ホーム (上)
どこからが同情してしまったことになるのだろう。
別によっぽど急いでない限り、誰だって困っている人がいたら声をかけると思う。少なくとも、俺はそうだった。
そりゃ、歳が近くて綺麗なお姉さんとか、制服を着た女子高生なんかには勿論話しかけられない。セクハラと受け取られるのが怖いし、嫌な顔でもされたら暫く立ち直れそうにない。
平均より背が高いくらいしか取り柄のない俺にはそれはバードルが高すぎる。ハジメだったら嫌がられることもなければ、さらりと声をかけて手を貸せるんだろうなとか、成り行きでルームシェアすることになってしまった人物を思い浮かべる。
まあ、それ以前にハジメが話しかけたところで、誰も気が付くことすら出来ないのだろうけれど。
詳細は全く覚えていないが、色々あって狭い1K・ロフト付きに野郎2人で共同生活をすることになってしまった。
アホみたいに安い事故物件で、ちょっと金に困っていた俺はその家賃の魅力からは離れられず、渋々ながらかつての入居者で今もまだそこに居座り続けるハジメと住むことを妥協した。
そう、ハジメは事故物件に憑く霊だった。
「いやー多分やらかした」
具合の悪そうな人がいるな、とホームに降りた時から思っていた。
わざと軽いテンションで口に出すことで、大したことはないと自分に言い聞かせる。
これはやっちゃったのでは?という自覚が薄っすらあるからこそ、いや多分大丈夫じゃない?という心の中の僅かな希望を肯定したくて数十分前の出来事を思い返す。
電車でたった一駅の大学に、課題を出すためだけに向かっていた。
もっと計画的にやってりゃ授業日に合わせて提出したのにな、なんて思うのも、ギリギリまで放置して締め切りに滑り込めるかどうかになってからだ。
あと30分で受け取り窓口が閉まってしまうと急いでいる中、ベンチに身体を抱え込むようにして座っている人がいるのになんとなく気にはなっていたのだ。
課題を提出し終えて、幽霊部員であるサークル室に顔を出して。一時間ほどしてから駅に戻れば、来た時と同じようにベンチに座っていた。
歳が近く見えるから、きっと同じ大学か同じ最寄りの隣の大学の学生だろう。
髪が長く下を向いているから顔は見えなかったが、女性に声は掛けにくい。かといって、他に誰も声を掛けないしと、暫くもだもだしていたが、意を決して声を掛けてみたものの反応はなかった。
「あの、具合悪いんですか?駅員呼びましょうか?」
大丈夫ですか?と声を掛けたんじゃ気が付かなかったのかもしれないと思い言い直し、再度声を掛ける。
相変わらず顔は見えなかったが、チラリとこちらに目をやると今度は僅かに首を横に動かした。
首を横に振ったと言うことは、具合が悪いわけではないのか。あ、これはただの勘違いだったかな、恥ずかしい人じゃんと焦りながら「すみません」と一言添えてもなんの返事もなかった。気分を悪くさせたのかもしれないと反省する。
やっぱり俺みたいな普通の奴が突然話しかけたら警戒されるしキモいだけかもしれない。地味にダメージを喰らい今すぐ穴があったら入りたい。
知らない人に勘違いで話しかけてしまったことが恥ずかしくて、わざといつもは行かないホームの奥までそそくさと離れ、すぐ来た電車に乗り込んだ。
たった一駅なので向かいのドア横を陣取り手すりを掴む。ちょうどドアが閉まったあたりで、背後ぴったりに他人の気配がした。
いや近いな!空いてるんだから離れて立ったらいいのに。
一駅なのでたった数分とはいえ、真後ろに立たれたら気になって仕方ない。同時に、ホーム奥に他に人なんていただろうか?乗り込む前には誰もいなかったし、電車を待つ人自体ほとんどいなかったんじゃないかと疑問を持つ。
「そこは振り向いちゃダメだって」頭の中でそう言って馬鹿にするハジメが過ぎったような気もしたけれど、深く考えずにうっかり振り向いて、やっぱり見なきゃよかったと後悔した。
真後ろにはさっきの女性が立っていた。
腹部は大きく引き裂かれ、腸や子宮といった内臓がこぼれ落ちている。身体を抱えるようにして座っていた時ちょうど隠れていた場所だった。
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「いやー、これは確実にやらかしたな」
最寄りの駅から、事故物件である自宅までは徒歩15分と少し。
大学から程近い駅だったが、少し歩くエリアなのでそもそも家賃相場は通常の物件でも安い方だ。
駅前は賑わっているけれど、自宅付近になればほぼ住宅街といった様子で、たまにコンビニや自営業の店がある程度だった。
いやー、なんて、ちょっと戯けたように呟いたところで気分は全く明るくならないどころか、状況もちっとも良くならない。
