(元)汚部屋住みの女子中学生が、魔物が汚したお家と仲間の心をスッキリさせるおそうじ隊を結成する!
間一髪のところで、伸吾が部屋に入ってきた。
「なんだ、そうじしてたのか……。」
「え? ああ、そう、そうじしてるのよ。おばあちゃんのケガを治さなくっちゃいけないでしょ。」
エマがそう言うと、伸吾は口をぎゅっとへの字に曲げた。
「なにその顔。伸吾ちゃん、くちびるか舌でもひきつったの? きっと運動不足だからだよ。最近少し太ったってママが心配してたよ。ますます恋人ができなくなっちゃう、って。」
伸吾はだまってエマの頭をぐしゃぐしゃなでた。
「ちょっと、子どもあつかいしないで。私そうじしないといけないの。伸吾ちゃんと遊んでるヒマなんてないんだよ。」
「うん、そうだな。でももう夜だから夕飯を食べて、続きはまた明日やろう。オレもてつだうからさ。」
「だめ! 急がないと、心がもとに戻らなくなっちゃう。」
伸吾はエマをじいっと見つめると、ほうっと息をついた。
「エマ、屋根裏部屋で寝ていて恐い夢を見たんだね。とにかく今夜はもう、そうじは大丈夫だから。エマの好きなエビフライを食べよう。伸吾特製タルタルソース付きだよ。」
「夢なんかじゃない!」
「うん、わかったから。」
「ほら見て、これが証拠だよ。」
エマは靴下をおろした。伸吾はエマのふくらはぎを見ると、はあっと息をはいた。
「なんだ、やっぱりなんともないじゃないか。驚かさないでくれよ。」
「えっ――。」
エマも確かめると、両脚ともなにもなかった。
(そうか、夢だったんだ。天麻も、舞羽も……。)
少し片づいた部屋は、久しぶりに床にスペースが空いている。
そうじをしていたのは本当だ。
いくらなんでも眠ったままでは作業なんてできない。屋根裏部屋で目を覚ましたエマは、寝ぼけたまま自分の部屋に行ったのだろう。
お腹がぐうっと鳴る。
「わかったわ、ご飯にする。」
エマはうなずき、伸吾と一緒にダイニングに降りて行った。
夕飯を食べ終えて自分の部屋に戻ると、エマはそっとふとんをめくってみた。
そこには人形がついた羽ぼうきがあるだけだった。
(そうだよね……。妖精なんているわけない。)
エマはどっと疲れた。ベッドの中にもぐりこむと、あっという間に眠ってしまった。
朝起きて、おばあちゃんがケガしたことも夢だったらいいのにと思ったけれど、やっぱりそれは現実だった。
昨夜遅くに病院から戻ってきたママは、朝食を食べながらおばあちゃんのケガと入院について話した。
「ママはこれから毎日病院に通うことになる。とっても忙しくなるわ。二人とも、いい子で協力してくれるかしら。」
エマと淳之介は大きくうなずいた。
「それで、おばあちゃんのケガはひどいの?」
エマは一番こわいことをきいてみた。
「今はまだなんとも言えないわね。まずは安静にして、骨がくっついたら、ちょっとした手術をするそうよ。とりあえず、あなたたちがお見舞いに行けるようになるのは、早くても来週ね。おばあちゃん一人では歩けなくて、家だとトイレに行くのも大変だから、病院のベッドにちょうど空きが出たのは不幸中の幸いだったわ。ただねえ……。」
ママはため息をついた。エマはその先が不安でたまらなかった。
「おばあちゃん、すっかり元気がなくなっちゃって。かなり痛むみたいだから、しかたないのかもしれないけれど。完治するには時間がかかるわね。」
エマはおばあちゃんの痛みを自分に分けてもらえたらいいのに、と思った。
「それから、エマ。おばあちゃんがケガしたことと、あなたがそうじをしなかったことは別よ。自分を責めないで。」
ママは昨夜のことを伸吾から聞いたのだろう。きっと伸吾のことだから『エマがなにかにとりつかれたように、突然そうじを始めた』とかなんとか、大げさに言ったに違いない。
「そんなつもりじゃないよ。ただ、そうじをしないと汚れやよどみがたまっちゃうから。そうしたら……。」
「そうしたら?」
(あれ? 汚れやよどみがたまって、どうなるんだっけ……?)
