歩道橋 (2)
あれから数日後、俺はまた歩道橋に来ていた。
今にも降り出しそうなどんよりと沈んだ雲を見上げながら、歩道橋の階段を登り切った場所で時間を潰す。
その下を規則的に通る車は、雨以外に人が降ってくることがあるなんて、微塵も考えていないのだろう。そのくらい機械的で、秒針のように正確に流れていた。
あの日、叫び声が聞こえて上に行ってみれば、慌てて逃げ去る後ろ姿と、腰を抜かして動けなくなる男子生徒の姿があった。
彼ら以外の歩道橋を渡っていた生徒たちは、何が起こったのか分からず、何だ何だと遠巻きに彼らを見ていた。放り出されたいくつもの傘が、水溜りに浸かるように転がっていた。逃げ出した生徒は、そのうちの1つを蹴飛ばしてまで無我夢中で走り去る者。そのうちの1つに足を取られ膝から地面に崩れ込む者など、様々だった。
その場に座り込み動けなくなっている生徒の1人は、その下半身は水溜りに浸かり切っていることなど気が付いてもいないのか、目の前の何かに凍りついたかのように固まっていた。
「恐怖を感じるくらいなら、最初からやらなきゃよかったんだ」
その光景を見て、ハジメは嘲笑うかのように呟く。
水溜りの上に座り込む生徒の目の前には、歩道橋の手すりがあった。その前に、手すりに寄り掛かるようにして立つ1人の男子生徒。着ている学ランは、首元までしっかりとボタンが締められていた。気温が上がり湿気も高くなってきたからか、周りの男子生徒たちは前を開けていたり、上着を着ていない。そんな中、他よりも色素の薄い、彼だけがしっかりと制服を着ていた。
「俺は、何も、してない」
座り込む男子生徒の口から、辛うじて喉を通って出たような、掠れた声が零れ落ちる。目線は、目の前の彼に縫い付けられたように、瞬き一つしなかった。
「見てた、見てただけだ、」
学ランをきちんと着た方の男子生徒の手が、ゆっくりと伸びる。袖から出た手首から先は、息を呑むほどに白かった。
座り込む男子生徒の腕を掴み、その細い腕のどこにそんな力があるのかという強さで引き起こす。無理やり立ち上がらされた男子生徒は、よろめいて咄嗟に手すりに手をついた。その拍子に制服や髪を濡らしていた雨粒が水滴となって空中を舞う。
ただそれを遠巻きに見ていただけの俺は、そこでようやく気が付いた。
手すりに手をついたまま、目の前の彼を凝視する男子生徒の髪は、雨に濡れ額や頬に張り付き、白いシャツは下に着ているTシャツや肌が透けていた。それに対し、学ランをきちんと着た男子生徒は、傘もさしていないのに少しも濡れていなかった。その身体は、色素が薄いのではない。
透き通るような半透明な身体は、向こう側の手すりや景色が透けて見えていた。
----
あの日と同じくらいの時間帯、あの日と同じくらいの下校人数。
あの日と違い、雨の降っていない歩道橋は、ガヤガヤと賑わっていた。楽しげに会話に夢中な生徒に、仲良く戯れ合う生徒。誰も数日前の出来事なんて覚えちゃいない。
あの日から雨が降り続いた数日間、霊を見た男子生徒たちはこの歩道橋を利用しなかった。
けれど、他の道から帰るとなるとかなりの遠回りになるし、そろそろこの歩道橋を通るだろう。ハジメがそう言って、俺たちはここで待っていた。
賑やかに通り過ぎる生徒たちの顔をぼんやりと眺めながら、歩道橋を上がってくる生徒の顔を識別する。
「心霊ではあるけれど、霊ではない」
あの日、目の前で歩道橋の手すりの向こうに引き摺られて行こうとする男子生徒を見ながら、ハジメはそう耳元で囁いた。
すぐ真横に立つハジメの気配を感じながら、俺はこれまでの記憶を辿る。それは人形の話をした時に、ハジメが言った言葉と同じだった。
「人の強い感情は、他のものにも作用する」
生き死になど、関係ない。死んだ人間そのものでなくとも、人の強い感情は他のものに影響を及ぼし、心霊現象を引き起こすことがある。
