第60話 夢の後の色
幼い頃の夢を見ている。
そこは、雪の絶えない国だった。
いや、国と呼ぶのも憚れるような小さな山村。
真っ白な景色に、冷たい空気。けど、そこにいる暖かな人たち。
一日たりとも忘れたことのない、遠い故郷の風景。
だが、最後に見た故郷の景色は血で真っ赤に染まっている。
優しかったあの人たちが、大切だったあの人たちが、
目の前で殺し合う様を見た。
私は託された。
父の思いを、
死んでいった国民の嘆きを、
この一振りのスペルビアを。
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「……こ……こは」
見慣れない天井に、掠れたレギナの声が問いかける。少し埃っぽい空気に差し込んだ陽光に照らされキラキラと乱反射している。多少散らかってはいるものの間違いなく、洞窟などではなく人の住む家の一室であるということは分かる。
重い体を起こし、体に掛けられた毛布を取り払うとその下は裸で着ていた鎧や肌着の類が全て一切合切取り払われているのを確認する。
と、自分の状況について考察をしていたところで扉を軽くノックする音が部屋に響く。咄嗟に自分の体を隠すように毛布を巻き付けるレギナ、ここまでの経緯がわからない以上、相手が敵か味方かもわからない。
「失礼するよ。お嬢さん……で、いいんだよな?」
「……貴殿は……?」
部屋の中に入ってきたのは、朗らかな表情した中肉中背の五十代後半に見える男性だった。その両手には湯気の立つお湯が入っているであろうタライがもたれている。見る限り、敵意があるようにレギナには見えなかった。
男はそばにある椅子に座り、手に持っていたタライを床に置く。
「私はオットーだ、ここのボロ家の主人さ。お前さん、ここまで来るまでの記憶は?」
「……ない」
「そうか、じゃあ説明する必要があるね。お前さんは虫に刺されて昏睡状態になったんだエピレピシーというやつでね。ちょうど、このくらいの」
オットーと名乗る男が、太い人差し指と親指がくっつくかくっつかないかくらいの大きさをレギナに示し説明をする。
虫に刺された、と聞き。確かに、そんな記憶もなくはないと思い思わず自分の首筋を確認すると確かに皮膚の一部が小さく盛り上がっている感触があった。
「君のお仲間が必死になってお前さんを家に連れてきたわけさ」
「仲間……」
「彼なら、今隣の部屋に寝てる。昨日の晩、薬の材料を探しに雨の中を魔物に襲われながら必死になって探してくれたんだ。もし、薬がなければお前さんは命を落としてたかもしれない」
仲間。その単語を聞き、レギナの頭に真っ先に浮かんだのは翔の顔だった。しかし、彼が自分に対してそこまでする理由がない。ましてや自分の危険を顧みてまで。
「さて、落ち着いたら服を持ってこよう。泥だらけだったから鎧と服は脱がしてしまった、後になって申し訳ない」
「いえ……、こちらこそ助かる」
「このお湯で軽く体を拭くといい、気分が良くなる」
オットーはそういうとレギナに向けて手ぬぐいを放り投げる。それを片手でキャッチするのを見たオットーはどこか安心した表情を浮かべ椅子から立ち上がる。
「台所に朝食が用意してある。男物しかないが、服は棚にあるものを適当に着て置きなさい。おそらく彼も起きてくるだろうから、その時にお礼を言うんだよ」
レギナが軽く頭を下げるのを見るとオットーはそのまま部屋を出ていく。彼もまた、イマイシキ ショウに寄らずもながら近いお人好しの空気に満ちた人間だとレギナは思った。
用意された手拭いをタライに張られたお湯につける。熱くもなく、温くもない。程よいお湯の熱が冬の乾燥した冷たい空気にさらされた素肌にじんわりと染み渡る。手拭いを絞り、自分の素肌にあて体中にある戦場で受けた古傷をなぞりながら体を清潔にしてゆく。
その古傷の中でも、右肩に刻まれた深い切り傷。
これだけは、数多くある戦場で受けた傷の中でも特に記憶に深く残っている。
幼いとき、父から受けた傷。
「……父よ……私はどうすれば……」
祈るように体を折り曲げ手拭いを握りしめる。
今まで進んできた道は、騎士として生きてきた自分はどうあるべきなのかを。
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「さて……」
食卓に三人。オットーとレギナ、そして全身を包帯でぐるぐる巻きになり満身創痍の姿をしている翔が顔を突き合わせている。無言の空気にレギナと翔の間に巣食う逼迫したプレッシャーに耐えきれずオットーが口を開いたが、そこから先の言葉が出てこない。