確かとても良くないことが起こるはず――。
エマが考え込むと、ママはため息をついた。
「あなたがやる気になってくれたのは、ママとっても嬉しいわ。でもそんなにいきなり、ぜんぶをやろうとしないでいいのよ。なにより続けることが大事なんだから。」
そうじをしないときは『この瞬間から始めなさい』とまで言われたのに、いざやり出すと『そんなに急にしなくていい』だなんて、ママの言うことはよくわからない。
「あのね、部屋をきれいにしようって思ったのは、おばあちゃんのケガのせいだけじゃないの。私、『そうじをする』っていうママとの約束を何度もやぶったでしょ。約束を守らないっていうのは、ママだけじゃなくて自分のことも裏切ったことになる、って気づいたの。そんなことをしていたら部屋だけじゃなくて、私の心もすっかり汚れちゃう。きっといつか、とりかえしがつかなくなる。」
「エマ……。」
「おばあちゃんの言ったとおり、部屋は心の鏡なんだわ。」
「エマがそんな風に考えるようになったなんて、ママはとっても嬉しい。安心したわ。伸吾の話を聞いたら心配になって。だって『悪魔にとりつかれたみたいにそうじをしてた。』なんて言うから。」
「ええっ?」
(女の子にとりついて、部屋のそうじをさせる悪魔なんているわけないでしょ!)
やっぱりエマが想像したとおりだった。伸吾が間に入るとなにかと食い違いが起こりやすい。ちょっと寝ぼけていただけなのに大きな誤解だ。
「そうだよ、おねえちゃん。慣れないことをして、くじらが丘が異常気象になったら一大事だよ。ぼくのクラス、来週遠足なんだ。」
淳之介はいっちょうまえに口をはさんだ。
「ふーん、そう。いいわ、わかった。そうね、ゆっくり続けることにするわ。」
エマは淳之介のほっぺをつまむように軽くつねった。
「ママ、おねえちゃんがあ!」
「ちょっとあなたたち、やめなさい。そんなんじゃおばあちゃんのお見舞いには連れていけないわよ。」
ママが二人をにらむと、淳之介は両手で口をおさえた。
午後になると、琴美と司がエマの家にやってきた。二人をリビングに通して、エマはオレンジの輪切りを浮かべた紅茶をいれた。これはおばあちゃんお気に入りの飲み方で、エマも大好きだ。
「おばあさま、大変だったわね。ママから聞いたわ。」
おばあちゃんは琴美の父親の病院に入院している。
「オレたちにできることがあったら、遠慮しないで言えよ。澄子ばあちゃんには、幼稚園の頃からずうっと世話になってるんだから、オレのばあちゃんでもある。」
「ありがとう。」
二人の顔を見たら、エマはほっとした。
「じつはね――。」
エマは二人に昨日のことを話した。舞羽と天麻のことをのぞいて。
「そうだったの。エマちゃん、つらかったでしょ。」
「賀田月の頭についたポップコーンを見たとき、秘密基地作りより、部屋のそうじをした方がいいんじゃないかって一瞬思ったんだ。」
司はなぜか責任を感じているらしい。
「よし。そういうことなら賀田月のそうじ、てつだうよ。」
「あ、そう。てつだう……って、ええっ?!」
それは困る、とあせるエマのとなりで、琴美がうれしそうに立ち上がった。
「それがいいわ! 家族が入院したときってみんなとても大変そうなのに、おてつだいできることって少なくて。でも、エマちゃんのお部屋そうじなら私たちにもできるわ。」
琴美はティーカップを片づけ始めた。
「えーっと、そうじ用具は、と……。」
司がバケツやなんかを探そうと部屋を見まわすと、淳之介がすかさずやってきた。