そこまで思い出した後、俺の中で何かが繋がり、ハッとして横に立つハジメに顔を向ける。歩道橋の霊と男子生徒を見詰めるハジメの横顔は、俺には向けられたことがないような、意地悪く笑った中にも軽蔑と嫌悪を含んだような表情だった。
ぱしゃり、と水飛沫が上がる音が響く。
ずるずると引き摺られていた男子生徒の足が、手すり下ギリギリに溜まった水溜りに足を取られた音だった。
ああ、このままでは、落ちてしまう。そう思い至った数秒後、ほとんど無意識に男子生徒の腕を掴んでいた。袖を掴んだ手のひらに、雨水の冷たさが伝わる。雨に濡れた制服は重く、軽く引いた拍子にあっさりと身体のバランスは崩れこちらへと倒れ込む。
そのまま呆然と地面に膝をつき立ち上がろうとしない男子生徒を助け起こした後、ゆっくりと顔を上げる。
そこにはもう、歩道橋の下へと引きずり落とそうとしていた学ランの生徒の姿はどこにも見当たらなかった。
「どうして止めたの?」
助け起こした生徒は、礼一つ言わず、こちらも見ることなくふらふらと去っていく。多分、他のことには一切気が回らないのだろう。何一つ目に入っていない、耳に届いていない様子だった。
「これは、彼ら自身が視せた現象だ」
俺に問いかける反面、逃げ去るように消えていった背中にまるで言い聞かせるような声色だった。なんだかそれは、ドラマなどで観るような、有罪判決を下す裁判官を連想させた。
人の強い感情は、他のものにも影響する。これは、彼ら自身の強い感情が見せた心霊現象。
彼ら自身の意識を変えない限り、歩道橋の霊は現れ続けるのだろう。
数日前の出来事を順に思い出していると、聞き覚えのある声が数人、下から上がってくる足音がする。彼らが上がってくる方とは反対側にある階段の上で、黙ってその様子を見ていた。
あの日同様に、例の男子生徒たちが歩道橋を上り切ったところで歩道橋の心霊現象は起き始める。
「お前、マジで何なんだよ!死んでまでそのツラ見せてんじゃねぇよ!」
現れた人影に、怒鳴り散らす1人の男子生徒。ワックスで立てた髪に、着崩した制服。その声は恐怖心を隠しきれずに裏返っていた。
周りを行き交う他の生徒たちなど目に入っていないのか、今にも殴りかかりそうな勢いで学ランの生徒に詰め寄る。一緒にいた他の男子生徒は、不安そうに見つめる者、同じように嫌悪感を持って学ランの生徒を睨む者、下を向き見ないようにしている者など、様々だった。
あの日歩道橋から落とされそうになっていた生徒は、耳を澄まさなければ聴き取れないほど小さな震えた声で「悪かった」とただ繰り返す。
「ねえヒトミ、何だと思う?」
あの日、ハジメの発した声が、数日経った今でも耳に残り反響する。
「人は何をしたら、心霊現象を引き起こすほどの、恐怖心や罪悪感を持つんだと思う?」
どうして止めたのか。歩道橋の向こうに連れて行かれそうになっている生徒の腕を掴んで止めた後、ハジメは心底不思議だとでも言うようにそう尋ねた。
男子生徒がいた場所を見る目は冷たく、だけど俺に問いかける声はどこか弾んで明るい。その妙なアンバランスさが、耳に残って離れない。
「止めたら、意味がない」
それは暗に、あのまま落ちてしまっていたら良かったのに、そういう意味合いを含んでいた。
何をしたら、心霊現象を引き起こすほどの感情が生まれるのか。そんなもの、直接言葉にしなくたって、だいたい想像はついている。今だって、数日ぶりに歩道橋を通り、また心霊現象に遭っている彼らを前にしても、可哀想だとは1ミリも思わない。
「ヒトミは優しすぎるんじゃない?」
そこが良い所でもあるのかもしれないけど。そう言って俺を見たハジメは、何度言っても学習しない仕方ない子どもを見るような目をしていた。
「優しくなんかねーよ」
「あれ?自覚なしかぁ」
あの日、あの時、俺はどうして止めたのか。
コイツらがたとえ何をしていようと、あのまま、落ちてはいおしまいで、終わらせてしまうことは出来なかったからだ。