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春に降る雨

作者: ku-mi

 桜の咲かない四月が終わろうとしている。


 風の強い朝、ひんやりとする外気に体がきゅっとこわばる。先月買ったばかりの白いトレンチコートの前を抑え、点滅を始めた交差点を足早にわたる。

 ふと見上げれば重く低い雲。朝の天気予報では降水確率は80パーセントだったのを思い出す。駅を目前にして取りに帰る時間と面倒を考えれば、気持ちはすでに会社近くのコンビニエンスストアを頼りにしている。そんなふうに、家には透明の傘が増えていくのである。

 

 春と言うにはまだ早い枯色の町並みでは、北海道出身ではない私にとって「ここからがスタート」と気持ちの線引きが難しい。

 出会いや別れをこめた春の流行歌に自分を重ねれば、それなりに淡い思い出は溢れてくるが、それを優しく包み込む景色がまだ揃っていない。桃色の花びらが舞う柔らかな温度も、背中を押すあたたかい風も。それでも世間ではすでに連休の話題をしているし、自分もその輪に入ってどう過ごすかなんて答えてもいる。

 そして外に出てまわりを見渡せば、訪問先の担当営業が変わっていたり、駅ビルの雑貨屋の店員が先輩から指導を受けていたり、この町でも始まりがちゃんとそれぞれに訪れている。

 今年、入社してきた新人に対して「最近の子にはついていけない」などと今さら言う立場でもないけれど、不透明な境界線のあたりにいつも佇んでいるような自分にとって、彼らは時間の流れを感じさせてくれる存在だ。


 今の会社に就職してからもう7年経つ。

 入社当初はまだ、学生時代からのアパートに住んでいた。1DKの狭い玄関先で、黒の洒落っ気のないパンプスを履こうとする私。その隣ではテカテカと光沢がかった紳士靴に靴べらを通す姿。

「今日は傘がいるよ」

 それは几帳面なあの人の得意のセリフだった。

 毎朝、天気予報のチェックだけはかかさなかった人。お天気お姉さんの笑顔を見ないと一日が始まらない、なんて言う姿を横目に、私は小さなテーブルに化粧道具を広げ支度していた。私の方が早起きだったのに準備はいつもあの人の方が早く、よく待たせていた。

 二人でアパートの階段を駆け下り、近道で地下鉄の駅を目指す。

 そんなふうに新しい生活のスタートラインを「せーの」と言うこともなくいつの間にか超えていた春。そうしていつまでも延長線上にすべてが広がっていくものだと思っていた。

 その一瞬ときの咲かない桜も、冷たい風も、雨も、すべてが二人がいる場所であることには変わりはなかった。

 

 やがて私がそのアパートから出て行く日。

 整理しきれないまま荷物を押し込めるように、ガムテープで塞いだダンボール。懐かしいもので溢れていた部屋に、静かに積まれて行く寂しさが言葉を奪っていく。

 だけどせめて残しておきたい言葉があった。

 口をほどけば弱さまでこぼれてしまいそうになるから、浅い呼吸、小さな声でつぶやいた言葉―


 今年で何度目の春になるのだろう。

 『歓迎会のお知らせ』という社内メール。毎年恒例になっている円山公園でのお花見ジンギスカンである。お花見と言いつつ、肉の焼けた匂いと煙で風流もないと思うのだけど道内ではおなじみの光景。

 いわゆる「ジンパ」。

 学生時代にはサークル仲間と春の陽気の中、騒いで酔いつぶれた記憶がある。

 赤い顔して笑っていた先に、あの人も赤い顔で笑っていた。固形燃料がどうの、と言っていた。どうでもいい話ほどなぜか覚えているものである。

 会社のその歓迎会には新人の時に参加したっきりで、それ以降は何だかんだ理由づけて参加していなかった。

 

 春の喜びくらい、大切な人と分かち合いたいものだ。

 なんて言い訳が出来たことの幸せを今更のように感じている。

「今年はどうする」

 隣の席から問いかける同僚に即答できない。

 斜め向かいの席にちらっと目線を送ってみる。銀フレームのメガネをかけ直しながらパソコンに向かう整った顔がある。

 先日、異動して来た桜井さん。綺麗に磨かれた靴と、丁寧な仕事ぶりで私は勝手に几帳面な人だと思っている。

 ふいに目が合い、気まずさを隠すように問いかけてみる。

「桜井さんはもちろん、主役だから、歓迎会参加されますよね」

 その肩越しに見えた窓の向こうで、静かに振り出していた雨。

「原田さんも、もちろん参加されますよね」

 にこりと返って来たその笑みに、ふと思う。


 ―あの人も、不用意でこの先、雨に体を濡らすことがあるのだろうか。


 また一つ、増えた傘。

 ジャンピングで軽やかに開いた透明の花は、私の頭上に緩やかなアーチを描き居場所を作ってくれる。そのラインをすべるいくつもの雫が傘の先っぽから落ちていく。

 それはまるでもう届くことのない言葉。

 灰色の世界の中でこんなふうに確かな区切りがあるように、今ここに私がいるということは、あの日置いてきたものが、今でもそこにあり続けるということかもしれない。


 家にはまだ、引越しの時のダンボールそのままクローゼットの隅で眠っている。

 蓋を開けることがなくても、こうして生活に支障はないようなものが、私にはたくさんあるようだ。


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― 新着の感想 ―
[一言] 読ませて頂きました。時間だけが流れていく感覚。止まったまんまのあの頃。ジーンときますね。現状では気づきにくいことでも時と共にその一つ一つが大切なものだったんだと実感できるんですよねぇ。有難う…
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