「司兄ちゃん、そうじ用具持ってきました! あとこれゴミ袋です。」
淳之介の態度がいつもと全然違う。運動神経がよくて成績もいい司に、憧れているのだ。
「ありがと、淳之介。気がきくじゃん。」
司は淳之介の頭をわしゃわしゃなでた。司にほめられて淳之介はうれしそうだ。
琴美と司のすばやい連携プレーにエマはますますあわてた。
「あのね、冗談ぬきでテレビに出られるくらい散らかってるから。もし二人にまでケガさせちゃったら責任とれないし、立ちなおれないよ。」
エマは、階段をのぼってエマの部屋に向かう二人を追いかけた。
「毎日サッカーで鍛えてるんだぜ。障害物をよけるのなんか、わけないっつーの。」
「エマちゃんがおそうじ苦手なのは、よーく知ってるから大丈夫よ。」
「そうそう、賀田月は教室の机の中もロッカーもひどいもんな。今さらこの程度で――。」
司と琴美はエマの部屋の入口でかたまってしまった。
(あーあ……。そりゃ、ひくよね。)
さすがに恥ずかしくて、エマはどこかに隠れてしまいたかった。
けれど見られてしまったのものはしかたがない。
「ね、だから言ったでしょう。」
「なんでちょっと得意そうなんだよ。おかしいだろ。」
「うっ、ううん、エマちゃん。そうじゃないのよ。逆よ、逆。ただちょっとその、思ってたより片づいていたから、ビックリしただけよ。」
そんなはずはない。部屋の真ん中に、なんとなく仕分けした物の山があるだけだ。
(これを『片づいている』といってくれるなんて。)
優しい琴美のフォローに、かえってエマは落ちこんだ。
「おい、賀田月、その脚どうしたんだよ?!」
司はぎょっとして言った。
「えっ?」
エマは自分の脚を見た。
あの溶けた銀のようなものが、ふくらはぎをはいまわっていた。
「やだ、どうして――。昨日のは、やっぱり夢じゃなかったんだ……!」
「夢?! いったい何があったんだよ?! それ、生きものなのか?」
「とにかくすぐ病院に行かなくちゃ。こんなの見たことないもの。」
青ざめながらも、琴美は冷静だ。
「みなさん! それについては、私から説明させていただくわ。」
ベッドの中から、舞羽がクラッカーのようにポンと飛び出てきた。
「舞羽!」
三人のもとへ飛んできた舞羽を、エマはぎゅうっと抱きしめた。
「やっぱり、生きてたんだね! うれしいっ。」
「ちょっと、人を勝手に殺さないでくれるかしら?」
「そういう意味じゃなくて、夢だったのかと思ったの。」
「ひさしぶりにたくさん動いたから疲れちゃって。パワーを充電するためにちょっと眠っただけよ。」
「なーんだ、そうだったの。ま、私もゆうべはクタクタですぐ寝ちゃったよ。」
琴美と司はあっけにとられて、二人のやりとりを見ている。
「紹介するね。この子は羽ぼうきの妖精で、舞羽っていうの。」
「はじめまして。よろしくね。」
舞羽はドレスをつまんで、プリンセスのようにおじぎをした。
琴美と司はぽかんと口をあけたままだ。
「えーっと。いったん整理しよう。」
司は難しい顔をして、人さし指で眉間をおさえている。
「緒川にもあれ……その、人形みたいなのが動いているように見えている?」
「ええ。エマちゃんと楽しそうにしゃべっているのも聞こえているわ。」
「ということは、これは現実ってことだよな?」
「……そうみたい。」
舞羽は「信じられないのも無理もないわ。」とうなずいた。
「でもね。エマの脚についている影、これがふつうの病気やケガだと思う?」
