トンネル (下)
トンネルの中はかなり冷えていた。
そりゃ今は真冬だけれど、そういう寒さとは何か違う気がする。これは所謂アレのせいだよな、と思いかけたところで早くもハジメの「否定しろ」を思い出す。
早速危ない所だった、これは気のせい、全部気のせい、絶対に気のせい。慌てて別のことを考えねばと、フラつく身体に鞭打ってペダルを漕ぐ足に力を入れた。
ハジメはうちに住み憑く幽霊だった。
安いからと言う理由で借りた事故物件に憑く地縛霊。某男性アイドルグループにでもいそうなくらいには整った顔に、色素薄めの髪。かといって線が細くナヨナヨしているわけではなく、生前はきちんとスポーツをしていたんじゃないかと想像が付くくらいには筋肉がしっかりとあり背もそれなりに高かった。
平均より背が高いことくらいしか取り柄のない俺には存在自体が毒である。
キラキラした野郎になんて縁なんてない人生だったのに、と嘆くものの、それがもう生きてはいないとなるとなんと言い表したら良いのか分からない複雑な気持ちになる。
「悪い奴ではないんだよな…」
顔がいい奴は皆性格も悪いはず!という妙な偏見のある俺の目から見ても、嫌な奴ではなかった。
たまに一言多いけど、意味深だけど、何言ってんのか分かんない時はあるけど、絶対馬鹿にしてんだろって時もあるけど。
そのくらい飲み友達らとも変わらなかったし、要は意外と同じ空間にいても苦痛を感じる程ではなかった。
「なんやかんやでアドバイスもくれるし。って、あれ…?」
ぼんやりと考えながらもペダルを漕ぐ足は休ませていなかったはずだが、一向に出口に辿り着かないことに気が付く。
それがまずかったのかもしれない。否定し続けることができなかったということになるのだろうか。
意識した途端に、さっきまでとは比べものにならないくらいの頭痛と吐き気が俺を襲う。
あまりに突然のことに、自転車に乗っていられなくなり転げ落ちる。不意に、ヒタヒタと濡れた裸足でコンクリートの上を歩くような音がした。
これはまずい、絶対にまずい。
後ろを振り向かなくてもやばいことは直感で分かった。
今にも吐きそうな程だったが、急いで自転車を起こし、押して進む。とても乗れる状態ではなくて、けれど立ち止まるのはもっとやばい。その一心で押して進んだ。
どのくらい進んだのだろう、時間の感覚は分からなくて、出口も見えず、どうしようもなくていっそみっともなく泣いてしまいたかったけれど恐怖で涙も出ない。
ハジメに助けを求めようにも圏外で電話は繋がらない。ヒタヒタという足音は、もうすぐ後ろまで迫っていた。意識してしまえば、きっと吐息も聞こえるだろう。
必死に別のことを考えようと努力はしてみたものの、この状況でうまく切り替えられるはずもなかった。
「もう、無理…ッ」
限界が来て立ち止まる。同時にコンクリートの地面に胃の中身をぶちまけた。賄いで夜に食べたラーメンが消化し切れず散らかるのが目に入る。
ツンと酸っぱい匂いがこもったように広がるが、そんなこと気にしていられなかった。
背中に異様に冷たく柔らかい感触が広がる、ああ、追い付かれた、とゆっくり静かに絶望する。恐ろしくて聞かないようにしていたけれど、その吐息は苦しそうでなんだか悲しかった。
どうして、こんなところにいるんだよ。そんな苦しそうなのに、ずっとこんなところにいるなんて。いったいどんな死に方したらこんなことになるんだ。
恐ろしいのにどこか悲しくて、誰にも、俺にすらも受け入れてもらえなかったらコイツはどうなるんだろうか、なんて考え抵抗する気力ももう失っていた。
「同情はするな」というハジメの言葉もすっかり忘れて。
「ハジメって、誰だっけ?」
爪先まで水に濡れたソレは、少しずつ俺の身体の中に入ってくる。
