猿
数百年にわたる眠りの様に平和な時代を過ごす日本。
内情はいろいろと大変な苦労話があった。主に人の世だが……
中にはヌシと人の間に跨る苦労話もあった。
四大巨頭会議と呼ばれた集まりがあって、50年ばかり過ぎた頃だろうか。
すでに家康は死に、信康も隠居して余生を楽しんでいる。サムライの世を知る者達はすべて舞台から降りた。
戦のない時代が、戦を知らぬ子らの時代が、始まったのだ。
ゆったりまったり、たまに腹筋背筋運動な夜を送るイオタとミウラの元に訪問者があった。
家康からもらった黒い茶碗で茶漬けを啜っていたときだ。この茶碗、曜変なんとかという変わった名前の黒光りするお茶碗である。
最初に感づいたのはミウラだ。
『あれ?』
いつものように虎サイズで寝そべっていたミウラが頭をもたげた。
「どうしたミウラ。なに狼狽えて……おや?」
脱いでいた着物に袖を通すイオタ。しきりに耳を動かし、気配を探る。
「なにか、こう、臭いモノが入ってきおった」
『なんでしょう? ヌシのような? いや、ヌシか?』
ボヤッとした感覚だったが、次第にはっきりしてきた。
モノはミウラ半島の付け根から山裾沿いに南へ入り込んだ辺りと見た。
「ちょっと見てくる」
お茶碗を乱暴に転がしておく。
刀を腰に差しながら、大股で屋敷を出て行くイオタ。濡れ縁から飛び出し、そのまま虹の輪を潜った。
『気をつけてねー』
ミウラが言うように、ヌシの反応だ。ヌシの反応に違いない。あれからこっち、ヌシとしての感覚や術に限って鍛えてきた。以前よりヌシ離れというか人間離れというか、アレしてきたと自覚がある。
その鍛えた感覚がアレをヌシと判断した。したのだが……こう、表現しにくいが、最初の印象のように、反応に臭みを感じるのだ。
それにやけに反応が暈けている、あるいはブレているのも気になる。
そのせいか、ドンぴしゃでは見つからなかった。それなりに探さねばならなかった。
マーキングするという意味でも小さくて潰しの利くイオタが先行したのだ。
「見つけた……。なんだアレ?」
足下の悪い岩場をアレが歩いていた。
見た目は人……背は高い。胴があって、ひょろ長い四肢が付属していて、爛れたような顔が埋め込まれた頭部が一つ。尻尾はない。頭部から背中にかけ、密集して毛が生えていた。
下半身はふらついているのに上半身は真っ直ぐだ。体幹が良い、というには気持ち悪い歩き方だった。
「だが、見たことある風体にござる」
イオタは大木の上から見下ろしながら、ぬぐえぬ既視感に記憶の隅を突きだしていた。
太い枝の上で胡座を組み、腕を組んで小首をかしげている。
「むー……。おや?」
問題のアレが歩くのを止めた。
ゆっくりと左右に首を振り、そして見上げた。イオタとアレの目があった。
「あ! 思いだしたでござる! アレはサル殿……ってサル殿?」
最後にサルと会ったのは四巨頭会議のずいぶん前。宣教師がうんたらかんたらやってた頃だ。
あれから50年以上……もっと過ぎている。当時、サルは人生の後半も後半だった。寿命的に生きているとは考えにくい。では別人か?