エマは銀色スライムがよく見えるように、靴下を足首までさげた。
「ふいてもとれないの。痛みとかかゆみとかは、なにも感じないんだけど。」
ねっとりした銀色の絵の具がたれるようにうごめいている。
「……信じるわ、エマ。」
「オレも信じる。」
琴美と司は真剣な顔つきでうなずいた。
舞羽から天麻のことを聞いた琴美と司は、はりきってそうじにとりかかった。
「へー。絶望的に散らかってるけど、部屋はそんなに汚れてないんだな。」
司は妙に感心していた。
「少しずつ物をどかして、そうじはしてるもん。」
「散らばっている物は、エマちゃんのコレクションなのね。」
エマはシールとかぬいぐるみとか文房具など、ちょっとおもしろいデザインの小物や、可愛い雑貨を集めるのが大好きなのだ。
「このままお店がひらけちゃいそう。」
琴美はヒヨコの形をしたえんぴつ削りをてのひらに乗せて、ふふっと笑った。
「それいいな。これぜんぶ適当に段ボールにつめて、ネットで一箱五〇〇円で売ればすぐ終わる。」
「あのね、私の大事なコレクションをたたき売りしないでよ。」
エマの可愛いコレクションは、三分の一にへらした。『じつはそんなに好きじゃなかった物』はぜんぶさよならし、心から気に入っている物だけを残したのだ。
いらない物もたくさんあった。壊れて使えないキラキラシール・メーカー、サイズが小さくてはけなくなったローラーブレードなど。
ずっとお気に入りだったのに、一つ一つ手にとってみると、今はもうちがう物がたくさんあった。
「だいぶ片づいたわね。」
舞羽は腰に手をあてて部屋をみまわした。
「うん、そうだな。」
司はおでこの汗をぬぐった。
「あとは、この宝物たちをしまうだけね。」
琴美のサラサラヘアも、さすがにくしゃくしゃになっている。
「うん。ここからは私一人でもできるわ。みんな、あり――」
お礼を言おうとして、エマはふと身体が軽くなったように感じた。
もしやと思い、靴下をおろしてみると――。
「銀色スライムがなくなってる!」
司、琴美、舞羽が頭をぶつけそうな勢いでいっせいにのぞきこんだ。
「本当だわ……!」
「すげえ。」
「やったわね!」
舞羽はエマに飛びついた。司は「よっしゃあ!」とガッツポーズをし、琴美は手をたたいて喜んだ。
「みんなのおかげだよ。本当にありがとう。」
天麻の災いをはらったのだ。これで安心しておばあちゃんのお見舞いに行ける。
「うわっ、なんだエマ、やればできるんじゃないか。すっかりきれいになったな。」
ちょうど伸吾がおやつを持ってきてくれたので、エマたちはスライムシェークで乾杯した。
(やらなきゃいけないことから逃げている方がつらいのね。ちゃんと向き合った方が、ずっと楽なんだわ。)
その晩、エマは晴れやかな気持ちでぐっすり眠ることができた。
「エマ、エマ起きてちょうだい。大変よ。」
「なあに、舞羽ったら。まだ太陽ものぼってないよ……。」
早朝、むりやり起こされたエマはがくぜんとした。
あれだけがんばって部屋を整理したのに、片づける前の状態に戻っていたのだ。
「ウソでしょ――。」
ショックのあまりエマはベッドにつっぷした。
「あああもう、どうしてこんなことになるの?」
エマは手足をジタバタさせてもだえた。
「そうだわ、それより脚は?!」
舞羽が緊迫した声で言った。エマは急いでパジャマのすそをめくってみる。
「また出てる……。」
銀色スライムが、ふくらはぎの表面をゆうゆうと泳ぐように動いていた。
