店を構え、ようやく生活が軌道に乗った頃、不運な火事で両親は店ととも炎にのまれてしまった。孤児になりかけた7歳のミシェルを探して引き取ってくれたのが、祖母のイルゼだった。
母親代わりに育ててくれた大好きな祖母であり、一生かけても返しきれないほどの恩をもらった相手。
家の名を汚すような結婚をして行方をくらませた娘の子どもなのに、祖母はミシェルに事あるごとに
「うちは跡継ぎもいないし、旦那様が亡くなった時に爵位も返上したでしょう。あなたはなんのしがらみもなく、好きな人と結婚しなさいね。」
と言い聞かせた。
自身が親の取り決めでこの家に嫁ぎ、娘は駆け落ちをした。ミシェルにはそんな思いをさせたくないという気持ちが、言葉の端々にこめられたいた。
そんなイルゼに、してあげられることは何でもしてあげたいと思うミシェルは、彼女の願いを引き受けた。
「遠方の方ですか?」
「イスカの街よ。亡くなったのを聞いた時には結婚していたから、結局お墓にも行けずじまいでね。今となってははっきりした場所はわからないの。ニワトコの生垣が綺麗な墓地で、大きな木の下にお墓が5つ並んでいるそうよ。右から3番目の墓石だったかしら。その方のお名前はルネというの。」
湖水地方の街イスカ、王都から長距離馬車で片道2日はかかる場所だ。
ここに引き取られるまで平民として育ったミシェルと違って、祖母は生まれも育ちもれっきとした貴族の婦人だ。付き合いがあった先も当然貴族に限られている。だからてっきり王都周辺の墓地なのかと思っていたが、場所もわからないとなると墓地探しからはじめなくてはならない。
祖父の死去、爵位の返上とともに移り住んできたこの小さな屋敷にはミシェルと祖母、そして古くから働いている家事使用人のアンナとその夫で庭師のヨハンが暮らしていた。
祖母になにかあったら…長いこと家をあけるわけにもいかず、ミシェルは墓を見つけるまでは人を雇うべきかと考えた。祖母はそんなミシェルの躊躇いを読み取ったのか、優しく笑った。
「そんなに心配しなくてもすぐに死んだりしないわよ。あなた、この家にきて以来王都から出たことがないでしょう。せっかくだからゆっくり行ってきなさい。それでイスカの街が今はどうなっているのか聞かせてくれると嬉しいわ。」
自分が神の庭に入った暁には、ミシェルに広い世界で生きて欲しい。イルゼはそう願っていた。
年老いたアンナとヨハンには隠居に困らないだけの退職金を出すつもりでいたが、ミシェルはまだ20歳。
この家とともに静かに沈んでいくのではなく、家を飛び出していった娘のように、自分らしく生きられる場所を見つけてほしい。それがイルゼの望みだった。
夫が存命の頃、ミシェルを社交界に出してみれば、わけありの出自にも関わらず婚約の申し込みが何件も舞い込んだ。
平民育ちとは思えない所作や教養、容姿の美しさに加えて、ミシェルには不思議な魅力があったのだ。ひかえめでありながら、ある種の華やかさが彼女を内面から輝かせていた。
それなのに、本人は屋敷にこもってばかり。
外出先といえば下位貴族やジェントリの家を数件掛け持ちしている通いの個人教師の仕事くらいで、終わればまっすぐ帰ってくる。
望めば貴族の家に輿入れすることだって叶うのに、ミシェルはどうも平民として暮らすことを決めているようだった。
「あなたはこの家に来てから本当に真面目でいい子に育ってくれたし、今だって家のためになにかと手助けしてくれてありがたいと思っているの。だから少しくらい冒険してもいいと思わない?ねえ、アンナ?」
イルゼの傍に控えていたアンナは「そうですとも。」と深く頷いた。
「お嬢様がいつまでもこの家にいたら、あたしも夫もおちおち引退できないじゃないですか。」
「アンナまで何を言うのよ。」
「お嬢様、留守の間は私たちにお任せください。近くに次女のメリーも住んでいますから心配いりませんよ。」
「そうね、久しぶりにメリーとおちびちゃんにも会いたいわ。」
にっこり笑う祖母は、本当にアンナの孫娘に会うのを楽しみにしているようだった。意外と頑固な祖母がそう言うのだ。ミシェルは頷くしかなかった。
こうして夏の終わりに、ミシェル・クローデル二十歳の旅が決まった。
アカデミー時代だって寮に入らなかった彼女がこの家を長く留守にするのは初めてのこと。
わくわくしているのはむしろ祖母やアンナのほうで、ミシェルは初めての旅の準備を入念に行うのだった。