誰かがそれはダメだと言っていた気もするけれど、ぼんやりとして思い出せなかった。
どうでもよくなって受け入れていたところで、突然携帯が鳴る。バイブにしていたはずなのに、煩いくらい音を鳴らしていた。
出るのも面倒で、暫く音をぼんやりと聞いていたが、出ないと誰かに凄く怒られる気がしてだんだん落ち着かなくなってくる。
誰だっけ?と考えている間もずっと着信音は鳴り止まない。
「この馬鹿!同情するなって言ったろ!」
気が付くと、勝手に通話中に切り替わっていた。
電話口の焦ったような怒鳴り声を聞いて、ぼやけた脳がクリアになっていく。
ハジメという名前は、本名じゃない。俺が付けた名前だ。
生前の名前はネットで検索すればすぐに分かったけれど、記憶としても曖昧だし実感がないから適当につけてくれと言われて付けた名前。
「レイ」や「ユウ」にしようとしたら、「幽霊から取るなよ、安易だな」と言われ却下されたから考えた名前。
ハジメも実はかなり安易だけど、本人は知らずに割と気に入ってくれている名前。
「…ごめん、助かった」
ざわりと風で木が揺れる。そこはもうトンネルの中じゃなかった。多分、とっくに本来のトンネルなんて通り過ぎていたんだろう。
それまでの体調不良は嘘みたいに消えていた。
▲▼
「どうやって電話したんだよ」
帰宅するなり、正座のち説教を食らう。
この家の家主は一応俺なんだけどな、と思いつつも、今回の件はあんなに釘を刺されていたのに否定し切れなかったどころか、うっかり同情してしまった自分にも非があるとしか言いようがない。
大人しく怒られた後で、ずっと気になっていた事を質問する。幽霊なのに、どうやって掛けたんだ?
「ポルターガイストみたいなもんかな?」
「物動かしたりとかそういう?」
「そう。でも、物動かすより機械との相性の方がいいんだよ」
運動に得意不得意あるように、霊にも向き不向きの個体差があるのかも。よく分からないけど。などと言いながら目の前でPCを操作して見せてくれる。
霊だから触れるはずもないのだが、手を触れずにキーボードやマウスを操作しスイスイと検索していく。
「でも、電話を無理やり繋ぐのはやっぱり疲れたな」
「それは本当にごめん」
食い気味に秒で謝れば、仕方ないなという顔で許された。
あれはかなり体力がいるよ。いや、死んでるから気力?と、まるで生きているようにげんなりするハジメに思わず笑ってしまったら、笑い事じゃないと睨まれる。
「もっと上手く否定できるようにならないと。この先やっていけないよ?」
それは頑張ります、と頭を下げ、また説教が始まる前にさっさと布団に入る。
この先もこんな事があってたまるかよ、という反論をする元気も残っていなかった。正直俺もかなり疲れたんだ。
本格的に寝る体勢に入った俺を見て、ハジメがPCに向き直る。横目で覗けば、器用に触れずに操作して映画を検索していた。
契約している動画配信サービスの履歴やブックマークに知らないものばかりあると最近不思議だったけど、犯人はお前か。
「でも、ヒトミは真面目だからなあ」
ヒトミは俺の名前だった。
下か上かを問われた時、なんの意地か黙っていればヒトミ呼びに落ち着いた。苗字の人見だ。
馬鹿な子ほど可愛いんだよなあ、と親や教師が言うようなトーンで呟くハジメの声を聞きながら、俺は深く眠りにつく。
俺のこと馬鹿にするけどな、お前は101号室の霊だから「一」にちなんでハジメなんだぞ。
俺のこと馬鹿にしてるけど、お前が気に入ってるその名前は馬鹿な俺が付けた馬鹿みたいに安易な名前なんだからな、由来は教えてやらないけどなザマーミロ。
と、夢現に心の中でしっかりと悪態はつきながら。
とりあえず、今後はもうあの裏道は使わないようにしよう。