昨日の片づけもそうじも、すべて無駄だったのだ――。
「なんだかやる気が吸いとられるみたい。」
エマはぐったりした。
「それが天麻のねらいなの。でもこうなったのには、なにか原因があるはずよ。」
「原因って?」
「きっと、エマの『心』にまだよどみがあるのよ。」
「ええっ? そんなことない。あんなに胸がすっきりしたのは、生まれて初めてだったんだから。ミントソーダより気分爽快だよ。」
「そうなの? だとしたら、うーん、おかしいわねえ……。」
舞羽とエマはくびをひねって考え込んだ。
けれどなにも思いつかない。エマはとりあえず学校へ行き、舞羽は原因を調べることになった。
学校から戻ると、嬉しいことがあった。なんとおばあちゃんのお見舞いに行けるというのだ。
「本当はもう少し先の方がいいんだけど、おばあちゃんの様子がね……。」
「えっ……。」
エマの胸はざわざわした。部屋がもとに戻ったということは、災いをはらえていなかったということになる。なにかおばあちゃんに影響しているのかもしれない。
(とにかく、おばあちゃんに会わなきゃ。)
エマはママの運転する車で病院に行った。
ママは看護士さんと話があるというのでナース・ステーションにいる。
淳之介はパソコン教室があるので、次の機会に来ることになった。出かけるギリギリまでかなりごねたけれど、最終的にはあきらめた。
エマは一人で、四人部屋の病室に入っていった。
おばあちゃんは窓ぎわのベッドに寝ていた。大きなギプスでがっちり胴体を固定されていて、そこだけロボットのようだった。
「あら、エマちゃん。来てくれたの。ありがとう。」
とても弱々しい声だった。しゃべるだけでも、ケガした場所が痛むようだった。
「おばあちゃん……。」
話したいことがたくさんあったのに、一つも出てこない。かわりに涙が出そうになる。エマはあわてて口をひらいた。
「あの、病院のご飯、おいしい?」
よりによって一番どうでもいいことをきいてしまった。
でもおばあちゃんは、そんなエマの気持ちをぜんぶ知っているというように、優しく目を細めただけだった。
「ずいぶん心配かけちゃったわね。ごめんなさいね。」
(あやまらなくちゃいけないのは、私なのに――。)
エマはぎゅっと唇をかんで、くびをふるのがせいいっぱいだった。「ごめんなさい。」を口にしたら、エマは大泣きしてしまうと思った。
「あのね、私、部屋を片づけてるの。」
おばあちゃんの目が、雲間から太陽がのぞくように一瞬明るくなった。
「まあ、そう。」
「琴美ちゃんと司ちゃんと、舞羽と一緒にやってるんだよ。」
「舞羽ちゃん? 新しいお友達かしら。」
「ううん、前からの友達だよ。おばあちゃんが買ってくれた、羽ぼうきの妖精のこと。覚えてる? 羽根のドレスを着ているの。」
おばあちゃんは「羽ぼうきの妖精、ドレスの……。」とつぶやくと「ああ。」と思い出した。
「そうだったね。駅前のお店に、一緒に買いに行ったわねえ。」
おばあちゃんは懐かしそうに微笑んでから、すっとさみしそうな表情になった。
「もう一緒に行ってあげられないのね……。」
おばあちゃんの瞳がぼやけた。まるで、壊れてピントがあわないレンズみたいだ。
(あっ――。この目、知ってる。)
エマははっとした。天麻のほら穴のような瞳だ。
(おばあちゃんだ――。)
心に『よどみ』ができているのは、おばあちゃんだとエマは直感した。
(天麻が食べているのは、おばあちゃんの『心』だ!)
