トンネル (上)
着信に気がつかなかったのがまずかった。
今日は久しぶりのバイトの出勤日で、いつものように自転車に乗りバイト先へ向かった。
飲み歩いているとはいえ一応健全な大学生なため、主に出勤は夕方の17時から中番シフト終わりの24時まで。小さなチェーン店のどこにでもある普通のラーメン屋だった。
家からの距離は歩いて20分、自転車なら10分も掛からない。それも普通のルートならで、大通りから外れた人はおろか車もまばらにしか通らないような裏道から行けば5分くらいだった。
「やっぱ風邪引いたんかな」
バイト先に着いたくらいから、ずっと具合が良くなかった。
頭と肩が異様に重く体がだるい。インフルとかの節々が痛いってこんな感じだったような気がする。
退院して暫く働けないような状態が続き、やっと復帰したばかりなのにこれはまずいと気合で仕事をこなすもどんどん酷くなっている気がする。
バイト終わりにさっさと帰って寝ようと携帯を見れば、不在着信が5件も入っていた。誰かと思えば全部非通知で、なんだか嫌な予感がしてそのまま無視して自転車に乗る。
漕いでいる間も体は重いし頭は痛くなってくるしで散々だった。ちょっとした信号待ちすらも時間が惜しいくらいだ。
「また?誰だよもう」
ジーパンのポケットに入れた携帯のバイブが着信を知らせる。
いい加減にしてくれ、と画面を見たら更に不在着信10件。あまりの多さにギョッとする。現在進行形で着信を知らせるバイブに出るべきか否かと迷っていれば暫くして着信は止んでいた。
なんだか気味が悪いけれど、そんなこと構ってられないくらいに体調が悪い。とにかく今すぐ寝たかった。
帰りは人通りも少ないし暗いしで、行きほど急いでいないというのもありいつもは10分掛かるが明るい方の道から帰っていた。でも今日は迷わず5分の道で帰る。
たった5分の道のりなのにその間にもどんどん体調は悪くなっていった。
突然キーンという強い耳鳴りがして反射で自転車を止める。ちょうど目の前のトンネルを抜けて坂を下れば裏道を抜ける、という所だった。
耳から頭に響くような耳鳴りも、暫く休めば落ち着いた。まだ違和感はあるが、自転車に乗れないほどではない。
時間を見るために携帯を出すとちょうどチャット通知が来ていた。
"電話に出ろ。ハジメ"
びっくりして固まっていると、すぐに携帯が着信で揺れる。また非通知だった。
「やっと出た!無視するなって」
慌てて出れば開口一番怒られる。
非通知には出ないって、とか。なんで電話かけられるんだよ、とか。それにしたって掛けすぎだろ、とか。
色々言いたいことはあったが混乱して1つも出てこなかった。
「あのさ、トンネルは通らない方がいいよ」
なんで、の一言すら上手く出てこなかった。
疑問に疑問が上乗せされて、あまり賢くない俺の頭は軽くパニック状態だ。
「行きに通ったでしょ?」
一言も返事がないのを混乱しているからだと受け取ってくれたのだろう、ようやく説明口調に切り替わる。それにつれて、徐々に思考が追いついてくる。
「そのトンネル、あんまり良くないと思うよ」
「えっと、その、なんで?」
思考が追い付いたところで、上手い返しができるわけではなかったけれど。
「出るから」
何が?と恐る恐る聞き返しても、そんなの言わなくても分かっているでしょうにとでも言いたげなため息が1つ返ってくる。
「そんなに強いもんでもないし、普通はあまり影響ないだろうけどね。その代わり無差別だから迷惑かな」
いや、お前、どの口がそれ言う?
そう言ってやりたかったが、話の腰を折ることになるのでやめた。そういうのはもっと元気な時にしよう。今は本当に具合が悪いし、帰りたい。
「とにかく、帰りは別の道にした方がいいよ」
「いや無理。具合悪いし、早く帰りたいし、もうあとちょっとで家なんだよ。これを戻るの?無理無理」
今から戻って明るい道から帰れば、ざっと15分は掛かる。このまま帰れば後ほんの数分。
身体はしんどいし、頭は痛いし、どう考えてもこのまま帰った方がいい気がする。霊がいる、と言われたところで引き返したくないほどには追い込まれていた。
「うーん、まあいいんだけどさ?誰彼構わず連れ込まれるのは困るなあ」
渋っていると、別に俺は困らないけど、困るのはそっちだよね?とでも言わんばかりのニュアンスの返事が返ってくる。しかも連れ込むって。
まるで女子でも連れ込むような言い草だけど、この場合可愛い女の子じゃない。というか女の子かどうかも分からなければ、性別の判別ができるのかすら分からないし、顔があるのかすら分からないし、血塗れかもしれない。
というか断じて連れ込みたいわけですらない。
いい加減にしろよ!面白がりやがって!そろそろ怒るぞ、というタイミングでハジメの言葉に遮られる。
「なら、俺からアドバイスをあげるよ」
アドバイス、の一言に怒りをグッと抑え続きを待つ。
「否定するんだ、存在そのものを」
「否定?」
「そう、否定。得意でしょ?」
少なくとも、見えるようになるまでは得意だったはずだよ。
そう言われてみれば、そうだったような気がしてくるから不思議だ。確かに、見えるようになるまでは霊の存在すら信じていなかったのだから。
「そのくらいの霊ならそれで十分だよ」
「それだけ?」
「元々弱いし、無差別とはいえ、よほど相性がいい人間にくらいしか手は出せない」
なるほど、と納得してから気が付く。
その理屈で言うと、俺は相性が良かったってことになるんだけど?え、そういうことなの?マジ勘弁。とか、聞きたいことは山ほどあったが、話している間にも確実に具合は悪くなっていく。
もう電話しているのも辛いくらいに頭がガンガンし出していた。
あまりの痛さに黙り込んでしまうと、それを察したのか「そろそろ切ろうか」とハジメが切り出す。頑張ってね、と添えられた一言に気分はかなり複雑だ。
「あ、そうだ。前にも言ったけど」
電話が切れる直前、慌てたようにハジメが付け足した。
「同情は絶対にするな」
前にもって、いつ?
そう聞き返す余地もなく電話は切れていた。
言われた記憶はまるでないけれど、本能で絶対に忘れちゃいけないと理解したのかもしれない。妙に言葉が耳に残って消えなかった。