『おや、イオタのヌシではありませんか! お会いしたかった。真っ先に会おうと探していたんですよ。お久しぶりです。儂ですよ、サルと称していた者ですよ。お忘れですか? ずいぶん冷たいな』
「おおサル殿か! 忘れていたわけではないが――」
イオタは飛び降りた。サルの言葉の節々に違和感を覚えながら。例えば、これまでなら「イオタのヌシ様」と呼んでいたはずだが、イオタのヌシとある意味呼び捨て。ヌシ同士ならそれでも良かったが。
「――ずいぶん見た目が変わってしまったでござるな?」
人の容姿をしていない。何があったのか? されど、殺気は感じられない。
『儂、念願叶ってヌシになったんよ! ヒャヒャヒャヒャ!』
発声器官に問題があるのか、高音部分に引っかかりがある。差別してはいけないのだが、不快に感じる笑い方だ。
「なんとヌシに?」
サルは言っていた。ヌシになるのが目的だと。
「でもどうやって? 某ら、方法も理屈も解らぬでござるよ!」
どうやって成ったか? あのミウラをもってしても方法は不可能としている。
『教えてやるよ、イオタのヌシ――』
サルが上目遣いでニヘラと笑った。
『――喰ったんだ』
「むっ!」
どうにも、こう、嫌な予感がする。いや、危害を加えられる方向性ではなく。不気味オチとか嫌展の方向で。
『ナリソコナイを喰った。喰って喰って、死ぬかと思うくらい喰った。そしたら、死ぬほど苦しくなった。あれは本当に死ぬかと思うた。覚悟した。のたうち回ったよ。何年とね。だが死ねなかった。ヒャハッ!』
わざと変な笑い声にした訳ではない。笑おうとして喉で空気が引っかかったのだ。
『どうにか動けるようにまで回復したんだ。天は儂を見ていてくれなすった』
「う、うむ、良かったでござるな」
相づちを打つ以外、対応法が見あたらない。
『動けるようになったら、次はヌシじゃ』
「何が次でござるかな?」
イオタの尻尾の毛が起立した。ぞわぞわとした嫌悪感が背中を上がっていく。
『儂はヌシを喰った。ヌシを襲ったら殺せた。こっちも大怪我をしてしまったが、なんと! 殺すことができた! ヌシをじゃ!』
サルはイオタから視線を逸らした。どこか遠くを見ている。イオタは無意識に左手で刀を握っていた。だが、サルから殺気は感じられない。
『そのヌシを喰った。歯で肉を噛みちぎれた』
人はヌシを殺せない。肉を噛みちぎることなど出来はしない。……ヌシ以外でヌシを殺せるのはナリソコナイだけ。
『喰えた。腹に入った。体が爆発するかと思うた。熱が出た。痺れた。その時、儂は死んだんだと思う……』
サルの視線がイオタに戻った。両手を胸元まで挙げる。ささくれ立ち、分厚い爪が生えた手を見る。
『……気がついたらヌシになっておった。人の力では儂を傷つけることができぬ。試したんじゃ。何度刀で斬りつけられても、何度鉄砲で撃たれても傷一つ付かぬ。死なぬのじゃ。嬉しさの余り大笑いしてしおもうたわ! ヒョイ!』
最後、一回笑った。
『儂はヌシになった! 勝ったんじゃ! 世に勝った! 生に勝った! ヌシじゃ! ヌシじゃ! 儂はヌシじゃ!』
しゃべり方はおかしけれども、言葉に力がある。狂ってはいない。正常な心を持って喜んでいる。
だが……
「サル殿」
『サルではない! 儂の名はトウキチロウじゃ!』
「ああ、トウキチロウ殿……」
やっぱり秀吉だったか。
「トウキチロウ殿。おめでとうと言うべきなのでござろうな? 大願を成就したという点を」
『そうだ、めでたい! めでたいのじゃ! なのにッ!』
力、能力、寿命、それらを手に入れたというのに、なぜそんな悲しい目をするのか?
