第87話 揺らぎの色
「なぜ避けなかった」
「……え?」
「あの時。カイの攻撃を、貴殿は見切っていたはずだ。なぜ避けなかった」
暗闇の中、レギナの低く冷たい声が翔に問いかける。
現在、リュイの貿易船の倉庫の片隅の狭い物資の間に二人は膝を突き合わせて座って海の波に揺られていた。船の倉庫の中のため、当然ながら光源はない。だが、体が床の動きに合わせて上下する感覚から海の上であるということはわかる。
「……すみません」
「謝罪が聞きたいわけじゃない。理由が知りたいだけだ」
「……自分でも、あまり分かりません。けど……イニティウムのことを考えたら、体が……動かなくなりました」
「……」
イニティウムの魔物襲撃事件。まだ確定ではないが、その原因の一端にいるのは魔物を惹きつける魔力と言われる無色を持つ翔が関わってないとはいい切れない。その事実を知った時からずっと考えていた。
全て、全ては。あの街で暮らす平穏を奪い、リーフェとガルシアの命を奪ったのは全て自分のせいではないのか。
そう考えた時、自分は一体何を持ってして償いとできるのだろうか。
この色を持ってこの世界に来てしまったこと自体は翔の罪ではない。しかし、無知であったことは紛れもない罪であった。
「……俺は、やっぱり死ぬべきなのかもしれません」
「……貴殿には言ったはずだ。絶望を払いのける力を持てと」
「……そんな力、俺には本当にあるんでしょうか?」
「私は《《ある》》と言った。世辞でそんなことは言わない、貴殿は己の言った言葉を自分で無下にするのか?」
これから持つもので、人の幸福は決まる。持ってる、持ってないは関係ない。
確かに自分が口にした言葉だった。しかし、それが果たして本当に正しいのか、今となってはわからなくなってしまった。
「……これ以上は無意味だな。貴殿にその気がないのであれば、一生そのままだ」
「……」
「それよりもだ。ポルトスからリュイまで最短でも二週間はかかる。その間、ずっとこの倉庫の中に閉じこもっているつもりなのか?」
「倉庫の中だったら、おそらく輸出品があるはずです。それを消費していけばなんとか。水もウィーネさんがいるのでなんとかなるはずです」
この倉庫の中に閉じこもった翔の算段としては、まず輸出品の中身をリソースにして航海期間二週間を乗り切ること、そして必要な水分などは水の化身であるウィーネから供給を受けるというものだ。
考えとしては決して悪くはない。
想定外のことが起きなければの話だが。
「……この輸出品は、全て軍事品だ」
「……はい?」
「見ろ」
レギナが一つの箱を指差す。暗闇に目が慣れたのか、僅かではあるが箱に貼られた紙に書かれたものを読み取ることができる。
そこにははっきりと『砲弾 二十四発』と書かれている。
「そんな……他は……っ!」
倉庫の中を駆け回りながら積まれている荷物に書かれた物資を翔は確認して回る。だがそのどれもが軍事品で、何か食事になりそうなものは何一つ書かれていなかった。
翔の顔から血の気が引いてゆく。
しかし、二週間程度であるのなら最悪人体の限界を考えて食事がなくても全く持って乗り切れない話ではない。だがそれでもどうしようもないのは水分である。水分さえなんとかなれば、ギリギリ乗り越えられない話ではない。
「ウィーネさん、水は大丈夫ですよね」
「無理よ」
「え?」
翔の肩に乗ったミニマムサイズのウィーネが無情にも首を横に大きく振りながら翔の言葉を否定する。
「こんな隔離されたところに水があるとは到底思えないし、それに私の魔力だって無尽蔵じゃないんだから、無理に決まってるじゃない」
「……水、出せないんですか?」
「無理ね。無から有を生み出せるわけないじゃない」
「でも、魔法なら……?」
「なんでもできるわけじゃないの。それに、私だって本調子じゃない」
僅かに残った最後の頼みの綱が切れた瞬間だった。
その場に膝から崩れ落ちる翔。食料なし、水なし。そんな状態で二週間も生きられる人間などこの世にはいない。どんなサバイバル技術を駆使したところで、剣や槍、火薬を食べれるようにはならない。
完全なる、詰みである。
「一つだけ。この場から脱する方法がある」
「……なんですか。レギナさん」
「この船の人間に自首することだ。少なくとも海の上で死ぬことはない」
一瞬でも、そうしてしまおうかと翔の頭の中をよぎったのは言うまでもない。
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問題は山積みだった。まず、水と食料がない、これについては致命的だろう。そして昼と夜が全くもってわからない。太陽の光が当たらないことがこんなにも不安になるとは思わなかった。
そして、最大の問題。
「う……っ」
「タルを……ウェえええっ」