「……オットーさん。ありがとうございます、突然来た俺たちにこんな朝食まで用意してくれて」
「いや、いいんだ。材料は余っていたし……、それに人を迎えるのは久しぶりでね、張り切ってしまった。うん……」
テーブルの上に並べられた色とりどりの朝食。サラダから、目玉焼き、ベーコン、バゲットにスープ、牛乳などと昨日から一口も食事をとっていない翔とレギナにとって文字通り喉から手が出るような豪勢な食事である。
しかし、それをさせまいとしている緊張感がそこにある。
「……イマイシキ ショウ」
「……はい」
「……なぜ助けた」
レギナが翔に問う。オットーはといえば、互いの顔を見つめて怪訝な表情を浮かべているが、彼自身この二人の関係性など知る余地もない。レギナの問いに対し、翔は既に答えが出ている。
「……偽善です。俺が……救いたかった。自分のために。自分が生きてていいって思えるために、あなたに死んでほしくなかった。ただそれだけです」
「……そうか」
レギナは何も言わない、翔もそれ以上何も言わない。再び、無言の空気が食卓に流れる。
しかし。その空気に先に、絶えきれなかったのはオットーだった。
「とにかくだ。互いに何か言いたいことがあるんだろうが、今は食べてくれないか? せっかく作ったんだ、冷めてしまうだろう」
「……すみません。では、いただきます……」
先に料理に手を伸ばしたのは翔だった。両手を合わせ食事のあいさつをすまし、包帯の巻かれた右手を伸ばし籠に盛られたバケットに手を伸ばす。それに合わせ、レギナも徐々に食事に手を伸ばし始める。
着々と食事は進んでゆくが、そこに会話はない。朝鳥の囀りと食器の当たると音だけがする、実に静かな朝食である。料理はこれと言って何か特徴があるわけではない、しかし空腹で胃が空っぽの二人にとってはこれ以上ない御馳走であった。
次の皿、次の皿が空になってゆき。食事に一息がついた頃合いだった。
「二人は、そのなんだ? そっちのお嬢さんは騎士だってのはわかったが、その……イマイシキ君だったか二人はどういう関係なんだ?」
「俺たちは……、その……」
「加害者と被害者の関係だ」
オットーの問いに言葉が詰まった翔、そこに間髪入れずにレギナが答える。その答えに、オットーは一瞬驚いたような表情をしたが、どこか合点がいったのか朝食に出ていた紅茶を一気に飲み干す。
「お嬢さんは……、王都騎士団だろう? その鎧を王都で見たことがある」
「あぁ。私は、王都騎士団九番隊隊長のレギナ=スペルビアだ。訳あってこの男と行動を共にしているが、昨日は助かった。本当にありがとう」
自己紹介と共に深々と頭を下げるレギナ、それに釣られオットーもまた彼女の身分を知ったせいか少しだけ佇まいを直し彼女に向けて頭を下げる。
「それと。あれだ……、まぁどっちが被害者か加害者かはわからんが、ちゃんとイマイシキ君にも礼をした方がいい。私は薬を調合して処置をしただけだ、彼が薬草をとってきてくれなかったらどのみち君は助からなかったのだから」
「はぁ……」
オットーに諭されるように頭を上げたレギナが翔と向き合う。翔の姿といえば、頭を包帯で巻き、骨にヒビが入った左腕を吊り下げ所々薬草を染み込ませた布で複数の赤く腫れた打撲を押さえていることから、薬草を手に入れるために一つの死線を越えたのだろうというのは想像に難くなかった。
「……ありがとう。助かった」
「……いえ。あなたが、助かってよかった」
微妙な空気ではあるが、感謝の言葉が二人の間にある隔たりを多少緩和させたようにも感じる。少なからず、ただの誘拐犯と被害者の関係から一歩互いに近寄った誘拐犯と被害者の関係にはなれたかもしれない。
「オットーさん……でいいですよね?」
「あぁ。構わんよ」
「夜遅くに駆け込んで、連れを治療してくれて助かりました。お礼に差し上げられるものはありませんが……。ですが、本当にありがとうございました」
深く頭を下げる翔に、少し気恥ずかしさを覚えたのか徐に立ち上がり、台所の隅に置いてあるティーポッドに手を伸ばす。
「別に構わんよ……何、昔のことを思い出しただけさ。お前さんみたいな顔をした人間を助けられなかった時を思い出してね……。つい、性に合わないことをしちまった」
新しく淹れなおした紅茶にオットー自身の顔が映り込む。腑抜けた中年の男になってしまったと苦笑いを浮かべながら紅茶を一口啜る。自分で淹れる紅茶を一度も美味いとは思わなかったが、今日ばかりは少しだけ美味しく感じた。