「そんなことないよ、行けるよ。ケガが治ったら、また一緒にお出かけしようよ。」
いつもなら「そうね。」とうなずいてくれるのに、おばあちゃんは黙ったままだ。
「エマちゃん。退院したらね、おばあちゃんはケアセンターに入ろうと思うの。」
「ケアセンター? ケアセンターってなに、どういうこと?」
「残念だけれど、おばあちゃんね、また歩けるようになるとは思わないの。お家に帰っても一人じゃ何もできない。トイレやお風呂も一苦労だわ。だから専門のケアセンターに入るのよ。」
「そんな……!」
「家からバスでたった五つめ。遠くないから、いつでも会えるわよ。」
「いやだ……そんなの、いやだよ。おばあちゃん、ずっとうちにいて。きっと治るよ。リハビリをすればまた歩けるようになるよ。」
エマはおばあちゃんの手をにぎった。
「ごめんね。おばあちゃんはね、もうそんなにがんばれないのよ。」
「そんなことないよ。私――。私も今度は必ず最後までやるから。絶対、絶対に途中で投げ出さない。ずーっとおそうじを続けるから。だからおばあちゃんもあきらめないで。歩けるようになるって信じて。」
「……エマちゃん。ごめんなさい、ムリなのよ。」
おばあちゃんの目じりに涙が光った。
「エマ! いやだあなた、いったい何をしてるの。」
看護士さんと話していたママが病室に戻ってきた。おばあちゃんが泣いているのでびっくりしている。
「おばあちゃんはケガをしているのよ。興奮させないでちょうだい。」
「ちがうのよ、揺子さん。エマちゃんがおそうじ始めたっていうから、嬉しくて。」
ママはため息をついた。おばあちゃんがエマをかばっているとわかっているのだ。
「エマ。一階のカフェでジュースでも飲んでいなさい。」
ママはエマに五〇〇円玉をわたした。
「でも。」
「そこで待っていなさい。いいわね?」
いやとは言えない雰囲気だ。
「わかった。またね、おばあちゃん。」
エマはしかたなくうなずいて、病室をあとにした。
帰りの車の中で、エマは天麻の災いについてずっと考えていた。
部屋に戻ると、舞羽が山になった物の上に座っていた。
「おかえりなさい。おばあちゃんの具合、どうだった?」
「『よどみ』はおばあちゃんだわ。すごく落ち込んで気力がなくなっていたの。」
エマは病院でのことを話した。
「そういうことか……。エマに憑いて、おばあちゃんの心を食べるなんて、天麻もずいぶんと手の込んだことをするわね。これはちょっとやっかいよ。」
舞羽は難しい顔でうでを組んだ。
「きっと、骨折するのは私のはずだったんだわ。おばあちゃんは私を守って、身代わりになってくれたのよ。」
エマはうつむいてくちびるをかんだ。
「おばあちゃんに元気になってほしい。私、なんど部屋がもとに戻ったって、あきらめないで片づけをする。」
「残念だけれど、天麻がおばあちゃんの心を食べているなら、あなたがどんなにがんばっても助けるのはむずかしいわ。おばあちゃんががんばるしかないのよ。」
「もしそうだとしても、おばあちゃんはこの部屋でケガをしたんだし、私の脚に銀色スライムがくっついてるのよ。関係ないってことはないと思う。私がおばあちゃんの分も元気になれば『よどみ』をはらえるんじゃないかな。」
エマはなにがどうあっても、一歩も引かないと決めていた。
「わかったわ。エマがそういうなら、一緒にがんばりましょう。」
舞羽とエマはにぎりこぶしをつくり、グータッチをした。
エマと舞羽がかたく決意をして片づけると、部屋はもうもとに戻ることはなかった。ついにきれいに片づけられたのだ。
「やったわ! エマ、あなた、すごいじゃない!」
舞羽とエマはおどり上がってよろこんだ。
エマは嬉しくなって、家中を片づけ始めた。すると、今までは気にならなかった部屋のすみのホコリとか、いろんな物が目につくようになった。エマが家中をきれいにしていると、淳之介もあちこちを片づけ始めた。
「通り道に物があると、おばあちゃんが転ぶかもしれない。」
玄関を占領していたキックボードを、自分の部屋にしまうようになった。
エマはパパがお休みの日にお願いして、階段や廊下に手すりをつけてもらった。