二人とも、船には弱かったということである。
「レギナさんにも……弱いものってあったんですね……っぷ」
「ハァ……ハァ……、これだから船での遠征は嫌だったんだ……うっ」
中身が火薬だった空のタルに二人して顔を突っ込みながら嘔吐を繰り返す。
民間療法では、外の遠くの景色を見れば船酔いなどの症状は和らぐと翔は聞いたことがあったが、あいにくここには外を見るような窓などない真っ暗な倉庫の中である。
「人間って弱いわよね。このくらいの揺れでこんなになっちゃうなんて」
「はぁ……はぁ……。そういえば、ウィーネさん。さっき本調子じゃないって、どういうことです?」
「あのねぇ。私、精霊石がそばにないのよ? 人間で言えば心臓どっかにおっことしちゃったようなものなの。本調子じゃないに決まってるじゃない」
「なんで心臓落としちゃったんですか……」
心臓を落とすなど、致命傷どころか死んでいるも同義である。そんな致命的なことを平然と語るウィーネだったが、それでなんでウィーネは生きているのだろうか、いや正確には生きてはいないのだろうが、なぜ存在ができているのかが翔には不思議だった。
「精霊って他にもいるんですか? う……」
「いるわよ。あの赤トカゲとか、緑の精霊とか。あと、私の妹で白の精霊とか」
「……それって。この剣とみんな関わりが……?」
翔の質問に、ウィーネは顔をしかめる。喋りすぎてしまったと言わんばかりに、そっぽをむいて近くの積荷の上に足を組んで座っている。
精霊について翔が知っていること。精霊石と呼ばれる核を持ち、そこから得られる莫大なエネルギーでとんでもない魔術を行使することができる生命体と呼ぶよりもどちらかといえば幽霊に近い存在。そして、今まで会った精霊に共通しているのは横暴で傲慢であることぐらいだろうか。
精霊には願いが存在する。その願いを叶えるために精霊は人間と契約をし、その対価として力を貸すらしい。
サリーの願いは、人間になること。
そして、ウィーネの願いは精霊石を自らの手に取り戻すこと。
「ウィーネさん。この剣の前の持ち主って、どんな人だったんですか?」
「……わからない」
「え?」
「……わからない人だった。そう、アンタと似てたわ。顔じゃなくて、魂の色が……」
そう語るウィーネの顔を見ることを翔はできない。だが、横を向いたその表情は少しだけ悲しそうに見えた。
考えてみれば、パレットソードについてわかっていることもあまり多くはない。サリーの力で刀に変形することと、無色の人間にしか引き抜くことができないということ。そう考えた時、この剣を持っていた人間というのは自ずと無色の人間だということがわかる。
そうなると不自然なことがある。
もし仮にこの剣が聖典に登場する遺物の『剣』であるとするなら、倒すべき無色の人間相手に無色の人間を勇者として選んだわけである。
「なんでそんなことを……」
と、思考が回るが同時に目が回り出し再び意識はタルの中へと吸い込まれてゆく。難しいことを考えるのに、海の上はむいていないということを翔は理解した。
そして、船に揺られることおそらく三時間弱。
レギナと翔は完全に憔悴しきっていた。閉鎖した空間、絶え間なく揺らされる室内、乾いた吐瀉物の不快な臭い。すでに数日経過しているとしか思えないほど苦痛な状況で、とてもではないがこれを二週間乗り越えることができるとは二人とも到底思えなかった。
「……もう何もでねぇ……」
すでに胃の中身はお互いに空。大量の水分を失い、脱水症状一歩手前までいきかけている。しかし、これ以上体から何も出ないというのにどうしても人間には我慢することのできない生理現象というものが存在する。
それは、便意だ。
出航からおおよそ四時間近く、当然感じてもおかしくはない生理現象である。
「……トイレ……。流石に船の中にあるよな……」
「……あらかじめ言っておく、おすすめはしない」
「大丈夫です。……それなりに覚悟はしてます」
翔の頭に思い浮かぶものは東京の真ん中でトイレを探した時、一番近場にあった公園のトイレ。今思い浮かべても、異世界のトイレ事情の方がマシと思うほどに治安の悪いトイレを経験しているため多少のことには動じないつもりではいた。
重い体を動かし、揺れる船内で体を壁に何度もぶつけながら倉庫の中を彷徨う。先ほどここに積まれている荷物を確認した際に、倉庫の端の方に外へと通じる扉があったことは確認済みである。
「見つけたら教えてくれ……。流石の私もこの先二週間過ごす場所を汚す真似はしたくはない」
「すぐ戻ります……」
船内にいる人間に見つからないようにトイレを探す。
かつてないほどに重要な任務が翔に課せられていた
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