1 才神泉(さいがみいずみ)
ゆるーい話なので、頭を空っぽにしてお読みください。
大学構内の端の端にある女子トイレ。
研究室のある教授と清掃員以外はほぼ寄りつかない薄暗いその場所で、才神泉は一人、細い体を限界まで縮めうずくまっていた。
いじめられ、泣き場所を求めて人気のないトイレへ逃げ込んだ――というわけではない。単純に体調が悪く、利用率の高い場所を占拠して他人に迷惑をかけたくなかったからだ。
「はぁ……、やっぱりダメか。今日こそいけると思ったんだけどな……」
講義を抜け出し、便器の前で屈み込むこと、かれこれ数十分。
ようやく体調が落ち着き顔を上げることのできたた泉は、屈んだ姿勢のまま扉に背を預けて重い溜息を零した。
泉は二十一歳、大学の三年生である。
しかし、学校へ来たのはこれが三度目だった。
一度目はオープンキャンパス。二度目は入学式。そして三度目が今日、初めて学校で講義を受けるために、だった。
泉がごく普通の人生を歩んでいたなら、毎日きちんと学校へ通い、隙間時間にアルバイトをして、休日は友達と楽しく過ごし、今頃は就活について考え始めていただろう。
しかし、そんな普通の学生生活は泉にとって無縁のものだった。
体調を崩し始めたのが正確にいつだったか、泉は覚えていない。
気がついた時には、いつも体が怠かった。怠さは成長と共に眩暈や頭痛、吐き気といった症状をはらんでいき、小学校の高学年に差しかかる頃には、通学どころか外へ出ることもままならなくなった。
もちろん、体調不良の原因を突き止めようと、泉は家族とあちこちの病院を回った。
人気のラーメン店を営む父や三人の兄が代わる代わる付き添ってくれて、有名な大学病院から個人経営の小さなクリニックまで、日本全国全ての病院を回ったといっても過言ではない。それどころか、海外の有名な病院にだって足を運んだ。
それでも、体調不良の原因は終ぞ分からなかった。
精神的なものだと言われるのは最早当然で、仮病を疑われた回数も数知れない。それも、ありとあらゆる検査で異常が見つからず、どんな薬も効果がなければ仕方ないことではある。
しかし、泉が泣いて症状を訴えてもまともに取り合わず、家庭環境に問題があるのでは? 男手一つで育てているから甘やかしているのでは? などと的外れなことを偉そうに語る医者の目の前で胃の中のものを全て戻してやれば、全員信じざるを得なくなったが。
原因こそ分からなかったものの、日本全国の病院を回ったことは無駄ではなかった。ある場所に立ち寄った際、泉の症状が軽減したからだ。それは休憩のために寄った自然豊かな田舎の宿で、泉はそこで休んでいる間は症状としては一番軽い、体の怠さしか感じなかった。
その時は単なる偶然としか捉えていなかったが、病院へ向かう途中に何度か自然豊かな場所で過ごした結果、同じく症状が改善したのだから疑う余地はなかった。結果、父は常連客に惜しまれつつも田舎へ店を移転し(ただし連客はそれでも根性でやって来たが)、兄弟もそれぞれ転校してまで泉のためにと共に田舎へと引っ越してくれた。
自然豊かな田舎へと引っ越してからというもの、泉の症状はかなり軽減した。
基本的には体の怠さだけで、時折眩暈を覚える程度。頭が割れそうなほどの頭痛や、戻すものもないのに治まらない吐き気といった強い症状に襲われる回数はかなり減り、外へ出るまではいかずとも、家の中で普通に過ごすことができるようになった。
そこで、田舎の学校ならもしかして遠隔授業ではなく、自分の足で通えるようになるのではと、泉は長い時間をかけて自分の体調管理に努めてきた。
幸いにも小学校も中学も高校も、授業は全てリモートで参加することが出来たため、学力に問題はなかったものの、通院以外で外に出ることが出来なくなった泉にとって、学校へ行き対面で授業を受けることと友達を作ることは長年の夢だったからだ。