「パパありがとう。これでおばあちゃん、安心して帰ってこられるよね。」
「……そうだな、エマ。」
「おばあちゃんが帰ってきたらまず、退院のお祝いにお茶会をひらくの。琴美ちゃんに教わって紅白のしましまクッキーを作ってね、びっくりさせちゃうんだ。」
「そうか。それはすごいな。」
パパはなぜか困ったような笑みを浮かべている。
「エマ、おばあちゃんはな……。」
「なに?」
「いや、お茶会楽しみだな。パパはちょっと仕事があるから、もういいか?」
「うん。」
おばあちゃんが帰ってきたら、またいつもの毎日に戻れる。そう思うと、エマは嬉しくてしかたがなかった。
けれど、おばあちゃんは退院しても家には帰らなかった。ケアセンターに行ってしまった。
おばあちゃんがいない家は、静かでがらんどうだ。
ママはケアセンターと家を行ったりきたりで疲れているし、パパは仕事で忙しくて夜遅くにならないといないし、淳之介もどことなく元気がない。
たよりにしたい舞羽も妖精の国に里帰りしてしまった。
「こんなときにごめんなさい。でも他にも仕事があって、一度妖精の国に戻らないといけないの。フェアリー・キングとクイーンに(妖精の王と女王)に天麻の報告もしないといけなくて。エマ、一人で大丈夫?」
「ぜーんぜん、平気だよ。私、やればできる子だもの。」
本当は一人で心細かった。でもそれぞれみんな、やらなければいけないことがある。自分のことは、自分でなんとかしないといけない。
すっかり片づいた部屋の中で、エマは一人ぼっちだった。
(どんなに部屋をきれいにしても、無駄だったのかな。きっともう遅かったんだ。)
じっとしていると、よくないことばかり考えてしまう。
(やだ、私が落ち込んでどうするの。おばあちゃんの分まで元気にならないといけないのに。)
エマは立ち上がった。
毎週火曜と木曜は秘密基地でミーティングだ。ここ最近、エマはバタバタしていたのでお休みしていたけれど、久しぶりにいってみることにした。自転車を飛ばして琴美の家に向かう。
「琴美ちゃん、司ちゃん、ひさしぶり!」
エマはトレーラーのドアを勢いよく開けた。
「うわっ、賀田月じゃん。」
そう言ってから、司はしまったというように自分の口をおさえた。
「まったく、いきなり入ってくるなよな。」
司はなぜかあわてたようにエマの前に立ちはだかった。
「なにそれ。急に来ちゃいけないみたいじゃない。」
「そうじゃないけどさ。タイミングとか色々あるだろ。」
「変なの。ねえ、じゃまだよ。中に入れない。」
「だめだ。賀田月は入るな。」
「ちょっと、どうしてよ?」
「今日は帰った方がいい。そうだ、この食べかけのピーナッツをやるから、今すぐ帰れ。」
「はあ?! 私鳩じゃないし!」
「いや。賀田月、前世は鳩だったろ。オレは知ってる。」
司はむりやりピーナッツの袋を押しつけると、真顔でエマを追い返そうとした。
「あれっ、エマちゃん。来たのね!」
ふりかえると琴美が立っていた。両手にたくさんの折り紙をかかえて。
二人は秘密基地で千羽鶴を折ってくれていたのだ。
「司くんがエマちゃんを驚かそうっていうから、内緒にしてたのよ。」
「それで私を追い返そうとしたの?」
「鶴の恩返しだってさ、人に見られたら効果なくなるじゃん。あーもう、せっかくここまでやったのに。」
司は不満そうだ。
「千羽鶴に『見られちゃいけない』ルールはないでしょ。」
「私もそう言ったのに、司君たらきかないの。」
「けど、どっちも鶴だぞ。万一ってことがある。」
司は算数は得意だけれど国語が苦手だ。いろんな物語がごっちゃになっているのだろう。そしてときどき妙に縁起を気にする。『スポーツをやる人には案外そういうところがあるんだ』と伸吾ちゃんが言っていたけれど、エマには不思議だった。
「おばあちゃんのためにありがとう。」
エマがお礼をいうと、琴美と司は顔を見合わせた。
「そうじゃないわ。これはエマちゃんのためよ。エマちゃんが元気になるように、司君が作ろうって言い出したの。」
「えっ?」
司はふてくされたような顔で横を向いた。日に焼けた頬が赤くなっている。
