ホーム (下)
どこでもいいから、まずは塩とアイスを買え。塩は出来るだけ質が良く量の多いものを。
ハジメからの指示はこうだった。
距離が上手く置けているうちに、なるべく人の出入りの多い店の方が良いとのことなので、詳しく聞くよりもまずはすぐ近くにあるコンビニに入った。
塩の良し悪しはよく分からないので、とりあえずなんか良さそうだった伯方の塩1キロ袋入りを選ぶ。
「アイスは?どういうの?」
「うーん、ハーゲンダッツの抹茶」
やけに具体的なのは何なんだとも思うが、そんなやりとりをしているうちに追いつかれたら洒落にならない。
とにかく黙って言われたものだけを手に取り、さっさと会計を済ませコンビニを出る。
「次は?」
「一旦駅に戻ろうかな」
ハジメが言うには、駅前をうろちょろしていただけでも生活圏を覚えられていたら面倒らしい。
相手にどの程度の思考力があるのかは分からないので、用心しておくに越したことはないということだった。
駅に戻った後は向こうも駅の敷地に入ったことを確認してから、塩が入った袋の角を切り、少しずつ溢れるように逆さにしてから駅の周りをぐるりと一周する。
これで駅の中に閉じ込められるらしい。
「塩って本当に効くんだ…」
盛り塩とか、清めの塩とかあるけど。全部思い込みや迷信なのかと思っていたので少しだけ驚く。
一定の距離がなくなり、追いつけるところまで近づいていても、塩で囲んだラインから外側へは出てこなかった。駅から外に出られるところを探してウロウロと彷徨う。
「信じてる人がそれだけ多いんだろうな」
「どういうこと?」
「人の感情は、強ければ強いほど他のものに作用するってことだよ」
ハジメが何を言っているのかさっぱり理解はできなかったが、そもそも理解をしてもらう気はなかったらしい。
疑問符の浮かぶ俺はよそに、話し続ける。
「まあ、数日この駅を利用しなければ大丈夫だろうね」
駅周りに撒いた塩は、人に踏まれてもコンクリートの隙間に入り込むだけで数日は保つだろうし、その間にもっと相性のいい人間は見つかるだろうと言うのがハジメの見解だった。
自分は無事で良かったけれど、ホームの霊をどうこう出来るわけではなく、ただ他の人に意識が向くのを待つだけ。他の人に押し付けるだけ。なんだか後味が悪かった。
「祓ったりとかはできない?」
ほら、心霊モノでよくあるような、成仏させたりとか、消したりとか、そういうやつ。
思いつくまま言葉にしただけだったのだが、ハジメはしばらく考え込むように黙った後、ポツリと呟いた。
「どうして人が生まれたのか、何のために生きているのか、説明できる?」
急にどうしたんだよ。脈絡のない問いにそう思いながらも、俺はどうしてなのか分からなかったし、答えられなかった。
「霊もそれと同じだよ」
死んだことは分かっていても、何故その先も存在しているのかは分からない。
死んだことすら分かっていない奴だって少なくない。目的なんて、あって無いようなものだ。
そう静かに話すハジメの声が耳の奥で反響する。
ハジメは今、どんな顔をしてこれを話しているのだろう。
漠然と、そんなことを考えながら聞いていた。
「何をしたら人が死ぬのかは分かる。でも、どうしたら霊が消えるのかは分からない」
死にたいと望めば簡単に死ねるような人と違って、ハジメは消えたいと思っても消え方は分からないのか。
普段俺を馬鹿にして笑うハジメからは消えたいかどうかなんて想像もつかなかったけれど、もしそうなった時、選択肢があるのと無いのでは全く違うような気がした。
「塩はさ、虫除けみたいなもんかな?」
「虫除け?」
「人もさ、火を触ったら危ないとか、水の中で呼吸はできないとか。そういうのはもう最初から決まっているし、変えられないよね」
「霊にとってはそれが塩ってこと?」
「そういうこと」
帰りはなるべくいつも通らない道からの方が良いということで、普段の大通りからではなく、一本裏の住宅街を抜けて行く。
その間も塩の入った袋を逆さに持ち少しずつ地面に撒きながら歩いた。
家に着くと、駅と同じようにアパートの周りをぐるりと一周し塩の円で囲んでから中に入る。玄関の外で、また塩を撒くという徹底ぶりだ。
「そういや、アイスは何だったわけ?あれもなんか効果あんの?」
「特にないよ」
変な汗をかいたし、とりあえず風呂でも入ってから聞けば、「俺が食べたかっただけ」としれっと返された。
どさくさに紛れてただの使いっ走りかよ!いい性格してるわ!でも助けられたしな!礼も必要だわな!