家の中で持病が悪化しない程度に体力作りに励み、VRMMORPGで他人とのコミュニケーションの取り方を練習して、動きやすさを重視しつつも大学生の間で流行っている服をネットで購入し、具合が悪くなった場合を想定して構内図を頭の中に叩き込んだ。
いきなり友達を、などと高望みはしない。
ただ、同級生の側に座って一緒に授業を受けている気分を味わえればそれでいいのだ。そうして少しずつ体と心を慣らし、一日でも多く学校へ通うことが出来れば、わざわざ大学に入った意味もあったと思える。
そうして、いざ学校で授業を――と、意気込んで来た結果がこれである。
情けないやら悲しいやら。じわじわと涙が滲んでくる。
結局、とっくの昔にグループが出来上がっている同級生達にも声をかけられなかったし、授業もたったの十数分しか受けることが出来なかった。トイレで過ごした時間の方が圧倒的に長いとか笑えない。
こうなっては、この後の授業を受けることは不可能だ。
何なら一人で帰るのもギリギリな体力しか残っていないのだから。
散々心配されたにも関わらず、熱量だけで学校行きを押し通したのだ。家族に迎えに来てもらうなど厚かましいことは出来ない。というより、父も兄達も仕事中で、弟は学校であるため物理的に不可能だけれど。
もちろん、泉がヘルプを出せば、みな仕事を放り出してでも迎えに来てくれる優しい家族だが、だからこそ安易に連絡など出来なかった。
扉に背を預けたままノロノロと立ち上がり、扉上部のフックにかけていたリュックの中からペットボトルの水を取り出す。口をつけずに水を含んで、軽く口内をゆすいで便器へ流すと、ようやくスッキリとした気分になった。
当然、体は怠い。
しかし、吐き気は引いた。帰るなら今しかない。
リュックへペットボトルを放り込み個室を出ると、手を洗ってトイレから脱出。構内図は頭に叩き込んであるため、最短ルートで大学を出て近場のバス停へ向かう。大学生が利用するため本数もそこそこある市営のバスは、運よく数分も待てばやって来た。
出入口に近い席を陣取り、乗客もまばらなバスに揺られること数十分。自宅兼店舗から一番近いバス停で降りる。ここからは少し歩かなければならなかった。
(体調がいい内に辿り着かないと……)
泉は急ぎ気味に歩道を歩き始める。
しかし、直ぐ側を猛スピードで通って行ったトラックが巻き上げた砂埃を全身に浴びて咳き込み、立ち止まった。ここ何日も雨が降っていないせいか、砂埃は泉に纏わりつき、中々晴れてくれない。
顔の周りを仰ぎ、何とか新鮮な空気を取り込む。
そうしていると、今度は自転車が通りすがりに砂埃を連れ去ってくれた。
ホッと一息吐いたところで、再び足を踏み出す。
その瞬間――
(っ! ヤバ……眩暈、が……)
世界が逆転した。
ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。
空が、車が、地面が。世界が何度も回る。
途端に強烈な吐き気が込み上げてきて、不快な光景から目を逸らそうと、泉はとっさにきつく目を瞑った。
しかし、平衡感覚を失った体はぐるぐると回る世界へ引きずり込まれて行くかのように、止まらない。止められない。二歩、三歩と踏み出した足は縁石に引っかかり、泉の体は宙へ放り出された。
とっさに両腕で上体を庇うも、地面へ叩き付けられた体は衝撃に悲鳴を上げ、起き上がることなど出来やしない。それでも気力を振り絞り、体を起こした泉が最後に見たものは、目の前に迫った大きなトラックで――。
(……ああ。ごめんね、みんな。帰れないみたい……)
泉の意識はそこで途絶えた。