2日目
退院生活2日目。
朝起きて、昨日あったことはやっぱり寝ぼけて夢だったかもしれないとか、川に落ちた時頭も打って脳がバグってただけかもしれないとか、そんな淡い期待は帰宅してすぐさま打ち砕かれた。
今朝家を出る前と全く変わらないその姿に、やっぱり吐き気を催しては既のところで押し返す。
唯一助かったのは、首から上がグチャグチャになっているソレは、初めて見た時と同じ場所から動かないと分かったことだ。そっちを見ないように、けれど相手に気取られないように、不自然のないように意識しないで生活する。
もはや自分に出来ることはそれしかない。
「いや、だから、寝落ち通話したいとかどうしたんだよ。そんなタイプじゃなかったろ」
今日も今日とて別の飲み友達から揶揄われている。が、四の五の言ってられる場合ではない。
大人しくかつ電話を切られないよう多少の可愛げを見せつつなんとかこの場を繋げなければという使命感だけでどうにかこうにか正気を保っている。
アレは気の所為だといくら自分に言い聞かせても、見えなかったことにまではならないらしい。
頭打った影響のただの幻覚であってくれたらどんなに良いかと、何度考えたことか。
「つかまだ夜の7時なんだわ。寝落ちって、これ何時間やるわけ?無言でいい?マイク切るのはあり?」
「頼む!なんか話してくれ何でもいいからせめて無音だけはやめてくれ」
「いや、何が悲しくて男同士で寝落ち通話なんてするんだよ」
何度も何度も切られそうになりながら、それでも何とか食い下がり9時を回った現在でも電話口からは賑やかなバラエティーの音と生活音が聞こえている。
他人の家の何でもない生活音で精神の安定を図りながら、決死の覚悟でPCを開き検索を開始する。そんな簡単にヒットしないだろうという予想に反して、あっさりと目的の記事は見つかってしまった。
「…某有名大学、男子学生惨殺事件」
"痴情のもつれが原因か。しかし殺害を行なったと見られる女性(会社員)とは接点は見つかっておらず、彼女もまたほぼ同日に不審死を遂げている。"
見出しの内容をほぼ無意識に口に出しており、まずいと思ったのとほぼ同時に、反射でつい部屋の隅のソレを目で追ってしまった。
目なんてどこにあるのか分からない崩れた顔に、首はズタズタに引き裂かれ少し動けば今にも頭がズリ落ちてしまいそうだ。
直視してしまったことで込み上げる吐き気をどうにか押し戻す。思わず見てしまったが、目なんて合いようがない。仮に合っていたとしても判別しようがないと、慌てて何でもないフリをして目線を逸らす。
ソレがこっちに気が付いたか否かは分からなかった。
「あー?なんか言った?」
「あ、いや、別に」
「ふーん。あ、そろそろ切っていい?」
「いや頼むあと1時間!」
調べ物をする間は、どうしても全く関係ない人間の存在を感じ安心していたかった。
いくらアレは気の所為だ幻覚だと存在を否定しようと、思い込もうとしたところで無意味で、ならばいっそのこと正体を明らかにしたかった。
どこの誰でどうしてこうなってるのか訳も分からないままでは存在を否定も肯定もできず、どうにも気味が悪い。
「あのさ、5年前ってこの辺住んでたり来たことあったりする?」
「いや?俺大学から上京組だし」
「だよな」
5年前に起きた事件だった。
当時大学3年の21歳。写真を見る限りは結構正統派で爽やかな好青年だった。
こりゃ痴情のもつれも起きかねない顔だなと感心する反面、あんな風にその整った顔すら見るも無惨に殺されてしまうのであれば自分みたいな普通が一番なんだろうな、などと考える。
犯人と見られる女性も、何故かほぼ同日に同じように顔がグチャグチャになった状態で発見されたことから一時期ネットでは奇妙な事件として話題になっていたようだ。
女性側は自死以外に説明がつかない状況だったこと、被害者男性の顔が良かったこと、2人に接点は全くなかったことなどから、有ること無いこと含め思った以上に情報が残っていた。
「つーかさ、さっきから変な音するんだけど。なんかやってる?」
「んー?特には。通信でも不安定なのかな?」
「ノイズとかそういう音じゃないんだよな」
テレビや音楽を掛けても良かったのだが、なんとなく、他の音があるのは嫌だった。
だから部屋の中は無音で、自分がカタカタとキーボードを打つ音か、電話越しの生活音だけが聞こえていた。
「なんだろ、こう、ハンバーグでもこねてるみたいな?ネチャっとした音?」
瞬間、背後に気配を感じたような気がしてヒヤリとする。
反射的に壁のソレを見れば、先程と変わらない体勢で蹲っていた。そのことにホッとし、無意識に詰めていた息をゆっくりと吐く。
「いや混ぜすぎじゃね?みたいな勢いなんだけど」
けれどその後に続いた一言で、ドッと不安が押し寄せる。
ハンバーグ、肉をこねる音。何かを潰すような音?
グチャグチャに崩れた顔が見なくても脳裏に蘇る。
「あとなんか、うめき声みたいな音?声?」
何で、と尋ねようにも、声が出なかった。
バクバクと心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。緊張で口の中はカラカラに乾いていた。
「なあ、他に誰かいんの?」
もう無理だった。
脇目も振らず、すぐ後ろで背もたれにしていたベッドに潜り込み頭から布団を被る。
壁のソレがどこに居るかなんて、確認している余裕もなかった。バクバクと煩い心臓に、自然と早くなる呼吸。
さっきからって、一体いつから聴こえていたんだ?
グチャッと、肉の塊が床に叩きつけられるような音がした。
見てもいないのに、それは首が落ちた音なのだと認識する。意識し出したから聴こえたような気がしているだけなのか、本当に聴こえているのか。どっちなのかは、もう分からない。
どのくらいそうしていたのだろう、グチャグチャとした音は何度も繰り返し聴こえていた。
「え、何?このタイミングで寝落ちた?」
机に放置した携帯から、何度も電話の向こうで起きているか呼びかける声は聞こえていたけれど、返事ができなかった。
どこにいるのかをソレに知られたくなくて、声すら出せなかった。ベッドの中で、息を潜めてやり過ごす。
いやでも、この狭い1Kに隠れるところなんてどこにもないんじゃないか?
そのことに気が付いたのは、何かを潰すような音が止んだ後だった。
落ち着いてみれば、やっぱりあれは気のせいに違いない。そうだ気のせいだそうに違いないと自分に言い聞かせ、風呂でも入って一旦スッキリしようと、布団から顔を出して後悔した。
壁にもたれ蹲り動かなかったソレが、ベッドの目の前に立っていた。
まるで凍りついたように身体は動かせない。グチャグチャに潰れた顔が覗き込むように、どんどん近付いてくる。
ふいに、血と肉が傷んだような臭いが立ち込めた。
さっきまであんなに必死に押し戻していたのに、なぜだか吐き気はしなかった。
自分の身体のはずが、他人の身体のように感覚が遠くに感じられる。
崩れた顔はぼやけて見えなくなるほどに近付いて、鼻先まで迫ってもう身体が重なってしまうのではというところで、俺の記憶は途切れていた。
この後2週間ほど、自分がどうなって何をしていたのか、ほとんど覚えていない。