後編
翌日、ハウルの仕事の手伝いを終えたリニは、クラースの家に着くと、彼が居間にいると聞かされて驚いた。
そんなわかりやすい場所にいたことがなかったからだ。しかしフェイクの可能性もある。もしそうであったなら、彼がいかに可愛いか、十分ほど訥々と語ってやろうと決めて扉をノックした。するとクラースの声で返事が返ってきて更に驚いた。
扉を開ければそこにはクラースと、占者のローブを纏った顔の見えない人物がいた。
「あっ、ごめんなさい。お客様がいらしたのですね」
「いや、別にいいぞ」
「ええ、私はもう帰りますので」
ローブの人物が振り返り、フードの中から初老の女性の顔が覗く。髪を纏めずに流れるままにした、いかにもな占者だ。
「ではお坊ちゃん、まずは試してみるのですよ」
「……ああ」
口を曲げながらクラースは頷いた。家庭教師に苦手な宿題を言い付けられたような顔だ。
占者は部屋を出ていく際にリニを流し見て、うっすらと笑った。
「やっぱりいい相性ね」
「え?」
彼女はそれ以上は何も言わずに去っていった。普通の人なら無礼な態度だが、占者は浮世離れしているほうが評判がいいので仕方がない。
リニはクラースの正面のソファーに座った。
「それどうしたの?」
テーブルの上に、クラースを呪った呪具が置かれていた。あれ以来見ていないから、厳重に保管されているのかと思っていたのだ。
「呪いの解き方を、もう一度調べてもらってたんだ」
「え、そうなんだ」
リニは意外な思いでクラースを見つめた。彼自身が積極的に呪いを解こうとする姿を今まで見ていなかったので、まだこの状況に心から納得しているわけではないのだろうと思っていた。
「普通の呪具なら、こもった怨念を晴らすことで、だいたいの呪いを解くとこができるらしい。それがまあ難しい上に、やり方もそれぞれで決まっていないから、見つける前に呪いが完遂されるか、時間が経って元に戻るかのどちらかが多いと言われた」
「でもあの占者の方は少しは解く方法に心当たりがあったのじゃない?」
さっき彼女はクラースに試してと言っていた。試せることがあるからそう言ったのではないか。
クラースはとても嫌そうな顔でしばらく黙った後、重い口を開いた。
「あの呪具はかなり特殊で、恐らく若返りを強く望む、そこそこに若い人間を騙して呪具を抱かせてから、痛みのない方法で殺すということを繰り返していた、らしい」
「うわぁ」
テーブルの上の呪具を思わず見てしまって、リニは呻いた。
噂に聞く、拷問だとか、苦しんで死んだ人間の念を込めたものに比べればまだましなのかもしれないが、それにしても何人かの人の命で作られた呪具だとわかって、不気味なものからおぞましいものへと変化した。
「そいつらの念があの呪具にこもっているから、その念を晴らせばいいと言われた」
「どうやって?」
「そいつらの墓を探し当てて、呪具と一緒に占者にもう自分が亡くなっていることをわからせてもらうとか」
「さすがに三年以上かかるのでは」
呪具というのはほぼ百年以上昔に作られたものだ。そもそも殺された人の墓がないかもしれないし、自然解呪のほうがどう考えても早い。手掛かりがなさすぎて、一生かかっても無理そうである。
「霊峰に置いて浄化されるのを待つとか」
「それは二年ぐらいって聞いたことあるわ。行くのも大変だし、ほぼ三年近くかかりそうね」
呪具を浄化させる方法として一番有名なものだ。しかし道は険しいし、浄化だけで二年かかるなら、これも待っているほうが早い可能性がある。
「ねぇ、呪念を晴らすなら、ちゃんと若返って願いが叶ったことをわかるようにしてあげればいいんじゃないの?」
「それで呪いが解けるなら、この呪いに何の意味もないだろ」
「あっ、そうね」
うーんと考えながらも、リニはクラースに問い詰めるような視線を送る。きっとまだ何か言っていないことがあると踏んだ。
気まずそうにそっぽを向いたクラースは、拗ねたように言う。
「負のオーラを出すなと言われた」
「え? 負のオーラ?」
「……呪念は負のオーラなんだ。それと同調してしまったら呪いが解けにくかったり進行しやすかったりするらしい。逆に幸福なオーラは呪いに対抗する。普通は呪われているのにそんなオーラを出すことなんてできないけど、俺の呪いは特殊だから、心の底から楽しそうに過ごしていたら、呪いがすぐに解けるかもしれないと言われた」