『ヒトは儂を崇めぬ! 声を掛けても恐れおののき、逃げまどうばかりじゃ! これまで愛想ようしておった里の者達も、儂を見て逃げよる!』
トウキチロウは怒りを露わにし、足を踏みならした。
『儂はヌシじゃぞ! 何故敬わぬ! 何故崇めぬ! 女も! 子供も! 親族も! なぜッ!』
噛み合わせの悪い口から歯ぎしりの音が聞こえる。
「トウキチロウ殿、何故、ヒトとして栄達を求めなんだ? そこ元の実力からして、ハゲ殿のように徳川殿に仕えれば城持ち位、楽に成れたであろうに。いや、一国の殿様にも成れたはずにござる」
『それは家康の下に付くということじゃ! 儂は嫌じゃ! 誰の下にも付きとうない! 儂が一番になりたい!』
「ならば家康公の如く、国を興せばよい!」
『ヒトの王になったとして、上にはミカドが居る。そしてヌシが居る! 嫌じゃ! 儂が一番になるのじゃ! 何故儂はミカドに生まれなんだ! ミナモト家の長子に生まれなんだ! なんで貧乏な村の貧乏な男の長子なんじあー! なんでしゃぶしゃぶの粥なんかすすらにゃならんのじゃ!』
ああ、そうか。
トウキチロウは、貧しい生まれなのか。言葉にできないほどの飢えと困窮を経験したのか……。
イオタは、トウキチロウという男が可愛そうになってきた。
『上手い物を山ほど食って、毎晩美女を抱きたい! それを望んで何が悪い!』
「そこら辺は理解できるでござるな」
本心から。
『ならばイオタのヌシよ!』
「何でござるかな?」
腐ってもヌシ。トウキチロウは人間離れした速度で、イオタの間近まで迫った。
『お前は美しい! 儂と夫婦になってくれ! 可愛がってやる! 気持ちようさせてやるぞ! ああ、苦労なんかさせない! 綺麗なべべを着せてやる! 上手いもんを食わせてやる! そうだ、下女をたくさん付けよう! 山のような城を築き、金ぴかの家具もこしらえよう。そこに儂と住もうぞ!』
「お断りにござる!」
イオタさん、即答即決。距離を取る。
一気にトウキチロウのことが可愛そうでなくなった。かわりに鳥肌が立った。
『なんでじゃぁー。そんなにミウラがよいのかぁー? あやつイオタをこき使うぞ! あやつ獣じゃぞ? イオタはヒトの姿をしておろう? ならば、ヒトと同じ姿の儂と暮らすのがええんじゃ。な、な!』
イオタは、肩を抱いてこようとするトウキチロウの手からスルリと逃げる。
「拙者は好きでミウラと共におる。拙者のことを思うなら、放っておいてくだされ。あと、ミウラのことを悪く言う者は、拙者の敵にござる。言葉を慎むでござるよ」
トウキチロウから一定の距離を取り続けるイオタ。身体能力はイオタの方が上のようだ。軽々とあしらっている。
『おまえも儂を愚弄するかー! ヌシである儂が抱いてやろうというのじゃ! 有り難く思って抱かれよ!』
「言うが、股に逸物は付いておるのか?」
トウキチロウの動きがぴたりと止まった。
「ヌシに性別はござらぬ。拙者、見かけは女でござるが、中身は別物にござる」
『なんで……』
トウキチロウの腕が震えている。
『ヌシ就任、おめでとう。ナナシのヌシ』
ぬっと現れたのは巨大なネコ顔。ミウラだ。ミウラがふわりとトウキチロウの横に立つ。
『いつの間に!』
トウキチロウは慌てて飛び退った。
『さすがヌシ。良い反応だ。だが雷撃――』
目を焼く紫光。耳をつんざく雷鳴。鼻を突き刺すイオン臭。
トウキチロウの右横に雷が落ちた。
『――からのネコパンチ――』
トウキチロウの左横に巨大な手が振り下ろされ、地が陥没した。
『――さらにネコフック!』
トウキチロウの頭頂部、髪の毛数本を引きちぎって、ミウラの手が横切った。
『三連コンボ。どうした? 防がないのか? 反撃しないのか?』
ミウラは怒っていた。耳は真横に畳まれ、髭袋(ω)はぷっくり膨らんで、髭が全部前を向いている。
『ヌシになったのだろう? ならばヌシの決まりを守ってもらわなくては!』
ミウラは、ゴキブリマントの赤い少佐の声で怒鳴った。
『ヌシの? 決まり?』
トウキチロウは理解していなかった。
『忘れたようなら思い出させてやろう! ヌシはヌシの縄張りで生きる。他のヌシの縄張りに入らない。許可無く入る時は戦いに挑むとき。戦いに負けたヌシは縄張りを取られる。どうだ? 思いだしてくれたかね? さあ、戦いだ!』
『ちょっと! ちょっと待って!』
『いいや、待たない!』
