イズの地
「心眼!」
何も見えなかった。
「心眼はだ駄目か。便利だったのに」
『収納が使えるだけ良かったと思わなきゃ』
風を切って走ることしばし。走り出したのと同等に0フレームで停止した。空中に残された勢いが風となって西へ吹き抜けていく。
イオタが顔を上げると、高い山々が織りなす見慣れた景色が目に入ってきた。
『左手が南で、イズ半島の何とか山脈。右手が北で、ほら!』
「富士のお山でござるかな?」
天にそびえる雄大な姿。他の山々より度を超して高い山。凸凹が全く見あたらない、美しいラインを描いている。
『フジの山と表記します。手前にハコネのお山がございますので、あまり近づいたら見えなくなります。ここらあたりが最も美しく見える場所です。あ、ハコネ山って噴煙を上げてるんだ』
遠く、箱根の山から細々とした黒い煙が立ち上がっている。ヌシの耳は、小さく雷の音も拾っている。
「ここは、日本か?」
『地理はまったくの日本ですが、中身がずいぶんと違ってます。この世界でわたしは情弱者なので詳しくは判りませんが、有名武将の方々は居られないようです』
「ここもイセカイでござったか……」
イオタの耳が心なし萎れた。
『ではもう少し進みますよ!』
ミウラは走り出した。風切り音は立つのだが、足音がしない。ネコってここまで器用だったかな?
ミウラが足を止めたのは、だいぶ山の中に入った場所だ。
日が西の山に沈み、辺りは暗くなり始めていた。ネコである二人は夜目が利くので不自由は無いのだが。人はどうだろう。ギリギリ行動時間内だろう。
『だいたいイズ半島の付け根です。すぐそこがハコネの山です。箱根の山って噴火しましたっけ?』
「某は聞いたことが……うむ、なにやら人の住まいする所が見えるが? おや、人がこちらに駆けてくる」
『ややこしくなるとマズイので、イオタさんは見えないよう背に伏してこっそり見ていてください。ヌシと人との関係がよく解りますから』
「委細承知」
イオタはミウラの背に伏した。こうすると、下からイオタの姿が見えなくなる。
ミウラは(自分では)尊厳を保った顔で人を迎えた。まんまネコの顔だが……。
ミウラの元に駆けてきた人は5人。みんな、髪の毛を頭の後ろで結んでいる。服装はモロ着物。
泥が染みついて汚れが落ちてない。色もくすんでいる。袖や裾が綻んでいる。ぶっちゃけ、貧しい服装だ。
ミウラの前脚が届かない地点で、全員が平伏。土下座である。
遠くに、村人全員ではなかろうかと思われる人数があった。皆一様に、腰が引けてミウラを見ている。
「イチノモト村の長、ゲンスケが申し上げます。畏れ多くも、ミウラのヌシ様であらせられまするか?」
ミウラと目を合わそうとしない。合えば潰れるとでも思っているのかもしれない。ちなみにヌシだけで尊敬語なのだが、なぜか様付けである。たぶん、人がヌシを恐れるあまりの事なのだろう
『うむ、そのとうりである』
ミウラが発した言葉。というか、声色だが、普段の中身は大人の子供の声ではない。ゴキブリマントを羽織った赤い少佐の声そっくりだ。大佐の頃の声ではないよ!
「と、いたしますと、イズ様は……」
その先は畏れ多いのと、もし間違っていたら村長の命がなくなるのでわざとぼかした。
『長の思うたとうり。我が滅ぼした』
ミウラの声が離れて畏まる村人にまではっきりと伝わった。
ザワザワドヨドヨと動揺が伝播していく様が、こちらまで伝わってくる。
「で、では、イズの地は、ミウラ様の物と?」
『必然的にそうなるな。イズ殿に愛着あるその方らには悪いことをしたかな?』
「滅相もございませんッ!」
ガバッと顔を上げる長。必死の形相で否定する。
「イズ様は我らを守っていただける代わりに、何かと乱暴を仕掛けるヌシ様。しかもナリソコナイの横暴に、この地の村々の物は皆困っておりました」
『そうかそうか。ちなみに、私はナリソコナイが嫌いでな。うちにナリソコナイは居ない。うん、何故か発生しないのだが、なんでだろう?』
「は?」
『うっほん! うむ! ナリソコナイは発生させぬと言いたかったのだが、そこ元の頭には伝わらなかったかな? どれ、かち割って中身を検分してやろう』
「いいえッ! 充分伝わっております! あまりにも喜ばしきお言葉でしたので、我が耳を疑っただけでございます! けっしてミウラ様に不遜を働いたわけではございませぬッ!」
長は、ジャリジャリと痛そうな音を立てて額を地べたに擦りつけている。
『ならば良い。我を許すがよい。我は間違いは間違いと認めるヌシである!』
偉そうにふんぞり返るネコ。
「ははーっ! 有り難きお言葉! と、ところで……」
村長はここ一番の緊張を見せた。歯の根が合わなくなり、肩が震える。
次の質問で、村の、いや、イズ地方の命運が決まる。
「今後の御寄進は、ぃかほどを……」
最後の言葉は消えてしまう。もう、心臓が持たない!