リニは首を傾げた。
さっきの二つよりも余程簡単そうな方法だ。なぜ話したがらなかったのだろうか。もしかして心の底から楽しそうに過ごすことが恥ずかしい年頃だからか。
「それは試さないわけにはいかないわね」
クラースは警戒するようにリニを見た。
「では早速、おじ様に相談しましょう。今は仕事から抜けるのは難しいでしょうけど、きっとクラースのためなら何とかしてくれるわ」
「待て。何で親父と過ごさせようとしている」
「え? だってクラース、おじ様のこと大好きでしょう」
何を今更という顔をすれば、クラースは頬を赤くして口を開けた。可愛い。という言葉をリニは心の中に止めておく。
「この年で親父と楽しく過ごしたりしねーよ!」
「ちょうどいい年齢だと思うけど」
大好きなことは否定しないんだなと思いながら、リニは冷静に指摘する。
「俺は十八なんだろ!」
十八歳でも父親と心の底から楽しく過ごしても全く問題がないと思っているリニは、なるほどと勝手に納得した。どうやら精神年齢も八歳であるクラースの中には、こうあるべき十八歳の青年像というものがあって、そこから逸脱するべきではないという思い込みを持っているらしい。自分も子供の頃に似たような思いを持っていたリニは、そう解釈した。
「じゃあ、クラースがやりたいこととか行きたいところとかある?」
クラースは渋い顔で抵抗を示した。
「自分で試してみるって頷いていたじゃないの」
ただ呪いの負のオーラをはね除けるために楽しく過ごすだけだ。さっさと観念してほしいとリニが呆れ顔になると、クラースも仕方ないことだとはわかっているのか、悩むように眉根を寄せた。
「店に行ってみたい。イズリールの」
やがて言ったクラースの言葉の意味が、リニにはよくわからなかった。自分の家が経営する店に行ってどうするというのだろう。
「立て直したんだろ。見てみたい」
「……仕事人間もここまでくるとすごいね」
「は?」
「何でもないわ。じゃあ、わたしと……行っても楽しくはないわね。誰ならいいかしら。やっぱりおじ様がいい?」
「お前、しつこいぞ」
半眼で睨まれたが、リニは他にクラースが一緒にいて楽しいであろう人物を知らないのだから仕方がない。
「じゃあ誰ならいいの」
「……別にお前でいい」
拗ねたように顔を逸らすという見慣れた仕草をしてクラースは言った。しかし、どことなく照れているようでもある。
(可愛い……)
リニは心の中で身悶えた。
「え……いいの?」
「いいって言ってるだろ」
更に正面に向き直ってムッとしながら断言されたおかげで、彼女はあっさり我慢ができなくなった。
「クラース可愛い! めいっぱい楽しもうね!」
「抱きつくなっ!」
顔を真っ赤にさせた少年が叫んだ。
自分の家が経営する店へ行くのに、さすがにそのままの格好はまずいということで、クラースは眼鏡に帽子を被った。簡単すぎる変装だが、子供のウィッグなどすぐに手に入らないので仕方がない。
「デートなんて初めてね」
「はあっ!?」
にこにことしながら軽い気持ちでリニが言うと、クラースは大袈裟に仰け反った。やはり可愛い。
ただ、その腕に持っている、白い布で覆われたものがあの呪具だと思うと、少しテンションが下がった。
念のために持っていろという占者からの助言なのだが、触れるのを躊躇っていたリニとは違い、クラースは自分から布で包んで小脇に抱えている。そういうところは子供の頃から鋼鉄メンタルだ。
高級商店がつらなる通りに、イズリール家の一番大きな店舗がある。多用な事業を手掛けてはいるが、主軸となっているのは陶器の販売業だ。自社ブランドもあれば、輸入した異国の珍しい陶器もある。
「でっかい……」
店の前に着いたクラースはボソリと呟いた。
この高級店通りに店を構えるだけでも熾烈な争いがあるのだが、イズリール陶器店はその中でも大きいほうで、高級感も一級品だ。二年前に建てられたので清潔感もある。
「貴族御用達なのよ。さあ、入りましょう」
「ああ……」
入店すると案内係が素早く近づいて来る。リニは素性を告げて支配人がいるか尋ねた。するとすぐに奥から壮年の背の高い男性がやって来る。
「いらっしゃいませ。リニお嬢様」
