死者と生者
「ったく、人の目がなくなったらすぐこれだ……」
水無月は首のストレッチをしながら愚痴をこぼした。
「だって、さびしかったんだもん」
マスターは蹲り、指で床のタイルをなぞっている。
「元気そうでよかった」
氷銀は痛めた首をもみほぐしながら軽く笑った。
マスターこと黒野日奈は、氷銀達との再会を心から喜んだ。喜びすぎるあまり、2人の首を痛めるほど強く抱きしめた。
「あーいってぇ……そういやマスター、今いくつだよ」
「22ぃ」
黒野はダブルピースした。嘘か誠か、判断する情報を繋留者の2人はもちえない。
水無月はお手上げポーズを取り、それ以上踏み込んだ質問はしなかった。
「マスターってこんなだったっけ」
「あ、そっか。氷銀は知らねーんだな」
「あれ!?そうだっけ!……私としたことが、油断大敵とはまさにこのことだな」
「もうおせーよ…。千早は途中で出て行っちまったからな、マスターの本性はこんなだ」
「へえ……」
二重人格という単語が頭に浮かんだ。氷銀の古い記憶に残っているマスターの人格とは、まったくもって別人だ。施設に居なかった数年の間に、大きな壁ができてしまっているように氷銀は感じていた。
「ま、んなことはどーでもいいさ」
「どうでもいいの!?」
憤慨するマスターを、水無月は真剣なまなざしで見つめた。
「あの事を氷銀にも話しておきたい……。というより、氷銀に決めてもらいたい」
水無月の胸中を察したのだろう、マスターは科学者の顔つきに戻り、頷いた。
「わかった。でも、全部を背負わせるのは無しだよ?」
「わかってる。その責任はあたしが背負う」
「う~ん…。そういう意味でもないんだけど」
「ん?ちげえのか?」
「ま、とりあえず千早に話してからだね」
マスターは顔だけをこちらに向けると、困ったように笑った。
「見せなきゃならないものがある。ついてきて」
見せなきゃならないものとは何か、水無月と話していた内容が何なのか、何を決めてほしいと言われているのか、氷銀は見当もつかなった。しかし、心に立ち込める雨雲のような嫌な予感だけが、確かな存在感を放っていた。
国立越者対策科学研究所、その一室。3人が再会を果たした研究室の奥。
黒野日奈は壁際に5指で触れ、電卓をたたくように指を動かした。傍から見ればリズムゲームの練習でもしているかのようだ。
困惑した表情で眺めていた氷銀は、次の瞬間その目を見開いた。
「この部屋の奥にも、また部屋……?」
何もない壁に一筋の線が入ったかと思えば、次第に扉の形を象り、一瞬でスライドした。地下に造られた研究室のさらに奥にも、また別の部屋が併設されていた。これまでと違うのは、マスターである黒野でしか開くことが出来ないだろう点だ。
「ここだよ」
一言、淡白に言葉を残すと奥の部屋へと歩いて行ってしまう。水無月はその先にあるものを知っている様子で、神妙な面持ちで歩き出した。言いようのない不安が氷銀の心に広がった。気のせいであってほしい、いつもの悪ふざけであってほしい。何も見ていない今の段階から祈っていた。
部屋の中に一歩踏み込むと、足元から冷気が伝わってきた。それは氷銀の疑念を確信に変えるのに十分な情報だった。背筋がぞっとする。それが、部屋の中に充満する冷気のせいなのかはわからない。
隠されたその部屋に並べられていたのは、5つのカプセル。それぞれ余裕をもって人1人が入れる大きさだ。そして透明な蓋越しに中身を見て、確信は絶望に変わった。
「こいつは……」
そこにいたのはかつての戦友、海瀬黒奈。共に苦しい修行を乗り越え、越者を倒そうと切磋琢磨した仲間。当時こそ氷銀に手も足も出せずに惨敗していたが、徐々に力をつけていった努力家だったことを覚えている。何度挨拶を無視されようと、一方的に殴られようと、いつも気さくに接してくれた。この施設にいたのも、誰かを守るためではなかったか。
