第88話 船の色
倉庫の外へ出ると、階段が一本繋がっておりそこを上がると四時間振りの太陽の明かりが船内を薄明るく照らしていた。今回翔は人生初の乗船ではあったが、まさか異世界で体験するとは全く想像していなかった。
船の中に人はおらず、翔の頭上で何か話しているような声が聞こえることから甲板で作業をしているのだろう。
「……すご」
あたりを見渡してまず最初に目に飛び込んできたのは船の横につけられた大量の大砲だった。片側を見るだけでも十は有に超えているだろう。さながら映画のセットの世界に迷い込んだかのような気分だった。
しかし、今探しているのはロマンではなくトイレである。
時折聞こえる足音に警戒しながら翔は船の中でトイレを探す。しかし、船の中にあるトイレがどのようなものかはあまり想像することができない、下手をしたら海にそのまま垂れ流しするのが礼儀なのかもしれない。
「そうなったら……レギナさんには悪いけど。砲門から……」
野糞の経験は野宿を行なっているため翔はそれなりに慣れてはいるが、それでも水洗トイレが普及していた現代日本の申し子としては清潔感のある白い便器のトイレが恋しい時もある。
トイレを探すこと数分。なかなかそれらしきものの姿を見ることはできない、それどころか個室らしきものの姿がどこにも見当たることができない。流石に膀胱の中身が限界に達しようとしていた。
周囲を見渡し、誰もいないことを確認し船の壁側にある板で塞がった砲門をゆっくりと開ける。開けた瞬間に感じる潮風と、海の冷たい水飛沫、改めて自分が立っているのは海の上だということを理解する。
「失礼します……っと」
砲門からブツを出し、早々に便を済まそうとした、まさにその時だった。
「……うん? そこで何やってるんだっ!」
「やば……っ!」
早く便を済ませたいと思っていたばかりに周囲の警戒が疎かになっていた。甲板から降りて来たのだろうか、船員に声をかけられてしまう。一瞬で頭が真っ白になる翔。だがそんなことお構いなしと船員の男がゆっくりと近づいてくる。
「……何やってんだ。お前、そんなところで」
「……えっと。見ての通り、トイレです。はい……」
「便所なら上だぞ? なんでこんなアホみたいな格好でしてるんだ」
少し鼻の赤い男は不思議そうな表情で、股間を砲門の外に突き出しているアホみたいな格好をしている翔に訪ねる。
男は、翔が密航者だということには気づいていない様子だ。
「……えっと。すみません、俺。この船に来てから日が浅くて、確か。そうっ、上でしたよねっ! はいっ! 思い出しましたっ!」
「……あぁ。ポルトスで新しく入った新人か、そうかそうか。そりゃ、教育係がしっかり説明してねぇのが悪いよな」
「あはは、ほんとそうですよね」
「ははは、悪いなぁ。しっかり教えてやらなくて」
「あはは、はい?」
「俺がその教育係なんだが?」
男の言葉に全神経が凍る。翔の顔はすでに青を通り越して真っ白に変わりつつあった。
「……えっと。今日、顔合わすのは初めて……ですよね?」
「そうだな。そんなケツが真っ白な奴に知り合いはいねぇなぁ」
「……そういえば。まだ、みんなに挨拶してないようなぁ……。新人だから挨拶ってしますよね?」
「あぁ、するさ。ここ六年、新人は見ちゃいないがな」
「……」
出すものを出し、全ての要件が終わった。ズボンをあげ、ベルトをしっかり締めようやく人前に出ることのできる身なりに整えたところで翔は引き攣った笑顔を男に向ける。不思議と男の表情はひどく穏やかだった。
翔がパレットソードに手をかける。しかし、男が翔の顔面に正拳突きをする方が圧倒的に早かった。
意識が一瞬で刈り取られ遠のいてゆく。
人が集まってゆく気配を感じながら翔は思った。こうなれば、陸路で地道に歩いてリュイに向かうべきだったと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「さて。貴殿はトイレを探しに倉庫をでたはずだったな」