「こんにちは、支配人。今日はクラースの従兄弟を連れて来たのよ。店を見たいのですって。冷やかしになってしまうけどいいかしら」
「もちろん、将来のお客様は大歓迎でございますよ」
遠慮がちに言うリニに、彼は茶目っ気のある笑顔を見せた。
「ありがとう。見ているだけだから放っておいてくれて構わないわ」
リニはクラースの手を引いて店の一画へ行く。
鮮やかだが上品な色合いのカップとソーサー、プレートやピッチャーなどの陶器が棚に並んでいる。花草や果物の精緻なデザインのものが多い。
「このブランドわかる?」
「ああ、親父が数年前に作ったブランドだろ」
この場合の数年前とは、八歳のクラースにとってだろう。
「そうよ、今じゃあこの街の陶器ブランドの中で一番有名だし、国中に出荷しているのですって。このすずらんのシリーズなんか、いくらするかわかる?」
「さあ?」
リニがコーヒーカップの値段を言うと、クラースは目を丸くした。相場を理解しているところはさすがだ。
「すごいでしょ。年々新しいシリーズが高額になっていっているのよ」
「……へぇ」
感嘆しながら、クラースは嬉しそうに口を綻ばせた。
「クラースががんばったおかげだからね」
「別に……ほとんど親父の功績だろ」
「それを守ったのがクラースじゃないの」
リニがそう言うと、クラースの頬が赤くなり、隠すように俯く。
照れている姿が一番可愛いと思いながらも、リニは顔に出さないように気を付けて、別のコーナーへも連れて行く。
輸入品は更に高額なものも多く、厳重に管理されている。珍しい東の大国の陶器は金持ちの間の流行品で、リニもあまりじっくり見たことがないので興味があった。
こちらも草花のデザインが多いが、他に鳥などの動物や、何を表しているのかよくかわからない模様があり、全体的に鮮やかだ。
「可愛い! 見て、クラース。これ可愛いわ!」
見たことのない小さな鳥が描かれたプレートを指してリニがはしゃぐと、クラースは訝しげな顔をした。
「可愛いのか……?」
「可愛いわよ、何だかまるっとしていて。それに枝に止まっているところを描いているなんて、絵画そのものよね。このまま鳥籠に入れたらもっと可愛くなるんじゃないかしら」
その光景を想像しながら楽しげに言うリニに、クラースは何を言っているんだこいつはという顔をした。
「絶対に可愛いわよ!」
感性を疑われたリニは同じことを言いつつ、八歳の男の子には理解できないのだと思うことにして、じっとプレートを眺める。高額なので購入できない分、ここで堪能しておかなくてはいけない。
そんなことを考えているリニの横顔を、クラースが悩むように見上げる。そわそわし出した彼は思いきって口を開いた。
「……買ってもらえばいいんじゃねぇの?」
「え?」
「だから、俺が元に戻ったら。……婚約者だろ。働いてるならそれくらい買えるんだろ」
リニは困惑した。
確かにクラースはこのプレートを買えるくらいのお金はあるのだろうが、元に戻った彼が、リニに理由もなくプレゼントをしてくれるとは思えない。彼から今までにもらったものと言えば、晩餐会などで同伴しなくてはいけなくなった時に、新調するドレスの代金を払ってもらったことくらいだ。
高価なプレゼントではあるしありがたいのだが、ドレスのデザインはリニか仕立人が決めているので、プレゼントというよりも、クラースからすれば仕事の必要経費を払っているという感覚なのだろうと解釈してしまうのだ。
リニの微妙な表情を見たクラースが、ぐっと眉間に皺を寄せて不満そうな、少し傷ついたような顔をする。リニは慌ててにこりと笑った。今はクラースに楽しく過ごしてもらおうとしているのに、こんな顔をさせてはいけない。
「そうね。ねだったら買ってくれる?」
「覚えていたら……絶対買う」
素っ気なく言うのは照れ隠しなのだとすぐにわかった。可愛いと思う以上にリニは嬉しくなる。クラースにこんなに優しくしてもらったのは初めてかもしれない。
「ありがとう。期待して待っているわ」
満面の笑みで言うリニを見て、クラースはさっと顔を逸らす。帽子からはみ出た耳が赤くなっていた。
「クラース、手を繋ごうよ」
店を出て、通りを歩きながら手を伸ばしてきたリニを、クラースが睨み付ける。
「子供扱いするな」
「え? 違うわ。デートだからよ」