トウキチロウは知っている。ミウラのヌシを知っている。
イズのヌシとサガミのヌシを殺した相手。長年師従したオワリのヌシが戦いを避けた相手。カイのヌシを殺した魔剣持を返り討ちにした相手。エチゴのヌシと戦って引き分けた相手。ムツのヌシを翻弄した相手。
ミウラのヌシは、トウキチロウが戦って勝てる相手ではない。
そのミウラのヌシが本気で怒っている。
しかも、ミウラのヌシに分がある。
『サル! きさまヌシとしての能力に自信がないものだからイオタのヌシに手を出そうとした。およそヌシからぬ行動、万死に値する! さあ死ね! すぐ死ね! 今から死ね!』
ヌシの圧。殺気。覇気。闘気。そんなのが真正面からぶつかってくる。
トウキチロウは腰を抜かして尻餅をついた。
『死にたくない! 死にたくなぁーい!』
泣き叫んだ、わめき叫んだ。本心で。演技ではなく。
「まあまてミウラのヌシ。サルとはこれまでの付き合いもある。今回のみ、見逃してやれぬか?」
イオタが間に入って止めた。
『む、むう。イオタさんがそう言うなら。次に顔を見たときは無条件で殺していいんでしたら、今回に限り見逃しましょう』
『ひっ! ありがたッ、がたくッ、くッ!』
トウキチロウはしどろもどろだ。
「サル、じゃなくてトウキチロウ殿。ここを離れよ。ヌシのおらぬ山や森を探して、そこで住むがよい」
『ど、何所にそんなところが……儂はイオタを……』
未練がましい。
「それくらい自分で探せ。……そうでござるな、シナノの国ならば、或いは小さな森や山が残されているかも知れぬ。それまで貴殿はナナシにござる。ヌシはその地の地名を名にいだく故にな。さあ、行け!」
イオタにとりつく島もない。扱いが冷たかった。
『うっぅうっ!』
ふられたのは判った。
トウキチロウのヌシ、いや、ナナシのヌシは、まろびつつ転びつつ、走り去った。
「ふー、まさかまさかにござった。ヒトがヌシになれるとは」
イオタは額の汗を手の甲で拭いた。ヌシは汗をかかないのだが、イオタとミウラは特殊であった。
「あんな方法でヌシになるとは。おぞましい限りにござるな? ミウラよ」
ミウラの反応が鈍い。上の空だ。
『ええ……、あれって本当にヌシだったんでしょうか?』
「というのは?」
『イオタさんが最後まで冷静でいられたのは、わたしが近くに転移していたのを感づいていたからでしょう?』
「いかにも。ヌシなら当たり前のこと」
『でもサルは気づかなかった。力だって弱すぎる。動き方そのものが不完全でした。あれはヌシというよりナリソコナイだったのではと推測いたします』
「何故に? 人の手では殺せぬ存在にござったぞ。本人が言うには」
『ならばレッサー・ヌシでしょうか? 准ヌシ? ナリソコナイの上位互換にて、ヌシにあらざる者の事です。
サルがイオタさんと話をしている間、観察していました。あいつ、大地からエネルギー、つまり滋養の供給を受けていないようです。現状、体内に溜め込んだ滋養を使い果たしたら、消えて無くなりますね。
ナリソコナイは滋養の供給が出来ないからヌシになれないナリソコナイなんです。だから、サルはナリソコナイの枠から出ることができない』
「一生を捨て、全てを捨てて挑んだ賭けに負けたか、トウキチロウよ。世が世なら、日本の支配者に成れたのに……」
この世界、羽柴秀吉は出現しなかった。
『本人の上昇志向とか、俺より速いヤツはゆるさねぇ理論だとか、育つ環境が悪くて破綻してしまったのでしょうね。彼もサムライ時代の被害者なのかも。……とはいうもののイオタさんに手を出して許すつもりはありませんがね! なんか言ってて腹立ってきた。今からでも殺してこよう!』
トウキチロウが去っていった方角を睨むミウラ。今からでも走り出しそうだ。
「止めよ! 寿命を持つ者は放っておけ。なんか美味しい物でも食べて、温泉に入って、海でも眺めよう」
『イオタさんがそう言うなら仕方ありませんねぇ……ツイスターゲームやってくれますか? 今度こそひーひー言わしちゃるけん!』
「望むところ!」
イオタとミウラは虹の輪を潜り、隠れ家へととんだ。
こうして、サムライ時代最後の1人が舞台から去り、一つの時代の真の終わりを告げたのであった。
『イオタの旦那、愛しております』
「ミウラよ、好いておるぞ」
【本編終了】
今回が戦国時代編の最終回です。
次回より、現代編、もしくは蛇足編が始まるかも知れません。