もう30分ほど、駅前の人気が多いエリアを彷徨いている。何か目的があるわけでもなく、というより"人気のある場所から離れない"のが目的だった。
駅のホームから着いてきた女性は、明らかに生きた人ではなかった。
飲食店のガラス窓越しに後ろを見れば、数メートル後ろを着いて来ているのが分かる。腹から出た臓器を引き摺りながら。
周りにはこんなにたくさん人がいるのに、誰も気にも留めないことが異様だった。
「否定するんだ」
ハジメの言葉を頭の中で繰り返しながら、なるべく人の多い道を抜けながら。見失ってくれやしないかと祈りながら何度も角を曲がる。
ただ何かを引き摺っている音なのに、それが臓器だと知ってしまったら忘れようとしても脳裏に蘇る。
全く暑くもないのに、毛穴から汗がドッと吹き出すのが分かった。
30分ほどこんなことを続けているのに、疲れひとつ感じないのは恐怖で麻痺しているのかもしれない。こめかみから一筋の汗が頬を伝う。
まずいまずい。完全に意識を向けてしまっている。考えないようにしなくては。否定しなければ。そう思えば思うほど、考えてしまうという悪循環に陥り余計に焦ってしまう。
夕方の駅前を行き交う親子連れや学校終わりの生徒たちから見れば、俺は不審者のように見えているに違いなかったが、そんなことに気を回している余裕すらなかった。
「最初に声をかけたのも勿論まずいけど、そのあと振り向いたり意識したりしなければ問題なかったかな」
携帯に繋いだイヤホンから、馬鹿だなあと笑うハジメの声が聞こえる。
冷や汗をかきながらも必死に歩き回る俺とは対照的に呑気な声色にテレビの雑音。
こっちだって出来れば助けを求めたくなんかなかったし、俺にとっちゃ笑い事じゃないんだよ。少しだけムッとしてそう言ってやりたかったけれど、通り過ぎた店のガラス越しに後ろを見ればさっきよりも距離が近くなっている気がしてそれどころではなくなった。
「全部もう遅いってことかよ!」
「今更否定しようにも上手くいかないでしょ」
その通りだよ!半ばヤケクソになり吐き捨てるように肯定すればまた心底楽しそうに笑われた。
誰だよ、コイツのことを意外といい奴なんて言ったのは。数日前の俺か。
トンネルでの一件があって以来、ハジメとの連絡用に携帯とPCに連絡アプリをダウンロードした。
何の媒体もなくてもハジメは電話をかけてくることは出来るけれど、一方的なものでしかないし、ハジメにとってもかなり気力を使うので疲れるらしい。
入れたものの、何となく、意地もあって、こっちからは連絡なんてしたくなかった。まさか何日も経たないうちに使うことになるなんて。
「なんでヒトミはそうすぐ同情なんてするかな」
呆れたように聞かれても、そんなのこっちが聞きたい。というか、俺は同情しているつもりなんてないのに。
怒りから歩くスピードが心なしか早くなる。
「そもそも、お前らの言う同情って何なんだよ!」
「さあ?何だろうね?」
「はあ?」
自分で言い出したくせに、何だろうって何だよ。
よく分からないことで馬鹿にされ、よく分からないことを対処法だと言われ、その心はと問えばよく分からないと言われる。
もはや恐怖よりも怒りの方が優っていた。
「それぞれで違うんだよ」
生きてる人でも、同じことをして同じことを言っても認知はそれぞれで異なるだろ?何をもって同情したことになるかは、正直理解できたら苦労しない。生きてる人よりもずっとめんどくさいのが多いからなあ。
そう真面目な声色で言われれば、そうかもしれないと思えてくる。
「共通して言えるのは、強い意識を向けないこと、かな?」
珍しく自信がないのか、仮説でしかないのか、ハジメにしては歯切れが悪かった。
そういえば、そもそも何故ハジメに対処法が分かるのだろう?霊同士だから?でも霊同士でコミニュケーションを取ったり、お互いへの理解を深めるようなイメージもない。馴れ合うところも想像出来なかった。
まさか自分の経験、とか?
「そうこうしているうちに少しは距離が置けたんじゃない?」
ふと浮かんだ疑問を深く考えている時間はなかった。
ハジメに指摘されて、電話前の倍は距離が開いていることに気付く。
「別のことに意識を向けてやれば、多少は、ね」
「神かよ」
「霊だよ」
幽霊ジョークは俺にはまだちょっと早かったわ。
苦笑混じりにおちょくれば「余裕出てきたなら大丈夫だね」と通話を切られそうになったので慌てて引き留める。
「冗談はさておき。それじゃあ俺の言う通りにしてくれる?」
いや、笑えない冗談はやめてください。
そんなことを言ったらまた切られそうになるのは明白だったので心の中だけに留めておき、まずは神様ハジメ様の言葉に耳を傾けた。