驚いてリニが否定すると、クラースも驚いて固まった。リニの手をじっと見つめて、おもむろに乱暴に掴むと、さっさと歩き出してしまう。急に歩調が早くなったものの、リニが付いて行けないほどではない。
なんだか今のクラースとのほうが余程婚約者らしいことをしていて、リニは悲しいのか嬉しいのかよくわからなくなってくる。
クラースのもう片方の手に持っているものが、あの不気味な呪具でなければ、確実に楽しめたのだろうが。クラースは呪具をリニの手よりも強く握りしめているようで、折れやしないか少し心配になってくる。
「ねぇ、コーヒーハウスに行きましょうよ。イズリールの茶器を使っているお店があるのよ」
「……子供は入れないだろ」
さっき子供扱いするなと言った手前、クラースはとても嫌そうに言った。
「あっ、そうね。ごめんなさい。じゃあ、どこがいいかしら。クラース、他に行きたいところある?」
このまま帰ってしまうのはもったいない気がして、リニはクラースが楽しめそうな場所を考える。
「別に……お前の行きたいところに行ったらいい」
「えっ、でもクラースが楽しくないと」
「……楽しくないことは、ない」
リニはまた驚いてクラースを見た。リニの行きたいところに行くだけでも楽しめると言っているようなものではないだろうか。それは、つまり。
「デートが?」
「違う! 出掛けるのがだ!」
「わたしと?」
「…………っ!」
クラースは口を開けたまま、何も言い返せなくなる。
「なぁんて、冗談よ。やっぱり家に籠ってるよりも、外に出ているほうがいいでしょう? 西広場に散歩に行くのはどう? 何か市をやっているかもしれないわ」
邪気のない笑顔でリニは冗談だと告げた。
クラースは怒ったような悔しそうな顔で、何かを言いかけてやめる。
「どうしたの?」
「いや……そこでいい」
怒鳴らなかったクラースは、少しだけ成長した。
骨董市や古着市などをよく開催している西広場は、今日は古本市の会場となっていた。普段よりも規模は小さいが、本なら勉強熱心なクラースも楽しめるので、リニはほっとする。
周囲には飲み物やソーセージサンドや、揚げたてのフリッツを売る屋台などがあった。
「クラース、フリッツがあるわ。後で食べましょうよ」
「子供っぽいもの好きだな」
「あら、大人だって皆好きなのよ。隠してるだけで。フリッツを嫌いな人なんていないのよ」
「あー、はいはい」
まるでリニのほうが子供であるかのような扱いだ。しかしちゃんと「後でな」と付け加えられた言葉に、リニはじわじわと嬉しさが込み上げてきた。
「そんな好きかよ、フリッツ」
「え?」
「顔」
呆れたように見られて、表情に出すぎていると言われていることに気づく。
「違うわよ。いえ、好きなのだけど、そうじゃなくて、クラースがわたしの誘ったことに対して頷いてくれることが嬉しいの」
自覚がないままにやけていた顔を、クラースに向けて言う。すると今までで一番、頬を赤くして視線をきょろきょろとさせた彼を目にすることができた。
とんでもなく可愛い顔を見られたのは僅かな間だけで、クラースはすぐに前を見てずんずんと歩き出してしまう。引っ張られながらリニは相好が崩れていくのを止められない。
「ねぇ、クラース、探している本とかある? 端から全部のお店見て回っちゃう?」
「…………」
照れ隠しなのか、クラースは数分ほど無言を貫いた。しかし、古本を物色しているうちに気が逸れたのか、何事もなかったかのように普通の会話が戻ってきた。子供らしくてよい。
「これも書庫にあったな。こういうところは、掘り出し物が眠っているって聞いたけど、そうでもないのか」
「たまにしかお目にかかれないから掘り出し物っていうのよ。全部見て回ったら何か見つかるかもしれないわよ」
「面倒だな……」
「ふふ、蒐集家には向かないわね。あっ、この絵本可愛い!」
水彩画で描かれたくまのぬいぐるみが表紙になっている絵本を手に取って、リニが目を輝かせた。
「へぇ、本当に可愛いな」
「なあに? その意外そうな言い方。わたしの感性がおかしいみたいだわ」
「おかしいだろ。リニの可愛いは」
「おかしくないわよ、普通よ。失礼ね」
今までずっと可愛いと言っていたことが、偏った感性によるものだと思われていたなら非常に心外だ。恨みがましい目でリニが抗議すると、クラースは声を出して笑った。その珍しい光景にリニは唖然としてしまう。