『イズ殿は、どれほどの物を要望なされていた?』
「村々それぞれ、最も大きな作物と、……その、……その年生まれた赤子を1人ずつ……」
『いてて……、コホン! 何でもない。ただの口癖だ』
背中の毛をむしるイオタさん。げきおこである。
『子供など要らぬ。作物だけでよい。一番立派な作物をな。皆の心根をそれで判断しよう。判っておると思うが、あまりな物を貢ぐようであらば、族滅を覚悟せよ。我は雷を自在に操るヌシなり』
「はっははーっ! あッ、有り難き幸せッ!」
村長は、擦り傷から出血している額をガンガン地面にぶつけだした。
「皆の者! ミウラのヌシ様の、有り難いお言葉を聞いたな?!」
「「「ははーっ!」」」
長の後ろで控える4人はもとより、後方で様子を眺めていた村人達も、土煙を上げて土下座した。
「このように村の者一同、誠心誠意、命をかけて新しいヌシ様、ミウラのヌシ様にお仕えいたします! どうぞ我らを下僕と思い、使いこなしてくださりませッっ!」
ミウラは鷹揚に頷いた。
『うむ、イチノモトの村長、ゲンスケよ、イズの村々に伝えよ。畑が不得手な村はシシでも良いぞ。ただし血抜きは完璧にな』
そこに拘る食いしん坊さん。
「ははっ! 命に替えて!」
村長は大喜びである!
『うむ、そうだ、一つ言い忘れた』
「なんでございましょう?」
村長は一気に不安になった。
『我は少々好き者のヌシであってな。ミウラ半島の者どもにも命じたことである。我の支配地という証でもあるのだがな』
「そ、それは……?」
ごくりと唾を飲み込み、構える村長。
『イズ半島の山中に何軒か家を建てたい。家作りの上手い者を冬の間に選んでおいてくれ。春に建ててもらう。なに、材料や人の運搬は我の神通力に頼るがよい。普請をした村は特別な加護を与えよう。中でも一番の出来の家を建てた村には、なんぞ褒美を考えておこう』
「お、おやすいご用で!」
赤子以外の人身御供か、きつい労働かな? と思ってた長は、安心したせいか滴るほど汗をかいていた。
異世界ニホンにおいて、ヌシという超生物・論外の意識体は、人の常にある。
概念だとか、高次元の存在でもなければ、体を持たぬ意識体でもない。常にある高次元の存在。
人は、人を越えた超次元等能力の存在を神と称し、目に見え肌で感じ、己の生命を自由にでき、不可侵の存在である、恐ろしくも崇め奉る巨大な存在をヌシと称している。
ニホンに住まいする人は、神=ヌシと生活を共にしている。話のできぬ超越者やミウラのように話のできる超越者、ナリソコナイのように害を与えるだけの超越者。かように超越した存在は人の生活圏内に「居る」のだ。
その事実が、存在が、太古の昔より人の宗教観、生死感、生活感に多大な影響を与えていた。日本の人々にとって、神はシュウキョーではない。確かにそこに存在する実態なのだ。
村人を解散させたミウラは、イズ山中を南に向かい、ゆっくりと走っていた。
空は満天の星。星座も見覚えがあるものばかり。
大三角形と釣り針の赤星が視認されるが、だいぶ西に傾いている。
「季節は秋でござるか?」
『もうすぐ米の収穫時期です。早いとこ野暮用を片付けて、ミウラ半島へ帰らなきゃです』
中北部の山稜をぐるりと駆けてる最中である。イオタはミウラの背に乗ったままだが、それだけでイズ半島の詳しい地理が認識出来る。千里眼の術者になったかのように頭に入ってくるのだ。
「――という事に気づいたが、ミウラもか?」
『ええ、こうやって大体の所を走り回るだけで地図が頭の中に出来上がります。自分の縄張りになったって証拠ですね。この証拠を使ってあとで面白い物をお目にかけましょう』
「ふふ、それは楽しみであるな……あふぅ」
イオタはあくびをした。なんだか頭が鈍くなって眠気を感じている。
『お眠ですか?』
「眠いな。だがまだ大丈夫だ。仕事を続けよ」
『もう少しですので』
ミウラは走り続けた。移動すると勝手に地理情報が頭に入ってくる。いやでも頭を使うことになる。自動的に疲れが溜まると言い換えても良い。ましてやイオタはこの事に慣れていない。
地理調査は一晩続いた。空の片一方が白み始めた頃である。
『もうそこで終わりです、ほら!』
ミウラは止まった。そこは崖の上だ。
崖下に海が開けている。東の空と海の境が判らない。でも青い。
「美しいな」
『美しいですね』
朝の冷たい風が二人の頬を撫でる。心地よい寒さだ。
「またここで、……二人で暮らせるのだな」
『ええ。二人で暮らしましょう』
「今回も、平和にゆっくりと」
『ええ、スローライフを』
遠く海に突き出した岩塊に、打ち寄せた波が白く砕ける。波の音がここまで聞こえそうだ。
『ミウラ半島の家に帰りますよ』
「うむ、うむ……うむ」
イオタさんは寝てしまった。
『ああ、ゆっくりお休みください。ってか、もの凄い便利な魔法をお見せしたかったんですが、また今度ですね』
「知らない天井だ」
イオタは目を覚ました。
目が天井を捉えていた。夜が明けて明るくなっていた。
ミウラが言っていた「家」なのだろう。
柱があり、障子がある。「日本間」だ。
イオタは仰向けに寝ていた。体には綺麗な模様の布が掛けられていた。
「イオタ様がお気づきになられました!」
黄色い声が聞こえた。
小綺麗な着物を着た若い女性の白い顔が見えた。