「やっぱり、覚えてるんだね」
マスターの声で我に返った。少し離れたところでこちらを見守っている。その横では水無月が視線を下に向けている。この空間にいること自体、ほんとうは辛いのかもしれない。
「黒奈だろ……?」
「だけじゃないよ?」
その言葉に、氷銀は反射的に別のカプセルを見た。残る4つの内、2つにも人のシルエットが映っている。黒奈が入っているカプセルの1つ奥、そこに寝かされている人物も知っている。
「楓……」
楓 雷葉。彼女も同じく、繋留者として拳を交えた仲間の一人。動体視力に優れ、唯一氷銀の拳を見切って反撃を入れたことのある人物。そのポテンシャルの高さは、当時の氷銀も一目置いていた。人一倍の負けず嫌いで、よく黒奈に慰められていた気がする。ここに来たのはたしかー
「好きな人を救いたいって言ってたね。それも覚えてる?」
こちらの気持ちを見通すかのようにマスターが話しかけてくる。覚えている、というより、顔を見ると否が応にも記憶がよみがえる。
「焦げ、てるのか……?」
「感電死ってところかな。部位によって傷の深さが違う、即死ってわけでもなさそうだったよ」
カプセルから覗けるのは顔から首にかけての一部分のみ。それでも一目見れば焦げていると誰もが感じるはずだ。
さらにそのカプセルの右隣り。繋留者として選ばれたのは氷銀を含めて5人。となれば、残りの一人は見なくても分かる。
「……あやな」
高嶺 綾奈。繋留者の最年長。木刀をしなやかに扱い、ナンバー2の実力を持っていた人物。頭の回転が速く、こちらの動きを読み切って確実に一撃をいれてくる、そんな印象だった。常に相手を気遣い、楓や黒奈から慕われているだろうことは遠目にも分かった。そんな彼女は時折、寂しそうな目でこちらを見ていることがあった。その視線が気に入らなかったから、戦闘訓練時に幾度となく木刀をへし折ったことを覚えている。
「折れた木刀を持ってくるたびに嬉しそうにしてたよ。また折られちゃった、強いね千早は、ってね」
相変わらずこちらの考えを知っているかのようなタイミング。
ー嬉しそうにしていた、かー
思う事はたくさんある。けど今は関係ないと、氷銀は頭を振った。
「確認したくはないけど、みんな……死んでるの」
マスターは黙ってうなずいた。
氷銀はもう一度、カプセルに視線を戻す。あの日以来、一度も会っていないし話してもいない。それなのに、内臓に穴が開いたような苦しさを感じていた。一瞬でも気を抜けば泣き崩れてしまいそうなほど、胸が苦しい。
「部屋を出ようか。温度が上がっちゃう」
マスターの言葉に倣い、3人は部屋をでた。水無月はここまで一度も視線を上げることは無かった。
隠し扉がきっちりと閉まった後、マスターは口を開いた。
「ひとまず状況は把握できたかな」
「いつ、死んだの」
「つい最近だよ。詳しく聞きたい?」
氷銀は力なく首を振った。
「不幸中の幸いだったのは死体を回収できたこと。越者と戦う場合、骨も残らないなんてザラにあるからね」
言われてみればそうだった。命こそ落としたもののその肉体は残り、マスターの元に戻ってきたことは奇跡とすら呼べる。
「たまたま偶然、近くにいた協力者が見つけてくれたからここに居るんだ」
マスターは偶然、という言葉を強調した。(そこには別の意味も含まれているのかもしれない、と氷銀は直感的に思った。)
「国に雇われている身である以上、覚悟はしていたはずだよ?…でもその顔を見るとさ、勘違い、だったような気もしちゃうんだよね」
海瀬も楓も綾奈もまだ20代。命を落とす覚悟を決めるには、あまりにも若い。もう一度、カプセルで眠る彼女たちを見つめる。その顔はとても満足しているようには見えない。もっとも、実際の感情など汲み取れるはずもないのだが。
「3人が天寿を全うしたことは分かったよ。それで、俺は何を決めればいい?」
マスターは水無月を一度見てから、唇を舐めた。