「賀田月、脚の銀色スライムまだ取れてないんだろ。よくわかんないけどさ、女子ってそういうの気にしそうじゃん。」
「エマちゃんが最近スカートはいてないのは、そのせいなのかなって。」
「オレたちにしか見えないんだから、気にすることねーのにさ。」
「琴美ちゃん、司ちゃん――。」
(二人ともそんなに心配してくれてたんだ。)
鼻の奥がツンとして、エマは目じりを手でこすった。
「二人のおかげで、バッチリ元気になったよ。」
『よどみはよどみを呼ぶ』。
エマは舞羽の言葉を思い返した。
ようやく部屋も心もすっきりさせたのに、ちょっとした隙間ができたとたんに、また『よどみ』がたまっていたのだ。
がんばっても、意味がないのかもしれない。
そう考えたら、部屋のすみにたまっていくホコリを見ても、なんとも思わなくなり始めていた。
「ねえ、決めた!」
エマは立ち上がった。
「私、くじらが丘中をすっきりさせる!」
「ええ?」
琴美と司がぽかんとしてエマを見上げた。
「よどみがよどみを呼ぶなら、すっきりはすっきりを呼ぶはずよ。よどみなんてすっかり追い出してやるの。」
「街中をおそうじするってこと?」
「それはわからないけど、でもとにかくすっきりさせるの。」
「ふふ、なんだか楽しそう。」
琴美は目を輝かせて胸の前で手をくんだ。
「あのなあ。そんなふわーっとした目標でさ、なにをどうするわけ?」
「それは……。」
エマはあてもなく上を見て考えた。ポンッとラムネの栓をあけるような音がして、三人の頭の上に舞羽があらわれた。
「ただいまー!!」
「あっ。舞羽、おかえり!」
エマは舞羽を抱きしめた。
「大変なときに留守にしてごめんね。一人で大丈夫だった?」
「一人じゃないよ。琴美ちゃんと司ちゃんがいてくれるんだから。」
「そうだったわね。あなたたち仲良し三人組だものね。それにしてもエマもその気になっていたなんて、タイミングばっちりだわ! さすが私ね!」
「その気って、なんのこと?」
「くじらが丘をすっきりさせる、って話よ。」
舞羽はドッキリをしかけているような笑みを浮かべた。
「じゃーん!」
舞羽は背中に隠し持っていたガラス板をかかげた。キラキラと虹色に光っている。
「なにそれ?」
三人はいっせいに板をのぞきこんだ。透明なガラスに金色の文字が彫ってある。
「これはフェアリー・キングとフェアリー・クイーンからの、任命証よ。」
「にんめいしょう?」
「何語なの? ぜんぜん読めないわ。」
外国語の筆記体のような文字に、花や鳥のイラスト風の飾りがたくさんついている。
「これは妖精文字よ。いい? よく聞いてちょうだいね。」
舞羽はこほんと咳ばらいをした。
「『賀田月エマ、緒川琴美、玉木司。この者たちを人間界のハートすっきり隊に任命する。』おめでとう!」
舞羽が大きな拍手をした。
「いや、おめでとうとか一人でもり上がられてもさ、その説明じゃわけがわからないっつーの。」
司はもちろん、エマも琴美もちんぷんかんぷんだ。
「つまりあなたたち三人は、人間界で天麻と戦う特殊チームとして正式に認められたの。これは大変な名誉よ。推薦したのは私なんだから、感謝してよね。」
舞羽はウィンクをした。
「は? なんだそれ?!」
司は大きな声で言った。
「特殊チームっていうとかっこいいけどさ、ようするに『そうじ隊』ってことだろ。サッカーの練習も勉強あるし、こうみえてもオレたちけっこう忙しいんだぜ。」
「それぞれやることがあるっていうのはわかるわ。でも天麻のしわざを見て見ぬふりできる? エマのことだって、こんなにたくさん鶴を折るくらい心配してるじゃない。放っておけないんでしょ?」
「それはそうだけどさ……。」
司は言葉につまって、髪をぐしゃっとかいた。
「決まりね。」
舞羽がにっこり笑った。
エマはこの上ないタイミングに運命的なものを感じた。全身に力がみなぎっていく。
「よーし、ハートすっきり隊、活動開始よ!」
エマが右手を出すと、司と琴美、舞羽が手を重ねた。
「おー!」
全員の声がトレーラーいっぱいに響いた。
―そうじ魔誕生 完―