クラースはリニの手から絵本を取って店主に渡した。
「これをくれ」
「え?」
「これくらいなら買えるからな」
「なんだ、坊ちゃん。婚約者にプレゼントか?」
店主の男がからかうように尋ねる。占いで結婚相手を探すのが普通なので、歳の差がある婚約者もそれなりにいるから、冗談で言っているわけではなさそうだった。
「そうだよ」
クラースはあっさりと答えた。しかしどこか澄ました表情は、背伸びしているようにも見える。
「ほら」
「……ありがとう」
手渡された絵本を、リニは感動しながら受け取った。初めてプレゼントをもらった気分だ。こんな風に過ごしてみたいと思っていたことが実現されている。
それは想像していたよりも、胸が温かくなるようなことだった。
「大事にするわ、クラース。ありがとう」
嬉しいという気持ちが伝わるように、リニは微笑んだ。
「……ん」
クラースは上がりそうになる口角を押し止めるように引き結んでいて、やっぱり可愛いと思ってしまう。でもそれ以上に嬉しかった。
だが、穏やかな空気が流れていたというのに、クラースが急に眉を下げて不思議そうな顔で首を傾げた。胸元の服をぎゅっと手で掴む。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない。そろそろフリッツを食べに行くか」
首を振ってクラースは歩き出したが、リニは無理をしているのではないかと心配になった。
「ねぇ、具合が悪くなったの? それなら」
「大丈夫だ。ちょっと変な感じがしただけだ」
声は普通だが、繋がれた手が痛いくらいに力を込めているから、あまり大丈夫ではないのかもしれない。リニは顔を覗き込むために、前に回り込もうとした。だが、いきなり足を止めたクラースが、小さな呻き声を上げながら体を折り曲げる。
「いた……」
「クラース、どうしたの!?」
激務でも体調を崩すことがないほど健康体であるクラースが、体の痛みを訴えている。リニはとっさに呪いが原因なのだと思った。
「ど、どうしよう。占者を呼ばないと。ああ、でも、あの人がどこにいるか知らないし、おじ様に連絡すべき?」
「リニ……。大丈夫だ。治まってきたから。大したことじゃない」
クラースはゆっくり体を起こした。
しかしまだ無理をしていたのだろう、ずれた帽子を整えようとして、白い布を持った手を無意識に上げていた。
力の抜けた手から、布で覆われたものが落ちる。
コロコロと転がっていくそれは、布の結び目がほどけて、丸めた絨毯を広げるように中にあるものを飛び出させた。
近くには人がいて、落としたものを拾ってあげようとする親切さが伺える動作で、それに向かって手を伸ばしている。
「駄目です!」
リニはとっさに大声で止めた。
もうすでに呪いが発動し終えているとはいえども呪具なのだ。何かあってからでは遅い。
しかしリニの制止に深い意味などないと思ったのだろうか、エプロンをつけた若い男性である彼は、動きを止めることなく呪具を手に取って、それを見てしまった。
「うわっ、何だこれ!」
彼は慌てて呪具を手離した。
手を引っ込めるように手離したのではない。なぜか、明確なある場所に向けて放るように手離したのだ。
その先にあるのは揚げたてフリッツの屋台。の、油を張った鍋を熱している炭の中。
見事に木像である呪具は、燃え盛る炎の中へ収まった。
「えええええっ!?」
リニは思わず素っ頓狂な叫び声を上げたが、すぐにはっとして走り出す。
「えっ、ちょっ、嬢ちゃん危ない!」
「リニ、やめろ!」
まだ間に合うかもしれないと思ったリニは、炎の中へと手を伸ばそうとしていた。火傷することはわかっていたが、あれが燃え尽きてしまったら、クラースがどうなるかわからない。
しかしエプロンを付けた男性が必死に止めようとする。
「離して!」
「だから、マジで危ないっての!」
「リニ、もう手遅れだ、やめろ!」
クラースの叫び声に、リニは体を強張らせた。
確かに呪具は既に勢いよく燃えていた。今にも崩れていきそうなほどボロボロだったのだから、乾燥していたのだろう。火力が上がるくらいに燃えていた。
「そんな……」
「あー、いや、すまん。そんなに大事なものだと思わなくて、すんげえ不気味だったし、よく燃えそうだったから、つい……」