「……はい」
「それがどうしてこんなことになっている」
「……返す言葉もありません」
「私は貴殿があまりにも遅いので、余った空の樽に用をたそうとしたところを見ず知らずの大勢の男に見られた」
「……本当にすみません」
美しい夕焼けが水平線の向こう側でオレンジ色の眩い光を放ちながら今まさに消えようとしている。それはまるで翔は自分の命の灯火のような気がして、この甲板に立つおおよそ三十数名の船員たちに血祭りにあげられて殺されるか、隣で同じく縛られて怒り心頭と言わんばかりのレギナに殺されるか。
どのみち、審判の日は近いらしかった。
翔の身長を三十センチは越すであろう灰色の狼の頭をした筋骨隆々の獣人が翔の頭を乱暴に掴みあげ顔をつけあわす。
「おい。なんの目的でこの船に入り込んだ」
「……たまたま積荷の扉が空いてたので。出来心で?」
「あはははっ! そうか」
次の瞬間、鋭い右ストレートが翔の顎に入り脳を揺らす。一瞬意識が飛びかけるが、再び頭を鷲掴みにされ現実に再び引き戻される。口の中を切ったのか、じんわりの血の味が口の中に広がる。
「もう一度聞こうか、こいつを使って。俺の船員に何をしようとしたんだ? え?」
「……咄嗟に手を出そうとしたのは謝ります。だが、今回、船で密航しようと言い出したのは俺です、隣のツレは巻き込んだだけです。だから……手は出さないでほしい」
「あん? 張り合いのねぇ奴だなぁ、本当にタマついてんのかっ!?」
膝蹴りが翔の鳩尾に食い込む。同時に胃の底から何かが湧き上がるような感覚に襲われるが、すでに胃の中身は空っぽだったため、その場にうずくまり空咳を何度かしながら地面を見つめる。
「とにかくだ。テメェらの処遇は俺たちの船長が決める。命乞いするのなら船長にするんだな」
「……船長」
その瞬間、体全身の毛が逆立つようなプレッシャーと共に甲板の奥から何者かがやってくる足音が静かになった海の上に響く。それはどこか軽く、しかししっかりと下足取りで二人に近づいてくる。
ただものではないと、思わず唾を飲み込む翔。
顔を上げる、二つに分かれた船員の真ん中を王の凱旋のように歩く男。肩まで伸びたブロンドの髪を海風に流し、その堂々たる風貌で斜に構えない自由であろう様はまさに海の男と呼ぶにふさわしい。
「……顔を上げさせろ」
二人の船員が翔の肩を乱暴に掴み上げ無理やり顔を上げさせる。視線がかち合う翔と船長と呼ばれる男。蒼い目に引き込まれそうな魅力を感じてしまうが、その表情から先ほどの獣人ほどの敵意は感じられない。
「よう大将。お前は、なんの恨みがあって俺の船の倉庫をゲロまみれにして、船員に危害を加えようとした? ん?」
「……俺は、リュイに行きたくて。船に乗りました……」
「なら、パスポートをとりゃいい。俺の船にだって無理に乗る必要はないだろ」
「……」
「あぁ。いい、言わなくてもいい。訳ありか、そりゃそうだよな。聞いた俺がバカだった。そうだよな、イマ……なんだこりゃ読みずれぇ名前だな」
船長が懐から取り出した一枚の紙。そこに書かれていたのはポルトスの憲兵が手に持って翔とレギナの描いてある手配書だった。その手配書を覗き込みながら翔と顔を船長は見合わせてる
「手配書より実物の方がイケメンじゃねぇか。それに、隣の嬢さん? 正直こっちは実物の方が目が怖い」
「……俺たちを憲兵に引き渡すつもりか」
「んや。そいつはしないね、俺たちにも俺たちの事情があってね。その点、俺とお前さんは同類ってわけさ」
船長の言葉に笑い出す船員たち。言葉の意味が読み取れず、頭の上にハテナが浮かぶ翔。
しかし、同時に頭に浮かんだのは貿易船と呼ぶにしてはあまりにも下品と言える船員たち、確かにこちらが悪いのは重々承知の上だがそれでも扱いが新人の入った刑務所同然である。
「私が答えを言おうか」
船員の笑い声の中、鋭い声が空気を凍らす。その声の主は翔の後ろで縛られているレギナだった。
