廃墟 (3)
車の中で1人で待つ時間は、まるで永遠のように長く感じられる。
3人が建物の中に入ってからどれぐらい経ったのだろう。そんなに長い時間は経っていないはずなのに、時間感覚は麻痺してもう何時間も経ったかのような気分だった。
ペタペタとフロントガラスに触れる沢山の小さな手や、ボンネットの上にでも乗ったのか車体は大きく縦に揺れる。すぐ脇の窓からはたくさんの目が車内をじっと覗いている。
3人が入っていった廃墟の窓があったであろう場所からも、身を乗り出すようにたくさんの子供たちがこちらを見ていた。
その全員が示し合わせたかのような無表情で、絶えず笑い声を上げている。
この場所に慣れたのか、頭痛は少しずつ治まってきていたけれど、それと反比例するように吐き気をもよおし始める。
気分が悪いのは酒のせいだと思いたかったが、トンネルの霊に絡まれた時の体調と酷似しており、現実逃避しようにもそうも言っていられなかった。
ハジメに連絡しようかと携帯を取り出したものの、圏外のそれは全く使い物にならなかった。
クスクス、クスクス
たくさんの笑い声があたり一帯に木霊する。
こちらを凝視し指を差し笑う姿は、まるで俺が無駄な足掻きをしようとしているのに気が付いているかのようだった。
揶揄うように、何人もの子供たちが車の周りでぐるぐると追いかけっこを始める。たまにわざと車のドアにぶつかっては、びくりと体を震わせる俺の反応を見て楽しんでいるのだ。
クスクス、クスクス
旧軍事施設がどんなものかはよく分からなかったが、目の前にある廃墟はまるで学校のようにも見えた。
横長で低い造りの建物に、大きな窓枠、開けた出入り口。車を停めている門付近も、まるで昇降口とも言えるような造りだった。
建物知識はほぼなかったので、戦時中の建物はみんなこんなものだったと言われればそうだと納得する。
少しでも気を紛らわせたくてこんなことを考えてみたが、まるで無意味だった。
クスクス、クスクス
人は一定間隔で全く同じ音を聴き続けていると、気が狂うという。
そんなどこかで得たような知識を思い出す。絶えず聞こえ続ける笑い声と、刺さるような視線に頭がおかしくなりそうだった。
クスクス、クスクス
現実と夢の狭間のような曖昧な思考力。
待っている時間があまりに苦痛すぎて、思わず車の外に出て3人を連れ戻しに行きたい衝動に駆られる。
車のドアに手をかけて開けようとしたところでふと違和感を覚える。それが出来るくらいに軽くなっている身体。さっきまであんなに体調は悪く動けなかったのに。
まんまと誘導されているのではないか。
そのことに思い至り、一気に体から血の気が引く。ドアを掴んだ手には全く力が入らず、開けることも離すことも出来なかった。
「どうしたんだ?人見」
どのくらいそうやって呆然としていたのだろう。
時間感覚はなくなり、笑い声だけが反響する脳内。突然聞こえた神原の声でようやく意識が現実に引き戻される。
「何度も声かけたのに、しばらくぼーっとしてたぞ?なんかあった?」
「いや…」
3人とも車内に戻ってきていた。
全くと言っていいほど気が付かなかったことに驚くあまり、碌な返事が出来なかった。
何かあったどころの話ではなかったが、平然としている3人を見てわざわざ説明する必要はないなと言葉を飲み込む。
「…そっちは?何もなかった?」
「うーん、まあいつも通りかな?」
なんてことないと余裕の態度で普通に話す神原に、少しだけ安心感を取り戻す。
だがそれもほんの一瞬のことで、その後に付け足された言葉に背筋が凍った。
「途中で2人を見失ったりはしたけど」
神原は、一言で言えば神に愛された男だった。
苗字の語感も相まって、ついたあだ名は「神」だ。
アホみたいな話だが、そう言い表してしまうほどに強運の持ち主だった。
とにかく運がいい。抽選は必ず当たるし、くじ運もあるし、ギャンブルも負けなし。テストを受ければ山は全部当たり高得点。
元々普段からきちんと勉強していなければ山だろうが当たりようがないので、本人の努力も勿論あるけれど。
それだけとは言えないくらいに、とにかく運が良かったのだ。
「逸れたのか?どのくらい?2人とも、何もなかった?」
2体1で逸れたのに、心配なのは2人の方だった。
慌てて声をかけるも、運転席と助手席に座る2人からは何の返事もなかった。普通なら、1人になった方を心配するだろう。
でも、それが神原というなら話は別だった。
「浅井?佐渡?」
何度呼びかけても返事のない2人に嫌な予感を募らせる。
「おいこのサド!返事しろって!」
居ても立っても居られず、後部座席から身を乗り出して目の前にある肩を思い切り掴む。微動だにしない体を、無理矢理こちらに振り向かせる。
通常なら、サド呼びした時点で佐渡は絶対に反応するし、それどころかキツめのツッコミが入るところだった。
車の外でこちらを凝視する沢山の人影、瞬き一つない視線、笑い声とは対照的な無表情。それらと全く同じものが、そこにあった。
目の前の事実を認めたくなくて、ぎゅっと強く目を瞑る。心の中で3秒数えて目を開けても、目の前にあるものは何ら変わらなかった。
見た目も顔も、全てが記憶にある佐渡と同一人物であることは確かなのに、周りを囲む子供たちと全く同じ表情をした人間がそこにいた。
脳がそれを理解するのを拒否し、思考が止まるのが分かる。頭は回らず、言葉一つ出てこなかった。
しばらく呆然と佐渡と視線を合わせていたが、「どうした人見?」と後ろから掛かった声に我に帰る。
もう薄々気が付いてはいたけれど、確かめなくてはならなくて運転席の浅井の顔も覗き込む。
そこにはやはり、佐渡と同じように、車の外の子供達と同じように、瞬き一つない無表情を貼り付けた浅井がいた。
どっと全身の力が抜け、後部座席に崩れるように座り込む。そこでようやく、緊張からか無意識に詰めていた呼吸をすることができた自分に気が付く。
落ち着かせるように、大きく息を吸っては吐いてを繰り返した。
「人見、大丈夫か?まだ具合が良くないのか?」
「…俺は平気。大丈夫じゃないのは、前の2人な」
神原の強運は、神原だけでなくその周りにも恩恵があった。
それが神原が神のあだ名で呼ばれている所以だ。
俺が直接居合わせたわけではないけれど、神原といたことで事故っても大したことにはならなかったとか、いつも負けてばかりのギャンブルに勝ったとか、急死に一生を得たとか。
嘘か誠か神原にはそういう神がかった噂が絶えなかった。
だから、外に出たらまずいとは分かっていながら言葉にはならなかったものの、神原といるなら大丈夫だろうとどこかで安心していた。
神原がいなければ、頭痛が酷かろうが、もっと無理矢理にでも止めていたに違いない。
まさか、神原と逸れていたなんて。
嘘か誠か分からない強運は、誠だったとして。それが分かったのがこんな状況だなんて。
とても俺にどうにかできる範囲を超えており、ただ頭を抱えることしか出来なかった。