フリッツの屋台の店員らしきエプロンの男性が、とても申し訳なさそうに謝ってきた。
気持ちはわかるが、一瞬の判断で実行に移さないでほしい。
「う……」
愕然としていると、苦しそうな声が聞こえてきて、リニは慌てて振り返った。
「クラース!」
さっきよりもかなり辛そうに、クラースが体を曲げていた。
「やだ、クラース、しっかりして!」
駆け寄って様子を見るが、顔中に脂汗を浮かべて歯を食い縛っていて、危険だとしか思えない状態だ。
「お願い、馬車を呼んで!」
「お、おう!」
ぐちゃぐちゃになりそうな頭で、リニは何をするべきか必死に考えた。
幸いにして馬車はすぐに捕まえられたが、移動している間もクラースはずっと苦しそうだ。今よりももっと酷いことが起こるのではないかと、リニは気が気でない。
「クラース、もうすぐ家に着くからね」
背中をさするぐらいしかできなくて泣きそうだ。
「リニ……」
「何、クラース!」
小さな声で呼ばれて、口元に耳を寄せる。
「服が……」
「服?」
何のことかと顔を引いてみて、リニはようやく気がついた。
ちょうどいいサイズだったはずのクラースの服が、彼の体を圧迫するほど窮屈になっている。
「クラース……大きくなってる?」
撫でていた背中が広くなっている。明らかにクラースの方が大きくなっていた。
リニは慌ててシャツのボタンを外そうとするクラースを手伝った。躊躇ったがズボンのボタンも同じように外し、そうこうしている内に馬車がクラースの家に着いたのでほっとする。
たまたま前庭にいた庭師に手伝ってもらい、クラースを運んでから、執事に事情を話してあとは任せる。
しばらしくて呼んでいたハウルが急いで帰宅し、続いて昼間に会った占者がやって来た。
リニが二人に事情を話し終えると、ハウルは顔色を変え、占者は表情を変えることなく言った。
「それで、坊っちゃんは?」
「ひとまず着替えさせてもらうために、執事に任せています」
「見せておくれ」
「クラースの部屋だろう、行ってみよう」
ハウルが占者を先導する。待っていることができずにリニも後に付いていった。
クラースの部屋に入ると、彼は簡素な部屋着に着替えて、ベッドの上に座っていた。馬車の中でのように、苦しそうな様子はない。
「クラース!」
ハウルが驚いて息子に近づく。リニも目を丸くした。クラースは完全に元の十八歳の姿に戻っていたのだ。
「おめでとう。呪いは解けたようだよ」
占者が何の感動もなく言い放った。
「え?」
「だから、呪いが解けたんだよ」
「え? だって呪具が燃えたんですよ?」
「だからだよ」
混乱するリニに、占者は冷静すぎて冷たさすら感じられる声で説明した。
「炎による浄化だね。呪いを解く方法としては、占者の中ではよく知られたものだ。でも、これが間違った方法だったとしたら、最悪の結果になる場合もある。だから知っていても、この方法は誰も教えないんだ。坊っちゃん、運がよかったね。偶然、呪具が炎であぶられて、それが正しい解呪方法だったなんて」
一件落着とでも言うように占者は頷いた。
しかし他の三人はあまりの急展開についていけない。
「……よく燃えそうだったからつい、って……」
「ああ、確かにあれは私も薪に焚べたくなったね。そう思わせることが罠かと勘ぐったが、逆にそうやって警戒させることで、今まで残っていたのかもしれないね。まあ、これも偶然かもしれんが」
「ええええ」
「まあ、とにかく、もう何の問題もないから、私は帰るよ。イズリール、代金はちゃんと貰うからね」
「あ、ああ、わかった」
ハウルは部屋を出ていく前に、クラースに向かって優しく微笑んだ。
「クラース、何ともなくても、今日と明日はゆっくり休んでいなさい」
「……わかった」
部屋にはリニとクラースだけが残され、急に静かになった。リニは横目でちらりとクラースを伺う。
「……何だ、その残念そうな顔は」
低い、成人した男の憮然とした声が聞こえてくる。
「残念よ! いえ、呪いが解けたのはよかったけど、それは本当によかったんだけど、でも、あの可愛いクラースがいなくなってしまうなんて!」
リニは遠慮することなく、心からの思いを叫んだ。