「そのことについて話すために、わざわざ千早を呼び戻してもらったんだ。どこで何をしているか分からないけど、どうしても意見を聞きたくてね」
「千早なら……」水無月がようやく声を発した。
「千早なら、越者が多い地域に向かうと思った。だから、片っ端から越者に聞いて回った。白髪の鬼みてぇなやつと会わなかったかって」
星奈の話によれば、1年はかかる見込みで探し始めたらしい。だがラッキーなことに、氷銀は施設のある場所からそこまで離れてはいなかった。距離にして2つの県を跨ぐことになるが、星奈は自身の足で少しずつ情報を得ていったらしい。結果的に2か月の捜索の末に、戦闘という形で再会を果たした。
「星奈が探しに出ている間、私はとある細胞を探してたんだよね」
そう言うとマスターはポケットをまさぐった。そこから出てきたのはカプセル錠剤のような何か。
「これこれ。死越細胞って言うんだけど」
「もしかして、それ……」
「ご明察。死者を越者にできる代物だよ」
氷銀は息をのんだ。物理法則を無視する越者の能力、そして死人が蘇るほどの再生能力。それが、たった一錠のカプセルだけで手に入るというのか。
「ちなみに言うと、生きている人には効果がない。免疫にやられちゃうみたいでさ、か弱いよね」
「……仕組みは?」
「簡単に言うと、細胞を作り変えるって感じかな。死越細胞が死んだ細胞を少しずつ取り込んで、新しい細胞へと生まれ変わる。その過程で血と肉、骨なんかも作り出して、元あった骨は変化した破骨細胞に破壊されて、全く新しい骨芽細胞が生まれて強化されて……ってな具合で。その時に設計図となるのが、遺伝子と記憶。体の構造、不具合、コンプレックスなんかも死越細胞にかかれば修正可能。はっきり言って意味不明」
「じゃあ、越者が使う異能はどこから……」
マスターは自身の頭を指さした。
「記憶だよ。死ぬ瞬間ってのは長い人生の中で最も強烈な記憶だから。死越細胞は何よりも死を恐れる特性があるみたいでね、まずその人物の死の記憶、死亡記憶を読み取るんだ。そして、同じ死を繰り返さないために肉体を作り変える。例えば火事で焼かれて死んだのなら、炎に負けない肉体になろうとする。それどころか、その細胞自体が熱を持って、自ら火を起こせるまでになる。これが越者の異能の正体だよ」
氷銀はまた頭を振った。しかし決して、話が理解できなかったわけではない。むしろ納得してしまったからこそ、認めたくなかった。
「死んでしまった大切な人を生き返らせるだけじゃなく、特殊能力まで身に着けて帰ってくる。これじゃ、使わない理由がないよね」
その結果が、越者達による暴走。日に日に増え続ける彼らを止めるのは、繋留者に選ばれた6人だけ。その戦力差は努力で巻き返せるほど小さくない。
「それに条件はたった2つ。死人であること、死因を本人がはっきりと記憶している事。これらを満たしていれば、99%越者には成れる」
マスターはここで一呼吸置き、つづけた。
「黒奈とあやな、そして雷葉も、死因をはっきりと覚えているはずなんだ」
その言葉に氷銀は思わず顔を上げ、科学者の顔を見た。何を言わんとしているのか、ようやく理解できた。
「3人を越者にするのか……?」
「死越細胞はーー」マスターは硬い表情のまま、言った。
「死越細胞は1つしかない。越者にして蘇らせるとしても、1人だけだよ」
氷銀は言葉に詰まった。水無月が拳をグッと握るのが視界の端に映った。
氷銀はさきほどのマスターの言葉を思い出していた。
ーー感電死ってところかな。部位によって傷の深さが違う、即死ってわけでもなさそうだったよーー
そういうことか、と氷銀は歯を食いしばった。
「黒奈、綾奈、雷葉。3人のうち誰かを生き返らせるか、死越細胞なんかには頼らないか、それを千早に決めてほしい」
縋るような2人の視線が、俯く氷銀の細い体に注がれていた。