助けてもらったとは言えどもやはり軽く腹は立ち、乱暴に髪を拭きながらふと疑問が湧く。
「え、食べれんの?」
幽霊なのに?まじまじとハジメの顔を見れば、いつの間にか机の上に出ているアイスを指差した。
「なんだ、減ってねーじゃん」
冷凍庫から出して少し経つのか、周りは溶けていた。けれど、それ以外に特に変わったところはない。
首を傾げていると、食べてみるように促される。
「えっなにこれ、味薄!」
「物質そのものは食べられないけど。旨味?生気?みたいなもんは吸い取れるっぽくて」
お供物の要領かな?と呑気に良い顔で首を傾げるハジメに、顔を青くさせる俺。
「生気って!それ、大丈夫なのかよ…!」
ハジメと一緒にいるうちに、知らぬ間に生気を吸い取られて、気がついた時にはヘロヘロになっていたりするのだろうか。
無意識に腕を抱きハジメから距離を取れば「失礼だなあ、その反応はちょっと傷付く」と言いながらも、意地悪い顔でニヤリと笑う。
まさかその反応はやっぱり何か企んでいたのではとさらに身構えれば、あっさりと否定した。
「ヒトミには何も影響ないと思うよ」
「ほんとかよ」
あくまで疑ってかかれば、心外だと言うように一歩距離を詰めてくる。それにビビってこちらもまた一歩下がれば、さらに一歩と詰めてくる距離に、気がつけば壁際に追いやられていた。
ハジメの柔らかな髪がサラリと揺れる。
男のくせに毛穴ひとつない肌だなと見て取れるほどの至近距離に気まずさが立ち込める。
「今はね」
その良い顔を無駄に近付けてくるので何かと身構えていれば、無駄に溜めた後、とんでもない一言を落とされる。
今はって、つまりじゃあ、過去に影響あったか未来に影響あるってことじゃねーかよ!
後付けされた言葉の違和感に食ってかかるも、胸ぐらを掴もうとした手はハジメをすり抜けてただ空を切っただけだった。
物理は効き目がないことにウンザリしながらもせめてもの抵抗でキッとハジメを睨みつけたが、ニコリと微笑まれただけで終わってしまった。
諦めて髪を乾かし始めれば、ハジメも何事もなかったかのようにTVを観始める。
「そういえば。あの人、なんであんなところにいたんだろう」
人身事故にしては綺麗な身体に、不自然に裂かれた腹部。あのホームと彼女は、なんの関係があったのだろう。
ニュースに映る、改装した駅のレポート。ユニバーサルデザインを取り入れ使いやすくなったというホームや改札の説明をダラダラと眺めていたら、無意識に思い出していた。
「またそんなこと考えてるの?」
呆れたようにこちらを見ると、言い聞かせるようにハジメは言う。
「どうしてか、なんて考えても仕方ないよ」
「そんなことないだろ、だって、存在はしてるんだしさ」
前にハジメに指摘されたように、否定すること自体は苦手ではなかった。
認めたくないものなら、認めてしまったら逃れられないようなものなら、認めてしまったら自分自身が揺らいでしまうようなものなら。
きっと、俺はいくらでも否定できるだろう。
けれど、一度でもその存在を認めてしまったら、関わってしまったら、深く知ってしまったら、もう無かったことになんて出来ないだろ?
「だからさ、その思考そのものが仕方ないんだ。卵が先か鶏が先かを考えてやったところで、出来ることなんて何もない」
何か言いたげに、こちらをじっと見つめている女性。
出口が分からなくて、ふらふらと彷徨い続けていたが、それでも確かに、俺のことは認識し目で追っていた。
ずっと表情は見えなかったから、てっきり、怨み辛みを煮詰めたような表情をしているのだと思っていた。
「ハジメは、同じような人たちのこと、知りたいとは思わないのか?」
女性は俺の想像とは違い、ただ何かを訴えるような、悲しそうな表情をしていた。
腹から臓物を引き摺っているのに、辛いとか痛いとか、そういう表情とはまるで違っていたことに戸惑った。
駅から立ち去る時、最後に振り返った時に見た縋るような表情が頭から離れない。
あの女性は、俺に何を言いたかったのだろう。何を知って欲しかったのだろう。
「全く」
俺とは違い、ハジメの返答はシンプルで冷たかった。そこには絶対に譲らないという強い意志さえ感じた。
何かを言おうと、言わなければと口を開いて、結局何も出てこずに、掠れた空気の音だけが喉を通って口から出る。
ハジメと関わったから、ハジメのことを知ってしまったから、多分、俺はもう霊のことを否定できない。
だって、それはハジメを否定するってことじゃないのか?
言ってやりたいことはたくさんあるはずなのに、そのどれもが明確な言葉にならなかった。
自分自身、喉の奥に何かがつかえているのは分かったけれど、その中身が何なのかは分からなかった。
もっと霊のことが、ハジメのことが、理解できていたなら。分かっていたなら。この気持ちの正体も分かったのだろうか。