数日ぶりに見た本来のクラースは、やはり性格が悪そうだ。八歳のクラースと一緒にいた時は、彼がどれだけ可愛いかったか、元に戻った時に訥々と語ってやるという嫌がらせをする気満々だったのだが、改めて十八歳のクラースを目の前にして、彼らが同一人物だと理解すると、とても気まずい。
姿が違うとはいえ、彼に対して、可愛い可愛いと何度も言っていたのだ。言わなくてもいい本心を叫んでしまうくらいには気まずい。
「悪かったな」
リニは驚いてクラースを見た。
いつもリニが聞いていた、鋭く暴言を吐く口調とは程遠い、弱々しさすら感じられるものだったからだ。
目が合ったクラースは、ふいと顔を逸らす。
その仕草が八歳のクラースのものと重なった。彼がそれをする時は、照れている時か、拗ねている時だった。
リニはまじまじとクラースの横顔を見つめてしまう。
「ねぇ、記憶残ってる?」
「……ああ」
「そ、そう」
それ以上どう言えばいいのかわかなくて、リニは黙ってしまう。大人しく帰るべきかと考えていると、クラースが口を開いた。
「明日、出掛けるぞ」
「え?」
「空いてるんだろう」
確認するまでもなく断定された。このところ毎日訪問していたせいで、暇人だと思われている。
「空いているけど……どこに行くの?」
「イズリール陶器店だ」
「駄目よ、クラース。明日も仕事は休むように言われていたでしょう」
「仕事じゃない」
「え? じゃあ、どうしてわたしも行くの?」
純粋な疑問として、リニは尋ねた。するとクラースの眉間に、ぐっと皺が寄ってしまった。不機嫌な時の顔とは違う。口角がほんの僅かに下がって、何かを考え込んでいるかのようだった。
意味がわからずリニは首を傾げる。
「約束、しただろう」
「約束?」
「絶対に買うと」
素っ気ないのに、クラースはリニをじっと見つめて言った。リニの胸が驚いたようにドクリと脈打つ。
「あっ、あれ、憶えていたの!? いいのよ、高いし、約束だからって買ってくれなくても」
本気で買って貰うつもりなど全くなかったリニは、慌てて首を振る。クラースの眉間の皺が深くなった。
「あれが気に入っていたんじゃなかったのか?」
「気に入ってはいたけど、でも」
「なら、買う。ごちゃごちゃ言うな」
怒っているかのような言い方だ。しかしリニはクラースが怒っているようには感じなかった。呪いにかかる前までの、仕事以外のものを遮断するような空気がなくなっている。
「それと、今日できなかったこともやるからな」
「え?」
リニは思い返してみた。今日、クラースとやろうとして、できなかったことを。
フリッツを食べようと言っていたことしか思い浮かばなかった。あれを、このクラースと一緒に食べるということなのだろうか。
頭の中で想像してみて、思わずポロリと口から溢れた。
「デートの続き?」
「っ……!」
クラースは言葉に詰まったように動きを止めた。しかしリニが答えを待っていることに気がつくと、さっと顔を逸らした。
「そうだな」
その姿勢のまま、何でもないことのように言う。
だが、クラースの癖が変わっていないなら、この仕草は拗ねている時か、もしくは照れている時のものである。
「かっ……!」
「……は?」
リニは叫びそうになった口をさっと手で押さえた。
(嘘でしょう! クラースが可愛い!)
あの、クラースがだ。最近はずっと憎たらしさばかり感じていたというのに。
でも、八歳のクラースは彼と同一人物なのだ。だったらリニが知らなかっただけで、ずっと可愛いところはあったのかもしれない。いや、そうであってほしい。
ただ、それを本人に言ってしまえば、このクラースは小さいクラースよりも怒るだろうし、可愛いと言われないように振る舞おうとするのではないか。
リニは決めた。クラースに気づかれることなく、彼の可愛さを愛でようと。
「じゃあ、楽しみにしているわね」
嬉しさが溢れた満面の笑みで言うと、ちらりと視線を向けてきたクラースは、またすぐに逸らしてしまった。
「ああ」
彼の頬の血色が、僅かによくなっていることに、リニは気づいてしまった。
照れて赤くなっているクラースがいる。
先程の決意はあっさりリニの頭の中から抜け落ちた。
「クラース、可愛いー!!」
「はぁぁー!?」
リニが歓声を上げ、クラースが怒鳴る。そんな二人のやり取りが日常化するようになった。
読んでくださって、ありがとうございます。