港町でライブ――楽器が欲しい
リーンは街の片隅にある劇場で舞台の上に立っていた。
リハーサル、とはここではどうせ分かって貰えないので興業主には練習だと言ってある。
肩の下まで伸びた黒髪、愛嬌のある同じ色の瞳――どちらかと言えば可愛らしい顔立ちの少女。
「ファンテ! じゃあ行くよー」
二百人も入れば一杯になる劇場。おまけにあちこちに隙間があって音響面からも万全とは言い難い。
にもかかわらずリーンはここで歌う。
「いつでもいいぞー」
ファンテとはリーンの旅仲間で見目美しい青年だ。客席の真ん中に座って舞台上のリーンを難しい顔で見つめている。
「じゃ、アヴェ・マリアね」
彼女はいつもの仕草、両手を胸の前で組み、目を閉じて歌い出す。普段来ている黒のシャツと黒のロングスカートが歌唱に合わせて揺れる。
――いつもながら。
ファンテは少し切れ上がった目元を僅かに泳がせて彼女の歌に聞き入る。彼に言わせればこんな音響チェックなど必要ないほど、リーンの歌声は伸びやかで蠱惑的。
――いや、だが……。
今日はその中にほんの少し不安のような揺らぎを感じてファンテは戸惑う。
思わず右手を挙げてリーンの歌声を止めてしまった。
「ん? どしたー?」
「いや――済まん。何と言うか……」
言ったきり、次につがえるべき言葉を失うファンテ。何かがおかしい気はするのだが、彼にそれを表現する音楽的な知識はない。
リーンは腰を下ろし、舞台の上で足をぷらぷらさせた。
「あー、やっぱファンテには分かっちゃったか。うん、確かに今のは高音域の伸びがいまいちだった」
呟くリーン。
「それは良く分からなかったが……悩み事か?」
「ん? いや、悩み事って言うかさ」
「何だ、言ってみろよ」
「あのね、楽器が欲しいなと。この劇場は音響が良くないから、サポートが欲しいの」
「がっき? 楽器って何だ」
「うん」
まあそうなるよね――ファンテの反応は分かっていたとばかりに俯くリーン。ぴょん、と、舞台から床に着地。
「今日はもう止める。ファンテ、ご飯食べに行こ」
彼の返事も待たずに出口に歩きはじめるリーン。
「あ、おい待てよ」
慌ててファンテも追い掛ける。
ここに送られた当初、無一文のリーンは自分の歌でお金を稼ごうとした。
――これでも元プロだ、何とかなるでしょ。
放り出された場所、テンスタと言う小さな町の大通りで歌い、投げ銭を得ようとした彼女の目論見はあっけなく外れてしまう。
リーンの歌に誰一人立ち止まることなく民衆は一様に不審者を見る目。三十分と経たずに憲兵に追われる羽目になった。
どうにか彼らを撃退し、リーンはぴんと来た。
――もしやここは歌のない世界では?
と。
――困ったぞこれは。
歌以外に取り柄のない自分が、歌のない世界でどうやって生きよう? だが、幸いにも歌を受け入れてくれる土地もあったため、彼女は何とか食いつなぎ今に至る。
ひょんなことからファンテと知り合い、彼と旅するようになってはや一年。
今はモーファンスと言う街で、観客に歌を披露する――ライブの準備をしていた。
「やっぱりさぁ、声だけってのはしんどいのよ。特に音響が厳しい劇場ではね」
リーンは魚料理を口に運び、面前のファンテに愚痴をこぼす。美貌の青年は戸惑った顔を彼女に向け、同じ魚料理を食べていく。
「それで楽器? ってやつがいるのか。そういや、前にもそんなこと言ってたな」
「そうそう。ギターでもベースでもキーボードでも何でもいいんだけど」
そんなのを聞いたことないかな? とリーン。
ファンテは首を振る。
――だよねぇ……。
モーファンスは港街だ。潮の香りが漂い、魚介類は絶品。住民も豪快な性格の人が多く、陽気な雰囲気が楽しい。
この街でリーンは出来るだけ歌の楽しさを伝えたいと考えている。その為の道具が――楽器だ。
「俺は良いと思うぞ、リーンの声だけでも」
エビのようなものを口に運び入れ満足げなファンテを少女は軽く睨む。
「違うのよ、楽器があればもっとこう……エモいステージが、ね?」
――相変わらず何言ってるか分からんな。
いい加減慣れっこだが、今日のリーンはいつもより謎言語の使用率が高い。
「ギター一本でも良いんだよー。そりゃあ、この世には歌も楽器もないのは知ってるけど」
「で、その楽器? ってのがあれば、肝心のお前の歌はどうなるんだ」
何気なく問いかけた美青年にリーンは目を輝かせて身を乗り出す。
「そりゃもう、すんごいよ、うん。すんごいのを聞かせられる」
――へえ……。
グラスの酒を一口。
「なら冒険者組合に依頼出してみるか」
頬杖をついてファンテは何の気なしに呟く。
「え」
リーンは口に入れかけた魚の身を置き、ファンテに顔を近付ける。
「組合って、そんな依頼も受けてくれるの?」
きらきらした目。
「いや、言うだけなら可能ってだけだが」
「それでもいい。お願い、してみてくれる?」
ファンテは頷く。
「やった! ありがとうね、ファンテ」
リーンの白い歯がこぼれ、陽光に煌めいた。
翌日。
『楽器を探しています。どんな楽器でもOK! もしくは、作れる人!』
ポスターを組合会館の掲示板にうきうきと貼る。
「楽しそうだな、リーン」
まあね、と彼女は自筆のポスターを満足そうに眺めた。
「えと、この後は?」
「誰かこの仕事を受けてくれる奴が来るまでは待機だな」
「そっか」
「連絡が入るまではリハーサル? ってのを続けるんだろ」
「無伴奏でもやるからね。小屋にも慣れておきたいし」
二人で組合会館を出て昨日の演劇場に向かう。
「リーンさん、ファンテさん」
演劇場の入口で男が待っていた。
「ヒスイさん。どうも」
頭を下げるリーン。ファンテも会釈を返す。
男は四十代くらいの恰幅の良い紳士で、目元が優しげだ。
「今日も練習かい、どんな調子だね?」
彼は演劇場の主で、リーンが歌うことを認めてくれた人だ。興行は毎日行われており、大道芸や演劇が掛けられている。今回、リーンが舞台で歌うのは十日後。二人はヒスイにお願いして、昼のあいだ練習させて貰っている。
「大分仕上がってきましたよ。良かったら聞いてみます?」
にこやかなリーンにファンテは驚いた目を向ける。
――おいおい、昨日……。
高音域がどうしたとか言っていただろう。
「うん。そうさせて貰おうかな」ヒスイが応じた。
リーンは普段、酒場で歌うことが多い。曲がりなりにも舞台で歌うのは久しぶりなのだ。為に、少し調整に手間取っている。
「大丈夫なのか?」
「ここは思い切って聞いて貰って、それで最終調整したい」
リーンはヒスイに向けた顔とは裏腹の厳しい顔でファンテを見た。
――こんなに苦しんでいるリーンを初めて見る。
簡単に歌っているようで、やはり難しいのだ。
三人で小屋に入る。
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