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詩書き達の言葉

或る詩書きの綴る言

作者: 渋音符


 郊外の八畳の部屋。

 長閑(のどか)な雰囲気と、穏やかな花の香り。

 まるで時代が逆行したかのような。

 ここだけ時間の流れが停滞しているかのような。

 そんな、和紙のような色をした世界。

 目に痛い蛍光色や、夜を駆逐するネオンや、流行りのパステルカラーは何処にもない。

 濃淡を分けた墨と、十色足らずの絵の具だけで描かれた世界。

 水彩画のような、水墨画のような。

 冷たく、清らかな水を使った絵。

 暖かく、柔らかな印象を与える絵。

 それを描く君を、縁側から眺める。

 それだけが、楽しみだった。


 庭には、小さな枯山水だけ。

 僕はよく丸い小石を拾っては、それを一日中眺めていた。

 鹿威(ししおど)しの小気味の良い音が好きだった。

 ちょこんと置かれた小さな盆栽が好きだった。

 この八畳と、小さな庭園が好きだった。

 時折聴こえる、君の生きている音が好きだった。

 そして、君が描く絵が、何よりも好きだった。

 この、お世辞にも広いとは言えない空間で描き出されるそれは、素朴で、それでいて鮮やかな色彩と、幻想的な何かを想起させる筆遣いによって、まるで生きているかのように僕には見えた。僕には絵の心得なんてないけれど、君の絵が素晴らしいことだけは知っていた。

 それは、生きていた。

 それを描く君は、綺麗だった。


 僕は、文字を綴っていた。

 君のことを、綴っていた。

 君の絵を、僕の、僕だけの言葉で、綴りたかった。

 僕の奥底で、早くここから、この窮屈な脳みそ(せかい)から出してくれと、そう懇願してくる語彙を存分に用いて、君の描く世界と君を表現したくて、筆を執った。

 君の筆とは違う、僕だけの筆。

 言葉という、明確な形と意味を持たないものを、一緒くたに織り込んで、作品とする。

 メロディも、リズムも、何も要らない。

 ただの、淡々とした詩を一つ。

 綴り上げて、心の内に仕舞う。

 それが、僕の、言わば仕事というものだった。


 君は、僕の詩に興味がないようだった。

 君は絵が好きで、それ以外のものに興味を持っていないようだった。

 庭も最初は土がめくれ、雑草が生い茂り、荒れ果てていた。

 絵を描いている間は、君はご飯さえ忘れるようだった。

 君自身の生にも頓着していないようだった。

 だから僕は、君が心配でたまらなくて。

 君の家に居候することにした。


 僕が君の家に勝手に上がり込んでも、君はまったく何も言わなかった。

 散らかった八畳を見て小言を漏らした時も、何も言い返さなかった。

 僕がそれらを片付け、仕分け、不必要と判断したものを勝手に捨てようとした時でさえも、君は口を開かなかった。

 荒れ果てた庭を修繕し、石や草木などを並べて枯山水を造り上げた時に、君はやっと僕に「済まない」と一言だけ言った。

 それだけで僕は、満足だった。


 君は食にあまりこだわりがないようだった。

 何を食べても腹に入れば何でも同じ、というよりは、食っても食わなくても大差ない、と言わんばかりだった。

 当然、そんな君は料理も出来ない。

 僕が飯を作るようになるのは、自然な流れだったのだろう。

 これは謙遜でも何でもないのだが、僕は手先があまり器用ではない。

 芸術はからっきしで、君の絵ばっかりを見て眼は肥えていたが、自ら創るのは専門外だった。

 料理も同じで、一丁前に舌は肥えていたが、作るのは苦手だった。

 玉子を焦がし、味付けは間違え、見栄えも良くない。

 そんな出来損ないの料理でも、君は文句を言わなかった。

 僕はそれが申し訳なくて、だから、毎日作って腕を磨いた。

 そのおかげで、今は最初よりもだいぶましになった。


 何時(いつ)頃からだっただろうか。

 君は、たまに僕に絵を見せてくれた。

 いつもは完成したものを、こっそりと君の体越しに見ていた。君は描いた絵をすぐに何処かへやってしまうから、僕はそうすることでしか、君の絵を見ることが出来なかった。

 君が見せてくれる絵はやはり素朴で、穏やかだった。小さな縁側と、慎ましくも整った枯山水。それはまるで、僕が造ったこの庭のようだった。

 僕は「そんなにこの庭が気に入ったのか」とからかうように言った。

 碌な返事は期待していなかった。どうせ気まぐれで描いたのだろうと思っていた。

 だから、君が「うん」と頷いた時には、僕は思わず赤面してしまった。君の頬も、少し色づいていた気がする。


 君はたまに、僕の詩を見るようになった。

 僕の綴った、君の詩。

 君の絵と、君の横顔と、君の指と、君を構成するこの八畳の世界。

 それらを題材にしたものばかりだったから、僕は気恥ずかしくて堪らなかったけれど。

 君は「綺麗だね」と言ってくれた。

 僕の詩を、綺麗だと。

 嬉しかった。

 嬉しかったんだ。

 僕が書いた詩がどうとかじゃない。

 君が、君自身に頓着するようになった。

 君が君のことを認めた瞬間だった。

 だから、僕は「そうだろう」と言った。「君は綺麗だろう」と。

 君は言った。「ああ。そうだね」少し微笑んで、「私は綺麗だ」と。


 五年前だろうか。

 僕と君は夫婦というやつになった。

 といっても以前と特に何も変わりはなかった。君は一日中絵を描き、僕は一日中庭と君を眺め、たまに詩を書いた。

 互いに、言葉を交わすことは少なかった。精々がご飯の時と、君が僕に作品を見せようと声をかける時ぐらいだった。

 今思い返せば、僕と君は「好き」とか、「愛している」とか、そんな言葉を言ったことはなかった。僕が君に抱いていた感情はそんな陳腐な言葉で言い表せるものではなかった。君もきっとそうだったのだろう。

 僕と君が夫婦になったのは、ただ、その方が都合がいいからだった。家計を分かりやすくし、税金や保険に関するあれこれを行うのに都合がいいからだった。 

 お互い特に異論はなく、すんなりと夫婦になった。


 子どもは作らなかった。

 それどころか、僕と君は一度たりとも体を重ねなかった。

 それはとても汚い行為に思えたからだ。

 君の絵が穢れてしまうと。

 僕の詩が穢れてしまうと。

 その、安易な行為に身を委ねることは。

 僕と君のこれまでを台無しにしてしまうと。

 そう、思った。

 代わりに僕と君は多くの作品を作った。

 いつの間にか八畳には綺麗な絵と淡白な詩で埋め尽くされた。

 それは、とても幸せな空間だった。


 一年前。

 僕と君は約束した。

「いずれ、どちらかが死んだら、その時は作品を作ろう」と。

「手向けの代わりに、とびっきりの最高傑作を作ろう」と。

 君は、笑っていた。

 僕も、笑っていた。


 僕と君は愛してはいなかった。

 僕と君は恋してはいなかった。

 僕と君のこの感情は、そんなものではなかった。

 ただ、綺麗なものだった。

 僕と君にあったのは、綺麗なものだった。


 約束から、一年が経った。

 僕と君はまだ、隣にいる。

 約束を果たすのは、きっとまだ先のことだ。

 それまでの長い間、君はこの世界を描く。

 僕はこの八畳の世界を綴る。

 それが終わるのは、何時になるだろうか。

 少なくともそれは、今じゃなかった。


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