「この大きさの船、これは元海軍の船だ。船内を見てもその特徴がよく出てる。そして、貿易船にしてはあまりにも多すぎる砲門と下品な船員そして装備、最後に先ほどの貴様の発言でこの違和感の正体がよくわかった」
貴様ら、海賊だな。
レギナの一言、しばらくの間海の上に静寂が訪れる。同時に、船員が各々腰に差しているサーベルに手を伸ばす。だが、そんな緊迫した空気をゲラゲラと膝を叩きながら大笑いしている男がいた。
「なるほどっ。そういえばアンタ軍人だったよな、王都騎士団九番隊隊長、レギナ=スペルビア殿。よーく知ってるぜ、世界を巡礼するという大層な目的を抱えておきながら、戦争の火種を撒いてる張本人じゃねぇか」
「海賊風情に言われたくはない」
「それでなんだ。そんな隊長様が、このタマ無しと駆け落ちでもしたか? こいつを笑わねぇ奴なんざいないだろ」
しばし睨み合う両者。どこか涼しげな表情をしている船長はしばらく考え込むと「よし決めた」と言ってレギナに向けて指を刺す。
「この女は簀巻きにして海に放り込め。男は手荷物全部分捕って近くの島に全裸で放置だ」
「な、少し待ってくれっ! 彼女は何も悪くないっ! 殺すなら俺だけにしろっ!」
「いいか大将。わりぃが俺は見ての通り軍人が大っ嫌いでね。お前さんの事情云々なんざ知ったこっちゃねぇんだわ。それに、俺の船に無断で立ち入っておいた分際で欲求が通るとでも思ってるのか? だからお前はタマ無しなんだよ」
翔の後ろでレギナが繋がれたまま船の端まで連れて行かれる。必死に手枷を外そうと翔は抵抗を試みるも、鉄でできた手枷はびくともせず身体強化術で無理矢理にでも外せば骨がさきに砕けるだろう。
「レギナさんっ! レギナさんっ! くそっ、離せっ!」
「じゃあな、哀れな密航者さん。対して楽しくもねぇが、暇つぶしにはなったぜ」
背を向け、手をひらひらさせながらその場を去ろうとする船長の背中。せめてもの抵抗と食いかかろうとする翔の体を多くの船員が押さえつける。
このまま、何もできずに。むざむざと目の前で命を取りこぼすのか。
また、失うのか。
もう失わないと、取りこぼさないと決めたのだろう。
「待てぇええええええっっっっ!」
翔の雄叫びが海に響き渡る。同時に何かが勢いよく折れるような音と共に翔の両手が自由になる。右手には鎖で繋がれたままの手枷、その左手は完全に外れている。
先ほどまで何もなかったはずの腰からパレットソードを引き抜き船長の背中に追いつく。
「左手をつぶしたか……っ!」
「今道四季流……っ!」
左腕を突き刺すような痛みを歯を食いしばりながら耐える翔がパレットソードを逆手に構える。
『今道四季流 剣技一刀<春> 春雷穿つ桜木』
船長の喉元にまっすぐと突き立てられたパレットソード。しかし、その攻撃はそばにいた船員二人の剣によって阻まれる。これ以上の攻撃は難しいと判断し、一歩距離を取る翔。
「フゥ……っ、フゥ……っ」
「いいねぇ、そうこなくちゃ。ようやく男らしい顔になったじゃないか大将」
「さっきの命令を取り消せ……っ! 確かに、俺は無断でアンタの船に立ち入った、それに関しては謝罪をする。だけど俺たちはリュイに行きたいだけだ。アンタと船員に迷惑はかけないっ!」
「……なるほどね。お前さんのその誰も傷つけないように立ち回ろうとする行動理念、どうにも気に食わないと思ってたが、なんだ。生まれつきか」
青い瞳が翔のことを見透かすかのように夕陽に照らされて怪しく光る。
一歩前へ、船長は両脇の船員からサーベルと二振り受け取り翔に近づく。あまりに無防備なその姿に一瞬キョトンとする翔だったが、次の瞬間。ノーモーションで繰り出されたケリが腹部に減り込み大きく後ろに吹き飛ばされる。
「構えろよ大将。剣どこに隠してたかしらねぇが、抜いたからにはやる気なんだろ。俺に勝ったらさっきの命令帳消しにしてやる、負けたらお前さんら二人とも海の藻屑になってもらう」
「……っ」
立ち上がり正面にパレットソードを構える。
負けられない戦いが始まる。
二回連投、今日はこれで終い。




