1日目
生まれてこの方、幽霊というやつを見たことがない。
見えたら怖いのかもしれないが、見えないのだからそれは存在していないのと同じで、だからか心霊話も俺にとってはフィクションと何ら変わらない。
勿論、存在自体を否定しているわけじゃない。見える人はいるだろうし、そういう人にとっては存在するのだろう。ただ、見えない俺にとっては、見えないからそれは存在しないだけだ。
そもそも霊感なんてもん、あったら事故物件なんか借りてないだろう。
「いや〜泥酔した挙句、真冬の川に頭から落ちた時はまじで終わったかと思ったわ〜」
大学の飲み友達で見舞いに来た奴らは全員、口を揃えたように似たようなことを言う。いやもっと真剣に心配してくれ?と思わなくもないが、正直泥酔していたもんで自分自身記憶が曖昧で死にかけたことすら覚えていない。
なんでも、いつものように昼間から飲み屋を梯子して飲んだくれた結果、4軒目の移動中に橋から転落したらしい。しかも真冬で、目撃した飲み友達ももはやただの酔っ払い。まともに救出はおろか通報すら出来るか怪しいレベルまで出来上がっておりまあ色々大変だったらしく、要約すると俺は死にかけたらしい。
正直3軒目あたりから病室で目を覚ますまでの記憶がまるでないので、自分のことだという自覚すら曖昧だ。
「でもさあ、お前が誰でもいいからとにかく毎日見舞いに来てほしいって頼むなんて意外だったわ」
入院期間中、散々そうやってネタにされからかわれた。
自分でもそんなタイプじゃないことは自覚している。寂しがり屋でもなければ怖がりでもない。普段の自分なら迷わず、合法的に大学休めてラッキー!1日中動画やネット見放題!と喜んで入院生活を謳歌していたはずだ。死にかけたことすら覚えてないんだから尚更。
だから我ながら意外だった。というか、完全に予想外だった。
何度も繰り返すが、俺は幽霊を見たことがない。見たことがないものは、存在しないものと同じ。
夜に知らない病人が部屋を彷徨いていたり、6人部屋で隣は空きのはずなのに声が聞こえたり。昼間に明らかに様子のおかしな人間とすれ違ったり。全部全部気のせいだ。
そう言い聞かせつつも、自分にしか見えていないのか、他人にも見えているのか、どうにも判明させないことにはいられなくて飲み友達の様子を伺っていたけれど、どうやら他人には分からないようだった。
「退院おめでと〜!」
そう言って家まで送ってくれた飲み友達の顔色を伺ってみたものの、いつもと何ら変わりがなかった。というより、むしろシラフなのでいつもよりも呂律は回っているし、ハツラツとしている。
「せっかくだし、茶でも飲んでいけよ」
「いや〜この後サークルなんだよね」
「でもほら、寒かったし、一杯くらい?ど?」
「え?どしたの?いつもは寄りたがっても人家に上げないじゃん〜」
やっぱ頭でも強く打ってたんじゃね?大丈夫?と、やや失礼な心配をしてくれるが、それどころではない。どうしても一緒に中を確認してほしい。
キャラじゃないとは分かっていながらも、掴んだ腕を離せない。というか離さないぞ!と意気込んだもののあっさりと敗退し飲み友達はさっさとサークルに向かってしまった。
バタンと重い音を立てて閉まるドアが恨めしい。
しばらく玄関で呆然としていたものの、このままではどうしようもないと自分を鼓舞し勢いよく立ち上がる。そのままの勢いで、部屋とキッチンを仕切る扉を開け、すぐに後悔した。
「…うッ」
くらり、と眩暈が襲う。
必死で何事もなかったかのように呼吸を整え室内に入るも、重苦しい空気に今にも吐きそうだった。
その原因は部屋の隅の塊で、見なくてもやばいモノだと分かる。
ああ、古い賃貸だからそんなもんだと気にしていなかった低めの位置についていた壁のシミはそういうことだったのかと、はるか遠くの方で思考する。けれどそれを認めたくはなかった。認めてはいけないと必死に別のことを考えては無駄な抵抗をする。
俺は生まれてこの方、幽霊を見たことがない。心霊体験をしたことすらない。
見えないものは存在しないし馬鹿みたいに安いしで、不動産からの事前告知もあっての上で決めた1K。俺の城。そうだよ、ここは事故物件なんだ。
部屋の隅にあるモノは見ないようにして、それに気取られないように素知らぬフリをして、その日は脳に言い聞かせるように無理矢理眠りについた。
案の定、さっぱり眠れず、翌日の寝起きは最悪だった。その上、昨日のアレは夢や幻だったのではという希望もあえなく打ち砕かれた。
壁紙のシミは、ちょうど人が体育座りになって寄りかかった時の頭から首にかけての高さになる。
何故それが分かったかと言えば、その目の前にある塊は、首が裂け、顔面が原型が分からないほどグチャグチャにされていたからだ。